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幕間 2.5章
Short Story 即身仏 (後編)
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「断る」
澐仙は退屈さを声音に滲ませながら、端的に言い切った。
この世界の形を大きく変えることになった悪魔昏山羊の夢の契約は、未解明の多い超常現象の類として考えられて来た。
TD2Pは無論、これまでに収監した悪魔の僕に対してあの手この手でこの超常現象の仔細を解明しようと力を尽くした。時に人道を反した拷問を用いていた事実でさえ、人類に対する平和の享受の使命と天秤にかけることで暗黙的な恩赦を得ていたと言っても過言ではない。
「理由は多いぞ。
第一に、何故ワシが貴様の金魚の糞の世話をしてやらなくてはならん?
第二に、究極反転したワシとて昏山羊の明確な出現原理は知らん。よってそもそもワシに協力できるものではない。
第三に、ワシは忙しい。早々に社を繕わねば、神としての沽券に関わる。そもそも貴様らの相手をしている暇など微塵も持ち合わせてはおらんのじゃ
こんなものか……。
ぉお、もう一つ加えておくか。
神を前にしていながら、信じもせず、祈りもせず、崇めもしない。そんな蒙昧の吐く願いを聞く神など、どんな世界であろうと存在するものか」
「そ、そうですよ‼︎僕が悪魔の僕になるなんて、そんな酷い話があってたまりますか‼︎」
上背が大きく見えるほどにエイドリアンはいきり立った。
「本当に不可能かな。仙ちゃん」
「何が言いたい」
「仙ちゃんは明確に昏山羊と接触を果たすことで悪魔の僕になっている。ついぞその契約の内情を教えてくれやしないけど、少なくとも昏山羊が何を望んで下僕を増やしているのかは知っているんじゃないかなって私は思うんだ」
「なぜそう思う」
「それを言ったら私の勘という言葉に尽きるさ。
……でも、冷静に考えれば妙な話なんだよ。君たちのような個にして神を称せるほどの圧倒的な力を持った生き物を昏山羊がわざわざ生み出しておいて、まだそれでも人類が存続している。この現状があるということを鑑みるに、昏山羊が悪魔の僕を人間に問うという一般化された儀式の中において、昏山羊は自身が必要とする素質を持った人間を選別して力の契約を果たしているのではないかと思うんだ。
私の見立てでは少なくとも、昏山羊の目的は人類への攻撃ではない」
「大陸軍は明確な意思を以て人類の虐殺を実行したであろうが。奴と対峙したお前が悪魔の僕の真の脅威と凶悪さを誰よりも理解しているはずじゃ」
「そうだね。でも、ナイフを持った人間がすれ違う人間を誰彼構わずに刺し殺すわけじゃあない。大陸軍は確かに人類にとって他に比肩しえない怪物だったけど、裏を返せば奴と同レベルの夢と執念と自己本位な性格を併せ持った人間を複数体出現させれば、全人類の排除に七日もかからないだろう。最悪、世界そのものが破滅の未来を迎えることだって十分にあり得るほどにね。
では、なぜ昏山羊は下僕を生み出すのか。いや、言い方を変えよう。昏山羊は下僕たちに何をさせようとしているのか。悪魔の僕の仙ちゃんは知っているんじゃないかって思う私の解釈は、果たして勘の域を出ない机上論なのか是非ともこの機に教えてくれないかな?」
「我々が何かに縛られて生きているように見えるか」
「いいや。見えない。自己見解として矛盾を孕むようだけど、私の分析する限りでは悪魔の僕に共通する項目は人類に対する敵性だけだ。だが、それも人類のために力を振るってくれた仙ちゃんの存在によって背反する事象と定義できるかもしれない」
「我が人間共の為に戦っているとでも?」
「ああ。そこは私も敢えて盲目的になりたい部分だよ」
「盲目なんてものではないな。傍から見ればお前の生き方は愚者の旅路だ」
「ふふっ。キツイなぁ」
そこでエイドリアンが両者に叱咤した。
「僕を置いて長々と話を逸らさないでください!僕は悪魔の僕になんかなるつもりはありません!」
「ああ。ごめんごめん。でも、今の仙ちゃんの反応で分かったこともある」
「なんじゃと…?」
