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5章 赫奕の迷子
74 蠅の王
しおりを挟む誰もが心の裡に秘めた欲望を叶える権利が与えられた夢の世界の中。全ては悪魔の僕の脅威から人類を護るため、そんな一心で集った大討伐軍の面々は、言わずもがな万夫不当の猛者たちである。現実世界では陸軍兵士の劣らぬ肉体的鍛錬を積み、それを夢想世界でさらに昇華させるべく膨大な量の知識の学習やVR環境によるシミュレーションに余念がない。
意気軒高な兵士たちに混じる新生テンプル騎士団の団員たちもそれは同様であった。所属は違えど彼らもまた夢想世界での戦闘のプロフェッショナル。ボイジャーや悪魔の僕の水準とまではいかないものの、彼らの中には固有冠域展開により自身の心象世界を確立させる者、夢想解像により自身の肉体を抽象的に強化することを可能とする者も存在する。
そんな彼らが一様に身に染みる程感じて止まないこの圏域の異常性。
一言で表すならば"牙を剥くカオス"だった。
髄を撫でられるような悪寒。体を震わせることすら許されないような絶望に似た恐怖。
それは兵士たちのみに与えられた感情ではなかった。
ニーズランド第四圏。精神汚染からの脱出が叶わなかった旧ボイジャー:グラトン号により、元々の支配者たる"冥府王"が打倒され、冠域そのものが新たな王の望む世界に塗り替えられてしまった統治圏域。
色を黒に留めない奇天烈な染色がされた蠅の大群。統制を必要とせず、全てが意思を持つ一固体の生命として空を滑る姿は、統制など必要としないカオスを孕んだ暴風雨に見紛うばかりだった。
天喰らう嵐と化した蠅の大群は、現実世界において鯵ヶ沢露樹の魔法に掛かり、ニーズランドへの強制送致を被った人類の脅威となった。第四圏に直接送り込まれた者も然り、第一圏の絶海圏域や第二圏の怪獣街から逃げ延びた者たちは第三圏のテーマパーク圏域に無数に設置された十四系の扉を潜り第四圏まで到達していた。
大討伐軍を迎え撃つことを旨としていた冥府王はこれら人間たちに興味を示さず、半ば傍観者として自身の冠域内での活動を許していた。
しかし、統治者が変わったことにより彼らの運命は死へと傾いた。繁栄の象徴であった文化的な第四圏の建造物は冠域の外郭の変遷に伴い廃墟と化し、滞在していた人類は襲来する捕食者により五体の肉を解かれていった。空はあっという間に奇天烈な蠅の天蓋を湛え、大地は人を食い散らかした末の屍の山を築かせた。
人々は恐怖に打ちひしがれながら今も逃げ惑っている。幸か不幸か、蠅の大群にその身を攫われたとてすぐに命が奪われるわけではない。体中の皮膚を摘ままれても、節々から蛆が湧きだしても、意思さえ折れなければ満身創痍のままに遁走を続けることは出来る。
だが、問題はこの蠅の嵐に留まらない。圧倒的に数の多い蠅に混じり、コオロギやゴキブリのような蟲もまた姿を覗かせている。これらの雑食の虫たちは人間の体にまとわりついては肉に齧り付き、単体では大した脅威とならない蠅たちの危険性を増す一因となっている。
それだけではない、視界の全てを遮ってしまうような蠅の壁を掻き分けるようにして、人の胴体を一齧りで食い破ってしまうような竜の首頭が暴れまわっている。脳を占領する途轍もない蠅の羽音に掻き消されることもあり、これらの竜の接近を事前に察知することはほぼ不可能だった。かといって、大口を開けた竜の姿を見止めたとして、それに対抗できる者などそうそういるものではない。
〇第四圏_大討伐軍潜航地点
「陣形を崩すなッ‼G3の弾幕を盾として蠅の密集してる箇所を叩けッ‼」
「軽微な損害は無視しろっ‼旧グラトン号の能力は割れているッ‼竜の頭以外は大した脅威にならん‼」
飛び交う指揮官たちの激。
悲鳴すら掻き消されてしまう蠅の羽音の最中において、コンスタンティン・ジュガシヴィリ中将は届く範囲の全ての指揮系統の発声に傾聴していた。
「………」
「如何されましたか、閣下?」
傍らに立つキングストン・エドワーズ大尉が怪訝な面持ちを浮かべる中将を気遣う。
「無能な連中ではないというのはわかっているつもりだが……如何せん、指揮系統の危機管理能力に課題が見え隠れするな。この光景を前にして旧グラトン号の戦闘を参考にするなど眼もあてられん」
「実際に旧グラトン号の光喰醜竜の冠域効果である竜の頭が度々確認されています。その推進力と突破力は過去の参照データとほぼ同じようなレベルだと観測されました。蠅による目隠しは厄介極まれりですが、恐らくは本体である旧グラトン号、"蠅の王"ユーデンの実力は筐艦内での襲撃時と大差ないものと考えられます」
