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premonition
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春なので上司が代わった。送別会にはいつものように参加しなかった。私の日常は何も変化はしないのだから。人との繋がりに、私なりの心地いい距離感に気付いてからは、時間の経過がシンプルになった。
私達はどこに向かっているのだろう。会社は世の中をより便利により快適により安全にそして楽しくする公器なのだろう。そんな流れの中で個人である私は、どこまで幸せになれるのだろう。基本は何も変化なんてしていない。便利に快適になったから、こんなにも孤独を感じるのだろう。安全になったから、死という感覚が曖昧になっているのだろう。より楽しくなったから、きっと無理に笑わなければおかしな人に見られてしまうのだろう。私は日々を生きていながらどこにいったいいるのだろう。考えなければいけない時間が私を強くする。過去の時間は、ただ私の皮膚の上を流れていくわけじゃない。きちっと記憶に残っている。残像であれ残り香であれ感情の傷としても。そのすべての記憶に私は感覚を研ぎ澄ませる。一人は怖いものじゃない。その時間こそが、心地いい。本当に着たい服。本当に聴きたい音楽。それは独りにならなければ絶対に見えてこない。そんな確信が私にはある。どうしてあんなにもベタベタするのだろう。独りになって記憶を探り、その記憶に対して私は独り憤慨する。会社は私にとって、生活費を稼ぐためだけの場所。それ以上でもそれ以下でもない。中には出世したい人もいるだろう。でもそのジャンルの人の気持ちは私には分からない。きっとそんな気持ちが私の中には皆無だからだろう。その人と、私の会社での呼吸はきっとリズムが違うのだろう。見えている世界だって違うはずだ。私は目の前の仕事をサッサと片付けて、サッサと帰りたい。私は私以上でもなく、私以下でもない。そんな感じで静かに生きている。海の中の生物のように、自分に適した深度で環境で生きているし、それを邪魔されたくないだけだ。より綺麗になりたい。よりおいしいものが食べたい。そんな日常がふつうに素敵に流れている。人生を楽しみたいなんて、意識的に感じて生きているわけじゃない。いのちの輝きは不自然な膨張ではなくて、きっと淡々と使用していくものだろう。私は私に無理はしない。目の前の問題に、前向きな感情でごまかしたりしない。嫌いな人を無理に愛したりしない。近づかないようにするだけだ。自分の存在を否定も肯定もしない。ただ他人が自分の事を否定し、肯定もしないのなら、闘う以上の利益があるなら闘うし、その価値が無いならサッサと逃げてきた。不自然に生きたいとは思わないし、不自然なネガティブな感情で死にたくはない。不自然に感情を乱れさせる存在が最近苦手になった。生きたくもなく死にたくもない。朝死んでいなければ、その日のやるべき事を淡々と遂行するだけだ。私は私の人生を生きればいい。どうして日々は、単純に流れていかないのだろう。どうしてこんなにも感情は激しく動くのだろう。ストレスの解消の仕方がうまくないのかも知れない。長く生きていくと思うと軽く憂鬱になる。何を考えて、みんな毎日毎日会社に吸い込まれてくるのだろう。きっと何も考えていないから、同じことを繰り返していけるのだろう。目の前を流れる景色や言葉が最近、ひと事のように感じる。自分から発した言葉も、反射で出てきた言葉で、私の感情は何も動いていない。用意されている言葉をその都度発していけばいいだけなのだから、会社での私はロボットと何ら変わらない。そんな私でも、時代には影響されているのだろう。ニュースは気になるし、それなりに関心はある。ただ結局最近大事なのは、天気だ。雨だと憂鬱になるし、風が強いと嫌な気持ちになる。出勤時の洋服の選択が、私の気持ちを微妙に興奮させてくれる。褒められれば一日気持ちいい。最近彼氏と会っていないけれど、きっともう別れたんだろう。私の気持ちは特に揺れ動かない。恋愛という言葉が最近めんどくさい。どこかにこんな気持ちを発散させてくれる抜け道はないだろうか?それともこの無感情、無感動な状態がふつうなのだろうか?もう十分幸せなことは理解している。だから過去の記憶が目の前を流れるのだろう。会社の駐車場から会社へと向かう。会社へ向かっているのか過去へ向かっているのか、時々分からなくなる。今を生きているはずなのに、時間の感覚に戸惑う私がいる。今やらなければならないことをやることが、過ぎた時間を後悔しないことだから、体と精神がうまくリンクしなくても、きっと会社へ歩いていくのだろう。それが当たり前の呼吸として、体に染みこんでいるのかも知れない。その呼吸を疑問に思う私は、きっと変わっているのかも知れない。世の中は正しく発展しているだろうか?私は会社に貢献することで、自分を幸せにしているだろうか?忙しいことは考えなくていいことなので、自分を都合よく見失えているので心地いい。ぐったりとした疲労にナルシスト的に酔えるのできっと心地いいのだろう。だからそんな人が私は嫌いだ。その人がいなくても会社は回る。社長がダメなら代わりは誰かいる。私は私の分量だけ貢献する。薄っぺらい繋がりを忘我させてくれるカリスマは、この会社にはいない。だから淡々としたルーティンなリズムに会社がなっているのだろう。きっとゆっくり衰退している。それは誰もが感じているのに何も言わない。それでも同じリズムは繰り返さなければいけない。何かがおかしいのに、何でみんなあんなにもポジティブなんだろう。うまく頭が回らない。回らないまま、そのまま時間が過ぎて行く。私には、私のやらなければいけないことがあるんだもの。それをやるだけで肉体が疲れてしまう。「疲れる」と言うと、母に叱られるんだけれど。家族関係はうまくいっていると思う。それはそれでいいとは思う。一枚の絵画として、時間の流れから抜け出してしまえばね。ふつうの家族でも、微妙に変化はしている。外界からの不穏な刺激で、いつ壊れてしまうのか、私はそれが微妙に不安だ。
二〇代がもうすぐ終わる。それはそれでとても軽微なことだけれど、私を憂鬱にさせるのかも知れない。何かが揺らいでいる。その余波を、私の皮膚が感じているのかも知れない。時代と無関係に生きられないから。「私はわたし」に執着すると無駄に疲れるから。とりあえず生きられている。とりあえず生活は繋げられている。これを死ぬまで連続させていかなければならない。いつでも裏切れる準備はしている。友達。仲間。自分にとって本当に大事にしなければいけない存在なんて、きっとごく僅かだということに気付いてからは、ふつうの日常生活にも警戒心が必要だということに、いつの頃からか気づいた。何気なく発した言葉は良くも悪くも陰湿につよい。言っていい事と悪いことの判断を、瞬時に判断しなければいけないことに、毎日疲れる。飲み込んだ言葉は私のどこに沈んでいくのだろう。それが堆積していき、私の心を蝕んでいくのだろうか?私は私を守らなければならない。なぜならかけがえのない「わたし」だから。自分を守るために、仲良くしなければならない。ふつうに生きていたって、そんな緊張感の中にいる。それはそれでバランスが取れている。なぜなら、私が「私」でいられるのだから。私が「私」でいられない限界が来たら、サッサと逃げてしまおう。そのリスクの準備を秘密裏に進めていかなければならない。その時、心が壊れてしまわないように。その時、生活が壊れてしまわないように。世の中との戦いの仕方は、私は私のやり方で。どうか私の心が綺麗にメッキされた言葉に騙されませんように。狡猾に。結局私は立派な大人ではない。だから狡猾に。立派な大人の定義なんてよく分からないけれど。最近こんな感じで楽しい。私が働くことで、世の中に対して些細な振動になればいい。それが私の存在の意味を感じさせてくれると思うから。それが今の私の役割を感じさせてくれるから。「なんの為に生きているの?」と純粋な子供の目で言われたら、私は戸惑ってしまうかも知れない。会社での曖昧な存在が、その言葉で一瞬に赤裸々に露骨に浮き彫りにされてしまうことを私は知っているからかも知れない。一生懸命に働いているつもりにさせてくれる、所が会社なのかも知れない。給料の金額は世の中に対する貢献度と見るなら、私はそれほどの貢献度は無いのだろう。会社は賑やかだ。その賑やかさに、うまく私はごまかされているのかも知れない。その賑やかさに皮膚が、最近拒否反応を感じている。この変化に私は戸惑っている。疲労の対価をお金に換算するのはいやらしくうしろめたい感じにさせる。それを最近している自分がいる。きっと私が最近何かを諦めたのだろう。何かを悟り、何かに気付いて、無意識に諦め、そして最近そのことに意識的に気づいたのだろう。人が目の前を流れていく。ただそれだけで不安だった今までの私。人間という、ひとつひとつの質量が、それぞれの意識を持って動いているのが何気なく不思議だ。地球という天体に人間が動いている。日頃、自分は生命だということを忘れている。きっと私も、奇跡の存在なんだろう。毎日をヘトヘトに疲れているけれど。実家暮らしだから、一人暮らしに比べれば楽だと思われるから、自分のことをあまりしゃべらなくていい距離感を、会社では保っている。当たり障りのない言葉の投げ合いに、笑っていればいい。本当に大事なことは、自分の内側だけでこっそり熟成させなければならない。きっと誰もが孤独なんだろう。最近それを、感じられるようになってきた。きっと誰もが、自分の存在に不安なんだろう。支配されるのも嫌だし支配するのもイヤ。世の中には支配するのが好きな人がいるから。ただ、究極的には支配されているのかも知れない。それはそれとして興味がない。私の輪郭を土足で越えてくる存在が嫌い。曖昧な言葉で距離感を曖昧にして、表面上は仲良くしていたいだけだ。無関心であり続けたい相手が会社にはたんまりいて、それを狡猾に曖昧にしなければならない。自分は敵ではないということを示すために、どうでもいいことに共感するように笑わなければならない。精神的に疲れている時は、それなりに苦痛だ。会社にいる時の時間と自分の部屋にいる時の時間。それはきっと別次元の世界だろう。ここにいるのにここにはいない感覚。早く過ぎてしまえばいいと思う時間。生活のためと割り切るしかない時間。いろんな種類の時間が同じ時間の中で流れていく。それが過去になり、過ぎて行った時間だったと哀愁を感じるのだろう。些細な時間の流れは憂鬱だ。「まだこんな時間」という言葉に変換されてしまう。つまらなくもなくそれほど楽しくもない。こんな時間が心地いい。大きな流れの中でいったい私は、どこにいるのだろう。片隅にいることだけは何となく分かる。それでも実家にいるから幸せに生きていけているのかも知れない。両親との関係は良好だ。他県からわざわざ部屋を借り、会社に通勤しながら生きている人に対して私はどんな気持ちを持てばいいのだろう。それほどの魅力がこの会社にあるとは思えないけれど、人それぞれだからそれはそれでそっとしておけばいいのだろう。