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3章 望まれた王国
56 慈愛の氷獄
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〇筐艦_第三層
まさしく漁夫の利。グラトンの攻撃を凌ぐべくして姿を隠していた鳳少年が冠域展開と並行して出現し、その両腕から変化した巨大な猪を弾幕の雨が降り注ぐ戦場へとぶつける。
もはや死を待つ肉塊と化していたグラトンは大口を開けて突っ込んできた猪に貪られるように口腔に押し込まれた。それを期に敵対象を観測できなくなったアーカマクナ部隊の射撃が停止する。空気すら破砕するほどの発砲音に包まれていた空間に打って変わった妙な静けさが訪れた。
(絶対に勝てるタイミングまで隠れてたか……。復讐を遂げるためとはいえ、器用な立ち回りも出来るもんだな)
鳳少年の冠域は自分に付与した夢想解像との併せ技であり、グラトン号と同様に不確定領域の冠域内部での夢想解像状態の戦闘力を底上げするという性質がある。そのため冠域展開状態がそのまま攻撃として成立するというケースであり、急速な冠域展開から死に目の奇襲を成功させた鳳少年の勝利という形は理解し易い状況だった。
だが、それらはご都合主義に保証された希望的観測に過ぎないことをこの場の全員が思い知る結果となる。
自身の先輩機体にあたるグラトン号をアンブロシア号でさえ甘く見ていたのだ。それは不死腐狼戦の経た末の自負や矜持によるものだったのかもしれないし、本気になればいつでも倒すことが出来るだろうと高を括っていたことに起因するのかもしれない。
何にせよ、過剰な戦力を用意して事に臨んだコンスタンティン・ジュガシヴィリ中将も結果として思い出すこととなった。人類最大の脅威である鯵ヶ沢露樹が暴走した原初V計画の結晶たる人造悪魔化の儀式に際し、あの場で獏が奪い取り、複製し、付与を可能とした数多ある強豪の夢の骨の中から彼女がグラトン号の力である巨大な竜の姿を採った理由を。
理由にして最も単純な解。
グラトン号の冠域の力があの場で最も強力なものであったからに他ならない。
「ァアァアアァァ"ァァァアッァァ"ッァァア゛アァ゛ァ゛ァァアア"ア"ア"゛ア゛‼‼‼‼」
猪の巨大な頭が崩壊する。その刹那、待機していたG3の斉射が再開される。
照準を定めるのは八岐大蛇を象った多首の竜か。
それとも業火を操る双頭の大蜥蜴か。
―否。
形容するならばそれは有象無象の捕食の形。人らしき断片もあれば、獣の顎から鳥の嘴、鮫の牙。およそ形態の括りなど感じさせないような多種多様な捕食器官が爆発的に増殖し、本来の食性からは掛け離れたような悪食を体現する。
鳳少年の生み出した猪の頭が瞬く間にいくつかの肉片に喰い千切られた。肉という肉を貪る得体のしれない怪物の発生に伴って射撃に移行したアーカマクナG3もまた異形の口腔の中に押し流されていく。強靭は顎によって破砕され、執拗な咀嚼に粉砕される。G3たちはこれまでの射撃性能をそのままに保有していてなお、その異形の怪物たちの暴挙によって隊列に乱れが生じる。
だが、そこは腐っても天下の虎の子たるアーカマクナ。心を持たぬ鉄血の機械兵はどれだけ自陣営の戦力が削がれても応戦を続けた。無限に等しい弾幕を張り、迫りくる無数の捕食肉塊を撃ち砕く。爆発的な増殖力によって途轍もない数の仮想生物をその身から噴き出していたグラトンにしても、乾坤一擲の最期の大仕事に掛けられる力がそこまで残っているわけではない。次第に勢いを失ってきた捕食器官の生成は弾丸の雨に再び呑まれつつあった。
既にグラトン号の号哭は潰えている。