「昏山羊は悪魔の僕を作ること自体が目的じゃない。それでいて、直接的に何かを命令して悪魔の僕を統率しているわけでもない。多種多様な夢の形を手玉に取り、時には凶悪な人類の敵を生み出すことこそあれど、その目的は決して人類の全滅させることではない。
人類に対する攻撃を仕掛けたいという線は消せないけど、おそらく本質はそんなに単純なものじゃない。悪魔の僕が人類を攻撃するのはおそらく昏山羊にとって過程に過ぎず、目的は下僕たちが自分たちの自由意思で行動することの先にあるとある到達地点なんじゃないのかな」
「行き過ぎた妄想じゃ」
「でも、空想と断じることはしないんだね」
「同じことじゃ」
「どうだろう」
エイドリアンの頬を風が撫ぜた。
彼には何故だか、その風の発生源が澐仙であると感覚的に理解できた。
「小春。我は基本的にお前が嫌いじゃないが……その度が過ぎた小賢しさは本当に癪に障る」
「神様に願掛けしに来たんだ。小賢しさもマックスで来るさ」
「その胆力はだけは褒めてやろう」
光が奔る。
エイドリアンにそうしたように、虫を払うような動作で澐仙は大量の雷を何もない空間から集束させてみせた。
叢雨小春を囲うように雷が地面を抉り、一筋の煙が彼女の鼻腔を擽った。
「お前がどれだけの想いを胸に禁忌に触れようとしているかは理解しておる。じゃが、行き過ぎた荒肝はその身を亡ぼすことになろうぞ」
「固有冠域展開:観懲三臣顕現」
小言を漏らすかのような僅かな発声によってその諍いの火蓋は切られた。
小春の半歩前に名乗り出るように薄桃色の不定形な塊が空間を揺らしながら出現する。色のついた大気のようなそれは徐々に生き物の形を成していき、一つは猿、一つは雉、一つは犬の姿に変化した。
「こんな小悪党の身一つなんて滅びたって構わない。もし、君が夢見ている世界が人類にとって理想近いものであるならば、私たちは手を取り合えるはずだ。そして、私たちが真に手を携え合えたのなら、それはきっと世界を照らす大きな光になる」
「照らした光の先に生まれる影の大きさも考えろ。人類の失敗は己の正義を過信するところから始まるのじゃ」
「全てが光に包まれれば、闇は生まれない」
「これ以上は平行線じゃな」
ーーーーー
澐仙の重瞳いっぱいに光が溢れる。不気味すぎてかえって清々しいほどの深みを帯びた青い似炎だった。大袈裟な威風が踊り、周りは澐仙の気迫に同調するように空間ごと軋み出す。
「固有冠域再展開: 藝点・臥雲の蝕」
既存の環境が千切れ飛ぶ。
三者が足をつけていたはずの足場が消え去り、抜かるんだ周囲の雑木林の瞬きの合間に景色が一変する。
澐仙を中心に大きな光の束と圧力が広がっていく。それに押し込まれるのようにエリドリアンが転倒し、立ち上がる頃には既に辺り一帯は雪原よりさらに真っ白な広大な空間へと変貌していた。
「これが……究極反転による現実での固有冠域の展開」
呆然と周囲の光景に呑まれそうになるエイドリアン。そんか彼の脳裏に突き刺すような違和感が生じる。
「でも…なんでプリマヴェッラも固有冠域を………?現実世界でそれが出来るのは限られた極少数の悪魔の僕だけのはずなのに」
「仙ちゃんの世界の内側からなら誰でも固有冠域の召喚ができるんだよ。だからこそ、私は大陸軍に対して夢想世界にだけでなく、現実世界でも対等に渡り合うことができた」
「そんな馬鹿な…。それが本当なら、反転個体を頂点とする既存の生命論のカーストが完全に崩壊する‼︎」
「小僧。先刻から暫く黙っておったが、貴様の頭の硬さは天下一品じゃな。目の前の事象に対して、アレが変だ、コレが可笑しいと叫び散らしおって、実に癪に障る」
澐仙が動いた。彼女の下半身を取り込むようにして焔雲が展延され、その雲に半身を沈めたまま宙を滑るような移動だった。
焔雲に光が集中し、傍から見ても明瞭なほどのエネルギ―の凝縮が感じ取れた。
「夢を諦念することも勇気じゃ。"知らぬが仏"という言葉もある。生半可な夢見心地で机上論を吐くばかりでは、人は夢に喰い殺されるばかりであろう。徒爾に潰える無能の歴史をなぞるというのであれば、ここで夢諸共に粉にしてやろう――」
エイドリアンの意識が揺らぐ。眩い光の塊が認識よりさらに速い領域の危機感知能力を呼起し、彼は両手で顔を覆うように手を組み上げた。だが、それが今まさに迫りくる危機に関して何の要領も得ない防衛であるということは彼自身が最も理解できていた。
