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春斗さんがあのお医者さんの治療を受けている間、私は吉井さんに案内された部屋でぼんやりソファーに座っていた。
吉井さんが用意してくれたお茶が湯気を立てているけれど飲む気にはなれなくてそのままだ。
「……春斗さんは、大丈夫なんでしょうか」
「会長にしてみれば大した怪我ではありません。人の心配をしている場合ではないのは楓様の方です」
「……っ、でも、どうすればよかったんですか」
そうだ、吉井さんは私が車の中で春斗さんに無理矢理キスされていたのを知っている。それを思い出すのと同時に、その感覚が蘇ってきて私は恥ずかしくなった。
貪るような激しい口付け。噛まれた首筋はまだ熱を帯びている。
数時間前までの私が知っていた春斗さんはもういない。
「まあ、途中までは正解を選んでいましたよ。あくまで不正解の中で、ですが。だからこれまで楓様は普通の生活の中にいられたんです」
「……私は、帰れるんですか?」
わけがわからないまま、ここに連れてこられてしまった。ちゃんと抵抗していたら違ったんだろうか。今さら考えても仕方ないのはわかってるけど、もっと違う道があったんじゃないかと思ってしまう。
「しばらくは無理でしょうね。物理的に出られたとしても、会長の管理下に置かれるはずです。私としても楓様が岩峰組と繋がっていることがわかった以上、下手に出歩かれては困ります」
「隠していたことはよくなかったと思っています。でも、言えるわけないじゃないですか」
春斗さんと出会った時はもう昌治さんとの関係は終わっていた。
それに春斗さんのことはどこかの会社の偉い人だと思っていたし、私みたいなただの大学生にヤクザの知り合いがいるなんてわざわざ言う必要はなかったはずだ。
「……正直、驚きました。ですが、遅かれ早かれ楓様はここに来ることになったと思いますよ。会長は最初からあなたを妻として迎えるつもりだったんですから。あの方を助けた時点で、どうしようもなくなったんですよ。あなたの今後は」
「つ、妻って……」
私は一瞬自分の耳を疑った。どうしてそこまで春斗さんは私を……
確かに私は春斗さんが怪我をしているところを助けた。それ自体は春斗さんにとっては好意的なものだったかもしれない。でも、それだけでここまでするだろうか。
「会長が望むのなら、私はその意向に従うまでです。少しでも早く外に出たいのなら、大人しく会長の望む行動をとるべきでしょうね。一番早いのは楓様が会長との結婚を承諾することですが」
「そんなこといきなり言われても困ります!」
「困っているのはこちらも同じですよ。会長がここまで何かに執着しているのは初めてなんです……とにかく、私に言えることは以上です」
吉井さんの表情は真剣で、忠告はしたとその目は語っていた。
「楓様と岩峰組の関係については今後聞かせて頂きます。ですから今は会長が戻られてからのことを考えた方がいいと思いますよ」
「……俺が、どうかしたんか?」
低く鋭い声に、吉井さんの目が見開かれる。
いつのまにか現れた春斗さんはゆったりとした足取りで私が腰掛けているソファーに近づいてきて、私の肩に手を置いた。
「吉井、楓に何言うたんや?」
私からは春斗さんの表情は見えない。けれど吉井さんの表情は強張って、部屋の空気が春斗さんを中心にしてピリピリと緊張感を増していく。
本能的に身体が逃げようとして腰を浮かせたけれど、肩を握る春斗さんの手に力が込められて私は震えを止めることができないまま再びソファーに腰を下ろすことになった。
「少々、部屋の説明を……」
「それはご苦労やったな。用が済んだんやったら早よ出てけ」
「はい……失礼します」
吉井さんは私の方をちらりと見て軽く頭を下げると、静かに部屋を出ていった。
扉が閉ざされて、部屋には私と春斗さんが残される。
背後に感じるピリピリとした雰囲気はもう私の知っている春斗さんのものじゃなくて、まるで警戒心を顕にしている肉食獣と同じ檻に入れられているみたいだった。
「怪我は、大丈夫なんですか……?」
沈黙してしまうのが怖くて、私はなんとか声を絞り出す。
脇腹の辺りが赤く染まって、大怪我だというのは素人目にもわかった。春斗さんのことは怖くて仕方がないけれど、怪我をしてほしいなんて思えるほど私はこの人を嫌うことはできない。
「心配してくれるんか?あんなもん擦り傷や」