当たり障りのない天気の話とかしてその場を繋ぎ、時間が過ぎるのを待つ。大人になったら情熱的な言葉なんて必要なく、逆にそんな言葉は暑苦しい。自分の輪郭の内側で、私はひっそり生きていきたい。今日もふつうに終わった。テレビをつければ情報が飛び込んでくるけれど、消してしまえば自分の輪郭の外側の世界から隔絶される。情報を取りたいと思う私は、きっと世の中と繋がりたいのだろう。寂しい人にはなりたくない。独りよがりに生きたくない。曖昧さの流れの中で、自分の言葉は持っていたい。自分を殺し過ぎる協調は、自分の価値を不当に下げることだと思うから。ただ会社に働きに行くだけなのに、こんなにも心を緊張させなければいけない。きっと私はストレスを感じているのだろう。働くことは当たり前だって理解はしている。働くことは嫌いじゃない。ただこの心の緊張が仕事を嫌いにさせていくのだろう。数年前にこの会社に転職してきた訳だけれど、前の会社の人とは二度と会いたくない。それだけ私の心は緊張し、その緊張に私は耐えられなかった。それでも淡々とした日々は過ぎていく。世の中の為に、淡々と過ぎていくのだ。個人的にはどうでもいいことだ。こんな思考は社会人としてだめだって分かってる。この会社は社会の為の、仕事をしているのだろうか?会社の為の、仕事ではないのか疑問だ。そんな猜疑心を奥底に抱えながら、私の日々はこの会社で淡々と過ぎていくのだ。この会社が世の中から淘汰されるなら、されればいい。特にそれほど思い入れはない。家から近い。それだけは好きだ。ただそれだけだ。潰れたら潰れたで、どこかに吸収されるだろう。私の日常が変わらなければ、どこに吸収されようがどうでもいい。みんなそれぞれ、どんな気持ちで働いているのだろう。会社というものを信用し、仲間というものを信用し、幸せな気持ちで働いているのだろうか?私は考え過ぎなんだろうか?自分の居場所がよく分からない。分からないまま、時間が流れていく。ただ、会社に対しても世の中に対しても、うまく反応はしていると思う。自分が嫌な気持ちになる環境からは何気なく逃げる。そのことに関しては、とても素直になった。誰にでも好かれたいとは思わなくなった。そう思えるということは、きっと私がつよくなったのだろう。私は私の場所でおしゃれをする。うまく世の中に反応している。だからきっと大丈夫だろう。そんな私はきっと不安なんだと思う。自分をどの程度暗くしたらいいのかどの程度明るくしたらいいのか最近分からない。それはそれで、外側の世界とのバランスで、感覚を調節していこう。それがある程度必要な協調ということなのだろう。きっと私だって時代に洗脳されている。十年先の未来人から見たら、今着ている洋服だって使っているスマホだってきっと恥ずかしがられるぐらいのツールだろう。それが今の最先端なのだ。そう思うと笑ってしまう。それを今の私は得意気になっているのだ。どうでもいいことに、真剣になっているような気がする。本当に大事な事に、目を背けているような気もする。何が真実で何が嘘なのか?その微妙な境目で、私は苦しんでいるのかも知れない。ふつうに暮らしているだけなのに、こんなにも考えることがあって疲れてしまう。感性の刺激は生きている証拠。私は自分を見失っていないだろうか?世の中に対して私なりの正しい距離感で生きているだろうか?今日はいい天気だった。それでも夜になったら風が吹いている。刻々と時間は流れている。私も刻々と死に向かっている。何の為に生まれ、何の為にここにいるのだろう。朝になったら私なりの社会的な時間が流れ始める。過ぎていった時間に付随する記憶を、私は許すことが出来るだろうか?このまま流れた記憶として、放っておいて、大丈夫なのだろうか?私をこの先、苦しめることはないのだろうか?孤独は私を癒しもするし、苦しめもする。会社に行くことで感情が刺激され、その効果で意識の外側から放っておいた記憶が流れ込んでくる。それでも目の前の現実に対応しなければいけない。複雑な処理が、私の内側で無意識に行われている。それを私が黙って観察している。いったい“わたし”とは何なのだ?だからあるがままの自分を生きようと思う。あるがままの自分を受け入れようと思う。そう思えたら、空が青かった。当たり前だけど、青かったのだ。みんな何を考えて生きているのだろう。言葉にしたら、本当の気持ちから逸れてしまうような気がする。もどかしい現実。それでも今日の空は、あるがままに青く美しい。自分にとって、本当に大事なものだけ守りたい。私を不安にさせるものから、私は自分を守りたい。今日も私は生きている。そう思える私はきっと今のところ幸せなんだろう。感性がくたくたにならなければ最近よく眠れない。これはいったいどういう事なのだ?ふつうに起きてふつうに働いてふつうに眠る。これが人間としての真実ではないの?どうしてこんなに生きていることに不安になるの?芸術家のように、いのちを限界まで燃やすってどういうことなの?そんな余計な知識が余計に私を不自然に、焦燥感で慌てさせるのかも知れない。才能ある人間は、この世の中の不自然なシステムを変えればいい。それを私は関わりのない安全な場所で、見ていたい。それで権力を持てばいい。それで自分の命の燃焼を存分に感じればいい。私にとっては関わりのないことだ。ただそれを安全に楽しめればいいだけだ。才能ある人間と、そうでない私のような人間では、きっといのちの燃やしかたが違うのだ。自分の輪郭を、見失わないようにしたい。感情を不自然に沸騰させる無責任な言葉を吐く熱い人から自分を守るために。ふつうのままで、日々を流れていきたい。うまい具合に流れているのか追い立てられているのか、たまに感覚がごっちゃになる。こんな私はこれでいいのだろうか?
「こんなままで生きています」
今の私はこれなのだ。損な気が、しないでもない。休みの日、何もしないという事に、罪悪感でいじいじして終わる。そんな感じを与える今の世の中の、これも一種の洗脳なのだろうか?趣味は特にない。休みの日は疲れ切っている。簡単に掃除をして、ゆっくりと、それでいてあっけなく時間が終わってしまう。それがいったい何がダメなんだろう。私にいったい何が足りないのか、本当に分からない。実家暮らしだからいけないのだろうか?特に両親から出て行けとも言われない。今現在、うまくいっているのだ。とやかく言われる筋合いはないのだ。とやかく言われている訳ではないけれど。自分は自分でありたいと思っているだけなのに、どうしてこんなにイライラするのだろう。そんなある日の数年後、父が死んだ。突然死んだ。びっくりした。私は三〇代になっていた。このまま過ぎて行く筈だった時間。私には、親が死ぬなんていうことは、ある筈はないとさえ思っていたのかも知れない。時間の経過をうまく整理できない。それでも日常は淡々と過ぎていく。心が弱っていることを、悟られたくなかった。私は一人っ子なので、母と二人きりになってしまった。予想していなかった現実。親が死ぬという現実は、他人事だった。当たり前な自然なことなんだろうけど、私にはまだ早いような気がした。何もかもが、準備をする前にやって来るような気がする。夢であって欲しいという感覚と、今までの感覚の延長線上ではもう生きられないという憂鬱と。何とか立ち上がって仕事に行けるから、まだ私は大丈夫なんだろう。このままの私で、しばらく流れて行こうと思う。
アスファルトを歩いていると、ある建物が前々から気になっていた。洋服屋だとは何となく気づいたけれど、それほど積極的に主張していない外観で、ネットで調べてみるとブティックだった。私にはまだ……というか、これからも……というか、入りづらい金額の洋服が売られている。それほど都会ではない街だけれど、商売になっているということは、質のいい客が出入りしているのだろう。それはそれで無関心になろうとは思うけれど、自分が日々やっている仕事を何気なくバカバカシイと感じてしまう。自分が見えている世界と見えていない世界がネットで繋がった時、自分の輪郭を曖昧にしてしまいたくなる。時には自分を見失ってしまいたい。もうすぐ暑くなる季節だから。そのちょっと前の季節だから、曖昧にこんなことを考えるのだろう。うまく私は自分なりに流れているだろうか?価値観は相対的なものだから、卑屈になったり優越感になったりする。いっそのこと、そんなものをふきとばしてしまえばいいのに。私自身もその中にぐちゃぐちゃに混ぜて、ふきとばしてしまえばいいのに。ふつうに生きているだけなのに、いらいらする。自分をどの場所に固定すればいいのか分からなくなる。行きたくない飲み会に行って、居場所があるようなないような。あんな感じに似ているのでいらいらする。行きたくなければ行かなければいいのに断れずに行って後悔する私にいらいらする。季節の変化にいらいらする。時間は過ぎていく。今の私にとって季節の風景に美しさを感じない。きっと日々、忙しいのだろう。感性が衰退しているのだろうか。いつからこんなに忙しくなったんだろう。ただ忙しくないと気持ちが不安定になる。父の死を受け入れる孤独は、今の私には耐えられそうにない。忙しさの隙間に見え隠れする父の死を、少しずつ飲みこんでいくしかない。私にとって本当に大事なことではないごちゃごちゃしたことに、今の私は救われているのかも知れない。どうでもいいことに忙しくしていないと、今の私は立っていられない。頭と体がうまくリンクしていない。それでも季節は過ぎていく。受け入れるということは、諦めていくことなのかも知れないと、何となく理解している自分がいる。私は私で人生が動き始めている。観察者から観察される側に飛ばされたような気持ちがする。風景の見え方が変化した。よって感情の動き方も変化した。よってその動きに連動して出てくる記憶も変化した。その記憶とひとつずつ、対峙しなければならない。孤独はきっと大事なものだろう。私が無意識にどきどきしている。何も考えられない時間に強引に考えようとしなくていいのかも知れない。私の意識は早急に答えを出したいのに。ここに立っていることの意味を早急に出すことが、心地の悪い感覚から早急に抜け出せると、私自身が知っている。でも今は無理。自分の肉体にいらいらする。自分をいい方向に導くイメージは頭の中にあるのに。現実は思うように動かない。裏切れる準備はしてある。人間関係の悩みは要は自分がつよくなればいい。独りでいることに耐性ができ、それを楽しむことができ、自分を守るために時にはしゃべる言葉に輪郭を持たせることが出来れば、それほどストレスは感じない。他人の悪意で、私は自分の存在を否定しない。裏切る準備をしたまま、微妙な距離感でいつ切れてしまってもいい繋がりを日々保つ緊張感は、それはそれで楽しいと思えるようになった。それほど多くの繋がりを持たなくても、日々はふつうに生きていけるということに気づいてからは、気持ちが楽になった。大量の情報によって、自分の輪郭が曖昧にぼやけてしまう。もう二十代ではない。それはそれで未練はない。それほど熱くならなくても、ふつうに日々は過ごせていける。このことにも気づいた。