夢の骨

戸禮

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2章 巌窟の悪魔

25 まつろわぬ蜂

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 確かに殺したはずだった。

 人智を越えた身体の再生や修復が可能な夢想世界であっても、ボイジャーのようなわかりやすくエネルギーの核が存在する生命は、それを奪ってしまえば少なくとも夢想世界での活動続行は不可能であるはずなのだ。
 ボイジャーにおけるそのエネルギーの根源は”眼球”
だ。重瞳を刻んだボイジャーの眼球は現実と夢の世界をつなぐ楔の役割を担っている。ボイジャーが風除けとなり得るだけの対精神干渉性能や対高深度加圧を抑制するだけのエネルギーは、現実世界における高速の眼球運動に従って供給される。
 そのため、ボイジャーにとっては夢想世界においては眼球こそが第二の心臓どころか、自己の存在証明を担う魂そのものなのだ。これは悪魔の僕にも共通する部分はあり、夢想世界でのそれなりの力を持った存在おいては、眼球こそが共通のウィークポイントであるというのが言わずと知れた常識でもあった。

 不死腐狼/アブー・アル・アッバースがその獣の爪の先にて奪い摂った二つの眼球。目を失くして夢想世界に長く居座るのは困難であるため、アンブロシアは時間経過によって自然と退去を強いられるものと彼は高をくくっていた。

 だが、今まさに自分の前に立ちはだかろうとする少年を目にし、不死腐狼は重々しく喉を鳴らすばかりだった。


 アンブロシアと思われる少年は、先程までとは大きくその容貌を変化させていた。
 人と言うよりは布や泥といった何か捉えどころのない揺ぎを孕んだ黒い物体。ところどころに彼の四肢のような部分や胴体に相当するであろうという部位がチラついているが、全体として宙に漂うベールのようなモノを纏っているように映る。
 貌は本当に薄らと投影されたように黒い物体の正面に付いている。

「……奇妙な気配だ。眼を亡くしてなお挑むか、小僧」

「ぁあぁ……」
 黒布の生き物が呻く。もぞもぞと体勢がしきりに変化する。そもそも、人間的な関節が内側にあるのかすら疑問な動きをしてるようにも見える。

「ぁぁぁぁああああッ‼︎‼︎
 ‼︎‼︎‼︎」
 アンブロシアの貌が歪む。本来なら眼球があるはずのところに瞳は存在せず、吸い込まれるような真っ黒な穴が浮かんでいるようだった。

「これだけ死ぬような思いをしても記憶が戻らない‼︎全然戻らない‼︎何も思い出せない‼︎
 なんで僕はこんなことをしなきゃいけないんだ‼︎
 なんで俺がこんな奴の相手をしなきゃいけないんだ‼︎‼︎‼︎」

 裂帛が虚空を揺らす。
 感情を色に変えるように、纏っている黒い布のようなものがさらなる深みがかった黒へと転じていく。

「差し当たってその力、冠域ではなかろう。だからこそ得心が行かぬ。貴様、一体なにも…っ‼︎?」

 人狼の巨体が飛ぶ。反応こそ間に合ったが、全くのノーモーションから人狼に対してゼロ距離まで突っ込んできたアンブロシアの有する速度と纏った重みは尋常でなく、お互いが四つ手を組んだ状態で両者は宙を滑った。

