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2章 巌窟の悪魔
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自己に関する記憶を失い、己の在り方さえわからぬままに目覚めてからまだ一カ月と経過していない唐土己という一人の少年。
彼に待ち構えていたのは年端もいかない過敏な時期の少年にはあまりある過酷な現実だった。周囲が自分を肯定するのは兵器としての存在があればこそ。望まれるままに戦いの中に身を投じ、記憶の断片すら取り戻せないままに信号鬼という強大な力を有する悪魔の僕を打倒してみせた。
自らの障壁として認識し、己の道を阻むことを許せないという感情から生まれた彼の固有冠域。悪霊の巣のような信号鬼を圧倒した技であり、彼が楽園を求める感情と信号鬼の呪縛を無効化するという目的に応じて成立を許された新たなアイデンティティだった。
多くの研究者を唸らせるのはその深度だった。
基本的に夢の世界でのわかりやすい強さの概念にはこの深度が大きく影響する。深度とはつまり、自己の臨まんとする空間を維持するだけの創造力のエネルギーの指標であり、深度が高ければ高いほど周辺空間に及ぼす影響力が大きいと言える。一般的な人間の生み出す夢の深度は100を前後する値とされ、夢での自由な活動に拘る人間では300に達し、別解犯罪者のような人間としての欲望をより強く滲ませる者においては500に及ぶとされている。深度には上下関係の作用があり、より強い深度を生み出す夢に対抗するにはさらに深度が上回る深度を必要とするのが特性だった。強い深度に充てられた人間は空間を通じて強い倦怠感や不快感に苛まれ、空間内で身体を損傷させれば現実世界においても精神汚染やスピリチュアルな領域の思い込み効果によって身体にダメージを来す場合もある。
だからこそ、主に悪魔の僕やボイジャーのような特別な存在が実現させる固有冠域という支配圏域においては最低深度が1000を下ることが珍しいほどの高次元の空間の構築が恐れられているのだ。夢を見ること自体に力を与えられた悪魔の僕はその全てが当然のように固有冠域を保有し、そんな悪魔の僕の対抗策として生み出された人工の改造兵器であるボイジャーもまた往々にして固有冠域を基調としたスタイルを採用する。
然るに、ボイジャーの夢は悪魔の僕を打ち破るためにあるのだから、アンブロシアの持つ太陽と闇もまた本来の用途から外れているとは言えないのかもしれない。だが、彼を除くボイジャーの全てが己の本懐を顕現させるために固有冠域を用いるという現状から見れば、彼の在り方は異端と見ることもできるのかもしれない。
------------------------
決して多いとは言えないアンブロシアの実戦経験からしても、彼には戦いの中で掴んだある感覚がある。
それは夢想世界における敵対者の不可視の圧力ともいえる気迫だった。深度という数値に裏付けられている確かな実力は、実際に拳や武器を用いて事を構えるまでもなく、実に明瞭な具合で体に染み渡ってくる。その意味で言うのなら、視覚や聴覚的な情報は戦う前においてはむしろ邪魔になるのではないかとさえ思える。
なぜなら、今、彼の眼前に立っている存在は一見しただけでは決して強そうではない。
その存在は先程の殺意に濡れた剥き出しの凶暴性とは裏腹に、枯れ木のような老いた相貌で今にも朽ちんという佇まいでそこに在るだけなのだ。