熱い人はなぜか鬱陶しくなった。流れてくる情報に愛が満ち溢れていて、最近感覚的に気持ち悪い。私が年を取ったせいだろうか。それとも男というものを、それなりに知ったからだろうか。大きな流れの外側に、気づいたら放り出されてしまったような疎外感がある。それはそれで別にいい。私は私なのだから。これも一種の孤独なのだろうか?外的要因に私が翻弄されている。心が不穏だ。感情が沸々としているのを感じる。穏やかでありたいと思うのに、穏やかになれない私。知りたいと思うふしだらな探究心が、自分自身を苦しめているのだろう。知るには勇気がいる。知ったら感情が乱れる。それを昇華するには長い時間を必要とする。どこまで知れば、私は健全に日々をふつうに生きられるのだろう。見えないことも見ないことも、それはそれで美しいのかも知れない。この先の向こうには、得体の知れない何かがある。それだけ知っていれば、もしかしたら、それはそれでいいのかも知れない。絶対の観察者にはなれないのなら、相対的なことでしか自分の輪郭を浮かび上がらせることが出来ないなら。毎日私のリズムが刻まれていく。いなくなればいいと思う人。今日も私に漂う空気は軽い鬱のような翳りを含んでいるだろう。すべての人を受け入れる器は私には無かった。それを理解してからはほんの少し気持ちが楽になった。協調と自分とのバランス。その微妙な緊張感が、私を楽しませる。人の心は闇。それが最近心地いい。私は私なのに、その私を私は完全には把握していない。今の時代を生きている私の歪みは、きっと許容範囲なのだろう。許容範囲を超えた時、社会的な制裁を受けなければならないのだから。ぎりぎりこの状態が私にとってのふつうなのかも知れない。このふつうが壊れる時、私はどんな外的要因によって内面が壊れ、意識が理性を飛び越えていくのだろう。軽く想像しただけで怖くなる。私はそんなにつよくない。だからといって、男に依存するほど弱くもない。持家で、母と二人、今は生きている。意識はしていないけれど、協力して生きているのだろう。日常は何気なくざわついているから、淡々と過ぎていっているだけで、この時間が過去になり、この時間を孤独な時に噛み締める時、軽い恐怖を私は感じるだろう。今、私は生きているのに生きていない。未来にこれを噛み締める時、本当に私は生きたことになるんだろう。今は、今を淡々とやり過ごせばいい。そうやって、私は自分に言い聞かせる。自分にとって不都合な時間をうまく避けようと思う。私に対する悪意。私に対する歪んだ視線。それらは両親から受けた愛情によって、私は守られるだろう。孤独は怖いものではなく、一人もまた、怖いものではない。そう思えるのは、たっぷりと両親から愛情をそそがれたからだろう。両親にとって、かけがえのない存在として、愛されたからだろう。恋愛はもう、卒業かも知れない。そう淡々と日常を流れていた時、年下から告白されて、私の内面はまんざらでもなかった。女であることから、女である私は逃れられないのかも知れない。ちょっと付き合うことにした。私は女であることを忘れていたのかも知れない。自分の内面に対して余裕が無かった。彼と何でもない時間を過ごすことで、楽になれているような気がする。すべての私を告白したわけではないけれど。いつ別れてしまってもいい。今は時々一緒にいるだけで、私の一部分が安定しているだけだから。付き合う。付き合わない。カレシ。カノジョ。そんな安物の言葉が目障りに流れていく。私はそんな言葉を自分の感性に入れない。自分が貶められるような予感があるから。適齢期という言葉に脅迫されて、無理やり感情を昂らせ、手っ取り早く好きになるのだけは、何が何でも避けようと思う。時代によって、恋愛の形態は変化する。過去の恋愛形態が、今を生きる恋愛する人、の形態に合っていない。今を正しく認識しようと思う。今、私は年下と付き合っている。ただそれだけのことなのだ。今を生きているのに、過去の余韻の空気が煩わしい。好きでこんな時代に生まれてきたわけじゃない。こんなことを言ってもしょうがないことは分かっている。もしかしたら、複雑に考え過ぎているだけなのかも知れない。自分がどこに立っているのか分からなくなる時がある。だからとりあえずあの子とは別れようと思う。付き合ったとは言えないかも知れない。求めていることが違い過ぎているということに気づく。そこそこ容姿がよかった。ただそれだけだった。それだけでは不満足な精神レベルになっていた。私は一人でも大丈夫。付き合うことで、それに気づけたのは良かった。過去に甘味な余韻をそれを愛だと錯覚出来たのは、純粋に私が若かったからかも。なんだか気恥ずかしい。過去は過ぎて行く。それを自覚することの寂しさ。どうかそれが私の自信になりますように。視線が深くなったのかも知れない。視線が深くなり、一枚一枚嘘の自分が剥げていく。後悔と共に、嘘の自分が剥げていく。笑いたくもないのに笑った過去。人との距離感を、うまく理解出来なかった。世の中とはこういうもの。漠然とそう理解していたのかも知れない。年齢と共に私は変化している。彼との接点は私には必要なかった。自分の人生だけに、集中するべき時なのかも知れない。自分の気持ちが本当に自分の気持ちなのか、不安になる。不安定になりそうな安定。だから不安なのかも知れない。何らかの感情的な沸騰で、不安定な場所に閉じ込められている凶悪なイメージを、理性的にコントロールする自信がない。そのイメージは、日常の隙間に瞬時に現れては消える。年に数ミリずつ、そのイメージは堆積しているのだろう。自分で自分が怖くなる。ふつうの一日がふつうに終わる。それはそれで大それたことなのかも知れない。転職はしたけれど、前の会社での位置と変化はない。回りで働く人間たちも、本質的には何も変化はしていない。コンプライアンスで縛られているから、みんないい人を演じているのだろう。それはそれで前の会社よりは働きやすいのかも知れない。心地のいい場所へ移動する。そのことに罪悪感を感じなくなった。仲間という繋がりはきっと弱さだろう。そう内面を私は述懐する。弱い繋がりを切ったことで、私はつよくなったのかも知れない。いけない子だろうか?私は悪い子なのだろうか?それとも狡い人なのだろうか?日常の些細な裏切りに、私はどきどきする。過去の私に戻りたくないもの。ふつうの日常を流れながら、私は過去の自分と何気なく闘っている。何とか自分が自分でいられるように、何気なく闘っている私を私は、偉いと思う。世の中に揉まれることで、内面が洗練されていく。尖った部分がそぎ落とされていく。そんな内面のプロセスの結果として、人を見る目が鋭くなったのかも知れない。彼に魅力は感じていなかった。でも付き合った。感性と私自身がうまくリンクしていなかった。もしかしたら、感情が弱っていたのかも知れない。私はどこに向かっているのだろう。無責任に、前向きにはもう生きられない。現実に即した呼吸で生きなければならない。誰かに寄り添いたいという瞬間がある。きっとそんな時に、告白されたのかも知れない。彼の呼吸は私には合わなかった。世の中の人を、あるがままに受け入れようと思う。感情の激しい起伏は日々をふつうに流れていくには疲れてしまう。いい意味で諦めようと思う。完璧ではない中庸を流れていくことが、もっともバランスが取れているのかも知れない。これからは、一日終わってくたくたに精神が疲れていることはないだろう。素直に諦めよう。諦めたから、私は吹っ切れたのかも知れない。息苦しさから吹っ切れた。頭のもやもやから吹っ切れた。こんな状態は長くは続かないとは思う。淡々と時間が過ぎていけばいい。そっと。無意識に流れていけばいい。何かを抱えている私はいづれ、救われるのだろうか?擦れ違う人々もきっと何かを抱えているに違いない。感性と空気との接点に、孤独を感じることもある。そんな時の、他人の品のない笑い声が嫌いだ。自分はここにいます的な、あの笑い声が嫌いだ。みんな自分の存在に不安なのかも知れない。不必要に大きな声でしゃべることで、自分の存在をアピールしているのかも知れない。それはそれで体調により、不快に感じることがある。そこをうまくすり抜けていかなければならない。日々の何でもない流れの中だって、これはこれでサバイバルだ。ジャングルの中をすり抜けていくことと、まったく同じではないけれどイコールなのかも。無意識に私の感性は複雑に活動しているのかも知れない。世の中に与えられる私の振動なんて、些細で微々たるものだろう。だから自分以上のことは出来ないしやりたくない。自分の輪郭に責任を持ちたい。私は自分の輪郭以上でもなく、輪郭以下でもない。その輪郭の範囲で人は、世の中と付き合い自分と折り合いをつけているのだろう。価値観から外れる恐怖がモチベーションとなっているような気もする。この場所は、本当に私の居場所だろうか。何とか自分を納得させながら、私は笑っているのだ。そんな自分を時々気持ち悪いとは、思う。それでも時間は何気なく過ぎていく。時間がもったいないと、冷徹に私は感じている。私が求めている時間のスピードと、実際に生きている時間のスピードの差に、いらいらする。毎日は静かなのに、時間の経過にいらいらする。いのちの時間は限られている。何もしなければ、焦燥感で不安になる。いのちは私に、いったい何をさせたがっているのだろう。私は正しく生きているだろうか?独りよがりではなく、世の中に対して正しく生きているだろうか?しがらみはいっそのこと、破壊されてしまえばいいのに。それはそれですっきりするだろう。大人は目の前の生活にいっぱいいっぱい。若者は未来に対して病んでいる。それがなんとも言えない空気を醸し出している。その鬱屈した空気を私は吸っている。吐き気はしない。未来に、この時の頃を思い出して、吐いたりするのだろうか?それはそれで楽しみだ。自分で言っていて、意味分からないけれど。何もない時代に生まれなくて良かったなとは思う。安くおしゃれも楽しめる。いい意味で無関心でいられる。忙しいことは、本当の自分から逃げ続けられることだと思うから。洗練された世の中だから、私は孤独を楽しめるようにならなければいけない。その先に、何気なく死んでしまえればいいと思う。何気なく、静かに埋葬されたいと思う。生活のために働いている。会社に行けば、嫌な人もいる。そしたら感情をコントロールしなければいけない。嫌な事があったら洋服を買うことにしている。それで嫌な事はとりあえず昇華される。働くということには、もっと高尚な意味があるのかも知れない。でも今は、そんなことはどうでもいい。だって私は“いま”を生きているんだもの。今の生活レベル以上の生活は望まない。さらに上げるために、これ以上頑張りたくない。こんなぼんやりした生活を維持できるように、会社の上の人には頑張って欲しい。結果が出せない上の人は、すぐに取り替えてしまえばいい。人の上に立ちたいわけだから、努力をして欲しい。今の生活を続けたいから、だから仕方なく私はそんな人達に気を使うのだ。気を使った分だけ頑張ってもらわなければ困る。上にいる人の人事がどうなろうが、最近どうでもよくなった。私は私の生活が守れればいい。