夢の骨

戸禮

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2章 巌窟の悪魔

35 兵どもが夢の跡

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 十年前、フィリピン・セブ島。
 大航海時代にスペインからの航海者マゼランが到達したことにより伝播したキリスト教は島での約九割を占める大多数の宗教であった。そんな島の中にあって、エイドリアン・マリー・グレイス・サントスという名の青年はその未来ある若い命を投じて世界の救世を図る『即身仏』の儀式に手を掛けていた。
 何も彼が信心深く仏教の教えを追求していたわけでもなく、仏界に造詣が深かったわけでもない。
 恵まれた才能もなく、金を稼ぐ能力も高いとは言えない。腕っぷしが立つかと問われれば、彼は自身のことながらはっきりとノーと答えるし、多少口が立つ垢ぬけた性格もまた、かえって人からは詭弁を弄する信用成らない人間との評価を受ける程度に留まっていた。
 誰も彼も、エイドリアン青年が胸に抱いた人民を憂う気持ちや、過酷な世界の在り方に抵抗せんというその揺るぎない信念に気付くことができなかった。彼が人知れず五体から脂肪が消え尽きるまでの痩せっぽちになり、暗く閉ざされた地下壕を山に掘り抜き、密かに生入定の準備をしていたことも、しっかりと認識していた者はいなかっただろう。

 当時、アジアを中心としたユーラシア大陸の全土で猛威を振るっていた最強の悪魔の僕が存在した。
 通称『大陸軍グランダルメ』。
 脅威度を示すカテゴリーランクは最上位の5を冠し、別名として"総帥"の異名をとっていた大陸軍の首魁は自身が獲得した"征服者の夢"と悪魔との関わりにより掴み取った究極反転の力を以てして、世界各国の軍隊や武力組織に対する挑戦を実行して回ったという。
 総帥は自身が想起した陸戦軍隊を無限に生み出し、自在にその指揮を可能とする力を持っていた。故に、その活動領域は常に彼の戦意が向く方向へと天延され、地図を蔽い盡すような膨大な兵士から成る数の暴力を現実世界で実現させたのだ。後に総帥に対し羨望を向け、海における軍隊を生成する力を得た海賊王の例があり、そういったケースさえあるように、その大陸軍の強さは別次元だった。
 当時、究極反転を可能とする悪魔の僕は三体。いずれも究極反転が可能というだけで無条件にカテゴリー5へと認定されるほどに、その在り方は人類にとっての逃れ得ない脅威であった。大陸軍は革命的なイズムに乗っ取り、体制と世界組織に対する制圧行為を行い、その過程には夥しい数の屍の山を築いて見せた。その犠牲となるのは何も武器を持つ兵士だけでなく、大陸軍に呑み込まれた版図に位置する全ての人民が地表を埋め尽くす大軍隊の下敷きになって命を落とした。時には家屋を押し流す津波のような人波に揉まれて死を迎え、時には大軍隊に何時間にもわたって体を踏み台に歩まれて命を落としていく。大陸軍は道なき道を征路とし、その過程にどんな障害物があろうと、どんなに尊い命の営みがあろうと眼中になかった。全てを制覇し、踏破する。時にその大陸軍の針路は、同じく現実世界で冠域を展開することができる他の個体との縄張り争いを巻き起こした。

 世界を揺るがすほどの巨大な戦いにおいて、人間は無力だった。どんな軍隊も人民を何百万と損なうかもしれないミサイルのボタンは押せず、そも押したとしてもカテゴリー5の悪魔の僕を打ち破るには決定的に火力も規模も不足していた。