春斗さんはそう言って肩に置いていた手を離すと、呼吸を確かめるように私の口元に手をあてる。
もう一方の腕は背後から首元に回されて、私は壊れ物みたいに抱きしめられていた。
すぐ近くで春斗さんの呼吸を感じて、車の中での出来事を思い出した私の体はびくりと震える。
「いきなりこんなとこ連れてきてごめんな。俺のことヤクザやって知らんかったもんな。怯えて当然や」
それは心の底から申し訳なく思っているような声音だった。
けどそれでさえ、私は怖かった。
「でもな、仕方なかったんよ。惚れた女がよりによって岩峰組の若頭と繋がっとったんや。しかも下の名前で呼ばれとる。許せるわけないやろ。楓はもう、俺のもんやのに」
口元を軽く押さえられているからか、呼吸をするのが憚られる。回された腕は呼吸だけではなく全身を支配しているようだった。
春斗さんの望む通りに動かないと、この支配はさらに強まる。望む行動をとれと本能が告げていた。
「……まあ、来客があったおかげで少し頭冷やせた。車ん中で無理矢理迫ってごめんな。俺がヤクザやってわかって怖かったはずやのに、あんなこと……怯えとるんは、そのせいやろ?」
それは、違う。確かにヤクザだったことを知ったときも少しは怖かったけど、私は岩峰組の人たちを知っているから、むしろ驚きの方が大きかった。
怯えているのは、春斗さんがあまりにも別人になってしまったからだ。
顔も声も確かに春斗さんなのに。双子だと言われた方が納得してしまう。
春斗さん自身が、あの春斗さんは私との距離を縮めるために被っていた皮だと認めているから。むしろこっちの春斗さんが本物なんだ。
だから本当の事を言う事ができない。春斗さん自身を否定してしまうことになってしまうから。
実はヤクザだったことを知って怯えている。そういうことにしておかなくちゃいけない。私は頷いて、この春斗さんを受け入れなければならないんだ。
首をほんの少し動かすだけでいいのに、それすらもできなくて。
「楓の嫌がることは絶対にせぇへん。やからここにおってくれ」
春斗さんの声は優しい。けれどその裏には確かな意思があって、私を縛ろうとしている。
どうしても応じることができず動けないでいると、頭上からため息らしき吐息が聞こえてきた。
「……今日は疲れたやろ。早よ休み?」
やり残したことがあるからと言って、春斗さんは部屋を出ていった。
吉井さんが用意してくれたお茶が湯気を立てているけれど飲む気にはなれなくてそのままだ。
「……春斗さんは、大丈夫なんでしょうか」
「会長にしてみれば大した怪我ではありません。人の心配をしている場合ではないのは楓様の方です」
「……っ、でも、どうすればよかったんですか」
そうだ、吉井さんは私が車の中で春斗さんに無理矢理キスされていたのを知っている。それを思い出すのと同時に、その感覚が蘇ってきて私は恥ずかしくなった。
貪るような激しい口付け。噛まれた首筋はまだ熱を帯びている。
数時間前までの私が知っていた春斗さんはもういない。
「まあ、途中までは正解を選んでいましたよ。あくまで不正解の中で、ですが。だからこれまで楓様は普通の生活の中にいられたんです」
「……私は、帰れるんですか?」
わけがわからないまま、ここに連れてこられてしまった。ちゃんと抵抗していたら違ったんだろうか。今さら考えても仕方ないのはわかってるけど、もっと違う道があったんじゃないかと思ってしまう。
「しばらくは無理でしょうね。物理的に出られたとしても、会長の管理下に置かれるはずです。私としても楓様が岩峰組と繋がっていることがわかった以上、下手に出歩かれては困ります」
「隠していたことはよくなかったと思っています。でも、言えるわけないじゃないですか」
春斗さんと出会った時はもう昌治さんとの関係は終わっていた。
それに春斗さんのことはどこかの会社の偉い人だと思っていたし、私みたいなただの大学生にヤクザの知り合いがいるなんてわざわざ言う必要はなかったはずだ。
「……正直、驚きました。ですが、遅かれ早かれ楓様はここに来ることになったと思いますよ。会長は最初からあなたを妻として迎えるつもりだったんですから。あの方を助けた時点で、どうしようもなくなったんですよ。あなたの今後は」
「つ、妻って……」
私は一瞬自分の耳を疑った。どうしてそこまで春斗さんは私を……
確かに私は春斗さんが怪我をしているところを助けた。それ自体は春斗さんにとっては好意的なものだったかもしれない。でも、それだけでここまでするだろうか。