「貴様ともあろう男が、よもや本心からかような世迷言を宣っているわけではあるまいな?」
「…はい。いえ、いや。事実として、彼はボイジャーの中でも特別優れた個体であったという過去はございませんし、何より含有し得る潜在能力というものもこの蠅の嵐が精々かと伺えます。竜の首頭が見え隠れする以上、本体としての蠅の王の機能は蠅の壁そのものにあるわけではありません。筐艦内で対峙した時と同様、アーカマクナのベンガル砲の投入量には対応しきれないものかと」
そんな会話の最中、ある兵士の絶叫が彼らの元を過ぎ去る。
死にゆく兵士の声音が蓋されるように、巨大な口のようなものが閉ざされた。それはまるで過ぎ去る蠅の群れを海流とでもしているかのように、場違いさを感じさせながら突貫してきたシロナガスクジラだった。
それだけではない。アーカマクナを軸に据えた防御陣営が早くも崩れつつある。その原因となっているのは、シロナガスクジラ同様に黒い蠅の嵐の中を潜って進む鮫や鯱の襲来だった。現実世界ではもちろん、夢想世界でこれらと戦う経験をしてきた兵士などはまず間違いなくごく少数であり、蠅の海で加速したこれらの突進は時速200キロメートルを超えていると思われた。
弾丸のように鋭利な牙や巨大な口が陣形に突っ込み、立ちどころに複数名の兵士が蹂躙される。蠅の海に照準を合わせたアーカマクナも素早くこれらの排除に対象を切り替えるが、その弾幕によって兵士を殉じさせる様子も散見された。
「カテゴリー5の位列をくれてやったのは何もニーズランドの圏域の王に成り替わったことだけが原因ではない。V計画は人間の中の悪魔の科学者が推し進めた禁忌の澱。そんな禁忌を煎じて飲ませたような人類史における部外の生命体こそがボイジャー共だ。アレら全ての期待は一機の例外もなく、精神汚染に伴う人類への敵対行為が認められた瞬間にカテゴリー5の最高位排斥対象と設定される。つまり、奴らはこの世界に存在するだけでほぼ悪魔の主君らと同等の危険性を内包しているのだ。
どれだけ見かけ上の精神性が担保されていようと、中身はいつ壊れてもおかしくない殺戮兵器。夢の世界などという世界の例外処理を集めた様な環境で戦っていては、遅かれ速かれボイジャーたちの精神は悪に傾く。何もユーデンに限った話ではない。奴のように精神汚染によりボイジャーだった者が悪魔の僕として粛々と処理される例は枚挙に暇がない」
誰よりもV計画の廃止を訴えてきたジュガシヴィリ中将だからこそ、彼らの持つ底知れぬ脅威が理解できている。
果てしなき苦行にも思われるボイジャー化実験を経て、成功体として晴れてボイジャーとして登録される者は極少数だ。そして、その中で長期に渡りTD2Pの体制下で戦い続けられた者は一機たりとも存在しない。彼が言う通り、遅かれ速かれボイジャーは人類に対して牙を剥いてきた。
度重なる激戦による精神の摩耗。公に認められない兵器としての自分を受け入れられず、人知れず軍に離反する者もいれば、プリマヴェッラ号のように世界中から讃頌を受けた英雄が自我を護るために悪に堕ちるケースだってある。多くの場合はボイジャーが手の付けられない大物へと成長する前に、かつてのジュガシヴィリ中将が所属していた特務機関により存在そのものがTD2Pの組織から抹消されてきた。
しかし、中には反英雄のようにもはや大討伐軍の投入を以てしても対処不能となるような強大過ぎる叛逆者の登場もある。プリマヴェッラ号の素体となっている叢雨小春が稀代の才能家であったことを置いておいても、ボイジャーとして後継機にあたるグラトン号が性能として著しく彼女に劣るという事実はない。寧ろ、プリマヴェッラ号以降の全ての機体は等しく"反英雄"として再誕する危険を内在させているのだ。
〇第四圏_大討伐軍本隊右翼
「駄目だッ押し返せない‼どんどん数が増えてきやがるッ‼」
第三圏に展開した大討伐軍右翼。集団戦法を得意とする大討伐軍本隊やアーカマクナの隊列と異なり、個々に磨いた戦闘技術や高い精神性から個人戦を得意とする新生テンプル騎士団由来の部隊が多く配置されていた。
対個人の悪魔の僕には滅法強い彼らだが、この戦いにおけるシチュエーションは彼らにとってかなり絶望的な相性不利が働いている。各々がカテゴリー3の悪魔の僕の撃破を成し遂げるような実力者を集めたとて、純粋な物量戦を仕掛けてくるグラトン号の蠅の嵐さえ手に余る始末だった。