仮想夢想空間のシミュレーション空間における邂逅でなければ、意図せず意識から外して見落としてしまったとしても不思議はないような弱弱しい見た目。だが、それはこれまでに出会ったどんな存在よりも不可視で重々しいプレッシャーを吹き荒らしている。視覚的に入手した情報と五感の外で感じる危機感の釣り合いが取れず、しばらくの間、彼はその老人を遠目で見つめることしかできなかった。
そうでなくても、奇襲をしかけてきた少年から受けた傷は浅くない。少しでも傷口に意識を割いて修復を行わなければならないが、それを躊躇わせるほどの圧力がその老人からは感じられた。その老人は小さな見た目でありながら、なにか途轍もない巨大なビルが今にも崩れそうなギリギリのバランスを保っているかのような緊迫感を漂わせている。
「実に難儀なことだ。貴様のような意思も空疎な虚の器。路傍の石ほどの価値を見出すだけでも愚かしいというのに、人間どもは斯様な餓鬼の乳歯でさえ悪魔を上回る牙であれと命じるのじゃからな」
「何が言いたいのかわかんないけど……何の用だろう。僕はちょっともう不審者の対処とか真っ平御免なんですけど」
「ほう。ワシに意見するか。ボイジャーと口を利くのも久しい折、随分と見込みがありそうなガキだのう」
「どいつもこいつも手前勝手に……ご都合主義で回る世の中ならもっと僕に優しくても良いだろうに。どうしてこう面倒なことばかりが」
アンブロシアは加速する。全力で不審な老人に駆け寄り、両者の姿が交錯するギリギリの間合いで英淑の片手剣を宙に出現させ、手早くそれを取り回して一閃の剣線を描く。対して老人はノーガード。勢いに任せた鋭利な斬撃が老人の首を跳ね飛ばし、頭が少し後ろの辺りに転がる。
少し距離を離して停止したアンブロシア。その手に残るのは人間を殺した感触ではなく、剣で空を捉えたような妙な手ごたえの無さばかりだった。
すると、老人の首と別れた胴体がみるみるうちに腐り果てていく様子が目に飛び込んできた。ガスを生じさせる泡のようなものが体を溶かす液体と共に湧き上がり、周囲には鼻を捥ぎたくなるような強烈な腐臭が蔓延してくる。
「……くっ……さ…ッ‼」
「最近ではワシに挑む者も少なくなった。何が悪魔の僕に対抗する組織か。TD2Pの連中も五年程前までは血気盛んに軍を送りこんできたものよ。それがどうだ、今は何をするにもこちらから出向かねば満足に覇を競い合うこともまかり通らぬのじゃよ」
声が出ているのは斬首した方の頭からだった。見れば、その双眸には青く光を発する重瞳が存在した。
「悪魔の僕か…‼」
「ワシに意見するのはともかくとして、ワシを知らんとはどういう了見じゃ?ワシを何より怖れるのは無知蒙昧な民草共ではなく、貴様らTD2Pだろうに」
頭部を起点に身体が修復する。次第に瞳から溢れる青い光の量が増し、周辺の空間に変化が生じる。
「固有冠域:不死の帷」
例によって背景世界に著しい変化が来される。周囲の空間は先程までの火の手によって燃やしあげられた雑木林とは異なり、頭上の遥か彼方の上空に無数の時計のような物体が出現し、それらが水面に揺られるようにぐにゃぐにゃと歪みながら浮遊しだした。
著名な画家の絵画にあったような不思議な空間。空に巨大な時計がたくさん出現してきただけだというのに、その身に降りかかるプレッシャーは信号鬼の比ではない。
「所詮、貴様ら餓鬼もワシもあの道化の手中にて踊らされる哀れな役者に過ぎぬのかもしれんな。
この状況、アレに似とるのぅ。
ばら撒かれた餌を我先にと奪い合う無垢で哀れな緋鯉の在り様にな」
老人の姿が変化する。その形態の変化の仕方はアンブロシアにとって初見だった。スカンダ号や信号鬼のような瞳から溢れる光や靄に包まれた際の心身のバフどころの話ではない。眼前の老人は生命としての設計図すら書き換えてしまっている。
