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3章 望まれた王国
38 澐仙
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「私が澐仙です」
それを前にして、彼らは一体何を思ったのか。
梨沙の眼には、それは鬼に見えた。
だが、民話や伝承に現れるような鬼に比べて、眼前にて頬杖をついて横臥しているその存在はあまりに美しく、気高く、知的で、怖ろしい存在であった。
それは、人間の女だった。
いや、人間と断じるにはあまりにも体が大きい。不死腐狼と対峙した経験のある裕田の眼から見ても、4m近くあった不死腐狼よりもさらに巨大であるということが横たわっているその姿からでも手に取るように伝わってきた。巨大な体躯を持ちながら、そのスタイルはグラビアモデル並みの異常なプロポーションの良さがあり、和装染みた布を重ね合わせたような薄い衣装からは大胆に露出した脚や胸元が姿を覗かせている。
全身を包む鉛色の肌は、それだけで得も言われぬ尋常ならざる雰囲気を醸し出し、ストレートグレーの貌に浮かんだ二つの青い重瞳から放たれる研ぎ澄まされた眼光もまた、彼女の神格的なオーラをより一層強めている。目を見張る紫色の美しい髪の毛は星屑のような不思議な煌めきの礫を孕んでおり、風を受けていもいないのに毛先は意思を持つように逆立っていた。
「どーも澐仙。言うまでもなく私たちはボイジャー。本来は問答無用でぶち殺してやりたいところだけど、よくわからん事情と立場からこうやって参拝しに来てやったぞ。お礼の一つも言ってみなよ」
梨沙、もといボイジャー:スカンダ号は吐き捨てるように言いやった。
それに対し、澐仙は先程から続けている真顔を崩さぬまま、頬杖をついた反対の手で貌に掛かっている眼鏡の角度を直した。ガブナー雨宮のようにサングラスで自分の重瞳を隠すようなことはせず、透明なレンズの奥にある丸まった瞳で常に梨沙と裕田のどちらかを見つめている。
「参拝というからには傅き、膝をついて拝礼してください。この部屋の床は手入れが行き届いていますから、貌を埋めて舐めたところで汚くありませんよ」
「それって冗談かなんか?人外チックなグラマラスお姉さんのキャラが未だに掴めてないんだけど、もしかして意外と面白系でやってたりすんのかな」
「随分と失礼なお嬢さんですね。その大きい態度は自負心からくるものでしょうか」
「失礼だァ……?なんで私がアンタに礼を尽くさなきゃいけないんだよ。胸やケツに脂肪まわして脳に詰めるもんどっかに置いてきたのかよ。…この悪魔の下僕が」
頬杖をついた澐仙は真顔のまま、傍らに置いてあった巨大な盃を手に取った。
知的な顔立ちや口調からは掛け離れた豪快な飲みっぷりでそれを一挙に飲み干すと、空になった盃を自身の背後へと放り投げる。
「下僕。しもべ。嗚呼、なんと嘆かわしい人間共の嫉妬でしょうか。どれだけ手を伸ばそうと届かない至高の領域の具現である我ら"星の主"に対し、昏山羊との対話すら叶わない下等生物は羨望や僻みの極みを以て、そのような下僕の蔑称を我々に向けますよね」
澐仙は片方の瞼を閉じ、横臥した体制を胡坐へと移す。
「夢ですら自由に生きることができない人間と、いったいどちらか本物の奴隷なのでしょうか」
不可視のプレッシャーが徐々に周囲を満たす。
「そんな議論のためにここまで呼びつけたわけではないだろう?閑話休題してさっさと用向きへと移るべきだ」
裕田は窘めるように言った。腕を組み、堂々とした姿勢を堅持しているが、その頬には重たい汗が伝っている。
「ええ。そうです。私はあなた方を私の社であるこの丐甜神社への参拝を東郷とかいう中将に要求しました。結果、あなた方は私の結界を越え、遠路遥々参拝したわけですね」
「目的は?