人間に直感的に死を連想させるまでの不吉な光。焔雲に乗った死神から充てられたわかりやすい殺意の波動を受けて、エイドリアンの足腰は意図せずに崩れた。
「あ…ぁ…‼」
目を閉じても脳を焼くような光を前にして、彼の意識が混濁した。形容することもままならないような、チグハグな感情が渦巻く。意識感覚が統合されず、小さな自我の群れが心の中を別方向に一人歩きしているような曖昧さに注意を割かれてしまう。
―――
「――…リアン。…エイドリアン」
「あ。……ら……ががgagaががが…がっ」
分断と結合が繰り返される自我の中で、叢雲小春の声が反響する。
細まっていた僅かな本当の自分を手繰り寄せるようにして、彼は自分にできる精一杯の応答を心がける。
「がが。ら……い……に…がが…が」
「命はあるね。おーけーおーけー」
「ぶりが…げっだ……ごんだに……ぎずが…がげげ」
視界に統一感が戻る。言葉はうまく操れないが、それでもある程度の五感は既に取り戻した。
周囲はこれまた奇妙な光景に変化していた。
先程まではコンピューターグラフィックスでベタ塗りされたような無機質で不気味な空間が広がっていた。現状はそれに加えて元々の世界の背景である雑木林が疎らな感覚で復元されており、白い巨大な空間に絶妙なバランスで現実世界が引き戻されているような様相を呈していた。
さらに、戦闘態勢にあると思われるプリマヴェッラの周囲には水に絵の具を落としたように不定形で金属質なオブジェクトが生成されていた。
「が……あ、あ。プリマ、ヴェッラ……すごい…怪我だ!」
どれほど時間が立ったのか。プリマヴェッラの貌は血に濡れ、服は損傷し、右腕が砕けていた。
桃色のオーブで生成されていた彼女により生み出された猿、犬、雉が力なく横たわっている。それも一体や二体ではない、桃色のオブジェクトにこびり付き、泥水に溶け込み、無機質な空間にゴミのように積み重なっている夥しい数の死の群集となっていた。
「まぁ。こうなるよね」
「そんなっ……そんな!……腕は大丈夫ですか!」
「どうだろうね。自分の怪我について話すのは恰好悪いじゃんか。秘すれば花って言葉もあるし、もうちょっと知らんぷりしてて貰えると助かるよ」
「ああ……なんで…なんでこんなっ」
「信二もせず。祈りもせず。崇めもせず。己の弱さを隠す業突張りの末路とはこのようなものよ。果し合いの最中に快方し、会話にうつつを抜かすとは人生の浅慮にも程があろう」
雷が降り注ぐ。強い衝撃がエイドリアンの神経を揺らす。
プリマヴェッラは桃色の眼を恒星のように照らし上げ、己の能力を最大限に解放して障壁を生み出した。薄く張られた何重ものバリアのようなものが雷の軌道を逸らしたり弾き返すことによって攻撃を凌ごうとしているが、それすらも貫通してくる衝撃波は人の意識を掻っ攫うには余りある威力だった。
「堪えろッ!エイドリアン。次に意識が落ちたらもう助からない!」
「でも……これ……多分、精神汚染も相まってマジでキツイですっ」
「大丈夫だ。意識を現実世界に集中させろ。いかに反転個体とはいえ、空間の専有面積が固有冠域で殆ど制圧されている場合の環境性質は夢想世界と同じだ。どれだけ惨い怪我をしても、精神性を保てば再起はいくらでも可能だ」
「そんなこと言っても…っ」
雷を凌いだ後、プリマヴェッラは宙に飛び上がった。焔雲に乗り飛翔する澐仙に対して彼女は物理法則を無視した変速を行って詰め寄ると、何もない空間から金棒を生成して即座に振り下ろす。澐仙はこれに拳で応じると、拳と金棒が交わったその一点には再び強烈な光を発する雷が迸った。
「か~。…とんでもないねぇ。夢想世界でのエネルギー理論とはいえ、物質の第四段階である"プラズマ"の仕組みを知悉して静謐な領域の操作なくして"雷"は操れない。これほどの嗜好性を以て雷撃を運用できるのは世界広しといっても仙ちゃんの専売特許だろうねえ!」
プリマヴェッラは不規則に宙を跳ね、澐仙の背後に回り込んでから彼女に一撃を食らわせた。
「この期に及んで戦闘中にベラベラと…」
澐仙の焔雲から放たれた雷がプリマヴェッラの腹から背までを貫通した。
「かはッ‼……やっぱり仙ちゃんは優しいね」
腹を穿った雷から得た衝撃を転用するように、彼女は宙で回転して踵落しを澐仙に命中させた。