 故に、大陸軍とその他反転個体の間の衝突であるその戦いの行方は、人間が制御できる範疇を超え、様々な土地や文化を根絶やしにしながらその苛烈さばかりを増していた。

 そして、やがて戦いの舞台は大陸すらも離れ、エイドリアンが即身仏への儀式を試みていたセブ島へと伝播した。
 
 どんな嵐よりも苛烈な大災害が島を襲った。経験がなかったわけではない地震の揺れだが、よもやそれがただ多くの生き物が行進しているだけで生じているものだとは始めは信じられなかった。
 大陸軍がフィリピンの島々を瞬く間に呑み込んだ。何と戦っていたのかはわからない。ただ、絶え間ない轟音と突風、熱、光、揺れが島の人民を脅かした。見慣れない大陸軍の兵士の姿が見渡す限りの土地建物に出現し、一心不乱に駆けだすことによる人波は波濤の様で全てを奪っていった。
 儀式の為にもう死を迎える過程のみを残し、胡坐をかいて首を落としていたエイドリアンは死の世界より先に、現実離れした現実の光景を目の当たりにした。深く山を掘り抜いた人里離れた儀式の舞台は山と共に崩れ去り、崩落した文明と共に大陸軍の割拠する地獄絵図を彼に見せつけた。
 テレビやネットで目の当たりにするのとは到底異なる、異次元すぎる光景。
 そこで植え付けられた闘争への疑問と復讐心は、僅かに残った彼から意識を遠のかせた。
 
 こんな地獄絵図を見て後に死ぬのか。こんな闘争を即身仏になった己は終わらせることができるのか。
 死の間際に疑問を抱いてしまったエイドリアン。そんな彼の前に顕れたのは紫色の瞳をした一人の女だった。

「やぁ青年。関心しても、し尽くせない、純粋で濁った良い気合だ。そのみすぼらしい見た目から察するに君は人類、いや、世界を救いたいのかい?」
 エイドリアンは知っていた。世間で唯一、華々しい賞賛を浴びる人類生み出した英雄。ボイジャー:プリマヴェッラ号その人だった。
「な…で。…あな…が…ここ…ぃ?」
「うんうん。声も出せないくらいに肉を絞ったその体。ちゃんとポイント押さえて真面目に仏になろうとしてるのが評価高いわぁ。でもね、青年。そのやり方じゃあダメだよ」
「………ぃ。……わがら…い。どう…ずれば……ぼぐ……せがいを……へい…わ…に」
「タイミングの問題だよ。見ての通り、今はこんな世紀末な状況だからさ。……そうだなぁ。あとは勉強かな。もっといろいろと場数を踏んでさ、もっと立派に全うすべきだよ、救世主の役ってやつはさ」
「おじ…えて……ぐ…さい」
「良いよぉ。人間やめる覚悟があるなら十分さ」

 プリマヴェッラは微笑んだ。その張り付いたような救世主の笑みを、彼は十年経った現在でも忘れられなかった。
「大陸軍は僕が斃す。でも、そのあと何度の大討伐に参戦できるかわからない。後継が欲しかったのは僕のほうだよ。君には僕の夢を託す。どんな形でも良い、君がこの世界に平和と安寧を齎してくれ。……約束だぞ?」

 その後、ボイジャー:プリマヴェッラ号は大陸軍が齎した人類の長い冬を終わらせてみせた。
 彼女は救世主と崇められ、エイドリアンは彼女に付き従ってTD2Pに加入し、ボイジャーとしての人体改造の道へと身を委ねた。
 数年後、プリマヴェッラは頭角を現したカテゴリー5の悪魔の僕、大陸軍と同じ反転個体である反英雄に敗れてこの世を去った。だが、彼女の持っていた世界救済の意思は、形こそ歪な様相を呈したものの、自身が後継と見定めた一番弟子のエイドリアン、もといボイジャー:キンコル号へと受け継がれた。

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 目を覚ます。
 佐呑島の中心に位置するTD2P佐呑支部の屋上。夜風と降雨に晒された屋外にて、防火扉を背にして眠りについていたキンコル号は重たい瞼を徐々に持ち上げる。
 気怠い肉体の重さに反して、つい先ほどまで夢想世界に居た心は堪えられない衝動に駆られて自我を呼び覚ます。

 彼は己の大きな掌をいっぱいに開き、体の芯から戦慄くような心境により意思に反して奮い立つ己の手指を凝視する。次にとった行動は祈るように両手の指をかみ合わせて頭の上に掲げる行為だった。