枯れた朽木のような弱弱しい体に屈強で凶暴な骨格が生まれる。肉が膨張し、肉食獣の体毛が茂りだす。顔も手足も引きちぎれるようにして一度は分解され、数秒と待たずに全身の骨格に肉が宿るようにして身体の再構築が行われる。
その姿を既存の動物に比喩するならば間違いなく狼だった。だが、それは自然界には決して存在しえないような空想性を帯びた怪物の風体なのだ。全身には野性味溢れる筋肉が毛皮の奥からでもわかるように隆起しており、狼の様相を持ちながらもその四メートルを超えるような体躯を二本の脚で支えている。西洋の怪物伝説にあるような人狼や狼人間という表現が似合い、獣に変貌した貌にもまた青い光を放つ重瞳の双眸が収まっている。
人狼は舌なめずりをして牙の奥から涎をだらだらと垂れ流す。その様は飢えた獣というよりは知能により残虐性を有した人間ならでは醜さのようなものが顕れているようにさえアンブロシアには思われた。
「……くっ…さ‼」
次いで遅れてやってきたのは鼻を捥ぎたくなるほどに強烈な腐臭だった。生き物の血だまりを加熱してかき混ぜたような、生臭く、青臭く、しつこい悪臭が漂ってくる。
「この世の主を決めんとする戦いに貴様のような半端な餓鬼が相応しくないのじゃよ。
あの道化を捕らえて良い夢くらいは見れたであろう?
夢見心地にその無意義な人生の幕を引こうぞ、小僧」
人狼が動き出す。攻撃だ。だが、決して速くはない。信号鬼の時の暴走車両の突撃に比べれば何でもない大振りの一撃だ。
だからこそ、アンブロシアはその攻撃に併せようとした。カウンターを狙い、身を捩って剣を振る。あまりに太い首筋は斬撃による切断は不可能だと考え、喉笛に対してまっすぐに剣を突き刺した。だが、人狼の動きは止まらずにニ撃目の大振りが彼の胴を掻っ捌いた。獣の体を有した人狼の指には鋭利な爪が備わっており、それが彼の体を紙切れのように裂いて見せる。
あまり余った威力に押されて彼の体は押し飛ばされる。切り開かれた腹部からは出血が激しく、同時に生じた痛みも凄まじいものだった。
「ぐあああぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁああっぁあぁぁぁぁあぁっぁっぁああ‼‼‼」
意識が混濁する。大振りが故にその攻撃が来るという心の備えはできていた。英淑やスカンダのように、攻撃を受けるタイミングに自身の防御力を高めて攻撃をいなすということが、今回の相手には通用しなかった。
「何を勘違いしているのじゃ?
何故、戦う。勝てぬぞ、小僧。
無為に抗うな。所詮貴様らは有限の命。どこまで行こうと、何を成そうと、やがては死ぬのだ」
人狼が重々しい足音と共にアンブロシアに歩み寄る。その鋭利な爪が宿った手を振り上げ、それを力強く振り下ろす。もはやアンブロシアに抵抗の術はなく、身体欠損による喪失感と耐えがたい痛みにいつまでも喘いでいた。
迫る爪撃がアンブロシアを捉えんとする刹那。人狼の巨体に穴が開く。
腕、脚、胴、頭部をそれぞれ何かが穿ち抜き、分解された体はブクブクと泡を当てながら融解し始める。
「調子乗りやがって老害爺が……黙ってくたばればいいんだよ、テメェみたいな糞屑はよ」
アンブロシアより一回り年上であると思われる青年が、アンブロシアと人狼の狭間に降り立つ。
TD2Pの軍服を着ており、深く被った軍帽の影の奥からは紫色の重瞳が仄かに光を漏らしている。
青年は泡立ちながら溶けている人狼に悪態を吐きつつ、何者かとの交信を試みる。
「おい、間抜け共。アンブロシアはもう戦えねぇ。さっさと退去させろ」