「…………」
防御した澐仙が的確にカウンターを併せてプリマヴェッラの左肩を破壊した。
「今だって本気で私を殺そうとしてない。仙ちゃんに勝てる生物は地球上に存在しない。こうしてわざわざ私の我儘に付き合ってくれてるだけで、泣けてくるくらいの幸運だよ」
プリマヴェッラは両方の腕を潰されたことによって宙に放られた金棒の柄に食らいつき、首と胴を器用に捩じることでなおも攻撃を試みた。
「…付き合ってられん」
――――――
――――――
――――――
なんで。どうして。
原因を考えてもわからない。
どうやって。どうすれば。
解決を試みても何もできない。
繰り広げられる強大な対立を前に自分の無力感だけが強調される。
現実で起こる現実離れした神の荒行。
どれだけやめて欲しいと願った所で、その闘争を食い止めることなどできやしない。
「何をしてるんだ……僕は…」
こんなことなら、さっさと精神を崩壊させてしまった方が楽なのかもしれない。
自分に大した才能なんてない。強大な力を前にすれば、自我だってさっきみたいに簡単に壊れてしまう。
世界を救いたいと願う自分を救ってくれた恩人の窮地に対し、ただ膝を折って仰ぐことしかできない。
「何もできないのか…俺は?」
割り切ってしまえば簡単なこと。
身の丈が合わない世界を前にして、ちっぽけな己と向き合うだけの生産性のない時間。
「私は……何がしたいんだ?」
意識がブレる。この心の脆ささえも、澐仙の齎した精神汚染の影響と言い訳したい。
「やりたいこと……?」
言葉にしなければ、忘れてしまう所だった。
最初から持っていたはずのものを、捨ててしまう所だった。
「世界平和。………闘争の断絶」
争いのない、平和な世界を作りたいだけなんだ。
自分に似合わない夢だとここで放り棄ててしまえば、きっとそれは本当に自分を殺してしまうことになる。
今はどれだけちっぽけでも、気持ちで負けていて何になる。
「自分の夢のためだろ?……出来なくてもやるんだよ、エイドリアン」
己に呼びかけろ。0から100を生み出せ。
「世界を変えるためなんだろ?…悪魔にでも、神にでも、仏にでもなってやるさ‼」
魂が震えた。
『大曼荼羅顕現ッ‼‼‼‼』
魂が描く夢の骨。
固有冠域という名の己の最強を確立する空間。
彼の持つそれは、闘争の廃絶というただ一点にのみ染まった思想の開花だった。
彼が止めようとしたその闘争がもし、殺戮という澐仙の一方的な蹂躙であったとすれば、彼の巣立ったばかりの力など何の足しにもならなかったことだろう。
だが、彼の描いたその力はこの状況における最適解となったのは間違いない。
「小春」
「なんだい」
「これが望みか。……獅子は我が子を千尋の谷に落とすというが、お前は私に嫌われ役を押し付けて弟子の冠域の開花を誘ったか?」
「ははっ。ワンチャンに掛けるのが私のポリシーだよ。まさか本当に出るとは思わなかったけどね」
「少なくともワシはあのガキを殺すつもりだった」
「それは困るなぁ。私は本気で彼にバトンを繋ぎたいって思ってんだからさ」
「この鬼畜が」
「で、どうなの?」
「?」
「昏山羊の出現条件がわからないってのは聞いたけど、別に悪魔の僕になれる可能性はゼロじゃないんでしょ?ワンチャンに懸けて鍛えてあげてくれないかな」
「……あのガキが悪魔の僕になることはないだろう。だが、まぁ、良い。何かの役に立つかもしれないから預かってやる。ただし条件があるがの」
「なんなりと。神様」
「お前の一族が持つ求心力と影響力が欲しい。これからは叢雨の名をワシに寄越せ。神社も作ってもらうぞ」
「まったく、参拝者泣かせの神様もいたもんだね」
澐仙は退屈さを声音に滲ませながら、端的に言い切った。
この世界の形を大きく変えることになった悪魔昏山羊の夢の契約は、未解明の多い超常現象の類として考えられて来た。
TD2Pは無論、これまでに収監した悪魔の僕に対してあの手この手でこの超常現象の仔細を解明しようと力を尽くした。時に人道を反した拷問を用いていた事実でさえ、人類に対する平和の享受の使命と天秤にかけることで暗黙的な恩赦を得ていたと言っても過言ではない。
「理由は多いぞ。
第一に、何故ワシが貴様の金魚の糞の世話をしてやらなくてはならん?