いつでも逃げだせる心の準備はしている。その時のために、触角は何気なく鋭敏にしてある。気を使ってもしょうがない人。とりあえず気を使っておこうという人。そんな仕分けを内面でさり気なくやっている私。本当に大事なことに、気づいたような気がする。この仕事をやるために生まれてきたなんて思えなくてもいいと、最近気づいた。そんなことを思えなくても、自分の輪郭を保ちながら、それなりに幸せに流れていけることを知った。会社員をやりながら、そんなことに気づけた。私は何のために生きているのかなんて自分を責めるほど、今の自分に苦しくない。会社がどうなろうが、私には関係ない。目の前の仕事に責任を持つだけだ。ただそれだけだ。それを考えるのは体は遊んでいる上の人達だ。きっと頭の中までは遊んではいないだろう。完全には信用はしていないけどね。何気なく警戒をしながら生きている私。何でもない日常を生きているだけなのに、こんなにも考えることがあり過ぎる。ひとつひとつ向き合い、私は小さな何かしらを悟っていく。今日もこれで大丈夫だよねって、自分に言い聞かせている自分がなぜか滑稽だ。勝手に私は“わたし”をしている。私は“わたし”以上でもなく“わたし”以下でもない。私は“わたし”の範囲でしか生きられない。逃げるし戸惑うし、時には泣くし。そんなに私は強くない。何もやりたくない時にはやらない。何もやらない。それが自然なことだと思うから。頭のスピードに、体が限界の時がある。限界の筈なのに、脳はその体をさらに酷使しようとする。脳が求めていることを、あまり信用はしないほうがいいのかも知れない。情報を取り過ぎると余計に判断が錯綜する。自分はどこに立っているのだろう。自分の目に映っているものは真実なのだろうか?そんな不安が最近ある。もっと若かった頃、そんな疑問なんてまったく無かった気がする。自分の目に映ったものはすべて真実だった。無意識にそんな確信があった。本当そうに見えることは、すべて嘘のような気がする。それを私は経験を裏付けとして、理解し始めている。これが精神的に大人になっていくということなんだろう。どうやら私の脳の一部分が苦しんでいるようだ。長い時間を掛けて、その部分を現実の流れにさり気なく適応できるように、修正しなければいけない。これが生き延びるというみじめさなのかも知れない。自分の中で、変化させてもいい部分と変化させてはいけない部分の区別が難しい。そのバランスを、私自身が判断していかなければならない。私は私自身の経営者だ。ミスをすれば淘汰される。うまく自分をプロデュースしていかなければならない。私に対する悪意を事前に察知し、うまく回避しなければならない。どうしようもなくなった時その時は、サッサと逃げてしまおう。結婚をしているわけでもなく、ましてや子供はいない。それを私は都合よくプラスに考える。政治と会社のシワ寄せを、もろに被るのはばかばかしい。守るべきものがいないということは身軽だ。母は母で経済的に自立している。父がいないだけで、今までどおりの生活が流れている。私は“わたし”でいることが出来ている。上司やその上の人が流動的なことに、まったく興味はない。何やら騒がしいけれど、どうでもいいことだ。所詮、皮膚の外側の出来事で、他人ごとだ。私は私でいつでも逃げられる精神的な準備はしている。生活を、維持していかなければならない。きれい事だけを立派に演説する、力のない男は馬鹿だと感じるようになった。死ねばいいのにと、陰湿に思うようになった。こんな私は異常だろうか?男にとっての生きるということと、女にとっての生きるという考え方は、きっと分かり合えないくらいの深い溝があるのだろう。男は勝手に“いきる”を追求すればいい。女は目の前の生活が大事だ。同じような一週間が繰り返される。これが私にとっての正しいリズムなんだろう。私の輪郭に合った、リズムなんだろう。働く。無意識に私は働いている。そんな自分をぽつんと感じるもう一人の私がいる。働きたくない。と、声を大にして言いたい。そんな葛藤をしながら時間は機械的に過ぎていく。その時間に全部の心を乗せることが出来ない。それが私に退屈を感じさせるのだろう。生きていく。生活を繋げていく。今の私は生きてはいないけれど、働くことで生活は繋げている。この連続が続くことを、憂鬱に感じているのだろう。この憂鬱はきっと、お金で解決できる憂鬱だろう。それがあることで、働くことの根本的な思想が変化するかも知れない。きっと、もっと気持ちが楽に仕事が出来るかも知れない。いつでも辞めることが出来るという安心感。辞める不安から解放されるという安心感。責任の範囲を広げるためには継続した資本がいる。がんばらなければいけないことは十分知っている。ただ自分の範囲を超えたがんばりは出来ない。社会に出る前は、自分に無限の可能性を感じた。だから今までそれを信じた私は苦しかったのだろう。出来ないものは出来ない。自分の可能性を理解した私から、余分な力が抜けていく。なるようにしかならない。私の意思とは無関係に、世の中は淡々と流れていく。その流れが、孤独を感じさせるのかも知れない。私はここにいるのに、私は何を求めているのだろう。気持ちが不安定なまま生きるのは素直に嫌だ。無意識に、私は闘っているのかも知れない。目覚めると一日が始まる。爽やかに目覚めなければいけないのかも知れない。始まってしまえば時間は無感覚に流れていくのだから、一日は早い。気づくと季節は変化している。自分にとって、別の世界があるような淡い予感は、ある。私は何を見ようとしているのだろう。淡々と流れる時間の向こう側に、私は何を見ようとしているのだろう。自分をどきどきさせることを私はまだ、期待しているのだろうか?私は自分に行きづまっているのかも知れない。本当の私はここで終わりなのかも知れない。世界は思った以上に狭かった。科学の進歩で寿命が延びた。それはそれでいいことなのだろう。生きなければならない。でもそんなに働けない。そんなにがんばれない。会社はやっぱり休みが多いほうがいい。過酷な環境で自分を鍛えたいと思った無謀な時期が馬鹿に思える。そんなに私はつよくはなかった。だからあの時転職したのだ。我慢をしていたら、精神も肉体もぼろぼろになっていたと推測する。人を完全に信用出来るほど、私はもう純粋ではない。純粋とはきっと、馬鹿を美しくばかにするための言葉なのかも知れない。経験を、大事にしなければいけない。向き合いたくない経験こそ、大事にしなければならない。現実の世界でまた向き合わないために、自分の内側にある向き合いたくないことと、向き合わなければならない。感性は昇華され、私にとって不必要な感性が淘汰されていくだろう。私の本質は何も変わってはいない。ただ、感性が変化している。経験は痛み。痛いからこそ記憶にこびりつく。そのこびりつきを取るには時間がかかる。その時間が何でもない日常の流れの隙間にポツンと現れる。微妙なバランスで、私の精神は正常を保っているのかも知れない。ひとり言を言っている私を、母に気持ち悪いと言われたことがある。無意識に私はひとり言を言っていた。きっとそのこびりつきと、闘っていたのだろう。いま会社を辞めたら私はもしかしたら、そのこびりつきに支配されてしまうかも知れない。現実との接点があるからこそ、私は“私”を保っていられるのだろう。自分に対して何気なく不安。恋愛ではもう、この種類の不安は消えないだろう。精神的に稚拙な男はもう無理かも知れない。日々流れていくことの中に、生身の“わたし”を感じる。皮膚の下を流れる血液を感じる。私は生きている。この事実にどきどきする。私の中を流れる情報をすべて取り去ったら、どんなに楽になるだろう。みんな平等だったあの頃に、戻れるかも知れない。平穏と焦燥が入り混じったあの頃に。何も怖くなかったあの頃に。今日は何だかもの悲しい気分になる。今日の私は物憂げな目をしているだろうか。鏡を見るのが不安になる。傷ついた自分に酔っている?だからそのための音楽を聴くことにする。過去に聴いた音楽が、今の私を救ってくれる。無意識に、精神の安定を求めている。安心したい。癒されたい。それが今の私の無意識の欲求なのかも。大人の世界は素っ気なく、淡々と流れていて、孤独を楽しめるならば心地いい。自分の輪郭をはっきりと浮かび上がらせてくれる場所。その場所で、“いま”の私は気づいたら生きている。そんな場所でも自由に生きたいと思う。目の前のことに対して自分に合った選択をしていきたい。だから自分の頭で考えなければならない。それには知識が必要だ。そっと秘密裏に、自分を高めていかなければ。薄い繋がりをはっきり切る勇気を、その時すぐに使えるように、何気なく持っていたい。別に友達ではない、別に仲間ではないと、はっきり言える自分を何気なく持っていたい。自分の生活の輪郭をはっきりさせ、不法侵入者に対してそれをいつでも突きつけられる、精神的なつよさを持ちたい。学生の頃のほうが、精神的に苦しかったような気がする。社会に出てからは素っ気なく裏切れるので楽。私は“私”でいられているような気がする。とりあえず生活のために働く。より自分に合った環境で働きたい。与えられた仕事はきちんとやる。ただそれだけだと思うし、それだけだったような気もする。必要以上の繋がりを求めるから、きっとおかしくなっていくのだろう。人にはそれぞれ心地のいい距離感がある。変な仲間意識はそのバランスを破壊してしまう。殺すわけにはいかないから、近づかないようにするだけだ。世の中はテイサイのいい殺し合いだと、何気なく認識するようになった。俯瞰で見渡せば、それはそれで世の中のバランスを保つためだろう。殺し合いの激しい現場には近づかない。目の前の生活を維持していかなければならない。より静かな快適な生活を提供してくれる“それ”こそが、今の私にとっての真実だ。だから“いま”の会社は“いま”の私にとっての真実なんだろう。過去の真実だった価値観をバカ正直に心酔するわけにはいかない。時代は変化している。価値観や道徳なんて、きっとファッション的なものだろう。精神は周囲に敏感に反応する。その周囲に反応し過ぎて、今まで私は苦しかった。無知だったから苦しかった。私は“私”だ。私には私の生き方がある。私は私の頭の範囲内でしか生きられない。苦しいのは自分に対して無理をしていることと、最近何気なく理解した。出来ないものは結局出来なかった。出来る人に任せればいい。出来ない自分がわざわざやり、ストレスを感じる自分はバカだった。転職は、自分の精神と肉体を救うための最善の方法だったと、自分を納得させる。そのことで、両親との距離感が歪んだけれど、父が亡くなり母と二人だけになって、それはそれで過ぎた出来事として、それでも今の私にこびりついている。出来ないものは出来ない。でもやってみなければ分からない。私だって、必死に生きている。自分を愛することなんて、そう簡単には出来ないことなんだと思う。私は自分を信用しようとしている。だからこんなにも、もがいているのだ。普通に生きていくことのほうが、熟練した高度な技術を必要とするのかも知れない。会社を辞めてしまいたい。