アンブロシアはグラトンの隠し持っていた力のあまりの大きさに愕然としていたが、やはり火力信仰に近いG3の活躍に目を奪われずにはいられなかった。あらゆるイレギュラーすら蹂躙して見せると言わんばかりのG3の無慈悲な攻撃には、改めて畏敬の念を抱くこととなった。
だが、ここにきて楽観視しているアンブロシアと比較して、クリルタイの頭脳であるコンスタンティン・ジュガシヴィリ中将の面持ちは石化したように硬直していた。
「……ボイジャーめが。やはりV計画は間違っていた。こうなっては最早…」
中将の視線は弾丸の雨に押しつぶされていく数多の爪牙には向けられていなかった。
蠢く異形の中心部より噴き出る黒い煙。目を凝らさねば観測することもままならないようなその黒い煙を構成するモノは、何百万と群れる大量の蠅だった。
「撃ち方止め」
中将の眉間に皺が寄り、顔中の血管が浮き上がる。
「アンブロシア号‼実現可能な最大深度まで冠域を展開しろ‼」
「……っ!?」
「蠅を殲滅するのだ‼‼アーカマクナでは仕留められん」
アンブロシアがはっとして黒い煙を注視する。それが大量の蠅の大群だと気付くまでに一瞬の思考を要した。
だが、その思考の過程で彼は全てを察する。もはや今のグラトン号を止めることは不可能だと。
「不可能です‼既に冠域外部に進出した蠅まで追うことが出来ません‼」
「…そう、か。ならば致し方あるまい。カテゴリー4:旧グラトン号の討伐は只今より断念する」
グラトンの最期の抵抗。
猪の腹の中から噴き出した無数の捕食体に紛れて大量の蠅を発生させた彼は、精神体としての機能をその蠅たちに移行させることで大胆な逃亡劇を企てた。どれほど分厚い肉壁だろうと蜂の巣にしてみせるG3のベンガル砲においても、何百万という単位の蠅の大群を殲滅することは不可能だ。その性質を踏まえた上で蠅に変身して逃げるだけの機転を今のグラトン号が利かせることができるとは思いも寄らなかったアンブロシアとジュガシヴィリの敗北と断じて間違いなかった。
「徹底的に生存戦略を採ったボイジャーを捕らえることは不可能だ。かつてのキンコル号のように……まるで私の思惑から摺り抜けていくようだ」
「……面目次第もございません。閣下におかれましてはお怪我はございませんか?」
「うむ。結構。精神汚染下の暴走ボイジャーをある程度は確実に凌ぎ切ったという点だけでも無駄足ではなかった。楽観視こそ出来まいが緊急避難を誘発するほどに疲弊した様子から早期の再展開は考えずらいだろう。次に奴が現れるまでの合間に筐艦内部の警戒態勢を整え、アーカマクナと常駐部隊による即時対応体制を早急に構築する必要がある」
「流石、閣下の戦局を見通すご慧眼には感服致します。しかし、これより第二圏での苛烈な闘争が控えているというのに、筐艦内部にあれほどの脅威を抱えていては今後の大討伐にも影響が出かねず、あの場での討伐を成すだけの実力が己に足りなかったことへの歯痒さが残ります」
「いや。貴機が侵入者討伐のために駆り出されてから間もなくして第二圏の攻略は完了している。かかる圏域の王も撃破済みだ」
アンブロシアは目を丸くした。
「それは……まことに喜ばしく思う限りにございます」
(いやいや。何の冗談だ、この爺。本当に第二圏を陥落させたっていうのか?俺が侵入者やグラトン号と衝突していたそう長くもない時間の中で…)
「私はクリルタイに戻る。貴機の所属は以前としてVeakであるからして、これよりの指揮も引き続き纐纈に仰げ」
「はっ‼」
―――
―――
―――
時を遡ること数十分前。
―――
―――
―――
〇ニーズランド_第一圏
人が空から降ってくる。
天蓋を作るような魔法の煙。人類という驟雨を降らせるその雨雲は虹色の輝きを帯びていた。
筐艦の外に理を外れた一つの神が舞い降りる。
鉛色の肌。艶やかな体躯。神々しい程の美貌。