第二に、究極反転したワシとて昏山羊の明確な出現原理は知らん。よってそもそもワシに協力できるものではない。
第三に、ワシは忙しい。早々に社を繕わねば、神としての沽券に関わる。そもそも貴様らの相手をしている暇など微塵も持ち合わせてはおらんのじゃ
こんなものか……。
ぉお、もう一つ加えておくか。
神を前にしていながら、信じもせず、祈りもせず、崇めもしない。そんな蒙昧の吐く願いを聞く神など、どんな世界であろうと存在するものか」
「そ、そうですよ‼︎僕が悪魔の僕になるなんて、そんな酷い話があってたまりますか‼︎」
上背が大きく見えるほどにエイドリアンはいきり立った。
「本当に不可能かな。仙ちゃん」
「何が言いたい」
「仙ちゃんは明確に昏山羊と接触を果たすことで悪魔の僕になっている。ついぞその契約の内情を教えてくれやしないけど、少なくとも昏山羊が何を望んで下僕を増やしているのかは知っているんじゃないかなって私は思うんだ」
「なぜそう思う」
「それを言ったら私の勘という言葉に尽きるさ。
……でも、冷静に考えれば妙な話なんだよ。君たちのような個にして神を称せるほどの圧倒的な力を持った生き物を昏山羊がわざわざ生み出しておいて、まだそれでも人類が存続している。この現状があるということを鑑みるに、昏山羊が悪魔の僕を人間に問うという一般化された儀式の中において、昏山羊は自身が必要とする素質を持った人間を選別して力の契約を果たしているのではないかと思うんだ。
私の見立てでは少なくとも、昏山羊の目的は人類への攻撃ではない」
「大陸軍は明確な意思を以て人類の虐殺を実行したであろうが。奴と対峙したお前が悪魔の僕の真の脅威と凶悪さを誰よりも理解しているはずじゃ」
「そうだね。でも、ナイフを持った人間がすれ違う人間を誰彼構わずに刺し殺すわけじゃあない。大陸軍は確かに人類にとって他に比肩しえない怪物だったけど、裏を返せば奴と同レベルの夢と執念と自己本位な性格を併せ持った人間を複数体出現させれば、全人類の排除に七日もかからないだろう。最悪、世界そのものが破滅の未来を迎えることだって十分にあり得るほどにね。
では、なぜ昏山羊は下僕を生み出すのか。いや、言い方を変えよう。昏山羊は下僕たちに何をさせようとしているのか。悪魔の僕の仙ちゃんは知っているんじゃないかって思う私の解釈は、果たして勘の域を出ない机上論なのか是非ともこの機に教えてくれないかな?」
「我々が何かに縛られて生きているように見えるか」
「いいや。見えない。自己見解として矛盾を孕むようだけど、私の分析する限りでは悪魔の僕に共通する項目は人類に対する敵性だけだ。だが、それも人類のために力を振るってくれた仙ちゃんの存在によって背反する事象と定義できるかもしれない」
「我が人間共の為に戦っているとでも?」
「ああ。そこは私も敢えて盲目的になりたい部分だよ」
「盲目なんてものではないな。傍から見ればお前の生き方は愚者の旅路だ」
「ふふっ。キツイなぁ」
そこでエイドリアンが両者に叱咤した。
「僕を置いて長々と話を逸らさないでください!僕は悪魔の僕になんかなるつもりはありません!」
「ああ。ごめんごめん。でも、今の仙ちゃんの反応で分かったこともある」
「なんじゃと…?」
「昏山羊は悪魔の僕を作ること自体が目的じゃない。それでいて、直接的に何かを命令して悪魔の僕を統率しているわけでもない。多種多様な夢の形を手玉に取り、時には凶悪な人類の敵を生み出すことこそあれど、その目的は決して人類の全滅させることではない。
人類に対する攻撃を仕掛けたいという線は消せないけど、おそらく本質はそんなに単純なものじゃない。悪魔の僕が人類を攻撃するのはおそらく昏山羊にとって過程に過ぎず、目的は下僕たちが自分たちの自由意思で行動することの先にあるとある到達地点なんじゃないのかな」
「行き過ぎた妄想じゃ」
「でも、空想と断じることはしないんだね」