「あ…ァ」

 気が付けば、その身は死に装束に包まれていた。宵闇でも目を引く鮮やかな朱色の儀式作務衣に守られた肉体は、現実世界で鍛錬を積んで獲得した隆起した造形美に富む筋肉に彩られていた。歩けば人を威圧せずにはいられないような屈強な体格もそのままだし、程よい肉付きの貌も確かめるまでもなく生き生きとしていた。

「プリマヴェッラ。……僕。…俺、私は。ようやく約束を果たせるよ。長く待たせてしまったね。もう直、夜明けが来る。いよいよ世界は新たなる時代を戴いた朝を迎えるんだ」
 堪らなく恍惚に歪んだ表情を噛みしめ、キンコルはかみ合わせた手指を解き、そのまま合掌のポーズに移る。

「固有冠域。両界接続。そして展開」
 キンコルの瞳に水色の光が奔る。鉄筋コンクリートに支えられた、無機質なビルの屋上いっぱいに蓮の花が咲き誇る。
「大曼荼羅‼顕現ッッ‼‼」

 現実世界の佐呑に蓮の花が咲き誇る。水色の柔らかな光が闇に染まった佐呑の町を包み込み、あちこちに転がる無惨な亡骸の影を照らし出す。月光さえ隠した雨雲が積み重なった夜空に曼荼羅模様が描かれていく。曼荼羅における主像が位置する位置に歪な空間の裂け目が生じる。
 空が異様な色合いに染まりだす。人が夢想世界に立ち入る時に過ぎる空間のような、歪みと不定形が輪郭を為すような世界。現実世界に冠域から生み出された奇妙な空間が侵食し、仏を象ったような歪な模様が等間隔に夜空を埋め尽くしていく。

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「待たせたね。随分‼」

 夢想世界に大曼荼羅が顕現する。
 現実世界と夢想世界を一挙に手中に収め神に等しい力を得たキンコルは、巨竜と化した鯵ヶ沢露樹と悪魔の僕の反英雄の死闘に声を届けた。

「でも。うん。そうか……TD2P側は全滅か。残るは反英雄と魔女だけ。まぁ、世界が滅ぼされてないだけマシだね。唐土君も随分と頑張ってくれたみたいだ」

[うっわ。出た、ゴミ屑いじめサイテー男。良いねぇ、自分ばっかり五体満足でいつでも無敵面できて]
「ははっ。これも、命を懸けて戦ってくれたであろう戦友のおかげだ。夢想世界で人造悪魔に殺された場合、どれほど現実の精神に影響を与えるかわからないが、せっかく世界が生まれ変わるんだ。平穏そのものになった世界で一緒に酒でも飲みたいなぁ」
[どーだか。ちゃんと殺したのロリっ娘と爺さんだけだし。あとはこのナイス甲冑が勝手に殺しまわってさ」
「…へぇ。反英雄にも俺の師匠の件で積もる恨み節もあるけどさ。かの反英雄だって、もう自慢の馬鹿力を振るっても誰一人傷つけることはできない。恐怖と暴力が支配してきた人類の愚かな歴史はもう終わったのさ」

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 現実世界のキンコルはこれ以上にないくらいの満面の笑みを浮かべ、座ったまま再度合掌を行った。

究極冠域きゅうきょくかんいき、反転。直下世界と接続。冠域固定:相対する地獄インフェルノ

 彼には手に取るように夢想世界の現状が知覚できた。その身を現実に残したまま、白昼夢を見ているような全能感が彼を満たす。出力を最大まで上げた冠域が現実世界に連動して夢想世界を侵食し、曼荼羅の中心部に描かれた主像の位置にある歪な空間の裂け目から、巨竜を呑み込むほどの大きな光の束が露樹に降り注いだ。
 壮絶な重力に押しつぶされるようにして巨竜が夢想世界を下降する。山積した海賊船の残骸を突き抜け、夢想世界に広がる超巨大な海を途轍もない速度で水没していく。夢想世界の果てに存在する不可視の境界線に接してなお、それを突破してなお余りある勢いで世界の果てまで埋没されていった。