生者と屍の降り積もる海面に揺蕩う凡夫たちは、その姿を目に留めるや否や各々が希望と絶望に打ちひしがれることになった。
誰もが抵抗虚しく無情な夢の檻の囚人となった今、その女の姿だけが悠々自適に空を泳いでいる。
「叢雨禍神……!」
「異形の女神!」
「災禍の叢雲!」
「お慈悲を…」
「どうか、我らを。いえ、私めをお救いください!」
「苦しいよ!なんでこんなことに…」
「嫌だ。嫌だ。死にたくない」
「人が俺たちに積もっていく。無限に重みが増えていく」
「誰だ。誰が私たちをこんな目に遭わせる?」
「お前か。異形」
「こんな災厄。貴様に違いない!」
「疫病神が!人類の敵が!」
「やめなさい愚か者たち。かの御方がどなたか知って言っているのか!」
「ああ。知ってるぞ。狂信者に祀り上げられて喜んでる異常者だ!」
「私たちを助けろ」
「我々を救え」
「何のためにお前が存在するんだ?」
〇第一圏_海上空中
澐仙の紫色の長い頭髪。星屑を鏤めた様な輝きに満ちたその髪の先から、滅紫色の叢雲が絶えず生み出されては霧散していく。彼女の下半身にスカートのように延びて行った叢雲は彼女がその身を預けて腰を据えることが出来るほどに厚みを帯びている。
澐仙は筐艦が十四系の扉を過ぎて次の世界に旅立つ様を見届けた。
正直、彼女はクリルタイの長である東郷有正が自分抜きで次の戦場に向かうだけの胆力があることに驚いていた。
全人類が無情にも夢想世界の戦場に引き摺り降ろされるこの佳境において、目の前で死の円環に呑まれる罪なき人々を捨て置いて先に進むにはそれなりの決意と覚悟が伴う。
全てを見捨てる覚悟がなかったのは、もしかすれば彼女の方だったのかもしれない。
「有正め。随分と人間味が失せたな」
大口を開けるように黒々とした間口を拡げて己に飛び込む人間を待つ十四系の扉。果てしなく大きな堅牢な扉の闇を前にして、彼女の重瞳は青く燃える。
「……………」
夢の国の海の上にて叢雲に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想する。
今の彼女には一体何が見え、何が聞こえているのか。
「――。
これは夢の噺。夢想にて膨らんだ人間の齎した腫瘍の末路。
クラウンという人間がいなければこうならなかったのか。それは違う。
いずれは起きた文明の岐路。逃れられぬ大終末の幻聴の天花。
端を発した責の所在を求めるのなら、我を誹り、謀り、呪怨を浴びせても構わない。
あの子に無理な夢を見せてしまったのは私だ。
人造悪魔などに己の悲願を預けなれば、人類がこの死地にて似合わない踊りを強制されることはなかった」
「何を言っているんだ‼?」
「ここはどこなんだ!」
「怖いよぅ!」
「このつまらぬ戦いに諸君らが投じられた苦悶は我が果たそう。
全てはこの身から剥がれた錆の悪鎖。命を賭してでもクラウンはこの手で屠る。
壮大な縄張り争いに巻き込んでしまったツケは払うとも。
諸君らからすればこんな無用な闘争の舞台への招致など愚の骨頂に感じ入るだろう。
しかし、皮肉なことに諸君らには歪な形で権利が与えられた。
それは敵を前に立ち向かう自由という名の権利だ。
あの箱舟が敗れ去った時、ただ成すすべなく崩壊へ向かう世界の運命に抗う権利だ。
不平不服に屈することなく己の自由を証明したいという者はあの扉をくぐると良い。
どれだけ過酷な戦場が卑劣な仕掛けが諸君らの生命を脅かそうとも。
それでもじっとしていられないというのなら私と共に突き進もう。
王道でも正道でもなくても構わないという酔狂なモノノフなら。
きっと私と共に邪道を歩める」
澐仙の纏う叢雲が形を変えてゆく。
「そして、諸君らには自身の無力を受け入れる権利もある。