「ワシらの体格差、三倍では済むまい。その痩躯のどこからこんな馬鹿力がでてくるものかのぅ」
  
「馬鹿はテメェだ」
 四つ手を組んだ両の手に力が流れる。瞬く間に人狼の手指はしなるように力負けし、畳み込まれるように掌を捻転させた。

「夢の中で強いだの弱いだの。大物だの小物だの、つまらないにも程がある」
 アンブロシアの黒衣から複数の半透明な人間の腕のようなものが生じ、それらは一斉に人狼の首や顔を締め付けに掛かる。
「夢の中にルールがあるなんてお笑いだ。が夢なんじゃないのか?かんいき、かんいき、かんいき、使ってても馬鹿馬鹿しく思えてくるルールばっかりだ」
「なんじゃ、この手は…小僧、よもや」
 人狼の姿が飛ぶ。黒衣を巨大な流動物へと変化させたアンブロシアの攻撃を受け、その巨体の重心を保てずに押し飛ばされたのだ。
 尚も靄のようで泥のような黒衣の拍動は続く。本体であるアンブロシアの姿はその黒に飲み込まれてほとんど見えていない。
 倒れた人狼は頭を押さえながら立ち上がる。
「…悪霊に取り憑かれてるというわけか。生存競争に敗れてなお世界に執着するその傲岸不遜な、不死たるワシにしてみれば目に余る穢れ以外のなにものでもありゃせんわい」
「何をベラベラと」
 アンブロシアが人狼へ向けて突っ込む。特筆すべきはその推進力だ。小柄な体格でありながら、まるで黒衣の揺らめきをエンジンにするかのうような急発進と急加速を実現し、暴走車両のような無慈悲な回避の難しい突撃を繰り出してくる。

「……眼を失い、隠れていたものがで出来たかっ…それともこれほどの悪霊を背負い平然と生きてきたのか」
「あんたらはいつもそうだ。夢の世界の設定に御執心でどこまでも自己本位。夢だなんだとご高説垂れながら、他者の侵害に躍起になってる」
 
 アンブロシアの黒衣が剥がれていく。霧が晴れるように徐々にその異形な姿が露わになった。

 それは”蜂”のような何かだった。
 ミツバチともスズメバチとも違う。子供が粘土を捏ねて作ったように歪で、ペンキを被ったような露骨な黄色と黒の縞模倣が浮かんでいる。それは少年の体に覆いかぶさるように人体と部分的な融合と合体を果たしており、見方によればそれは見えるものだった。
 人間としての五体に絡まるように蜂の骨格が纏わり付き、貌の殆どは蜂らしき虫の頭部に取り込まれている。
 両腕両脚には蜂の脚のような細くて硬質な生成物が沿うように伸びており、肘や関節の辺りでは少年の手指と融合している箇所も存在した。蜂の脚の先には鉤爪のような鋭利な器官が備わっている。
 少年の胴体には蜂の腹と胸を混ぜ合わせたようなものがリュックサックように背負われている。それでいて身の丈はこれまでと変わらずにそう高くない体躯であり、まだどこか貧弱さを感じさせるような痩躯を顕にしていた。

「『夢想解像』…夢想世界において、冠域を用いずに自身の姿を著しく変化させる技じゃな。ワシのこの獣の身を然り、誰にでもできることではない」
 そこで人狼は人蜂に飛びかかる。蜂を纏ったアンブロシアは動かなかった。
「眼を失ってまで出来ることではないがのッ」
 人狼は爪撃を繰り出す。ボイジャーの身を容易く切り裂く鋭利な一裂きだが、意図に反してその爪は蜂の身体を傷つけるまでには至らなかった。
 腕が軌道ごと逸らされる程、その蜂の身体は硬かった。生半な岩くらいならば構わずに玉砕できる人狼の怪力がまるで通用しない。

「ンン……悪くないのぉ」

 そこからは激しい肉弾戦だった。
 人蜂には先程までの黒衣が変化して出来た四つの翅があり、それを用いることで彼は飛翔までとは行かなくても、ある程度の対空と加速の力を手に入れた。それにより急加速と勢いに任せた突進や鉤爪を用いた近接攻撃を多用し、苛烈な攻め手を実現する。
 対する人狼は依然としてその再生力は健在であり、どれだけ身体を欠損させようと数秒と待たずに元の姿へと修復してしまう。己の肉体を使い捨てることに躊躇のない人狼の攻撃は無茶を厭わない。基本的にはノーガードで立ち回り、破壊されるたびに即再生を果たすため、受けに回すことが出来ないのだ。
 アンブロシアもまた獲得した硬度を武器に回避を取らない動きにシフトしている。全身を使った無茶苦茶な肉弾戦だが、こちらも我が身を顧みずに攻撃に専念しているため、戦闘としては強力だった。