『それが出来んから非常事態なのだ。おそらく、アンブロシアの精神そのものが楔となって仮想夢想世界と外界の夢想世界の一定のパスを紐付けている。少なくとも侵入者を排除しないことには、既定のパスが塗り替えられていてこちらからの制御ができないのだ‼』
言葉を返したのはロッツ博士だった。
「なら、修復の手助けでもしてやれ。寝転がってるだけなんぞ、足手まといにもほどがあるだろうが」
『アンブロシアの深度制限は既に解いている。仮想夢想空間の精神干渉も機能していないから、今その空間を支配する権利は全ての精神体に委ねられている。貴様もさっさと固有冠域を展開して不死腐狼の討伐に努めるんだ、"グラトン号"!!』
「ならさっさとキンコルを連れてくるんだな。並みのボイジャーなんぞいくら雁首並べても不死腐狼相手に有利取るなんざできやしねぇよ」
ボイジャー:グラトン号。
既に再生を果たしている人狼に対し、蔑みの視線を向ける。
「小僧ォ。たしかいつぞやに相まみえたことがあったのぅ。何度殺されても向かってきた様には狂気じみた才能を感じたが、時間が経てども勝敗はあの時と同じじゃろうな。それでもなお、ワシに立ちはだかるか?」
「それが仕事なんだよ爺」
グラトンは唾を吐き捨てた。
「増援ですか……良かった。てか、これテストシミュレーションじゃなかったんですね。まったく、何がなんだか」
グラトンが眉を顰めて傍らを見れば、そこには先程まで内臓を零していたほぼの重症だったアンブロシアの五体満足な姿があった。
「なんだよ。結構頑丈じゃねぇか新人」
「夢の世界だからって腹を抉られて呑気にいられるわけじゃありませんけどね」
「口が利けるなら上等だ。俺はボイジャーのグラトン号。お前の先輩だ。
今、佐呑は何者かによる強襲を受けている。現実世界でも夢想世界でもな。俺らの仕事は目の前の爺をキンコルが来るまで抑えることだ。それ以外は考えなくていい。とにかく討伐は無理だから肝に銘じておけ」
「そんなに強いんですか。アレ」
グラトンは人狼を見据えてまた眉を顰める。
「奴はカテゴリー4の悪魔の僕、通称"不死腐狼"と呼ばれる大物だ。現実世界で行方を眩ませているアブー・アル・アッバースっていう中東の爺が本体だが、TD2Pの捜査の手を逃れて夢想世界でかなり暴れてくれている。大きな事件にも複数関わり、能力の厄介さもあってカテゴリー4のランクは飾りじゃない。
奴の能力は不死だ。どんな破壊の仕方をしようとも身体は必ず再生し、こちら側から奴を退去させる術はない。
今は固有冠域を展開しているから、ああいう風な人狼の巨体を繰っている。無限の燃料と体力を持ったフィジカルモンスターで、動きがそこまで異次元でない分、一撃の威力はお前が受けた通りの防御不可能な特性がある。本来、長引くほどに不利が増す相手だが、俺らはキンコルが来るまで耐久する必要がある」
「つまり、面倒臭い相手だと」
「まずは固有冠域の同時展開で奴の冠域の力を削ぐ。
いいか?俺らが佐呑現地で寝ている意味は出力できる深度の高さに如実に顕れる。お前は信号鬼という悪魔の僕との闘いの中で固有冠域を使用しただろうが、あの時のお前は元から奴が根付いた夢想世界のパスに後から乗り込んだ形だった。だが、今はあの不死腐狼がこちらに対して攻めてきている形だ。単純な夢の濃さでいうなら俺たちに理がある。そこを最大限に利用するんだ」
「まぁ。要は全力を出せってことですね」
「話が早いな。俺もグダグダ喋るのは嫌いだ。……だが、何度も言うが覚えておけ。俺たちと不死腐狼ではそもそも格が違う。勝とうとなんて思うな。全力を以て嫌がらせしてやればそれでいい」
二つの冠域が花開く。
『固有冠域:楽園双眼鏡』
『固有冠域:光喰醜竜』
―――