「同じことじゃ」
「どうだろう」
エイドリアンの頬を風が撫ぜた。
彼には何故だか、その風の発生源が澐仙であると感覚的に理解できた。
「小春。我は基本的にお前が嫌いじゃないが……その度が過ぎた小賢しさは本当に癪に障る」
「神様に願掛けしに来たんだ。小賢しさもマックスで来るさ」
「その胆力はだけは褒めてやろう」
光が奔る。
エイドリアンにそうしたように、虫を払うような動作で澐仙は大量の雷を何もない空間から集束させてみせた。
叢雨小春を囲うように雷が地面を抉り、一筋の煙が彼女の鼻腔を擽った。
「お前がどれだけの想いを胸に禁忌に触れようとしているかは理解しておる。じゃが、行き過ぎた荒肝はその身を亡ぼすことになろうぞ」
「固有冠域展開:観懲三臣顕現」
小言を漏らすかのような僅かな発声によってその諍いの火蓋は切られた。
小春の半歩前に名乗り出るように薄桃色の不定形な塊が空間を揺らしながら出現する。色のついた大気のようなそれは徐々に生き物の形を成していき、一つは猿、一つは雉、一つは犬の姿に変化した。
「こんな小悪党の身一つなんて滅びたって構わない。もし、君が夢見ている世界が人類にとって理想近いものであるならば、私たちは手を取り合えるはずだ。そして、私たちが真に手を携え合えたのなら、それはきっと世界を照らす大きな光になる」
「照らした光の先に生まれる影の大きさも考えろ。人類の失敗は己の正義を過信するところから始まるのじゃ」
「全てが光に包まれれば、闇は生まれない」
「これ以上は平行線じゃな」
ーーーーー
澐仙の重瞳いっぱいに光が溢れる。不気味すぎてかえって清々しいほどの深みを帯びた青い似炎だった。大袈裟な威風が踊り、周りは澐仙の気迫に同調するように空間ごと軋み出す。
「固有冠域再展開: 藝点・臥雲の蝕」
既存の環境が千切れ飛ぶ。
三者が足をつけていたはずの足場が消え去り、抜かるんだ周囲の雑木林の瞬きの合間に景色が一変する。
澐仙を中心に大きな光の束と圧力が広がっていく。それに押し込まれるのようにエリドリアンが転倒し、立ち上がる頃には既に辺り一帯は雪原よりさらに真っ白な広大な空間へと変貌していた。
「これが……究極反転による現実での固有冠域の展開」
呆然と周囲の光景に呑まれそうになるエイドリアン。そんか彼の脳裏に突き刺すような違和感が生じる。
「でも…なんでプリマヴェッラも固有冠域を………?現実世界でそれが出来るのは限られた極少数の悪魔の僕だけのはずなのに」
「仙ちゃんの世界の内側からなら誰でも固有冠域の召喚ができるんだよ。だからこそ、私は大陸軍に対して夢想世界にだけでなく、現実世界でも対等に渡り合うことができた」
「そんな馬鹿な…。それが本当なら、反転個体を頂点とする既存の生命論のカーストが完全に崩壊する‼︎」
「小僧。先刻から暫く黙っておったが、貴様の頭の硬さは天下一品じゃな。目の前の事象に対して、アレが変だ、コレが可笑しいと叫び散らしおって、実に癪に障る」
澐仙が動いた。彼女の下半身を取り込むようにして焔雲が展延され、その雲に半身を沈めたまま宙を滑るような移動だった。
焔雲に光が集中し、傍から見ても明瞭なほどのエネルギ―の凝縮が感じ取れた。
「夢を諦念することも勇気じゃ。"知らぬが仏"という言葉もある。生半可な夢見心地で机上論を吐くばかりでは、人は夢に喰い殺されるばかりであろう。徒爾に潰える無能の歴史をなぞるというのであれば、ここで夢諸共に粉にしてやろう――」
エイドリアンの意識が揺らぐ。眩い光の塊が認識よりさらに速い領域の危機感知能力を呼起し、彼は両手で顔を覆うように手を組み上げた。だが、それが今まさに迫りくる危機に関して何の要領も得ない防衛であるということは彼自身が最も理解できていた。
人間に直感的に死を連想させるまでの不吉な光。焔雲に乗った死神から充てられたわかりやすい殺意の波動を受けて、エイドリアンの足腰は意図せずに崩れた。
「あ…ぁ…‼」