ボイジャー二機を呼びつけるからには、それなりの事由があるのだろう。通信機も軍備品もない状態で面会に来いなどと言われれば、こちらも相応の警戒も突発的な戦闘の危惧をしていることは理解できるな?」
「備えや通信設備があったところで別に戦闘の結果になんの関係もないでしょうが…。単純にそこは私の興味の範疇からでして、盗聴や傍受を除いた砕けた会話をしてみたいという欲求からきた条件指定です」
「我々に興味が?」
「はい。私も元は日本で出生した身。同じくこの国に生まれ、ボイジャーとして我々と戦うあなた方にはそれなりに興味を持っていました。私はこうして日々を面白おかしく暮らしていますが、あの佐呑での出来事には耳を尖らせ、耳を光らせていましたので、TD2Pの勢力が不死腐狼を打破したという知らせには正直いって驚嘆の思いを禁じ得ませんでした」
胡坐をかいた姿勢から、雲仙は肘と膝を合わせる形で再び姿勢を崩して頬杖を付く。どことなくむすっとした表情を浮かべながら、黒々とした長い爪で床を小突いて鍾笑を呼びつけた。それを受けて鍾笑は叢雨の会の信者と思われる者たちに指示を出し、別の盃と大量の酒樽を運び入れてきた。
澐仙は再び酒を飲みだし、ぐびぐびと音を立てながら喉に流し込んでいく。
「不死腐狼は暇になる度私に挑んでくる好好爺でしたから、私の印象は他の有象無象と違ってとても良いものでした。が、佐呑の一件で不死を生業とする彼は命を失った。……この澐仙がなしえない事をしてみせた。その仔細をお聞かせ頂きたいと存じます」
それを聞いて、裕田は顔を顰めた。
「悪いが、俺はその狼に殺されて件の戦いに最後まで関与していない」
「ほう。では、そちらのお嬢さんは?」
「私はそもそもあの件にそこまで絡んでない。行こうとしても、どこぞのアフロ野郎にボコされて撤退したしね」
「だとしても全く知らないという訳ではないでしょう?どういういきさつで彼が敗れたのか、包み隠す事なく告げて欲しいのです」
「何を期待してるのか知らないが…。おそらく、お前も検討がついているだろうが、不死腐狼を打倒したのは件の経緯の中で人造悪魔としての力を手に入れた”巌窟嬢”鯵ヶ沢露樹との闘争によるものだ」
澐仙は頬に指を沿わせ、表情一つ変えずに言葉を紡ぐ。
「あのぽっと出の小娘が、私も斃せなかった不死腐狼を下したと?」
「人造悪魔としての鯵ヶ沢露樹に内在するエネルギーと反転個体である叢雨禍神の実力を比較するのも相応しくないことだとは思うが、敢えてこの場で表現するとすれば……。
不死腐狼は巌窟嬢が相手では一切の勝ち筋も勝算も感じられず、絶望したのだろうよ。不死が自身の夢の骨である冠域に組み込まれた性質である以上、冠域を構成する当人の闘争意識の完全消滅を以て、不死の能力の維持が断たれた。不死の性能さえなければ、あんなのただのデカい人狼だ。俺でさえ10秒あれば3回は殺せる」
そこで初めて、澐仙の真顔に歪さが滲み出し、物想いに耽るような神妙な面持ちへと変化した。
澐仙から放たれる緊張感には、歴戦の猛者である梨沙と裕田からしても異質なものがあるように感じられた。
動物的なプレッシャーではなく、巨大な暗雲を前にしているかのような不吉なオーラが不可視ながらにも両者の背をなぞる様に充満している。
本来、究極反転済みカテゴリー5などという規格外の生命体に対して、対話が叶っているというだけでも十分な異常自体なのだ。
他の反転個体がそうであるように、澐仙もまた存在そのものが人類に対する殲滅装置になり得るだけの性能が内在していると言われている。
「まぁ、いいでしょう。岩窟嬢とやらにも興味があります。私がそれなりに正当性を持って縄張り争いをするとなれば、あなた方にも都合が良いでしょう?」
「目的は?」
「さっきも同じ質問をされましたが」
「さっきのは、ボイジャーを二機呼び出した理由を訊いた。今のは何故、カテゴリー5という大物であり、政治・宗教・民意・天候まで思いの儘にできる澐仙という存在が今になって、他の悪魔の僕に対する対戦姿勢を見せ、TD2Pの大討伐に力を貸そうなどと思い至ったのかを訊いたんだ」
「利害の一致。とでも言えば良いでしょうか。
世論が対悪魔の僕の急進的な姿勢を見せ始める中で、対抗手段であるTD2Pや新生テンプル騎士団の戦力が一点集中している確固たる拠点が必要であるという風潮があるようです。
そして、その拠点に日本が選ばれた。
理由として、この国には基本的にカテゴリー4以上の上位個体は半英雄を除いて出現が穏やかな傾向があるからでしょうね。その根底にあるのは、半英雄と私、澐仙のこの国での活動です。半英雄はともかく、私は自分の国を荒らされるのが普通に嫌ですから、生意気な新人は容赦なく撃滅するようにしています。そのため、暫くの間この国ではゴミのような同族しか活動をしておりませんでした」
「おいおい、口の悪さ出てきてるぞ」