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自己に関する記憶を失い、己の在り方さえわからぬままに目覚めてからまだ一カ月と経過していない唐土己という一人の少年。
彼に待ち構えていたのは年端もいかない過敏な時期の少年にはあまりある過酷な現実だった。周囲が自分を肯定するのは兵器としての存在があればこそ。望まれるままに戦いの中に身を投じ、記憶の断片すら取り戻せないままに信号鬼という強大な力を有する悪魔の僕を打倒してみせた。
自らの障壁として認識し、己の道を阻むことを許せないという感情から生まれた彼の固有冠域。悪霊の巣のような信号鬼を圧倒した技であり、彼が楽園を求める感情と信号鬼の呪縛を無効化するという目的に応じて成立を許された新たなアイデンティティだった。
多くの研究者を唸らせるのはその深度だった。
基本的に夢の世界でのわかりやすい強さの概念にはこの深度が大きく影響する。深度とはつまり、自己の臨まんとする空間を維持するだけの創造力のエネルギーの指標であり、深度が高ければ高いほど周辺空間に及ぼす影響力が大きいと言える。一般的な人間の生み出す夢の深度は100を前後する値とされ、夢での自由な活動に拘る人間では300に達し、別解犯罪者のような人間としての欲望をより強く滲ませる者においては500に及ぶとされている。深度には上下関係の作用があり、より強い深度を生み出す夢に対抗するにはさらに深度が上回る深度を必要とするのが特性だった。強い深度に充てられた人間は空間を通じて強い倦怠感や不快感に苛まれ、空間内で身体を損傷させれば現実世界においても精神汚染やスピリチュアルな領域の思い込み効果によって身体にダメージを来す場合もある。
だからこそ、主に悪魔の僕やボイジャーのような特別な存在が実現させる固有冠域という支配圏域においては最低深度が1000を下ることが珍しいほどの高次元の空間の構築が恐れられているのだ。夢を見ること自体に力を与えられた悪魔の僕はその全てが当然のように固有冠域を保有し、そんな悪魔の僕の対抗策として生み出された人工の改造兵器であるボイジャーもまた往々にして固有冠域を基調としたスタイルを採用する。
然るに、ボイジャーの夢は悪魔の僕を打ち破るためにあるのだから、アンブロシアの持つ太陽と闇もまた本来の用途から外れているとは言えないのかもしれない。だが、彼を除くボイジャーの全てが己の本懐を顕現させるために固有冠域を用いるという現状から見れば、彼の在り方は異端と見ることもできるのかもしれない。
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決して多いとは言えないアンブロシアの実戦経験からしても、彼には戦いの中で掴んだある感覚がある。
それは夢想世界における敵対者の不可視の圧力ともいえる気迫だった。深度という数値に裏付けられている確かな実力は、実際に拳や武器を用いて事を構えるまでもなく、実に明瞭な具合で体に染み渡ってくる。その意味で言うのなら、視覚や聴覚的な情報は戦う前においてはむしろ邪魔になるのではないかとさえ思える。
なぜなら、今、彼の眼前に立っている存在は一見しただけでは決して強そうではない。
その存在は先程の殺意に濡れた剥き出しの凶暴性とは裏腹に、枯れ木のような老いた相貌で今にも朽ちんという佇まいでそこに在るだけなのだ。
仮想夢想空間のシミュレーション空間における邂逅でなければ、意図せず意識から外して見落としてしまったとしても不思議はないような弱弱しい見た目。だが、それはこれまでに出会ったどんな存在よりも不可視で重々しいプレッシャーを吹き荒らしている。視覚的に入手した情報と五感の外で感じる危機感の釣り合いが取れず、しばらくの間、彼はその老人を遠目で見つめることしかできなかった。
