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5章 赫奕の迷子
76 夢に湛える
しおりを挟む人々が水を求めて彷徨っている。
傷ついた母と子は、川を伝って逃げていく。
死体の山が在りました。
空を蔽い盡す群集者。羽虫がざわざわ、ざわざわとこの四肢を捥いでいく。取り留めもなく。
孤独な世界でありながら、この身はどうしようもなく蟲毒の一片。誰がどう思うとも、俺は呪物に他ならない。
黒に染まっていた世界に青が刺す。次第に白濁、明滅、伸張を主張する嫌に煙たい世界になる。息も続かぬ身炙りにも抵抗できない、色褪せた虫が俺。飛んで火に入ることをわざわざ選んだくせに、夢の中に捨てたはずの平穏を求めてしまっている。
足元はいつだって、自分の頭では想像できない挽肉の谷。イェルサレムの最下で鎮するサタンでさえも、この量の屍を前にしては窒息死してしまうだろう。
この世界に耽るたびに思う。
どうして人の想像力と創造欲というものは斯くも残酷で、何者をも彩らなければ湛え難いのだろうか。
神に触れた瞬間。己の裡の熱い物が溢れ出した。
生という実存を解放せんがために、仮繕いの肉体すらかなぐり捨てた。
喰らえ。喰らえ。喰らえ‼
腐った玉座に根を下した己の骸。俺の過去を以て俺の醜さを証明しろ。
元より俺は全てを奪って手に入れてきただろう。
禍根に頼った陳腐な理由で人を殺すな。
ただあるがままに。
自己を証明するために魂を解放しろ。
魂。骨。
全ては肉に捧げる供物。
下僕共が作ったこの醜い楽園を享受しろ。
俺に冠を寄越せッ‼
『固有冠域:光喰醜竜』
―――
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泥濘のような血溜まりを転がり、Vyは破壊された鼓膜を自己補完により修繕させる。
もはや温存できる程の体力など残っているはずもなく、これまでオートマチックで行われていた身体修繕に掛かる精神の消耗は自分持ちだ。高度な集中力と精神力を求められる作業を暴れ狂う巨体から迫る竜の首頭への回避と並行に行うことは、それだけで精神汚染にも勝る疲労感を押し付けられているようだった。
加えて、これまで纐纈、赤穂、米吉、ブートの四名で構成されていたVyという仮想の合成肉体は、ブートと米吉の脱落を以て明らかな弱体化を被っている。これまでは画一された個人であるような風貌をしていたVyの容姿も、今では纐纈と赤穂を足して割ったような体格、相貌となってしまっていた。
周辺一帯から攻撃に伴う様々なエネルギーの余波が降りかかってくる。
第四圏を統治する"蠅の王"ユーデンはVyや"料理王"ドナルド・グッドフェイスとの交戦を経て巨躯を這いずらせた形の移動を経て大討伐軍との接触を果たした。そこで生じた悲劇の数々はVyが予想した通りだった。ユーデンの咆哮は大気を斬り裂く衝撃の波濤となって軍を粛清した。蠅の群れに対して辛うじて戦線を保って居た大討伐軍の陣形は早々に瓦解し、屍山血河の惨劇の中で本当に実力を持った者たちの生き残り合戦へと戦況は移った。
アーカマクナの弾幕はユーデンの巨躯を絶え間なく抉るが、欠損部にあたる肉は立ちどころに再生し、より強固な皮膚へと再構築されていく。大討伐軍の残党たちも同様にユーデンに対して決死の抵抗を図るが、攻撃が通用こそすれど、与えたダメージがそのまま勉強代として支払われるかのように、さらなるユーデンの強体化へと利用されている始末だった。
閃光。衝撃。轟音。熱気。
およそ戦場に溢れるありとあらゆる阿鼻叫喚を詰め込んだような惨状の最中においてなお、災禍の淵源たるユーデンの放つ猛々しさには磨きがかかるばかりだ。