 フェイントも駆け引きもありはしないなド付き合い。殴る、蹴るはもちろんのこと。引っ張る、締める、押し付ける、噛み付くなど、まるで子供の喧嘩のような揉み合いだった。
 そこに技が介入しない純粋な闘争。お互いがノーダメージの前提こそあるものの、その闘いの在り方はどこか自然界の野生味を思わせるものがあった。

「良いぞ‼︎悪くないッ‼︎悪霊の力かなんだが知らぬが、これほど愉しいのはいつぶりかのうッ‼︎」
 拳が交わる。強烈な衝撃波が辺りを席巻する。
「どれほど触っても壊れぬ敵と巡り逢いたかったのじゃ‼︎」
 今度は蹴り、次に頭突きが同調して競り合う。
「小僧、貴様は言ったな?ワシらが夢の世界の設定に御執心な自己本位な存在だと。
 そんなことは当たり前じゃ‼︎自己本位の何がいけないと言うのか‼︎⁇
 多くのものが夢を果たせずにただ過酷なだけの生涯を終えていく。満足な人生などこの世には存在しない。死を迎合する考えそのものが逃げられぬ死に囚われた哀れな人間の終着点だ。どんな理由があっても死を受け入れるなどと言うことは敗北でしかない‼︎」
 人狼の爪牙が加速する。
「ワシこそが人の完成形。何者にもなし得ぬ不死の概念そのもの。悪魔の力を以ってして辿り着いたこの境地、今もなお全力で愉しませもらっておるぞ‼︎」
 大きな掌がアンブロシアの蜂の頭部を鷲掴みにして投げ飛ばす。
「生きることは即ち闘争よ。
 終わりなき闘争に身を置いてこそこの魂は輝くと言うもの。さぁ、この心が満ちるまでの恒久の時を存分に殺し合おうぞ」
 飛びかかる人狼の五体が四散する。 
 瞬間速度がマッハ5に迫らんという人蜂の突撃を正面から受けたのだ。それでいて、3秒もすれば何事もなかったかのうよに元通りの姿で人狼は立っている。

「それってどうなんだろう」
 アンブロシアが口を開く。
 体に覆いかぶさる蜂の上顎ではなく、申し訳程度に残っている人間部分の口を動かしていた。

「アンタがどれだけ生きたがりなのかはよく分かったけど、その不死のアイデンティティはもうそんなに大したものじゃないんじゃないの?」
「何が言いたいのじゃ」
「だってほら。アンタはこの小僧っ子一人の身体を傷つけることもできない。殺されることがないんだから、今は俺だって不死みたいなもんでしょ」
「フン、肉体の限界値だけの話ではない。ワシは何をせずとも永遠の時を生きることができるのじゃ。元来不死の在り方はとはそういうもの。この世界の如何なる生命が滅びようとも、ワシだけは変わらずに在り続けることができる。多少頑丈になったからと言って調子に乗るなよ、小僧」
「あっそ」
 ノーモーションからの飛び蹴り。人狼の獣面は堪らずにひしゃげる。

「生きることは闘争なんだろ?闘争の無い世界で、競争相手がいなくなった世界でどうやって生を実感するんだよ?」

「いいや違うぞ小僧。孤独こそが生の完成と言っても過言ではない。究極の生命とは森羅万象の頂きこそが宿命じゃ。ともすれば、真の闘争とは闘争の果の頂きに至ることと言い換えても良いじゃろうよ」