そうでなくても、奇襲をしかけてきた少年から受けた傷は浅くない。少しでも傷口に意識を割いて修復を行わなければならないが、それを躊躇わせるほどの圧力がその老人からは感じられた。その老人は小さな見た目でありながら、なにか途轍もない巨大なビルが今にも崩れそうなギリギリのバランスを保っているかのような緊迫感を漂わせている。
「実に難儀なことだ。貴様のような意思も空疎な虚の器。路傍の石ほどの価値を見出すだけでも愚かしいというのに、人間どもは斯様な餓鬼の乳歯でさえ悪魔を上回る牙であれと命じるのじゃからな」
「何が言いたいのかわかんないけど……何の用だろう。僕はちょっともう不審者の対処とか真っ平御免なんですけど」
「ほう。ワシに意見するか。ボイジャーと口を利くのも久しい折、随分と見込みがありそうなガキだのう」
「どいつもこいつも手前勝手に……ご都合主義で回る世の中ならもっと僕に優しくても良いだろうに。どうしてこう面倒なことばかりが」
アンブロシアは加速する。全力で不審な老人に駆け寄り、両者の姿が交錯するギリギリの間合いで英淑の片手剣を宙に出現させ、手早くそれを取り回して一閃の剣線を描く。対して老人はノーガード。勢いに任せた鋭利な斬撃が老人の首を跳ね飛ばし、頭が少し後ろの辺りに転がる。
少し距離を離して停止したアンブロシア。その手に残るのは人間を殺した感触ではなく、剣で空を捉えたような妙な手ごたえの無さばかりだった。
すると、老人の首と別れた胴体がみるみるうちに腐り果てていく様子が目に飛び込んできた。ガスを生じさせる泡のようなものが体を溶かす液体と共に湧き上がり、周囲には鼻を捥ぎたくなるような強烈な腐臭が蔓延してくる。
「……くっ……さ…ッ‼」
「最近ではワシに挑む者も少なくなった。何が悪魔の僕に対抗する組織か。TD2Pの連中も五年程前までは血気盛んに軍を送りこんできたものよ。それがどうだ、今は何をするにもこちらから出向かねば満足に覇を競い合うこともまかり通らぬのじゃよ」
声が出ているのは斬首した方の頭からだった。見れば、その双眸には青く光を発する重瞳が存在した。
「悪魔の僕か…‼」
「ワシに意見するのはともかくとして、ワシを知らんとはどういう了見じゃ?ワシを何より怖れるのは無知蒙昧な民草共ではなく、貴様らTD2Pだろうに」
頭部を起点に身体が修復する。次第に瞳から溢れる青い光の量が増し、周辺の空間に変化が生じる。
「固有冠域:不死の帷」
例によって背景世界に著しい変化が来される。周囲の空間は先程までの火の手によって燃やしあげられた雑木林とは異なり、頭上の遥か彼方の上空に無数の時計のような物体が出現し、それらが水面に揺られるようにぐにゃぐにゃと歪みながら浮遊しだした。
著名な画家の絵画にあったような不思議な空間。空に巨大な時計がたくさん出現してきただけだというのに、その身に降りかかるプレッシャーは信号鬼の比ではない。
「所詮、貴様ら餓鬼もワシもあの道化の手中にて踊らされる哀れな役者に過ぎぬのかもしれんな。
この状況、アレに似とるのぅ。
ばら撒かれた餌を我先にと奪い合う無垢で哀れな緋鯉の在り様にな」
老人の姿が変化する。その形態の変化の仕方はアンブロシアにとって初見だった。スカンダ号や信号鬼のような瞳から溢れる光や靄に包まれた際の心身のバフどころの話ではない。眼前の老人は生命としての設計図すら書き換えてしまっている。