「弱音を吐くにはまだ早いぞ‼意思の弱き者は私の後に続け‼‼」
蠅を劈く光の束。決して屈強ではないまだ幼さの残るような乙女の振る御旗が、彼女自身の威光を知らしめるように突風とそれに混じる光線を生じさせた。津波が如き波濤の様で押し寄せる蠅の群れを光の束が焼き払い、彼女を中心として同心円状に騎士団の陣形が即座に再構築される。
何を隠そうこの少女こそ、新生テンプル騎士団の若き大幹部にして戦闘員の筆頭を成す存在。騎士団創立時のメンバーであるアレッシオ・カッターネオと肩を並べる程の稀代の天才と評され、"眩旗"の異名を持つベアトリーチェ・ドグンという名の戦乙女であった。
蠅の群れを怖れずに薙ぎ払う実力者は他にもいる。
現代にそう類を見ない"剣聖"の通り名を持つクランプトン・バフェットはあろうことか飛び掛かってくる鯨を一刀両断にしてしまう他、自身の間合いに入る蠅の一匹一匹を丁寧に斬り捨てている。
幹部クラスでは、固有冠域を持つシェビン・ターナーやウォント・マンダミリアが既に自身の配下の隊を冠域に引き入れた上で、第四圏の冠域に押し負けることなく空間固定を成し遂げていた。
加えて、吹き荒れる蠅の嵐を引き裂くような緑色の雷電が立ち上っていく。
枝分かれした雷の先端が花火のように八方へと散開し、周囲一帯の蠅を誘爆させて殺戮を繰り広げる。
「おや。こちらが手薄と踏んでお手伝いしようかと考えておりましたが、いらぬ心配だったようですね」
顔に張り付けたような不気味な笑顔。目が痛くなるような白い作務衣に身を包んだ男が騎士たちの前に現れる。
新興宗教団体である叢雨の会を実質的に統一する指導者たる大司祭・鐘笑。
この男、知るものぞ知る大豪族たる叢雨家の嫡男にして、叢雨小春の実弟。言うなれば、反英雄の唯一の血縁者と呼べる存在だ。
広い世界に置いて、かような雷電の能力を自在に扱える存在は叢雨禍神を除けば反英雄とこの男に限られる。それ程までに習得困難かつ抽象的な雷の力は、こと夢の世界においては力の象徴としての絶大な印象が根付いている。反英雄の剣から放たれる雷にしろ、叢雨禍神の焔雲から降り注ぐ雷にしろ、それをまともに受けて無事でいられる者などまず存在しない。
「緑色の雷……これは驚いた。貌くらいは知っていたが、まさか叢雨の会の指導者にこれほどの実力が備わっているとは…」
ベアトリーチェがしかめっ面で鐘笑を見据えた。人間が自分の意思で操作できる雷というのは、字面で見聞きするよりも実際に目の当たりにした時の方がその実力がありありと伝わってくる。あまりに強大なエネルギーの発散を受けて、周囲一帯の蠅の壁がいつしか数キロメートルの単位で押し除けられていた。
「感謝します。鐘笑殿でしたか、おかげで陣形を再構築する余裕が生まれました」
「これはこれは、ベアトリーチェ嬢から直接そのようなお言葉を戴くことになろうとは夢見心地にございます。ああ、そういえば夢でしたね。はははっ」
「……」
「しかし、いけません」
「え?」
鐘笑のうっすらとした細っこい瞼が少しだけ持ち上がった。
「敵が畜生とはいえ、手心を加えた慎ましやかな対応ではいけません。陣形の再構築?実に奥ゆかしい。
これほど鬱陶しい虫けら共をだらだらと生かしとく程の暇はございません」
そういうと、鐘笑の背後にはいつの間にか彼と同じような衣装を身に纏った叢雨の会の信徒と思しき人間たちの姿が現れた。大討伐軍には叢雨の会から参加した人間も多数編成されているという話はよく知られたことだが、ここにきて一斉に姿を現すとはその不気味さがより際立つようだった。
作務衣を纏った信徒たちは己らの指を絡めて何やら不気味な呪文のようなものを唱え始めた。初めは数十人という規模だった彼らは少し時間が過ぎる事にどんどんとその数を増し、数百人を超えた辺りで彼らの詠唱が蠅の羽音を越えて第四圏に響きだす。
すると信徒たちの魂が抜けるようにしてうっすらとした黒い靄のようなものが立ち上っていった。信徒たちから溢れ出るその黒い靄が寄り集まって巨大な黒い焔雲を形造り、勢いを増す詠唱に鼓舞されながら雲が天に延びていく。
「気の振れたボイジャーなどに構っている余裕はありません。さっさと殲滅し、次なる圏域に向かいましょう」
鐘笑が指先に留めた緑色の礫を天に突き立てる。
狼煙のように天に届いた緑色の光が焔雲と混じり合いながら大量の雷鳴を轟かせ、即座に醸成された大量の雷が第四圏に勢いよく降り注いだ。
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