[あぁ。……もう良いよ。楽園大好きッ子ちゃんたちにはわからないよ。
 満たされず、かつ真に欲するものもない。魔法使いになれて少しは報われたかも。
 いいや、駄目だね。私は結局、満たされなかった。また昏い昏い狭く苦しい世界に押し込められる。
 自分ばっかり。ずるいよね。私から奪って、閉じ込めて、蔑ろにする。
 私は悪魔になんかならなくて良かったのに。
 ただ、ほんのちょっとだけの自由の中で、夢を見ていたかっただけなのに。
 でも、忘れないで欲しいな]

 竜の全身が瓦解する。鱗が剥がれ落ち、肉が夢の世界に溶けて消えていく。
 露樹に人間の体が戻る。小さく、強い。自然悪の娘が、なおも深くへと埋葬されていく。
 キンコルは自分を封印しようとしている。そんなことは説明されなくても理解できた。
 夢の世界をひたすらに突き進むにつれて、空間の深度は乱れていく。もはや人間が自由に思いを馳せることも叶わないような圧倒的な不和が絶えず空間を満たしている。もし、このままこれ以降の深度の地点でキンコルが露樹を捕らえれば、いついかなる手段を用いても元の活動領域に舞い戻ることはできないだろう。

[奪い続けることはできない。私も今まで奪われた分を他者から奪った。そしてまた私は奪われた。アンタもそうだよ。奪ったんだから、その分はいつか奪われる。私もいつか、奪いに戻るよ]
 
 空間深度15万と8900。現代の科学では再現不能な、夢想世界の果ての果てでしか成立しないような場所。
 夢想世界からすらも隔絶され、孤立を極めた秘境において、自然悪の魔女の封印は完結した。

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 夜空を彩る無数の星。それは、キンコルの冠域により生み出された仏界に煌めく星の輝きだった。

「長かった。本当に永かった……もう。誰も傷つかない。誰も奪われないッ‼」

 キンコルの頬に涙が伝い、胡坐をかいた太ももに一粒ずつ振り落ちていく。
 プリマヴェッラの意思を紡ぎ、同じように世界の安寧を願った。TD2Pでの処世術を彼女から学び、原初V計画の片鱗を垣間見た。プリマヴェッラという英雄を失った世間から恐怖を取り除こうと、多くの別解犯罪者や悪魔の僕を安寧の夢により無力化し、投獄を成功させてきた。
 全てはこの世界の全人類が平穏を享受するため。
 何に変えても手に入れたい心の底からの本懐を成し遂げるためだった。

「君のことだ。あの世からでも見守ってくれていただろう。ここに私たちの本懐は成就した。どうか、祝ってくれ。俺が心から尊敬する貴方なら、僕と同じ気持ちでいてくれるだろう‼」

 キンコルは脚に力を籠める。じっとしてはいられない。目覚めてからの片手間で巨悪の竜を封じてみせたのだ。もはや怖いものなど何一つない。やることは山ほどある。生まれ変わった世界において、自分は救世主としてこれからの世界を導かなくてはいけないのだから。

「パンッ」
 雨の止んだ屋上。その声は不思議と響いた。声の主のパンという掛け声と共に、同じ音の破裂音がキンコルの足元で鳴り、身を縦に揺らす衝撃と痛みが奔った。

「………あ?」

 キンコルの口から意図せず血が垂れ流れる。堪らずに咳き込めば、鼻からも血が勢い良く飛び出した。
 視線を落とせば、右足から右腹部に掛けての大部分が何らかの爆薬のようなもので炸裂されていた。骨や内臓が部分的に飛び出し、見るに堪えない痛々しい傷口が拡がっている。

「いやー。長かったね。ホント、もうちょっとテンポ感意識して仕事した方がいいよ」
 浮ついた声に、思わず耳と眼が連動して声の主を追った。
 雨に濡れた弱々しく顔に張り付いたオレンジ色のアフロヘア。キンコルより一回り歳の若い青年が、彼を侮辱するように拍手しながら一歩一歩わざとゆっくり見せつけるように歩み寄ってきた。