移動だけで人間を跡形もなく擂り潰す。
咆哮だけで人間を跡形もなく吹き荒す。
何をせずとも蠅が全てを喰い尽くす。
絶え間ない竜の首頭の激動もそう。視界の外より、意識の外よりそれらは迫り、数舜後にはかつての己の五体は巨大な歯形を残して泣き別れる。
飛び散った血の飛沫に群がるように毒蟲たちが集り出し、傷口からは蛆のような怪異が涌き出る。
「これは……手厳しい」
緑の雷撃が天まで届く蠅の海を劈いた。八方に延びた光の束が周囲一帯の蠅の大群を焼き払うが、こそぎとった汚れをすぐに満たしてしまう程の蠅の群れは空間の隙を縫って飛来し続ける。如何に夢想世界に冠たる雷撃の使い手である鐘笑と言えども、埒の明きようがない闇の襲来に重ね、馬鹿げた巨躯による進撃を行うユーデン本体の襲撃を受けては劣勢を覆すだけの術がない。
旧グラトン号のメイン手法であった竜の首頭による挟撃や邀撃も脅威だった。寧ろ、戦闘に差して最も注意を払わなければいけない攻撃こそがそれだ。継続戦闘によって疲弊し、集中力を欠いた傍から飛び掛かってくるその凶顎は生半可な回避を許してはくれず、破壊するまで停止せずに追尾し続けてくるそれらを中途半端にいなすことは叶わなかった。
継続して火力を出し続ける。何でも叶う夢想世界においてさえ、シンプルなその命題を満たすには不自由が多すぎた。
「気後れしていては敵の思うツボだ」
剣聖の一閃が奔る。新生テンプル騎士団の戦闘員、クランプトン・バフェットが鐘笑の背後に迫った竜の首頭を両断した。目にも留まらぬ連撃でそのまま自らに集った蠅を懺滅し、息を整えつつ再度、鐘笑の元に迫り来る竜の首頭を迎撃してみせた。
「ははっ。これは心強い。……しかしてバフェット殿。この惨状に収拾を付ける目途はお有りになるでしょうか?」
「否だ。私の隊は先程の咆哮を受けて壊滅した。蠅の渦に呑まれ、生き延びている者はいないだろう。戦局は絶望に絶望を重ねたような無窮の地獄。ニーズランドの全てを喰らい尽くすまで、奴は止まらないだろう」
「んん。同感です。どう足掻いても火力が足りない。あの巨体を穿つには、我々の力では役不足です」
両者の元に"眩旗"の異名を持つ戦乙女、新生テンプル騎士団大幹部のベアトリーチェが合流する。
「希望はゼロではありません。勝機はなくとも、第五圏へ通じる十四系の扉へと辿りつくことさえできれば逃走は可能です。いや、もはや敗走と呼ぶべきでしょうね」
「第五圏に移動したと思われる反英雄は度外視ですか。この状況で言うのも違うとは思いますが、こは……反英雄と叢雨禍神の戦闘に巻き込まれるのであれば、惨劇の具合としては現状とさして変わらぬかもしれません」
鐘笑が眉を顰めて答えた。
「そこは己の祀る神を信じては如何でしょう?既に第五圏で反英雄との死闘に決着がついているのであれば、叢雨禍神を始めとして我らが同朋たるアレッシオ・カッターネオや準ボイジャー:イージス号との合流が叶います。既に大討伐軍のほぼ全てが機能停止している今、可能な限りの最大戦力を以て蠅の王に挑むしか選択肢はありません」
ベアトリーチェがそういうと、手にしている大きな旗を大胆に振り捌いた。
光の束が蠅の大群を消滅させ、そこで生まれた一瞬の余裕を利用して二人との距離を詰める。
「まぁ、それが出来れば話が早いのは間違いありません。……しかし、叢雨禍神と反英雄の死闘。正直言って叢雨禍神に軍配が上がる可能性は五分。正面から本気を出した叢雨禍神は何物にも負けようがありませんが、あの方は優し過ぎる。どれほど自分に言い聞かせたとしても、反英雄が相手では必ず心に綻びが生じるでしょう」
「……?