もう大人だから、会社を辞めた時のめんどくささを思ってとりあえず出勤する。悲観しているわけでもない。何かのひょうしに大金が手に入れば、素っ気なく辞めてしまうだろう。そんなバランスの中で今日も出勤する。会社員をすることで、どこかの境地には辿り着いている実感がある。だから今の環境を捨ててしまえる覚悟はあるけれども、僅かな貯金を考えるとその覚悟をすぐに採用するわけにはいかない。とりあえずは「また朝か……」という言葉を飲み込む。精神のどこかを“つん”とつつかれたら、一気に私の精神のバランスは歪んでしまい、理性的な感情のコントロールが出来ないかも知れない。私は“私”が怖い。人が、連続した行動をやり続けるには、思想が必要だと気づいた。今までの思想では、会社員を続けることは、そろそろ出来ないという予感がある。収入を得、そのことによって生活の幅が広がって楽しかった。自分の好きなものが買える。それは快楽だった。私はもう、じゅうぶん自分を楽しんだのかも知れない。内面をそろそろ書き換えなければいけない時期なのかも知れない。このまま生きてしまいたかった気もする。きっとなるようになるだろう。なるようにならなければ、私はそこまでだったのだろう。今日は天気はいいけれども風が少し強い。そのことに気づけている私は、内面に少しばかりの余裕があるのだろう。今日は久しぶりに熟睡できるかも知れない。当たりまえに眠れていた頃が懐かしい。どきどきする。なぜかどきどきする。別に怯えることなんて何もないのにどきどきする。今という時代に“ぽつん”と放り出された私。とりあえずは生きていかなければならない。それがなぜか滑稽だ。目の前には生活がある。生物的に、私の体は勝手に基礎代謝をしている。死ぬに死ねない。迷惑だけれど本能的に死にたくはない。かわいい洋服を見れば、欲しい。いったい私とは何なのだ?子供を持ちたい気持ちがないわけではない。それはきっと本能的なものだろう。その本能と、どう向き合えばいいのかよく分からない。時代に薄ら笑いで俯瞰されているようで、気持ち悪い。正しさの基準が自分の中で曖昧なのだ。その曖昧さが便秘のようで気持ち悪いのだ。きっと本能だけで生きることを、許さない時代なんだろう。肉体の進化が、今の時代に追いついていないような気がする。時代の進化はその時代に所属する人々の欲望の結果だろう。肉体の進化が昔のままだから、精神と肉体がうまくリンクしないのだろう。子供を持ちたいと思う本能を、現実のいろいろな出来事に、うまくごまかされているような気は、する。私はどうすればいいのだろう。どう生きればいいのだろう。自分にとって本当に大事な事は、誰にも相談することは出来ない。相談したとしても、的確な答えは出てこないだろう。自分のことなのに、自分の事がよく分からない。静かな時間が過ぎていくのに不安がつきまとう。不完全なバランスが、日常を流れていくための完璧なのだろう。完璧な体調。完璧な精神状態。そんな日は、一年のうちに何日あるだろう。淡々と流れていくことこそが難しい。世の中は大きくうねっている。目の前を大きくうねっている。それなのに、私の日常は淡々と流れている。子供の頃、大人の人は何でも知っている。そんな錯覚があった。大人になってみると、大人という人種があることを私は発見する。大人というものを、美しく見過ぎていたのかも知れない。それはそれで人それぞれだから、それらの中で自分として生きる免疫が出来るまで、会社というツールは役だった、という実感がある。いつのまにか硬質な免疫が出来ていた。自分が硬質にならなければ、ちょっとしたくだらない刺激にも崩されてしまう。もう。私は“私”の人生に責任を持たなければならない。それをしっかりと自覚しなければならない。それぞれの人は、淡々と流れている。その中の一人が私でもある。ただそれだけなのに、一日が終わるとくたくたになっている。鏡を見るのが嫌になるくらいに。必死に私は時間にしがみついているのだろう。もうしがみつかなくてもいいと、誰かやさしい人にそっと囁いて欲しい気もする。自分にとって、本当に大事な人を私は求めている。自分の人生を大事に生きたいから、自分の人生を大事に生きている人と関わっていきたい。人を選別することは好きではなかったけれど、これも生き抜くための知恵として、受け入れていかなければいけないのかも知れない。差別をしているわけではない。自分の輪郭をはっきりさせる代わりに距離感を明確にしなければ私自身が壊されてしまう。人の気持ちは大事。それと同じくらいに自分の気持ちも大事。そこに軋轢や緊張感が生まれる。だから私は考え続けなければいけないのだろう。どうやったら、お互いに自分の輪郭を失わずに協調できるのかを。人の気持ちを考え過ぎて、疲れた。私には私の限界があることを知った。世の中は流れている。そんな私の悟りなんか無視して流れている。自分を大事にしながら自分なりに、その素っ気ない世の中に参加し続けなければならない。誰とでも仲良くすることは無理。知り過ぎることによる免疫を、どこまで強くすればいいのだろう。世の中は裏と表で動いているのだろう。私の見えている世界は、全体の何パーセントなんだろう。すべてが見えなくても知らなくても、生きていける。現に私はここに生きている。私は私で精いっぱい生きているのだ。知らないことは恥ずかしいことだと理解はしているけれど。知ったからといって、いったい何が変わるのだろう。見なくていいことと、知らなくていいことの、感性の閉じ具合がうまく機能していない気がする。だから一日が終わるとヘトヘトになっているのだろう。私には私の目に合った景色があるのだろう。地球上に生まれた人間の数だけ視点があるのなら、いったいどの視点が正しいのだろう。自分が所属する集団の中から世の中を観察し、内面を変化させることで協調し、とりあえずはこの会社で私は生き残っている。内面が記憶と共に沸騰している。頭の中では別の世界で私は生きている。現実の私はその私に追いついていない。考えることをしばらく止めたいと思うけれど、すぐに不安と焦燥でイライラする。だから働いているのだろう。働いていさえすれば、その間はそんなもやもやから逃げられるのだから。自分を忘れられている時間はある意味快楽なのかも知れない。私は今の私が嫌い。私の予定どおりの私になっていないから、きっと嫌いなんだと思う。自分の意思とは関係のない不思議な“ちから”によって、今の私がここにあるような気がする。“いま”の私を、私は受け入れたくはない。もっと素直に今の環境を受け入れて、もっと感謝の気持ちを持って日々を流れていかなければいけないのかも知れない。そんなことは頭ではきちんと理解はしている。昨日は平穏にちゃんと生きられたのに、今日は精神的に不安定だ。普通に生きているだけなのに、何でこんなに苦痛を感じるのだろう。よく笑う人、に対して今の私は意味が分からない。なぜ笑っていられるのだろう。何気なく、そんな視線で見てしまう。この時の私の視線は正常だろうか?異常だろうか?絶えず笑っている人は正常だろうか?とりあえずは多数派の雰囲気に合わせることで、自分を守らなければいけない。それは知恵として、理解をしている。自分の価値観を疑いたくなる不安。だからその場に協調することで、安心感を得ているのかも。過ぎてみなければきっと分からないのだろう。過去を振り返り、検証することで、真偽ははっきりするのかも知れない。検証している間も、淡々と時間は過ぎていく。だから歴史は繰り返されていくのだろう。世の中から離れてみなければ、世の中が見えてこない。一度流れ始めた流れは、もうどうすることも出来ないのだろう。その流れに背を向けてしまえる人ならいいけれど、その流れの中でしか生きられない人はどうすればいいのだろう。私は背を向けて転職した。その過去を、何度も何度も考える。なぜ何度も考えるのか、自分でも不思議。今の自分ともう一人の自分。このままの自分でいたくないなら、あの時の判断は間違っていたのではないかと検証したくなる。本当に時間は淡々と過ぎていく。リアルだ。私はもう三十を過ぎた。その時々で、真剣に生きてきたけれど、あっという間という言葉をリアルに実感する。生まれたばかりの私がもう三十を過ぎた。それはそれで運がよかったのだろう。今はいいけれども恐ろしいことがゆっくり近づいてきているような気がする。何をどうすればいいのだろう。何も答えが出ないまま、やっぱり時間は淡々と過ぎていく。もがく内容の質が変化したから、それによって戸惑ってもいるのだろう。一つの問題に答えを出して、すっきりしてそのまま生きてしまえる時間は短い。新しい問題がまた目の前にある。問題というか、不安を感じるのだ。だから人は、仕事をしたいと思うのだろう。自分の輪郭をはっきりさせなければ、何をしでかすか分からない自分が怖いから、仕事をしたいと思うのだろう。当たり前のように仕事をしてきたけれど、最近やる気がない。仕事があるだけで、感謝をしなければいけないのかも知れない。でもやる気がない。素直に辞めたい。会社に対してやり切った感がある。これが一番の憂鬱の原因だと気付いた私。「だったら辞めればいいだろ」と必ず言われるだろうから言えない、からそれが不安として何気なくストレスになっているのだろう。仕事が嫌いだというネタで日常会話をしたい。緊張感が一気に崩れ、一瞬で空気が悪くなるだろう。私はそのまま辞めてしまいたい。曖昧な繋がりをスパッと切ってしまえたら、どんなにスッキリするだろう。世の中にはいろんな人がいる。その事実を実際に自分の目で見ることが出来た。合う人と合わない人。行き場を無くした言葉の流れの隙間を、私はこれからうまく避けながら生きていこう。自分にとって大事な言葉は、それほど世の中には落ちていない。生き延びることにプラス、品を持ちたい。相性もあるし、その時の雰囲気でうまく流れることもある。いちいち傷ついていたら、体力の消耗が激しい。自分を深く見つめ過ぎてもいけない。過去は過去として、流れ始めている。気づかなければ、きっとあのまま流れていけたのだろう。感傷的な気持ちになる時間が最近増えたような気がする。若さには過去がなく、大人には過去がある。その過去が、大人の老化を促進させるのだろう。蓄積された過去を持ち続けることは苦しい。その過去と向き合うことはもっと苦しい。だから大人は本当に大事なことから逃げてしまうのだろう。仕事は本当に大事なことだろうか?自分から逃げる仕事は本当に大事なことだろうか?その仕事の先に、世の中と自分の幸せがあるのなら、それは最も大事な仕事なんだろう。あまりに生活に追われた仕事をすることは、正しい判断を見失う。思想を基準にこれからは働かないといけないのかも知れない。目の前のことにがむしゃらだった。それはそれで美しい日々として、気恥ずかしい思い出になった。もう。あの頃の私ではない。もう、あの頃のまま、生きてしまえない。過去のように生きられるけれど、それは“いま”の私が許さない。これからの私は“いま”ここが、スタートラインだ。自分がやりたいこと。それが世の中から求められることが理想だろう。その理想がうまく機能している人を、私は素直に嫉妬する。