「クラ…ウンっ…⁉」

「何、馬鹿みたいに驚いてんのさ。あっしがこの島にいんのは知ってたでしょうが。仲間外れにしくさってまぁ、嫉妬しちゃうなぁ、ボイジャー:キンコル号ぅ」

「何故…だ」

「時にキンコル号。かつて繁栄を極めたアメリカのジョージアやカリフォルニアで起きたゴールドラッシュ。まぁこの佐呑もそういった歴史から逸れちゃいないが、そんな土地において新たに見つかった金脈に多くの採掘者が一攫千金を求めて殺到する現象のことだね。人の欲や人生に掛けた想いが渦巻くこの一大イベント。だが、もっとも得をするのは当の夢見る採掘者たちじゃない。……それじゃあ一体誰が一番得をしたと思う?」
 歩み寄るアフロヘアの青年。世に名を馳せる大悪党クラウンその人だった。
「一番得をしたのは、金鉱に殺到する採掘者たちに採掘道具や食糧を売る、即席の商人稼業をしていた者たちなんだよ。皆が己の欲望に目掛けて一心不乱に汗水たらす中、そんな採掘者たちに擦り寄って必需品を大胆に売り捌く。まぁ、当然といえば当然だけど、これって結構核心を突いた配役の巡りだと思うんだよね」
 
 キンコルは何度も咳き込み、そのたびに血の塊を吐き捨てる。

「あっしはさぁ。人にはみぃんな。与えられた役があるって思うのよ。望まれた配役っていうかさぁ、そういう必要なピースだけで成り立っているのがこの世界だと思うわけ。で、君のそのなんか極端に振り切れた平和思想とか、何でもかんでも無力化しちゃえばよくね、みたいな能力も正直鬱陶しいと思ってた」

 クラウンはキンコルの傍らに立ち、屈みこむ。肩には人間を携えており、気を失っていると思われるその人間の姿にキンコルは覚えがあった。

「お前…その女を……どうするつもりだ」
「障らぬ神に祟りなしとは言うけど。まぁ、結局気になったから貰っていこうと思ってね。この娘、なかなか面白いじゃない。やっぱりこういう面白い人材も世界には必要とされると思うんだよねぇ」
「ふざける…なよ‼」

「ちなみに、君の腹を吹っ飛ばしたのは君がぐっすり眠りこけてた隙にしかけたブービートラップだよ。立ち上がるだけで内臓すっぱ抜かれる良品だけど、まさか目覚めたてに露樹ちゃん封印するとは思わなかった。良かったじゃん。死ぬ前に自分にできる精一杯ってやつをやれてさ。何もできずに死んでいく配役なんてこの世にごまんといる。

 ケタケタと笑うクラウン。肩には鯵ヶ沢露樹の本体を担ぎ、大胆に歩み寄ったキンコルの傷口に唾を吐きかけた。

「闘争の廃絶。大変結構な理想論だ。……でも、君は夜明けを迎えられない。喜ばしい。これから一体どんな時代がくるか教えてあげようか?」

 クラウンはキンコルに背を向け、再び歩みだす。

「ラブもピースもヴァイオレンスも等しく尊い、完全なる調和を実現させた世界。この世の全ての命は、望まれたからこそ存在する。無意味な暴力も、無意味な死も存在しない。君の死を以て、やっとあっしは天敵を気にせずに自分の夢を追うことができる。
 あっしは死にゆく君に約束しましょう。君が辿り着けなかった理想郷をこの曲芸師が成し遂げる。
 平和も平穏も関係ない。与えられた役目を全うする尊い人間の社会を生み出す。
 あえて宣言するとすれば、それは誰かに
 誰もが望んだ王国。
 さぁ。夢と希望に溢れた、新たな世界を華々しいパレードで満たそうじゃないか‼」

 キンコルの意識が薄れ、冠域が崩壊する。
 闘争による傷ではなく、自ら立ち上がるという動作に付け込んだ純粋なトラップ。そんなものに命を奪われる結果になるとは、彼自身思いもよらないことだった。

「ハハッ‼」

 虚空を揺らすように、クラウンの嬌声が鳴り響いた。

「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ‼‼‼‼‼‼」
 
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第二章 巌窟の悪魔 完


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