目を閉じても脳を焼くような光を前にして、彼の意識が混濁した。形容することもままならないような、チグハグな感情が渦巻く。意識感覚が統合されず、小さな自我の群れが心の中を別方向に一人歩きしているような曖昧さに注意を割かれてしまう。
―――
「――…リアン。…エイドリアン」
「あ。……ら……ががgagaががが…がっ」
分断と結合が繰り返される自我の中で、叢雲小春の声が反響する。
細まっていた僅かな本当の自分を手繰り寄せるようにして、彼は自分にできる精一杯の応答を心がける。
「がが。ら……い……に…がが…が」
「命はあるね。おーけーおーけー」
「ぶりが…げっだ……ごんだに……ぎずが…がげげ」
視界に統一感が戻る。言葉はうまく操れないが、それでもある程度の五感は既に取り戻した。
周囲はこれまた奇妙な光景に変化していた。
先程まではコンピューターグラフィックスでベタ塗りされたような無機質で不気味な空間が広がっていた。現状はそれに加えて元々の世界の背景である雑木林が疎らな感覚で復元されており、白い巨大な空間に絶妙なバランスで現実世界が引き戻されているような様相を呈していた。
さらに、戦闘態勢にあると思われるプリマヴェッラの周囲には水に絵の具を落としたように不定形で金属質なオブジェクトが生成されていた。
「が……あ、あ。プリマ、ヴェッラ……すごい…怪我だ!」
どれほど時間が立ったのか。プリマヴェッラの貌は血に濡れ、服は損傷し、右腕が砕けていた。
桃色のオーブで生成されていた彼女により生み出された猿、犬、雉が力なく横たわっている。それも一体や二体ではない、桃色のオブジェクトにこびり付き、泥水に溶け込み、無機質な空間にゴミのように積み重なっている夥しい数の死の群集となっていた。
「まぁ。こうなるよね」
「そんなっ……そんな!……腕は大丈夫ですか!」
「どうだろうね。自分の怪我について話すのは恰好悪いじゃんか。秘すれば花って言葉もあるし、もうちょっと知らんぷりしてて貰えると助かるよ」
「ああ……なんで…なんでこんなっ」
「信二もせず。祈りもせず。崇めもせず。己の弱さを隠す業突張りの末路とはこのようなものよ。果し合いの最中に快方し、会話にうつつを抜かすとは人生の浅慮にも程があろう」
雷が降り注ぐ。強い衝撃がエイドリアンの神経を揺らす。
プリマヴェッラは桃色の眼を恒星のように照らし上げ、己の能力を最大限に解放して障壁を生み出した。薄く張られた何重ものバリアのようなものが雷の軌道を逸らしたり弾き返すことによって攻撃を凌ごうとしているが、それすらも貫通してくる衝撃波は人の意識を掻っ攫うには余りある威力だった。
「堪えろッ!エイドリアン。次に意識が落ちたらもう助からない!」
「でも……これ……多分、精神汚染も相まってマジでキツイですっ」
「大丈夫だ。意識を現実世界に集中させろ。いかに反転個体とはいえ、空間の専有面積が固有冠域で殆ど制圧されている場合の環境性質は夢想世界と同じだ。どれだけ惨い怪我をしても、精神性を保てば再起はいくらでも可能だ」
「そんなこと言っても…っ」
雷を凌いだ後、プリマヴェッラは宙に飛び上がった。焔雲に乗り飛翔する澐仙に対して彼女は物理法則を無視した変速を行って詰め寄ると、何もない空間から金棒を生成して即座に振り下ろす。澐仙はこれに拳で応じると、拳と金棒が交わったその一点には再び強烈な光を発する雷が迸った。
「か~。…とんでもないねぇ。夢想世界でのエネルギー理論とはいえ、物質の第四段階である"プラズマ"の仕組みを知悉して静謐な領域の操作なくして"雷"は操れない。これほどの嗜好性を以て雷撃を運用できるのは世界広しといっても仙ちゃんの専売特許だろうねえ!」
プリマヴェッラは不規則に宙を跳ね、澐仙の背後に回り込んでから彼女に一撃を食らわせた。
「この期に及んで戦闘中にベラベラと…」
澐仙の焔雲から放たれた雷がプリマヴェッラの腹から背までを貫通した。