ただ大きな力や長い物に巻かれて己の無力さと向き合いたいと願うのであれば。
心にこの名を綴りなさい。
我が名は澐仙。
叢雲にて人禍の雨を拭う神。
心有る無辜の民は真意に祈れ。信じろ。崇めろ。我に願いを託せ。
我を求めろ。我を仰げ。我に従え。
それはきっと諸君らの掛け替えのない命を保証する」
彼女の眼から青い閃光が迸り、生じた叢雲はその身の周囲に可視の暴風を編み込んでいく。
「覚悟のある者は容易く壊すことのできる慈悲の檻だ。
もう一度言う。
己の自由の為に戦いという者はあの扉へと進め。
ただ一心に保身を望むのならこれよりの檻にて心を閉ざして己と向き合え」
叢雲が蠢く。膨れ上がったエネルギーが周囲に共振を促し、彼女の究極冠域へと塗り替えられていく。
「究極冠域展開。
相対する氷獄」
人類の降る空に。
人類の浮かぶ海に。
世界中の厳冬を凌駕する極大寒波が襲う。
空間の果ての果てまでに絶大なる冷気が蔓延し、突風に撃たれた人類はその全身を大量の氷に覆われて動きを封じられた。空に延びた虹色の魔法の煙さえも凍てつく冷気によって全てが機能を停止させ、ホールからは凍り付けになった人間が氷柱のように垂れ下がっている。
澐仙は表情を崩さずに十四系の扉へと歩みを始めた。
忘れてはいけないのはこの悪魔の僕が究極反転を可能とする特別な反転個体だという事実。
彼女がその気になれば人類は一切の抵抗を許されない氷獄の中に幽閉され、地球上から己らの文明を簡単に消失させられてしまうという圧倒的な存在としての格の差を心に刻まねばならない。
地球上最強と言われる叢雨禍神。
そんな異形が今、次なる世界へと歩みを進めた。
彼女を信じる者は期待せずにはいられない。
彼女が演じる大舞台の大進撃を。
まさしく漁夫の利。グラトンの攻撃を凌ぐべくして姿を隠していた鳳少年が冠域展開と並行して出現し、その両腕から変化した巨大な猪を弾幕の雨が降り注ぐ戦場へとぶつける。
もはや死を待つ肉塊と化していたグラトンは大口を開けて突っ込んできた猪に貪られるように口腔に押し込まれた。それを期に敵対象を観測できなくなったアーカマクナ部隊の射撃が停止する。空気すら破砕するほどの発砲音に包まれていた空間に打って変わった妙な静けさが訪れた。
(絶対に勝てるタイミングまで隠れてたか……。復讐を遂げるためとはいえ、器用な立ち回りも出来るもんだな)
鳳少年の冠域は自分に付与した夢想解像との併せ技であり、グラトン号と同様に不確定領域の冠域内部での夢想解像状態の戦闘力を底上げするという性質がある。そのため冠域展開状態がそのまま攻撃として成立するというケースであり、急速な冠域展開から死に目の奇襲を成功させた鳳少年の勝利という形は理解し易い状況だった。
だが、それらはご都合主義に保証された希望的観測に過ぎないことをこの場の全員が思い知る結果となる。
自身の先輩機体にあたるグラトン号をアンブロシア号でさえ甘く見ていたのだ。それは不死腐狼戦の経た末の自負や矜持によるものだったのかもしれないし、本気になればいつでも倒すことが出来るだろうと高を括っていたことに起因するのかもしれない。
何にせよ、過剰な戦力を用意して事に臨んだコンスタンティン・ジュガシヴィリ中将も結果として思い出すこととなった。人類最大の脅威である鯵ヶ沢露樹が暴走した原初V計画の結晶たる人造悪魔化の儀式に際し、あの場で獏が奪い取り、複製し、付与を可能とした数多ある強豪の夢の骨の中から彼女がグラトン号の力である巨大な竜の姿を採った理由を。
理由にして最も単純な解。
グラトン号の冠域の力があの場で最も強力なものであったからに他ならない。
「ァアァアアァァ"ァァァアッァァ"ッァァア゛アァ゛ァ゛ァァアア"ア"ア"゛ア゛‼‼‼‼」
猪の巨大な頭が崩壊する。その刹那、待機していたG3の斉射が再開される。
