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94 鈴木課長視点1

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「お先に失礼します」

 小田係長が挨拶して、二階の部屋には課長の鈴木しか残っていなかった。時計を見ればすでに夜の8時を過ぎている。鈴木は、あたりを見渡して誰もいないのを確認してからどこかに電話をした。

「はい。今日お見えになりました。これで終了ですね」

 鈴木はひとしきり相づちを打った後、電話の向こうの誰かに言った。

「いえ。ありがとうございます。ですがもうしばらくはここにいさせてください。せっかくなので、もう少しここで働いてからグループ本社の方に戻らせていただきたいと思います」

 相手の返事が鈴木にとっていいものだったのだろう。鈴木の顔つきが少し柔らかくなった。

「あっはい。青木君もここをやめるんですね。桧垣さんはどうするんでしょう」 

 しばらくうなずいていたが、受話器を置いた後鈴木は大きなため息をひとつついた。

「あ~、とうとういなくなっちゃったな。でも仕方ないか。今は上柳グループのお嬢様だもんな。でもまさかこの世界で会えるとはな。それにしてもよかった。少しは俺も役にったったかな。ねえちゃん、この世界では前の分まで幸せになれよ」
 
 鈴木はそうつぶやいてから、机の上のものをかたずけて帰ることにした。

 部屋の明かりを消すときにちらりときれいに何もなくなった主のいない机を見た。いつもにこやかに微笑んでいた姿が見えた気がした。ああ、幻だったか。知らず知らずそうつぶやいていた。


 鈴木が、この世界が前世で見た漫画の中だということに気が付いたのは、一枚の写真を見せられたことがきっかけだったのだろう。
 
「この写真の主は、わが社である上柳グループのお嬢様だ。彼女は、清徳グループの次期後継者である清徳正樹のいいなずけだ。君にはぜひやってもらいたいことがある」

 そういってやっと仕事がわかり始めた入社三年目の鈴木に写真を見せてきたのは、人事部の部長だった。部長は、鈴木に清徳グループに入ってスパイもどきの事をしろと言ってきた。
 はじめその話を聞いた時にはなぜ自分がと唖然としたものだが、よくよく話を聞いてみると、何事もなければ数年あちらで通常の仕事をしていてくれればいいというものだった。
 それに他にも鈴木のようなものをいろいろなところに何人もいや何十人も潜ませる計画だった。

 スパイもどきといっても上柳グループのお嬢様を守るために働くだけの事で、犯罪にかかわるようなことをやらせるつもりはないのだということを強調されて、それまで引きつっていた顔がすこしだけ緩んだのを部長は見逃さなかった。

「最初この話を持っていくと、皆君みたいな顔をするんだよ。ただこの話は上柳グループの社長直々のお願いだと思ってくれればいい」

 その後少しだけ気が抜けた鈴木だが、話を聞けば仕事が完了すれば、好きな部署に行けることと昇進も必ず出来ると約束されてまんざら悪い話ではないなと思った。
 了解してからは早かった。同じような者たちが何十人も会議室いやホールといってもいいような部屋に集められて皆で説明や講義を受けた。

 そしてすごいことにひとりひとり架空の職歴の履歴書を作られていて、皆がそれぞれ清徳グループに入社していった。
 同じ部屋に集められたのは、顔を知っている方が何かとその後の活動に役に立つという意味と自分だけではないという安心感を示すためのものだったのだろう。鈴木の様に若い者から少し年齢がいっている者、それに男性だけでなく女性もいた。

 鈴木は上からの指示通り、清徳グループの系列グループの子会社に入社した。家族にも言えない機密事項だったので、大会社に入社したのにその会社を辞めて小さな会社に入社すると両親に言った時には、両親から泣かれたほどだった。しかし鈴木は、やめようと思わなかった。
 
 話を受けるときに、話を受けないという選択肢もあると言われた。しかも受けないことで査定に響くことは一切ないと言われたのだ。実際に受けないという選択肢をしたものも結構いたそうだ。なぜならせっかく大企業に就職したのに、秘密裏とはいえ表面上はその大会社を退職した風に装わなくてはいけないのだから。
 やはり身内や親戚の反対もあることを会社側もじゅうにぶんにわかっていてのことだ。

 鈴木も親だけでなく親戚にも何度も説得を受けたが、もう決めていた。なぜなら話をされたときに鈴木は不思議な夢をよく見るようになっていたからだ。まるで自分の人生を追体験していくようなあまりにもリアルな夢だった。
 

 そこでは自分には大家族がいて自分は兄弟の上から二番目。上には姉がいた。町工場を経営している両親、優しい姉、うるさいが可愛い弟妹に囲まれて幸せな毎日を過ごしていた。
 
 しかしある時期から暗い陰がひたひたと自分に忍び寄ってきた。両親は暗い顔が多くなり、姉も働いていた会社を辞めて工場を手伝うようになった。
 徹底的な事が起こったのは、ある日両親の親と同じぐらいじゃないかと思えるような年のいった爺さんがやってきたことだ。
 姉と両親は、そいつを工場に連れていってしばらく話し込んでいたみたいだった。ただ俺は、そいつが帰るときの様子を偶然にもはっきりと見てしまった。そいつは、姉ちゃんを舐めるように見ていて手まで握っていたのだ。それを見たときには吐き気がこみ上げてきた。俺もその時には高校生になっていた。そいつがどんな目で姉ちゃんを見ていたのかイヤというほど分かる。
 
 俺は家を飛び出して、姉ちゃんの元に走っていった。その爺をひとついやふたつでもぶっ飛ばしてやろうと思ったのだ。
 しかしそれを止めたのは、姉ちゃん自身だった。そいつは、俺の気持ちも知らずにやついた顔を姉ちゃんに向けて帰っていったのだった。
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