「マジで何言ってるかわかんないけど、まぁ他人の語る夢なんぞは本人以外には理解できないもんだよな」

「夢を持たぬということほど哀れなものはないぞ?夢を追うことに粉骨砕身動けぬものに、神も悪魔も微笑みはせぬ」

「わかんないなぁ。だからどうして皆んなしてで夢の話をするんだろうね。まぁ、夢の世界でそれなりに力みたいのを付けちゃって、気が大きくなるのもわかるけど。現実のアンタはどうなんだよ?死なないのか?それともなんだっけ、究極反転みたいなことして、現実でも夢を実現させるのが皆んなのゴールなわけ?」

「貴様もより長い刻をこの世界で過ごせばわかる。ワシら悪魔との契約者にとっては夢想世界こそが現実なのじゃよ。ワシらの目的は何よりこの世界での極致へと己を導くこと。究極反転はその過程の一イベントに過ぎぬ」 

「じゃあ、あれか。どの道その極致ってのが実感できないうちは闘争を続けるわけだ。そのせいで、TD2Pみたいな所がが働くことを強いられるわけだ。その自己本位のせいでこれからも馬鹿みたいに人が死ぬわけだ」

「今回ばかりはワシも手ずから乗り込ませてもらったが、多くの場合においてワシらの闘争はそちらから仕掛けてくるが故のものじゃろう。所詮は考え方の違い。別にワシらを止めようとするのは勝手じゃが、その代償に命を失うことを嘆いて貰っては話にもならん」

「……ダメだ、やっぱりつまらない」
 蜂は自身の頭をコンコンと叩く。

「思い出せば何か変わるのかな。記憶さえ戻ればこの世界に魅力を感じられるのか……今のところ、何をどう聞いてもどうしようもない茶番だ」

「フフ、良いではないか。ワシらのような力を持ったものがいて、貴様らのような力の弱い者たちが身を守るためにワシらに立ち向かう。実にシンプルな構図だ。弱者に役割が与えられていてなお、そこに不満をつけては様式美に欠けるというものじゃろうよ」

 会話の間も両者は壮絶な戦いを繰り広げていた。
 二人の放つ気迫は増すばかりであり、動きのキレも磨きが掛かっていく。地形を変えるレベルの衝突が相次ぎ、その度に皮膚を揺らすような衝撃が両者を巻き込んで生じていた。

 どちらに優勢も劣勢もない完全なる拮抗状態。
 双方の攻撃に意味が失われていく。一方は無限の再生力に裏打ちされた不死。一方は手に入れた堅牢な肉体による不撓不屈の力。このまま戦いをずるずると続けたところで、決着がつくとは思えない状態に陥っている。

 アンブロシアは実のところ、その力を制御できてはいなかった。そもそも、なぜ自分がここまで急激に力を増しているのかも判然としていない。
 人狼に確かに殺害されたという感触はある。鋭い爪が自分の臓腑を破る感触は忘れ難い。それからは降って湧くような様々な感情が奔流のように頭を駆け巡って、気が付けば飛び方も教わらないうちに飛べるようになっていた。
 遺伝子に刻まれたような既視感。
 それとも無意識の領域における自己解釈の熟れ果てか。

 とにかく、説明しようがないほどまでにを発見してしまったのだ。今まで何の意識も向けていなかった対象が、一度認識してしまった途端に目が離せなくなってしまったり。今までは聞き流していた曲を、歌詞を知った後ではもはや雑音の最中でさえそれを聞き分けてしまえるようになることに通じる感覚だった。

 心のどこかにしまっていた悪霊を呼び起こしてしまったのか。
 それとも単なる偶像を後付けの理由として引っ張り出してきたのか。

 何にせよ、彼が天才的な素養を持つことに変わりはないだろう。
 
 まつろわぬ蜂は壺の中で覇を競い合う巫蠱の一員となったのだ。戦う理由などなくとも、彼は手を止めることが出来ない。何かに迫られるように目の前の人狼を滅することを望んでいる。もはやそこには本人の意思と乖離した矛盾が働いている。

 振り撒かれた餌を追う緋鯉。
 先んじて人狼が放った言葉の意味が、今の彼には少しだけ理解できた気がした。

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