申し訳ありませんが、貴方個人の勝敗予想に時間を割いている暇はありません。第五圏の勝敗の如何に関わらず、第四圏の脱出は実行に移すべきです」
「残念だが、それは不可能だ」
三名の元にまた別の存在が歩み寄った。しわがれた声にはもはや生気はなく、第四圏に入った当初の雄々しさが完全に消え去っていた。
「中将閣下」
声の主がコンスタンティン・ジュガシヴィリ中将だとわかった三名。だが、彼の背後に続くはずであったアーカマクナ軍団の姿が見えないことを受けて、事態の深刻さに拍車がかかっていることを察した。
「やはり、真正の夢の暴走。……いや、夢の解放とでもいうべきか。
それは全てを凌駕するものだな。"蠅の王"ユーデン、天晴な強さだ。
アーカマクナ軍団の再起すら許さないまでの暴威の顕現。抑圧された虚弱な自我の粛清とは、かくも尊大で悍ましいものなのだな」
彼の足元には、キングストン・エドワーズ大尉の頭部らしきものが転がっていた。それが凝縮した蠅の集合体となった数秒後、彼の亡骸は跡形もなく喰らい尽くされてしまっていた。
さらに、コンスタンティン・ジュガシヴィリ中将もまた負傷していた。彼の右手首は既に存在せず、荒々しい傷口には蛆が湧いている。顔を濡らす血を欲した蟲たちが節操なく集りまくり、傷口周辺の皮膚は蟲が入り込んで蠢動していた。
「せめて、私の手で討ち亡ぼしてやりたかった。ボイジャーの成れ果てである反英雄、フリークス・ハウスの亡霊たるクラウン。そして、原初V計画の寵児たるユーデン。……この時代を生き、汚らしい我が組織の都合で失われた全ての命に対する贖罪のため……この手で………禍根を……断ちたかった」
竜の首頭が中将の胸部を背後から喰らい抜いた。
「…第四圏に……出口はない……ここは第四圏ではない…蠅の王の世界だ………。
我々は負けた……悪魔、鯵ヶ沢露樹を討つための大討伐軍は……ボイジャーによって滅ぼされる。
もはや勝利はない……抵抗も必要ない」
「…中将」
中将の五体が飛び散った。
「が…っは……おぉぉお……だがッ‼‼
希望は捨てるなッ‼‼
我々には無理でもッ奴ならばユーデンを斃せるッ‼
じきに来るッ‼‼奴は全てを奪う‼‼悪魔の盗人は共存し得ないッ‼‼
私とロッツの最高傑作。もし奴が目覚めたのなら‼
奴に従えッ‼」
「固有冠域:楽園双眼鏡」
それは第四圏に立ち上った二つの希望。
輝く闇が圏域を埋め尽くす蠅の群れを禊祓う。
漆黒の太陽が割拠する蠅の群れを燻し鳴らす。
圏域にすっぽりと空いた穴。
虚空を刳り貫いたような不自然な風穴より、それは現れた。
「ここも虫か……」
憂いを孕んだ青年の貌。
荒れた髪に纏う冷厳な威風。
羽音ばかりが溢れていたその世界において、彼の周りだけは静寂が支配していた。
月明かりにも似た柔らかな光が双眸からは零れ出し、靄となった光が彼を包むことで不気味な影を浮かび上がらせた。
第四圏に敷き詰められた不安、恐怖、絶望を意に介せぬ青年の態度はさらなる新鮮な恐怖をその世界に与えた。
ベアトリーチェの眼にも、クランプトンの眼にも、鐘笑の眼にも、それは恐ろしく映った。
人間の欲の暴走たるユーデンの支配する世界において、それはあまりにも似つかわしくなかった。
ある意味、神性すら持ち合わせているような蠅の王を見据えたそれは、自らがユーデンと相容れぬ存在であることを誇示するかのように微笑んだ。
途端、世界が歪み出し、彼だけの楽園が築き上げられていく。
人間に依った姿をしていたそれも人と蜂を足して割ったような姿に変化した。
それの周囲には大量の蜂がどこからともなく生み出されていた。蜂だけではない、第四圏の大地を埋め尽くしてしまうような勢いで、途方もない量の蜈蚣がそれの足元から這い出てきている。
それらはこれまで第四圏を支配していた蠅や毒虫たちに襲い掛かった。お互いがお互いに喰らいつき、喰い漁った。腐肉すら残らない第四圏に突如として巻き起こった生存競争。その様相を目の当たりにした者たちがそれぞれ抱いた心境は様々だった。
「なんなんだ。……わけがわからない」
「あれは、彼だろう?ボイジャー:アンブロシア号」
「いや、どこか様子が違いますね」
それは三名の前に立ち、胸を聳やかすように名乗った。
「私の名前はモデル:マーリン。アーカマクナです」
「は?」
マーリンは再度微笑み、諸手を拡げた。
「全部終わらせに来ました」
黒い太陽が彼の指揮に従うように諸手に吸い寄せられる。
凝縮された炎の矢が引き延ばされ、天蓋を成すユーデンの巨躯に雷となって放たれた。
―――
―――
―――
行き先が無いまま彷徨っているのは私も同じだ。
誰だって帰る場所を探している。
昏くて寂しい闇の中、自我ばかりが赫赫と光輝いている。
自らの居場所を択ばずに自分らしくあることを選んだ貴方は正しい。
でも、自分のためだけの世界に帰るために戦う私とは相容れることができない。
お互い、自分の為に主張しようじゃありませんか、先輩。
私たちは惨めで哀れな迷子なんだから。
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