「かはッ‼……やっぱり仙ちゃんは優しいね」
腹を穿った雷から得た衝撃を転用するように、彼女は宙で回転して踵落しを澐仙に命中させた。
「…………」
防御した澐仙が的確にカウンターを併せてプリマヴェッラの左肩を破壊した。
「今だって本気で私を殺そうとしてない。仙ちゃんに勝てる生物は地球上に存在しない。こうしてわざわざ私の我儘に付き合ってくれてるだけで、泣けてくるくらいの幸運だよ」
プリマヴェッラは両方の腕を潰されたことによって宙に放られた金棒の柄に食らいつき、首と胴を器用に捩じることでなおも攻撃を試みた。
「…付き合ってられん」
――――――
――――――
――――――
なんで。どうして。
原因を考えてもわからない。
どうやって。どうすれば。
解決を試みても何もできない。
繰り広げられる強大な対立を前に自分の無力感だけが強調される。
現実で起こる現実離れした神の荒行。
どれだけやめて欲しいと願った所で、その闘争を食い止めることなどできやしない。
「何をしてるんだ……僕は…」
こんなことなら、さっさと精神を崩壊させてしまった方が楽なのかもしれない。
自分に大した才能なんてない。強大な力を前にすれば、自我だってさっきみたいに簡単に壊れてしまう。
世界を救いたいと願う自分を救ってくれた恩人の窮地に対し、ただ膝を折って仰ぐことしかできない。
「何もできないのか…俺は?」
割り切ってしまえば簡単なこと。
身の丈が合わない世界を前にして、ちっぽけな己と向き合うだけの生産性のない時間。
「私は……何がしたいんだ?」
意識がブレる。この心の脆ささえも、澐仙の齎した精神汚染の影響と言い訳したい。
「やりたいこと……?」
言葉にしなければ、忘れてしまう所だった。
最初から持っていたはずのものを、捨ててしまう所だった。
「世界平和。………闘争の断絶」
争いのない、平和な世界を作りたいだけなんだ。
自分に似合わない夢だとここで放り棄ててしまえば、きっとそれは本当に自分を殺してしまうことになる。
今はどれだけちっぽけでも、気持ちで負けていて何になる。
「自分の夢のためだろ?……出来なくてもやるんだよ、エイドリアン」
己に呼びかけろ。0から100を生み出せ。
「世界を変えるためなんだろ?…悪魔にでも、神にでも、仏にでもなってやるさ‼」
魂が震えた。
『大曼荼羅顕現ッ‼‼‼‼』
魂が描く夢の骨。
固有冠域という名の己の最強を確立する空間。
彼の持つそれは、闘争の廃絶というただ一点にのみ染まった思想の開花だった。
彼が止めようとしたその闘争がもし、殺戮という澐仙の一方的な蹂躙であったとすれば、彼の巣立ったばかりの力など何の足しにもならなかったことだろう。
だが、彼の描いたその力はこの状況における最適解となったのは間違いない。
「小春」
「なんだい」
「これが望みか。……獅子は我が子を千尋の谷に落とすというが、お前は私に嫌われ役を押し付けて弟子の冠域の開花を誘ったか?」
「ははっ。ワンチャンに掛けるのが私のポリシーだよ。まさか本当に出るとは思わなかったけどね」
「少なくともワシはあのガキを殺すつもりだった」
「それは困るなぁ。私は本気で彼にバトンを繋ぎたいって思ってんだからさ」
「この鬼畜が」
「で、どうなの?」
「?」
「昏山羊の出現条件がわからないってのは聞いたけど、別に悪魔の僕になれる可能性はゼロじゃないんでしょ?ワンチャンに懸けて鍛えてあげてくれないかな」
「……あのガキが悪魔の僕になることはないだろう。だが、まぁ、良い。何かの役に立つかもしれないから預かってやる。ただし条件があるがの」
「なんなりと。神様」
「お前の一族が持つ求心力と影響力が欲しい。これからは叢雨の名をワシに寄越せ。神社も作ってもらうぞ」
「まったく、参拝者泣かせの神様もいたもんだね」
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