照準を定めるのは八岐大蛇を象った多首の竜か。
それとも業火を操る双頭の大蜥蜴か。
―否。
形容するならばそれは有象無象の捕食の形。人らしき断片もあれば、獣の顎から鳥の嘴、鮫の牙。およそ形態の括りなど感じさせないような多種多様な捕食器官が爆発的に増殖し、本来の食性からは掛け離れたような悪食を体現する。
鳳少年の生み出した猪の頭が瞬く間にいくつかの肉片に喰い千切られた。肉という肉を貪る得体のしれない怪物の発生に伴って射撃に移行したアーカマクナG3もまた異形の口腔の中に押し流されていく。強靭は顎によって破砕され、執拗な咀嚼に粉砕される。G3たちはこれまでの射撃性能をそのままに保有していてなお、その異形の怪物たちの暴挙によって隊列に乱れが生じる。
だが、そこは腐っても天下の虎の子たるアーカマクナ。心を持たぬ鉄血の機械兵はどれだけ自陣営の戦力が削がれても応戦を続けた。無限に等しい弾幕を張り、迫りくる無数の捕食肉塊を撃ち砕く。爆発的な増殖力によって途轍もない数の仮想生物をその身から噴き出していたグラトンにしても、乾坤一擲の最期の大仕事に掛けられる力がそこまで残っているわけではない。次第に勢いを失ってきた捕食器官の生成は弾丸の雨に再び呑まれつつあった。
既にグラトン号の号哭は潰えている。
アンブロシアはグラトンの隠し持っていた力のあまりの大きさに愕然としていたが、やはり火力信仰に近いG3の活躍に目を奪われずにはいられなかった。あらゆるイレギュラーすら蹂躙して見せると言わんばかりのG3の無慈悲な攻撃には、改めて畏敬の念を抱くこととなった。
だが、ここにきて楽観視しているアンブロシアと比較して、クリルタイの頭脳であるコンスタンティン・ジュガシヴィリ中将の面持ちは石化したように硬直していた。
「……ボイジャーめが。やはりV計画は間違っていた。こうなっては最早…」
中将の視線は弾丸の雨に押しつぶされていく数多の爪牙には向けられていなかった。
蠢く異形の中心部より噴き出る黒い煙。目を凝らさねば観測することもままならないようなその黒い煙を構成するモノは、何百万と群れる大量の蠅だった。
「撃ち方止め」
中将の眉間に皺が寄り、顔中の血管が浮き上がる。
「アンブロシア号‼実現可能な最大深度まで冠域を展開しろ‼」
「……っ!?」
「蠅を殲滅するのだ‼‼アーカマクナでは仕留められん」
アンブロシアがはっとして黒い煙を注視する。それが大量の蠅の大群だと気付くまでに一瞬の思考を要した。
だが、その思考の過程で彼は全てを察する。もはや今のグラトン号を止めることは不可能だと。
「不可能です‼既に冠域外部に進出した蠅まで追うことが出来ません‼」
「…そう、か。ならば致し方あるまい。カテゴリー4:旧グラトン号の討伐は只今より断念する」
グラトンの最期の抵抗。
猪の腹の中から噴き出した無数の捕食体に紛れて大量の蠅を発生させた彼は、精神体としての機能をその蠅たちに移行させることで大胆な逃亡劇を企てた。どれほど分厚い肉壁だろうと蜂の巣にしてみせるG3のベンガル砲においても、何百万という単位の蠅の大群を殲滅することは不可能だ。その性質を踏まえた上で蠅に変身して逃げるだけの機転を今のグラトン号が利かせることができるとは思いも寄らなかったアンブロシアとジュガシヴィリの敗北と断じて間違いなかった。
「徹底的に生存戦略を採ったボイジャーを捕らえることは不可能だ。かつてのキンコル号のように……まるで私の思惑から摺り抜けていくようだ」
「……面目次第もございません。閣下におかれましてはお怪我はございませんか?」