枯れた朽木のような弱弱しい体に屈強で凶暴な骨格が生まれる。肉が膨張し、肉食獣の体毛が茂りだす。顔も手足も引きちぎれるようにして一度は分解され、数秒と待たずに全身の骨格に肉が宿るようにして身体の再構築が行われる。
その姿を既存の動物に比喩するならば間違いなく狼だった。だが、それは自然界には決して存在しえないような空想性を帯びた怪物の風体なのだ。全身には野性味溢れる筋肉が毛皮の奥からでもわかるように隆起しており、狼の様相を持ちながらもその四メートルを超えるような体躯を二本の脚で支えている。西洋の怪物伝説にあるような人狼や狼人間という表現が似合い、獣に変貌した貌にもまた青い光を放つ重瞳の双眸が収まっている。
人狼は舌なめずりをして牙の奥から涎をだらだらと垂れ流す。その様は飢えた獣というよりは知能により残虐性を有した人間ならでは醜さのようなものが顕れているようにさえアンブロシアには思われた。
「……くっ…さ‼」
次いで遅れてやってきたのは鼻を捥ぎたくなるほどに強烈な腐臭だった。生き物の血だまりを加熱してかき混ぜたような、生臭く、青臭く、しつこい悪臭が漂ってくる。
「この世の主を決めんとする戦いに貴様のような半端な餓鬼が相応しくないのじゃよ。
あの道化を捕らえて良い夢くらいは見れたであろう?
夢見心地にその無意義な人生の幕を引こうぞ、小僧」
人狼が動き出す。攻撃だ。だが、決して速くはない。信号鬼の時の暴走車両の突撃に比べれば何でもない大振りの一撃だ。
だからこそ、アンブロシアはその攻撃に併せようとした。カウンターを狙い、身を捩って剣を振る。あまりに太い首筋は斬撃による切断は不可能だと考え、喉笛に対してまっすぐに剣を突き刺した。だが、人狼の動きは止まらずにニ撃目の大振りが彼の胴を掻っ捌いた。獣の体を有した人狼の指には鋭利な爪が備わっており、それが彼の体を紙切れのように裂いて見せる。
あまり余った威力に押されて彼の体は押し飛ばされる。切り開かれた腹部からは出血が激しく、同時に生じた痛みも凄まじいものだった。
「ぐあああぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁああっぁあぁぁぁぁあぁっぁっぁああ‼‼‼」
意識が混濁する。大振りが故にその攻撃が来るという心の備えはできていた。英淑やスカンダのように、攻撃を受けるタイミングに自身の防御力を高めて攻撃をいなすということが、今回の相手には通用しなかった。
「何を勘違いしているのじゃ?
何故、戦う。勝てぬぞ、小僧。
無為に抗うな。所詮貴様らは有限の命。どこまで行こうと、何を成そうと、やがては死ぬのだ」
人狼が重々しい足音と共にアンブロシアに歩み寄る。その鋭利な爪が宿った手を振り上げ、それを力強く振り下ろす。もはやアンブロシアに抵抗の術はなく、身体欠損による喪失感と耐えがたい痛みにいつまでも喘いでいた。
迫る爪撃がアンブロシアを捉えんとする刹那。人狼の巨体に穴が開く。
腕、脚、胴、頭部をそれぞれ何かが穿ち抜き、分解された体はブクブクと泡を当てながら融解し始める。
「調子乗りやがって老害爺が……黙ってくたばればいいんだよ、テメェみたいな糞屑はよ」
アンブロシアより一回り年上であると思われる青年が、アンブロシアと人狼の狭間に降り立つ。
TD2Pの軍服を着ており、深く被った軍帽の影の奥からは紫色の重瞳が仄かに光を漏らしている。
青年は泡立ちながら溶けている人狼に悪態を吐きつつ、何者かとの交信を試みる。
「おい、間抜け共。アンブロシアはもう戦えねぇ。さっさと退去させろ」
『それが出来んから非常事態なのだ。おそらく、アンブロシアの精神そのものが楔となって仮想夢想世界と外界の夢想世界の一定のパスを紐付けている。少なくとも侵入者を排除しないことには、既定のパスが塗り替えられていてこちらからの制御ができないのだ‼』