そんな人を目の当たりにすると、自分を愛することを、挫折しそうになる。私は“わたし”という認識に、莫大なエネルギーを使ってしまってイライラしてその日は終わってしまう。生まれたことを辞めたくなる。質のいい生き方を求めるから、苦しいのかも知れない。単に生活していければいいだけだったら、こんなにも苦しくならないのかも知れない。自分がますます分からない。この時見えている風景は、後々の私の強力な栄養になるだろう。この時感じる孤独から、私は逃げてはならない。自分をごまかすことを、未来へ先送りしてはいけない。それを本能の声として、これだけはあるがままに受け入れなければいけない。すべての失敗は孤独を源泉とするような気がする。それを体感として、私は知っている。友達との距離感だって、意識的にコントロールしなければいけない年齢に気づいたらなっていた。今まで当たりまえだったことに、私は無意識のうちに考え、疑問を感じ始めている。何気ない風景を、あまりに私は何気なく通り過ぎてきてしまったような気がする。父がいた風景は当たりまえだった。父を失ったという過去の景色が、今の私を少しずつ苦しめる。その景色は内面をゆっくりまわっている。少しずつ血液の中へ、溶けていっているのかも知れない。父が死んだ事実は現実として飲み込んだ筈だった。死とは、ものすごいことなのかも知れない。いづれ私は死ぬということを、日々の私は忘れている。あたりまえなこと。自然なこと。だからといって、不自然に感情を高揚させる気にはならない。生命体としての自分にまで、視点を飛躍させる気にはならない。死んだ父を見た時、そこにはもう父はいなかった。肉体だけがあった。その父のそばに、生きている私が居た。死んだ父を目の前にして、私は生きているということを感じた。自分には体温があった。普段、考えもしなかったそんな事実に気づいた。今の私はとりあえず現実を生きている。隙間時間に過去を考えている。未来は必然とやってくる。淡々とやってくればいい。私はもう、何も期待はしないし、だからといって諦めているという意味ではなくて。自分ではどうすることも出来ない摂理のようなものがあるということを感じているだけだ。私は“わたし”でいようとすることに、執着し過ぎていたのかも。どうでもいいことには流されようと思う。どうでもいいことは、どんどん目の前を流れていけばいい。その時の時間だけは無視しようと思う。自分にとって優位な時間が流れ始めるまで、待つしかない。これを耐えるという言葉で表現するべきなんだろうか。逃げながら楽しみながら、待つことだって出来ると思う。自分の基本を押さえたまま、その回りの形だけを変化させて、のらりくらりとすることだって知恵だと思う。限られた体力を、うまく分配しなければいけない。争うことは無駄なエネルギーの消費だ。うまく避けて、温存しておかなければいけない、という知恵が身についた。過ぎてみて、初めて見えることがある。許せる人と許せない人。私という存在は、今まで私と関わりを持った人たちの記憶の中で、どちらに分類されているだろう。真実を映し出す鏡があるのなら、私はその事実をあるがままに受け入れることが出来るだろうか?勘違いしていられているから、私は社会生活を生きられているのかも知れない。今の勘違いの幅は、許容範囲だと思う。許容されなくなった時、その時は疎外されるだろう。今までなるようになってきた。私は私の摂理をあるがままに受け入れるしかない。自分の摂理からは逃げない。嫌な事を経験したから、自分の輪郭を見ることが出来たと、嫌な記憶を受け入れたい。つよくなれ!私。まだ私には、やるべきことがある。考えることがある。死んだら考えることが出来なくなる。過去の自分より少しだけ強くなっている。もう少し、生きてみたい。死にたかったわけでもない。そんな言葉が不意に流れたことがあっただけだ。今という時代を生きている人は、どんな感じで生きているのだろう。楽しく生きているだろうか?本当に大事なことは本当にしゃべりたいことは、本当にしゃべることが出来ないから。私は私を理解されたがっている。社会の流れの一部として流れている私。感情の乱れを巧妙に隠さなければいけないけれど、時には限界がある。もう無理だと感じた時は、何もやらないことにしよう。複雑な視点の中で、私の心が複雑に掻きむしられている。冷静になれ!私。今の現実に“わたし”を適応させていかなければならない。毎日何かしら軽い苦痛がある。過去の記憶との対峙であったり、同居する母との軽い軋轢であったり。視点を変化させれば私の内面はやすらかになれるだろうか?このままの価値観で生きてしまいたい私とこのままでは駄目だと曖昧に思っている私と。危機感を持てと煽られても……。その言葉に感情が不自然に乱されて、結局“嫌な気持ち”がぽつんと残るだけだ。ふとした情報に目が留まり、真偽がはっきりしない“それ”に内面が掻きむしられる。私なりの日常が停滞してしまう。無責任の煽りは迷惑だ。その都度情報を集め、自分を深く見つめなければならない。結局自分に帰ってくる。情報を無責任に発した人は、それを理解しているだろうか?説明を受け、納得したつもりになっている私が結局、馬鹿なんだろう。曖昧に捉えていたことを分かりやすく説明されることで、一時的に安心する。ただ時間が過ぎてみると、自分の現実は何も変化なんてしていない。人は結局不安が嫌いだ。生活に直結しない知識は私の中で淘汰されていっている。知識と現実の生活。結局私は何になりたかったのだろう。仕事はとりあえずやってはいるけれど、仕事は何をやってるの?と訊かれたら、「会社員」と答えるしかない。淡々と流れている時間の中で、自分の立っている場所が分からなくなる時がある。実力って結局なんだ?最近一日終わると虚しくなる。気づくと“ぽつん”とした私がいる。激しく心を動かされたことに、最近いい意味で心が乱れなくなった。もういいのかも知れない。今の環境に対して、私のある部分が限界まで高められ、その部分が“もういい”と私に言っている。どうする私?淡々と今の環境で流れていきたいという私と、今の環境に息苦しさを感じ始めている私。でもまだ大丈夫。今の環境のまま、もう少し流れていける。それほどせっぱ詰まった息苦しさではない。ネットの情報は錯綜し過ぎていて、あまりに自分の現実と乖離していて、読めば読むほど頭がくらくらする。情報の取り過ぎは害になるということを体感している私。いったい真実はどこにあるのだろう。何を無防備に信じられるのかよく分からない。不安を抱えながらとりあえず朝が来て働き夜になって眠る。そうやってこの地球上に存在している人類の一部の私。だから何?って自分で思う。もっと私はふつうに生きたいのかも知れない。私にとってのふつう。世の中の流れに会社を通して合わせなければいけないのは理解はしている。私はロボットではない。出来ないものは出来ない。複雑な葛藤をして辿り着いた私なりの境地が今はある。若いからこそ出来たことが今は出来ない。体力的なことではなくて、感覚的に、もう出来ないのだ。プライドとかではない。出来ないものは出来ない。やりたくない。過去は過ぎた。その時の新鮮な感覚も憎しみも過ぎたのだ。その余韻を引きずったまま、今まで私の時間は過ぎた。その間に私のもやもやした記憶は少しずつ昇華されていった。だから私は今、ぽつんとした気持ちになっているのだろう。過ぎてみれば早かったと思えるけれど、過去の匂いのする場所、人とは正直関わり合いたくない。そこを何とか通り過ぎて、今の場所に私がいる。その今の場所に、息苦しさを感じている私。この場所が私の最終到達点なのかも知れない。とりあえず私はもがいてきた。気づいたら、私はぽつんとしている。だから私にとってはふつうに生きたいと感じるのかも知れない。過去に振り回されて、何だか疲れた。そんな感慨だけが、ある。これからやってくる私の未来は、少しでも良質になっただろうか?過去を反省し、飲み込んだことで、未来は変化しただろうか?熟睡できなくなったのは、いつの頃からだろう。心臓が締めつけられる感覚がするから、ストレスで自律神経が血管を締めつけているのだろう。疲れているのによく眠れない。訳が分からないまま、最近一日が過ぎている。起きているのに起きていないような。それは起きていることを、私が望んでいないからかも知れない。きっと、みんな自分が不安なのだ。自分にとって本当に大事な気持ちを、最近私は誰にも言っていない。気持ちのバランスが、不安定になっているのかも。言っていいことと、そうでないもの。そのブレーキを調節することが最近めんどくさい。それはそれで、複雑に脳を瞬時に働かせるから疲れる。ストレスで、私は死んでしまわないだろうか?うまく自分をコントロールしなければいけないということは知っている。私はそんなにつよくない。つよい人に甘えたい。こんな自分が“いま”ここにいる。過去の恋愛は、稚拙な夢だったような気がする。過ぎた時間に恥ずかしい。だからサッサと遠い記憶の場所まで過ぎてしまえばいい。これから私は人を好きになることに、慎重になるだろう。自分の弱い部分を知ったから、その部分に巧妙に触れようとする人から、自分を守らなければいけない。私はそんなにつよくない。でもそんなに弱くもない。今日も何気なく嫌なことがあったけれど、気づいたら夜だ。一日が終わっている。今雨が降り出してきた。梅雨だけど、部屋は除湿をしているので快適なのだ。お風呂に入ってこの部屋に戻ってきた。この時間が一番私は好きかも知れない。もう眠りたいけれど、眠ってしまったらすぐに朝が来てしまう。でも本当には眠れていない。浅い眠りなのだ。私はどきどきしている。何をこんなに怯えているのだろう。原始的な本能で、何か危険を感じているのかも知れない。どうなんだろう?そんなことを考えているから、きっと眠れないのだ。ぐっすり眠れる日は来ると信じたい。こんな感じで何とか生きている私。このままの私では、外には出られない。だから私はお化粧をする。そのままの私で生きてこられたのは何歳までだっただろう。純粋だった私が今は懐かしい。このまま生きてしまってはいけないような気もする。そんな焦燥感さえ、過ぎようとしている。純粋に夢中だったし、純粋に日々が新鮮だった。そんな過去に対して、あったような気もするし無かったような気もする。過去に過ぎた人が、人を介して私のことを知っていると“いま”の私が聞いた時、その人は私の事を知っていても、“いま”の私の記憶には存在していなかった。学生の頃、私はその人に対して興味が無かったのだろう。興味が無いことを巧妙に隠して、仕方なく会話をしていたのだろう。同じ時間を過ごしていながら私には記憶が無い。記憶の中に存在していない同級生。それはそれで意地悪な気持ちで楽しい。別に好きで同級生になったわけじゃない。ただそれだけのことなのかも知れない。妙な仲間意識はない。仕方なく笑っていたような気もするし、仕方なく一緒にいたような気もする。卒業してからかなりの時間が過ぎている。私は“いま”の時間を生きている。過去の時間を生きてはいない。私にとって、過去は過ぎたのだ。過去の友達は記憶の点として昇華され、今の私の下地になっている。