「会長が望むのなら、私はその意向に従うまでです。少しでも早く外に出たいのなら、大人しく会長の望む行動をとるべきでしょうね。一番早いのは楓様が会長との結婚を承諾することですが」
「そんなこといきなり言われても困ります!」
「困っているのはこちらも同じですよ。会長がここまで何かに執着しているのは初めてなんです……とにかく、私に言えることは以上です」
吉井さんの表情は真剣で、忠告はしたとその目は語っていた。
「楓様と岩峰組の関係については今後聞かせて頂きます。ですから今は会長が戻られてからのことを考えた方がいいと思いますよ」
「……俺が、どうかしたんか?」
低く鋭い声に、吉井さんの目が見開かれる。
いつのまにか現れた春斗さんはゆったりとした足取りで私が腰掛けているソファーに近づいてきて、私の肩に手を置いた。
「吉井、楓に何言うたんや?」
私からは春斗さんの表情は見えない。けれど吉井さんの表情は強張って、部屋の空気が春斗さんを中心にしてピリピリと緊張感を増していく。
本能的に身体が逃げようとして腰を浮かせたけれど、肩を握る春斗さんの手に力が込められて私は震えを止めることができないまま再びソファーに腰を下ろすことになった。
「少々、部屋の説明を……」
「それはご苦労やったな。用が済んだんやったら早よ出てけ」
「はい……失礼します」
吉井さんは私の方をちらりと見て軽く頭を下げると、静かに部屋を出ていった。
扉が閉ざされて、部屋には私と春斗さんが残される。
背後に感じるピリピリとした雰囲気はもう私の知っている春斗さんのものじゃなくて、まるで警戒心を顕にしている肉食獣と同じ檻に入れられているみたいだった。
「怪我は、大丈夫なんですか……?」
沈黙してしまうのが怖くて、私はなんとか声を絞り出す。
脇腹の辺りが赤く染まって、大怪我だというのは素人目にもわかった。春斗さんのことは怖くて仕方がないけれど、怪我をしてほしいなんて思えるほど私はこの人を嫌うことはできない。
「心配してくれるんか?あんなもん擦り傷や」
春斗さんはそう言って肩に置いていた手を離すと、呼吸を確かめるように私の口元に手をあてる。
もう一方の腕は背後から首元に回されて、私は壊れ物みたいに抱きしめられていた。
すぐ近くで春斗さんの呼吸を感じて、車の中での出来事を思い出した私の体はびくりと震える。
「いきなりこんなとこ連れてきてごめんな。俺のことヤクザやって知らんかったもんな。怯えて当然や」
それは心の底から申し訳なく思っているような声音だった。
けどそれでさえ、私は怖かった。
「でもな、仕方なかったんよ。惚れた女がよりによって岩峰組の若頭と繋がっとったんや。しかも下の名前で呼ばれとる。許せるわけないやろ。楓はもう、俺のもんやのに」
口元を軽く押さえられているからか、呼吸をするのが憚られる。回された腕は呼吸だけではなく全身を支配しているようだった。
春斗さんの望む通りに動かないと、この支配はさらに強まる。望む行動をとれと本能が告げていた。
「……まあ、来客があったおかげで少し頭冷やせた。車ん中で無理矢理迫ってごめんな。俺がヤクザやってわかって怖かったはずやのに、あんなこと……怯えとるんは、そのせいやろ?」
それは、違う。確かにヤクザだったことを知ったときも少しは怖かったけど、私は岩峰組の人たちを知っているから、むしろ驚きの方が大きかった。
怯えているのは、春斗さんがあまりにも別人になってしまったからだ。
顔も声も確かに春斗さんなのに。双子だと言われた方が納得してしまう。
春斗さん自身が、あの春斗さんは私との距離を縮めるために被っていた皮だと認めているから。むしろこっちの春斗さんが本物なんだ。
だから本当の事を言う事ができない。春斗さん自身を否定してしまうことになってしまうから。
実はヤクザだったことを知って怯えている。そういうことにしておかなくちゃいけない。私は頷いて、この春斗さんを受け入れなければならないんだ。
首をほんの少し動かすだけでいいのに、それすらもできなくて。
「楓の嫌がることは絶対にせぇへん。やからここにおってくれ」
春斗さんの声は優しい。けれどその裏には確かな意思があって、私を縛ろうとしている。
どうしても応じることができず動けないでいると、頭上からため息らしき吐息が聞こえてきた。
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