「しかし、そこで起こったのがあの佐呑の曲芸師の事案です。ここにきて多数の星の主で徒党を組み、私の縄張りで存在感を隠さなくなった。
これを私が放任する理由は本来ありません。私は自らの目的の為、縄張り争いによって奴らを排斥する道理があります」
そこで裕田は顔を顰めた。
「なるほど。合点がいった。あの中将は何らかの盟約で澐仙と対等の契約を交わしたのではなく、あくまでも澐仙が勝手に始めようとした縄張り争いすり寄る形で世間から見た悪魔の僕との共闘の姿勢を確立しようという魂胆か」
「ご明察。私としても、勝手に始めた縄張り争いでこちらに大討伐の牙が剥かれるのも気に障るので、私とTD2P・騎士団の間に不可侵の掟を敷くことに加えて、両組織が叢雨の会への情報提供を惜しまないという点で落とし所としました」
「へぇ」
梨沙は腕を組み、義足で床を踏みしめながらずかずかと澐仙へと近づいて行った。
「アンタ1人でクラウンの軍団を下せるというのなら、これほどおめでたい話もないね。カリスマ性や危険性を考慮してカテゴリー5に担がれたクラウンはともかく、あっちには半英雄もいるんだ。楽な見通しをできるだけの実力はあるんだろうね?」
そこで澐仙は立ち上がる。
実際に直立した時のその体躯の大きさは尋常ではなく、5メートルはゆうに超えていると見えた。
「もし、気になるようなら試してみますか?」
「何それ、この場でおっ始めるっての?反転個体様はそうやって自分のホームで戦えるもんね。そりゃ気もデカくなるさ」
「公平がお好みでしたら、そちらの能力も使えるようにして差し上げます」
「は?」
空間が光る。
澐仙の瞳が強い青を発色し、彼女の周囲に明滅するモノクロの球体が出現した。
「極光反転」
澐仙は球体を宙に投げ出すと、その球体は炸裂しながら神社の本堂を飲み込むまでに飛散してゆく。やがては丐甜神社全域を包み込む巨大な膜となって空間に半透明な澱のように沈殿していった。
「………」
「察しが良いですね。まぁ、これだけわかりやすければ馬鹿でも理解が及ぶでしょうがね」
「………」
「富士の樹海に敷いた私の結界。その内部の全域において私以外の何者であっても自己所有する冠域を展開することが可能です。従って、限定的ではありますが、今この場においてお二方は端的に言うところの反転個体に近しい状態にあります」
それを聞いた二人の心中は察するに余りある。
ただ一言、うわごとのように口をついて飛び出てきた言葉が、梨沙の心境の全てを物語っていた。
「なんだ。それ」
―――
―――
―――
「究極反転。ご存じの通り、私や反英雄、真航海者などのカテゴリー5のうちに限られた存在が保有している冠域を現実世界で構築する術です。これまた知悉して頂けているかと思われますが、私の冠域の性質は"森羅万象の支配"。天候操作と一言で述べても、大気の因果律にそのまま干渉して支配を実行する私の冠域の性質は、この世の全てを上回る完全上位存在としての最強を定義しています。
故に、私の冠域内部では神羅万象の解禁が前提となります。だって、私の存在はそれらを自在に制御し、支配し、亡ぼすことができる神の立場ですからね。人間の所有する最強を証明する冠域であっても、所詮は愚にも付かない自然現象の類。私はそれらの全てを否定するだけの力がある。だからこそ、こうしてあなた方に望ましい土俵を作ってあげました」
「……キンコルが人造悪魔まで作って成し遂げようとした究極反転を……こんな馬鹿げたノリで他人に提供するだと…?人を舐めるのも大概にしろよ…ッ‼」
梨沙の声音が怒号を帯び始める。
「ええ。舐めてますよ。これはさっきも言った通り、あなた方に興味があるからこそ、ちょっとした手合わせとして究極反転を提供しました。さぁ、好き勝手に能力使ってくれていいですよ。格闘技でいうところのスパーリングみたいなものです」
澐仙は頬を掻きながら続ける。
「…そもそも、おたくのプリマヴェッラがどうやって大陸軍を打ち破ったのか、疑問に抱いたことはなかったのですか?」
「ハぁ?」
「私が究極反転をさせてあげてたんですよ。そうでもなければ、現実世界での戦闘能力を持たないボイジャーがどうやって反転個体相手に戦えるというのです?」
「戯言だ!」
「若いですね」
今にも何かを噴出さんばかりに憤っている梨沙を尻目に、裕田は澐仙にまっすぐに向き直った。
「我々はボイジャーだ。悪魔の僕を鏖殺するのが仕事でね。…澐仙、アンタがスパーリングをしたいというのなら喜んで挑ませてもらうが、こちらが本気を出すのを卑怯とは言わないな?」
「もちろん。そのための冠域提供ですので」
その刹那。ボイジャー:グラトン号の右腕が拍動した。
「二言は認めない」
本堂を埋め尽くすような巨大な白鯨が出現する。大きく口を拡げたそれは、一秒と要さずに澐仙を優に包み込む大顎の中に収めて猛進していった。
「固有冠域:光呑醜鯨」
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