過去の同級生に会い話し掛けられると、違和感がある。距離感がしどろもどろになり、うまく会話が出来ない。私にとって、過去は美しかっただろうか?過去がうまく今の私に融合しない。だとしたら、過去の余韻を引きずったまま、今の私は生きているのだろうか?今日は頭の中がうまくまとまらない。不自然に記憶が暴走している。過去の記憶は美しく都合のいいように昇華されている、なのに私の過去を知る“過去の人”が別の視点から私を突きつける。戸惑っている私。はっきり言って迷惑だ。せっかく苦労して自分を昇華させたのに、無思想に生きていた自分に引き戻そうとする。何やら無残な罪悪感を感じる。きっとその弱さや罪悪感と、何気なく今まで闘ってきたのかも知れない。だから今はそっとしておいて欲しいのかも知れない。過去から急速なスピードで、現在へ飛び越えたのかも知れない。それを過去の人と触れることで、はっきり自覚出来たのかも知れない。今の私は何気なく生きてはいない。それを感じることが出来た、何気ない経験だったとこの経験を昇華する。昇華させることで、私は自分を冷静にしようとしている。これは悪いこと?そうしないと明日、会社に行けないかも知れないから。今日もまた、よく眠れないだろう。それでも明日は時間的にやってくる。体調は良くもなくちょっと悪いと感じるくらい。このくらいが日々を生きるには、調度いいと思えるようになった。あまりテンションを上げると体力が持続しない。気合で乗りきっていた自分を今は馬鹿に思える。これからは、体力も頭を使ってうまく配分しながら使っていかなければならない。もう過去の私ではない。でも経験から得た珠玉の知恵がある。もう過去なんだ。美しい思い出も悲しい出来事も、みんなみんな過去なんだ。終わったことに、私は今までいじいじしていた。もう過去にしよう。私はいつか必ず死ぬ。重要なことは、たったこれだけのことだったのかも知れない。仕事で失敗した時、一瞬だけれど死にたかった。かなり落ち込んだ。過ぎてみれば何とも思わないという言葉が、その時心の底から憎らしかった。今はその言葉がはっきり理解出来る。過ぎたのだ。過ぎてみれば早かった。だから今は何とも思わない。いい経験をしたと、八〇パーセントで思える。それくらいまでに、精神が回復した。私のいのちが生きたがっている。私のいのちがまだ、死にたがっていない。まだ私の死ぬべき“時”ではない。時間が過ぎれば、もう少し私の有利に働く時間が順番として廻ってくるかも知れない。だから今は静かに耐えようと思う。耐える時間だと思う。それまで私は逃げる。どんどん逃げる。今の私はだからこれでいい。私は私の時間を生きる。もっと自分に素直に生きられると思う。私は“いま”を生きているだろうか?過去という時間にまだ縛られている。“いま”という時間を生きていながら、私は今、いつの時間を生きているのだ?後悔をしているわけじゃない。あの時の私では、その時起こった現実に、うまく適応出来なかった。?……!後悔しているではないか!私。後悔をしているから、もう二度と後悔はしたくないから、こうして過去を“現実の今”を生きながら反省し、今の私だったらどう対応するかと、幾度もシュミレーションしているのだ。過去の私ではない。もう過去の私ではないのだ。今という現実に過去に起こった出来事が目の前に現れても、今だったら私らしく、うまい対応が出来ると思う。時間は過ぎている。なのに私の成長はゆっくり過ぎて、“今の現実”にうまく対応出来ていない。私の内側に、処理されない過去が堆積していく。それでも“今という現実”は淡々と過ぎていく。過去を抱えながら、今という現実を生きなければならない。“今”という現実を維持しながら、過去を昇華し、決別していかなければならない。現実はそれ程甘くはない。それなのに、過去が私を苦しめる。今という現実をなんとかやり過ごし、後悔する過去にならないように細心の注意を払う。今の私は過去からの連続した末の私。淡々と過ぎてきたし、これからも淡々と過ぎていきたい。それは私の独りよがりの願望だって、何気なく理解はしている。私の所属する会社に私は身を任せている。そんな私の苦しみなんて、きっと会社は理解なんてしていないだろう。理解なんてして欲しくないし、そんな本当の苦しみなんて知って欲しくなんかない。会社は仕事をするための神聖な場所。とりあえずはその神聖な場所で与えられた仕事を遂行するだけだ。ただ求められている自分に私が納得していないだけ。私はいったい会社に何を求めているのだろう。馬鹿で無能な男の可能性をいつまでも信じている馬鹿な女みたいに自分が見える。所属する会社の現実の輪郭は、それほど美しくはなかった。会社へ繋がろうとした私の努力は無意味だったのだろうか?会社に、より繫がることで結果、社会に貢献しているというプライドがあった。だから何気なく頑張った。私はただの労働者階級だった。それを理解してからは、余分なちからが体から抜けた。被害妄想かも知れないけれど、私はうまく働かされていたのかも知れない。なんというか……働きたくない。必要以上に働きたくない。子供がいなくて良かったなと、何気なくホッとしている自分がいる。美しい言葉は個としての輪郭を取り払ってしまう。まるで魔法を掛けられたみたいに内側からエネルギーが溢れてくる。どうやらその魔法が解けたようだ。今まで私は私なりに頑張って生きて来た。今、私のやるべきことは“いま”を感じることだと直感する。世の中は激しく動いている。それはそれで、大変なことだと理解はする。私はいったい“いま”何をやるべきか?あまりよく眠れていない。だから“いま”はゆっくり眠らなければいけない。母の趣味はガーデニングで、今まで私は一切興味が無かった。最近ふと、その何気なく咲いている花が、美しく瞳に映るようになった。自分に適した季節に、身の丈に合った花を開かせている。私は疲れているのだろうか?それさえも、自分のことなのによく分からない。疲れているなら眠ればいい。そんな簡単なことさえも、いちいち自分に言い聞かせなければ“いま”の私は自分を理解させることが出来ない。私には出来ないこと、私に出来ること、が、こんな状態になって初めて理解できたような気がする。もうがんばらない。出来ないものは出来ない。三〇を過ぎて口のうまい人は、もしかしたら危険かも知れない。人見知りは自分を守るための、防御本能かも知れない。今の私は完璧に自分を信じることは出来ない。なのに人を完璧に信じることなんて出来るだろうか?日々、自分に対してもがいている。けれど弱さに逃げたくはない。これは私にとっての危機感だ。その弱さに入り込もうとする触角を、何気なくガードしなければならない。弱さの固まりとして群れたくない。個としての私として、流れていきたい。まだ私は大丈夫。何が大丈夫か分からないけれど、今まで“磨いた感”がそう私に言っている。今日は天気がいい。洗濯物がよく乾く。今日の私は気分がいいかも知れない。“いま”という現実を感じられている。過去にも未来にも束縛されていない。とりあえずは何とかなるだろう。油断すると、すぐに不安で押し潰されそうになる。自分一人だけ、取り残されているような“寂しさ”を感じているような。だからありもしない“本当”を求めたくなるのかも知れない。本当の友達、本当の仲間、本当の恋人……その他多数。私はもしかして、潔癖過ぎたかも?日々を流れていくには中庸がいい。毎日毎日肌の調子が良いわけじゃない。見られたくない肌の時には会社に行きたくない。日々の流れに自分の体質を適応させなければならないことを、受け入れなければいけなかった。もっと楽に流れていけると思う。もっと楽に流れていくための方法を導き出せる材料が、私の内側にはまだまだ眠っている。その材料と向き合い、自分を修正していかなければならない。普通に生きていながら、私は私で忙しい。何もしていない時間がきっと一番大事なのかも知れない。体はお酒を求めていないのに、脳がお酒を求めることがある。次の日は怠いと知っているのに飲んでしまう。何もしないことは大事だって理解はしているのに何もしないことが不安になる。自分の複雑な仕組みを、まだうまく使いこなせていない。私は私自身に対してぎりぎりだ。肉体的にも精神的にも、自分を投げ出してしまいたいぎりぎりの地点でやっと生きている。「もういい」という言葉が出る数ミリの一歩手前のぎりぎりの場所で私は今、立っているという実感がある。これからはもっと中庸になれると思う。年齢を重ねることで、やっと理解できることもある、ということを理解できたような気がする。私は地理的に移動することは好きじゃない。インドア派だ。ただ、精神的にはほんのちょっとだけ高い場所までやってきたと実感できる。どこまで私は到達できるだろう。ただ地理的に動き回ることだけが好きな人は、きっと何も見えてはいないだろう。どこそこに行ったという事実しか、得ているものはないだろう。心がそこに無ければ、本当に行ったことにはならないのかも知れない。高鮮度の映像をぼんやり見ている時と、それほど変わらないのかも知れない。自分に合わない経験は、無感覚に過ぎていく。自分に合わない人達も、無感覚に過ぎていく。距離感だけがそこにあり、その距離感をうまく使って私は今まですり抜けてきた。極度の緊張感のある距離感は、もう耐えられそうにない。適度の範囲に触角を臆病に伸ばし、危険を感じたら何気なく寄りつかないようにしよう。これからはさらに意識的に、自分を守っていかなければいけないような気がする。そのまま生きてしまえる限界点に、今、私は立っているのかも知れない。コンプレックスというバネでその勢いで、今までそのまま生きてしまえたような気がする。新しい自分を生きるには、勢いではない冷静で普遍的な思想が必要だ。内面を変化させなければならない。過去の自分を深く見つめなければならない。このままの自分で生きてしまうことに恐怖を感じない人が、きっと群れるのだろう。この場所で、繋がりを広げたくはない。弱い者同士でみじめさを共有しているバーベキューみたいで、何気なく近寄りたくはない。きっと群れている人は孤独で不安なんだと思う。顔は笑っているけど目が寂しそうだ。寂しい人ほど良く笑うという事実。私は寂しくないから不必要に笑わない。大人だから、ある程度は流されるけれども不必要にはもう笑わない。もうあの時の自分なんかじゃないから。過去の自分が今の自分を苦しめる。弱かったし、知恵も知識も無かった。だから迎合するしかなかった。今の私の反対の向こうの真正面には、そんな過去の私がいる。そこからの反動で勢いで、今の私が、いる。支点を上げなければ、今とあの時の自分を振り子のように行ったり来たりの繰り返しをするだけだ。今の振り子を捨ててしまわなければ、次のステップには上がれない。本当の勇気を、私は何ものかに試されているような気がしてならない。過去に感じたことのないような焦燥感が“いま”の私を苦しめる。時間は淡々と流れていく。しかも平等に流れていく。その時間を自分にとって正しく使いたい。自分が今やっていることに、「何やっているんだろう……私」と感じることがある。