「うむ。結構。精神汚染下の暴走ボイジャーをある程度は確実に凌ぎ切ったという点だけでも無駄足ではなかった。楽観視こそ出来まいが緊急避難を誘発するほどに疲弊した様子から早期の再展開は考えずらいだろう。次に奴が現れるまでの合間に筐艦内部の警戒態勢を整え、アーカマクナと常駐部隊による即時対応体制を早急に構築する必要がある」
「流石、閣下の戦局を見通すご慧眼には感服致します。しかし、これより第二圏での苛烈な闘争が控えているというのに、筐艦内部にあれほどの脅威を抱えていては今後の大討伐にも影響が出かねず、あの場での討伐を成すだけの実力が己に足りなかったことへの歯痒さが残ります」
「いや。貴機が侵入者討伐のために駆り出されてから間もなくして第二圏の攻略は完了している。かかる圏域の王も撃破済みだ」
アンブロシアは目を丸くした。
「それは……まことに喜ばしく思う限りにございます」
(いやいや。何の冗談だ、この爺。本当に第二圏を陥落させたっていうのか?俺が侵入者やグラトン号と衝突していたそう長くもない時間の中で…)
「私はクリルタイに戻る。貴機の所属は以前としてVeakであるからして、これよりの指揮も引き続き纐纈に仰げ」
「はっ‼」
―――
―――
―――
時を遡ること数十分前。
―――
―――
―――
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人が空から降ってくる。
天蓋を作るような魔法の煙。人類という驟雨を降らせるその雨雲は虹色の輝きを帯びていた。
筐艦の外に理を外れた一つの神が舞い降りる。
鉛色の肌。艶やかな体躯。神々しい程の美貌。
生者と屍の降り積もる海面に揺蕩う凡夫たちは、その姿を目に留めるや否や各々が希望と絶望に打ちひしがれることになった。
誰もが抵抗虚しく無情な夢の檻の囚人となった今、その女の姿だけが悠々自適に空を泳いでいる。
「叢雨禍神……!」
「異形の女神!」
「災禍の叢雲!」
「お慈悲を…」
「どうか、我らを。いえ、私めをお救いください!」
「苦しいよ!なんでこんなことに…」
「嫌だ。嫌だ。死にたくない」
「人が俺たちに積もっていく。無限に重みが増えていく」
「誰だ。誰が私たちをこんな目に遭わせる?」
「お前か。異形」
「こんな災厄。貴様に違いない!」
「疫病神が!人類の敵が!」
「やめなさい愚か者たち。かの御方がどなたか知って言っているのか!」
「ああ。知ってるぞ。狂信者に祀り上げられて喜んでる異常者だ!」
「私たちを助けろ」
「我々を救え」
「何のためにお前が存在するんだ?」
〇第一圏_海上空中
澐仙の紫色の長い頭髪。星屑を鏤めた様な輝きに満ちたその髪の先から、滅紫色の叢雲が絶えず生み出されては霧散していく。彼女の下半身にスカートのように延びて行った叢雲は彼女がその身を預けて腰を据えることが出来るほどに厚みを帯びている。
澐仙は筐艦が十四系の扉を過ぎて次の世界に旅立つ様を見届けた。
正直、彼女はクリルタイの長である東郷有正が自分抜きで次の戦場に向かうだけの胆力があることに驚いていた。
全人類が無情にも夢想世界の戦場に引き摺り降ろされるこの佳境において、目の前で死の円環に呑まれる罪なき人々を捨て置いて先に進むにはそれなりの決意と覚悟が伴う。
全てを見捨てる覚悟がなかったのは、もしかすれば彼女の方だったのかもしれない。
「有正め。随分と人間味が失せたな」
大口を開けるように黒々とした間口を拡げて己に飛び込む人間を待つ十四系の扉。果てしなく大きな堅牢な扉の闇を前にして、彼女の重瞳は青く燃える。
「……………」
夢の国の海の上にて叢雲に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想する。
今の彼女には一体何が見え、何が聞こえているのか。
「――。
これは夢の噺。夢想にて膨らんだ人間の齎した腫瘍の末路。