言葉を返したのはロッツ博士だった。
「なら、修復の手助けでもしてやれ。寝転がってるだけなんぞ、足手まといにもほどがあるだろうが」
『アンブロシアの深度制限は既に解いている。仮想夢想空間の精神干渉も機能していないから、今その空間を支配する権利は全ての精神体に委ねられている。貴様もさっさと固有冠域を展開して不死腐狼の討伐に努めるんだ、"グラトン号"!!』
「ならさっさとキンコルを連れてくるんだな。並みのボイジャーなんぞいくら雁首並べても不死腐狼相手に有利取るなんざできやしねぇよ」
ボイジャー:グラトン号。
既に再生を果たしている人狼に対し、蔑みの視線を向ける。
「小僧ォ。たしかいつぞやに相まみえたことがあったのぅ。何度殺されても向かってきた様には狂気じみた才能を感じたが、時間が経てども勝敗はあの時と同じじゃろうな。それでもなお、ワシに立ちはだかるか?」
「それが仕事なんだよ爺」
グラトンは唾を吐き捨てた。
「増援ですか……良かった。てか、これテストシミュレーションじゃなかったんですね。まったく、何がなんだか」
グラトンが眉を顰めて傍らを見れば、そこには先程まで内臓を零していたほぼの重症だったアンブロシアの五体満足な姿があった。
「なんだよ。結構頑丈じゃねぇか新人」
「夢の世界だからって腹を抉られて呑気にいられるわけじゃありませんけどね」
「口が利けるなら上等だ。俺はボイジャーのグラトン号。お前の先輩だ。
今、佐呑は何者かによる強襲を受けている。現実世界でも夢想世界でもな。俺らの仕事は目の前の爺をキンコルが来るまで抑えることだ。それ以外は考えなくていい。とにかく討伐は無理だから肝に銘じておけ」
「そんなに強いんですか。アレ」
グラトンは人狼を見据えてまた眉を顰める。
「奴はカテゴリー4の悪魔の僕、通称"不死腐狼"と呼ばれる大物だ。現実世界で行方を眩ませているアブー・アル・アッバースっていう中東の爺が本体だが、TD2Pの捜査の手を逃れて夢想世界でかなり暴れてくれている。大きな事件にも複数関わり、能力の厄介さもあってカテゴリー4のランクは飾りじゃない。
奴の能力は不死だ。どんな破壊の仕方をしようとも身体は必ず再生し、こちら側から奴を退去させる術はない。
今は固有冠域を展開しているから、ああいう風な人狼の巨体を繰っている。無限の燃料と体力を持ったフィジカルモンスターで、動きがそこまで異次元でない分、一撃の威力はお前が受けた通りの防御不可能な特性がある。本来、長引くほどに不利が増す相手だが、俺らはキンコルが来るまで耐久する必要がある」
「つまり、面倒臭い相手だと」
「まずは固有冠域の同時展開で奴の冠域の力を削ぐ。
いいか?俺らが佐呑現地で寝ている意味は出力できる深度の高さに如実に顕れる。お前は信号鬼という悪魔の僕との闘いの中で固有冠域を使用しただろうが、あの時のお前は元から奴が根付いた夢想世界のパスに後から乗り込んだ形だった。だが、今はあの不死腐狼がこちらに対して攻めてきている形だ。単純な夢の濃さでいうなら俺たちに理がある。そこを最大限に利用するんだ」
「まぁ。要は全力を出せってことですね」
「話が早いな。俺もグダグダ喋るのは嫌いだ。……だが、何度も言うが覚えておけ。俺たちと不死腐狼ではそもそも格が違う。勝とうとなんて思うな。全力を以て嫌がらせしてやればそれでいい」
二つの冠域が花開く。
『固有冠域:楽園双眼鏡』
『固有冠域:光喰醜竜』
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