クラウンという人間がいなければこうならなかったのか。それは違う。
いずれは起きた文明の岐路。逃れられぬ大終末の幻聴の天花。
端を発した責の所在を求めるのなら、我を誹り、謀り、呪怨を浴びせても構わない。
あの子に無理な夢を見せてしまったのは私だ。
人造悪魔などに己の悲願を預けなれば、人類がこの死地にて似合わない踊りを強制されることはなかった」
「何を言っているんだ‼?」
「ここはどこなんだ!」
「怖いよぅ!」
「このつまらぬ戦いに諸君らが投じられた苦悶は我が果たそう。
全てはこの身から剥がれた錆の悪鎖。命を賭してでもクラウンはこの手で屠る。
壮大な縄張り争いに巻き込んでしまったツケは払うとも。
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しかし、皮肉なことに諸君らには歪な形で権利が与えられた。
それは敵を前に立ち向かう自由という名の権利だ。
あの箱舟が敗れ去った時、ただ成すすべなく崩壊へ向かう世界の運命に抗う権利だ。
不平不服に屈することなく己の自由を証明したいという者はあの扉をくぐると良い。
どれだけ過酷な戦場が卑劣な仕掛けが諸君らの生命を脅かそうとも。
それでもじっとしていられないというのなら私と共に突き進もう。
王道でも正道でもなくても構わないという酔狂なモノノフなら。
きっと私と共に邪道を歩める」
澐仙の纏う叢雲が形を変えてゆく。
「そして、諸君らには自身の無力を受け入れる権利もある。
ただ大きな力や長い物に巻かれて己の無力さと向き合いたいと願うのであれば。
心にこの名を綴りなさい。
我が名は澐仙。
叢雲にて人禍の雨を拭う神。
心有る無辜の民は真意に祈れ。信じろ。崇めろ。我に願いを託せ。
我を求めろ。我を仰げ。我に従え。
それはきっと諸君らの掛け替えのない命を保証する」
彼女の眼から青い閃光が迸り、生じた叢雲はその身の周囲に可視の暴風を編み込んでいく。
「覚悟のある者は容易く壊すことのできる慈悲の檻だ。
もう一度言う。
己の自由の為に戦いという者はあの扉へと進め。
ただ一心に保身を望むのならこれよりの檻にて心を閉ざして己と向き合え」
叢雲が蠢く。膨れ上がったエネルギーが周囲に共振を促し、彼女の究極冠域へと塗り替えられていく。
「究極冠域展開。
相対する氷獄」
人類の降る空に。
人類の浮かぶ海に。
世界中の厳冬を凌駕する極大寒波が襲う。
空間の果ての果てまでに絶大なる冷気が蔓延し、突風に撃たれた人類はその全身を大量の氷に覆われて動きを封じられた。空に延びた虹色の魔法の煙さえも凍てつく冷気によって全てが機能を停止させ、ホールからは凍り付けになった人間が氷柱のように垂れ下がっている。
澐仙は表情を崩さずに十四系の扉へと歩みを始めた。
忘れてはいけないのはこの悪魔の僕が究極反転を可能とする特別な反転個体だという事実。
彼女がその気になれば人類は一切の抵抗を許されない氷獄の中に幽閉され、地球上から己らの文明を簡単に消失させられてしまうという圧倒的な存在としての格の差を心に刻まねばならない。
地球上最強と言われる叢雨禍神。
そんな異形が今、次なる世界へと歩みを進めた。
彼女を信じる者は期待せずにはいられない。
彼女が演じる大舞台の大進撃を。
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神崎未緒里
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※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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