学生の時は、より高い点数を取ることで、それが何よりの正しさだった。今私は社会人。自分にとっての正しさが、まだ理解出来ていないのかも知れない。私は今、自分に対して正しく生きているだろうか?最高に難しい問題を解いているような気がする。要領よく仕事をこなしていくことで、少しずつ自分に気づいていく。仕事をこなせるけれども今の自分ではもうやりたくない。会社をいくつか変わったけれど、過去の会社について、そんな感慨がある。理想とする生き方を生きられる人は幸せかも知れない。私は私の生き方しか出来ない。それを社会人の始まっていない人達から見たら、滑稽に見えるんだろう。私もそうだったから、今だったら理解出来る。出来ないものは出来ない。向かないことをするのはいくら給料が良くても続かない。ひっそり生きられればそれでいい。社会人になった私には、目の前の生活がある。人に迷惑を掛けずにとりあえず生きている。私は私以上でもなく、私以下でもない。過去にノスタルジーを感じている時間はもう終わったのかも知れない。今を生きなければいけない。優越感は、人を盲目にさせてしまう危険性があることを、社会人になって知った。自分が幸せな時、人の目は笑っていない。危険な視線に絶えず晒されていることに、絶えず危機感を持っていなければならない。普通に生きていくにはしたたかさがなければ生き残っていけないのかも知れない。私は私と母の生活を守らなければならない。それ以上でもそれ以下でもない。曖昧な繋がりなど、すっきり切ってしまいたい。内面の奥底では、いつでも裏切れる準備はしてある。今はそんな自分を楽しめるようになっている。そんな自分の変化が怖くもある。正しく裏切りたい。痛い目に合った時、感情でごまかすのはもう止めよう。他のやり方を見つけて“いま”こうして生きているのだから。まだ私は生きられる。私自身がまだ生きたがっている。でも私は芸術家ではない。独りよがりに近い感情では生きられない。今所属する会社で、私はいったいどれくらい輝けるだろう。組織は息苦しいけれど、まだ我慢が出来るレベルだから精神的には大丈夫。社会に対して若さゆえの感情的な主張があったけれど、びっくりするくらい“いま”は無い。全く無い。きっと、安っぽいアーティストに悪影響されたのだろう。社会に出ることで、安っぽいアーティストから強制的に卒業出来たことは、私にとってはプラスだったと断言出来る。生きることは孤独だった。だからこそファッションを自分なりに楽しむことだって出来る。それでも私は私だと、主張することがファッションだと思うから。何もかもが、きっと少しずつしか進まない。“いま”生きている時代にいらいらする。それはそれで、正しい感情なのかも知れない。ただ。いつの時代もきっとこんな感じで人々は生きていったのだろうと推測する。それでも日常は淡々と過ぎてきた。それでも時間は淡々と過ぎてきた。過去の芸術作品を美しいと感じるなら、人間の本質というものは、何も変化はしていないのだろう。時代は変化しているのにその時代に所属する人間は何も変化はしていない。感情の憔悴で、好きではない人を好きになったと勘違いしたりする。本当に大事なものが、見えにくいような気がする。それがはっきり見えた時、私は今までの自分に自信が持てるだろうか?人間の本質に逆らって生きているような気がしてならない。それでも“いま”所属する世の中に時代に合わせて生きていかなければならない。きっと“いま”生きる時代に生まれてきたことは、不幸でも幸せでもない。生まれてきたという“事実”だけだ。過去は過去で、その時代に所属した人達は、大変だったのだろう。未来から過去を見るから、いい時代だったと感じるだけなんだろう。未来を生きる私は過去には生きられない。過去から学んだ知識の効力で、私は今現在、正しく生きているだろうか?結局私は自分の事を何も理解はしていない。だから他人のことが気になるんだろう。仕事で自分をごまかすのは止めよう。とりあえずは生きている。今はそれだけで美しい、とも思えない。いつからこんなに朝が来ることが苦痛になったのだろう。もう憶えてはいない。淡々と、憂鬱に、刻々と過ぎていく時間。私の人生は、歴史の流れに少しでも貢献しているだろうか?。眠ることで、私の頭の中は整理され、洗練されていく。どんどん過去になっていけばいい。何でもない日常が、どんどん過ぎていけばいい。その早い繰り返しで、私は何かしら変化するだろうか?そんな淡い期待が自分に対してまだ、ある。きっと私はまだ進化する。もう過去の私のようには働けない。そんな自分が今となっては懐かしい。過去の私と今の自分。過去の私は自分を好きになろうと必死だった。だから今の私はちょっとだけ自分を好きになれている実感は、ある。支点が変化していることで、見える風景も絶えず変化して映る。もう、出来ないものは出来ない。生きるために必要な分だけ働けたらそれでいいと思っている自分に最近気づいた。私には流れを作り出す才能も魅力もない。だから大きな流れに不快感を持ちながらも迎合している。無心になっていることが、心を閉ざしているのか、大切なものをすでに諦めてしまっていて、それでも何とか自分を守ろうとして閉ざしているのか、最近よく分からない。生きているのか死んでいるのか、よく自分でも分からない時がある。今までの経験による反射で、無意識に頭を使わずに対応しているだけだ。毎日のことだから、エネルギー消費を抑えなければならない。世の中に少しでも貢献したいという純粋な緊張した社会に出る前の私の決意は、過去の私と共に何気なく過ぎてしまった。その決意は、今の私に受け継がれていない。これはこれで滑稽な事実だ。私の目の前には生活という現実がある。いや……ふつうに生きていることこそが、俯瞰で見れば、世の中に対する貢献なのかも知れない。税金はきちっと支払っている。自分なりに働いている。人に迷惑は掛けていない。大きな組織を導き、世の中に多大な貢献をする才能は私にはないけれど、自分に対して責任を持って生きている。ふつうに生きていても誰からも褒められないし、あからさまに尊敬もされない。淡々と時間が過ぎていくだけだ。淡々と時間は過ぎたけれど、個人として生きられるスキルは身についていない。会社の中でだけ、通用するスキルだということに、最近ふと気づいた。会社の中は忙しい。それが社会的な自分の価値というものを盲目にさせる。井の中の蛙の中で、どうでもいい優越感を競い合っている滑稽さ。個人で生きられないから、本当は不必要な努力で、何とかより大きな組織に食いこもうとするのだろう。それはきっと間違ってはいない。弱い人の生き抜く知恵。私は強くはなかった。だからきっと、今の私は間違ってはいないと自分を納得させる。時代の流れは正しい。だから私はその時代の流れに、うまく自分を合わせていかなければならない。ただ、個人として合わせていける実力はなく。会社はもう、辞めてしまいたいと何気なく思っているけれど、目の前の生活を考えると。こんなことを無意味に反芻しながら私の時間は淡々と過ぎてきた。考え続けている私には、きっとプラスのエネルギーが溜まっていると信じたい。自分の意識をしていない場所を信じたい。私が生まれる前の世の中に、そして私は生まれてきた。母に望まれて生まれて来たと、母から何気なく聞かされた。その時私は何気なく嬉しかった。母は子供を望み、そして私が生まれて来た。うっかり出来てしまった子供ではなく、望まれて生まれて来たのだ。待望の私なのだ。プライドを持って生きられる、じゅうぶんな理由がここにある。今という“点”から誕生したその時の“点”まで、やっと直線で繋がったような気がする。なぜ私はここに生きているのだろう?それは望まれて生まれてきたからだと、今だったらプライドを持って言える。私は愛されて育てられてきた。それだけで、ここにいる意味があるじゃないか?時代の歪みをうまく擦り抜けていきたい。会社に対して必要以上に愛されたいとは思わなくなった。だって私は両親から、じゅうぶんな愛を貰ったのだから。無理なものは無理と、過去の私に言ってあげたい。自分に対して無理をしたから本当の自分に気づけた。社会に対して無知だったから、会社に対して適度な距離を取れなかった。輪郭や距離感をはっきりさせることは孤独かも知れない。曖昧にへらへら笑っているほうが緊張感はない。でもそんな私が私は嫌だった。過去の自分に勝ちたかった。孤独は寂しいものじゃない。宇宙に浮いているあまたの星々は寂しいだろうか?誰かと一緒にいることで、とりあえずの安心を得られる時もあるし、みじめな気持ちになることもある。仲間とは、微妙な言葉なのかも知れない。今の私は仲間というものを感じさせる集合体には近づきたくはないという本能のようなものがある。触角が一瞬でざわつきピリピリする。生命の危機を感じるように。もう私は子供ではなく大人なのだ。大人には、明確な裏がある。その裏には出来るだけ近寄りたくはない。その裏をも飲みこめる人が、きっと政治家方面に向いているのだろう。私には無理。私は私でいたい。難しいことだけど、それでも私は私でいたい。人にはそれぞれ役割がある。私には私の役割がある。人の気持ちは大事だけれど、自分の気持ちも大事。だから無理なものは無理。過去の記憶を何度も何度も引っ張り出して、何度私はこうして今の自分を納得させているのだろう。いつもいじいじしているような気がする。人は、長い時間を掛けてゆっくり自分を飲みこんでゆくのだろう。自分を知らないから見られる夢から自分を知ってから見る夢へ、今私は移行途中なのかも知れない。自分を納得させるための孤独を、私は今現在味わっているのかも知れない。遠くでカラスが嫌な声で鳴いている。今の私にとっては不快感の声だ。まるで嫌な人の声を聞くようで、胃がしくしくする。カラスの中でもその中で嫌われているカラスもきっといるのだろう。近寄りたくはない。羽があるのだから、居心地の良い場所へ行けばいい。こんな感じにカラスの声だけで感情が乱される。感覚が鋭敏になり過ぎている。もっと自分の呼吸を感じよう。ゆっくり呼吸して、自分の代謝のリズムを感じよう。何もやらない。何も考えない。何も感じない。今の私だったらこれが出来るかも知れない。今の私に必要なことは、何も感じないことなのかも知れない。自分の呼吸が整うまで何も感じない。だから自分の呼吸だけを感じよう。鼻から息をゆっくり吸う。それが全身にいきわたるのを感じる。音に対して最近敏感になり過ぎているのかも。生活音や動物の声。その質までが記憶に残っている。昼の音はざわついていて、それだけでストレスになっていると思う。伝えようとする音が強過ぎる。だから一刻も早く自分の仕事を終わらせて、家に帰りたいと思う。こうして今の私は今という時代を生きている。疑問を抱えながら、投げ出したい気持ちをぎりぎり抑えながら、何とか生きている。そんな自分を滑稽だと、冷淡に見ている自分もいて、だから時々私は自分が分からなくなる。冷淡に見ている自分だけでいられたら、どんなに楽だろう。私は人間だから、だから人間以上にはなれない。私は自分を生きながら、自分を観察もしている。流れは絶えず変化する。観察する側の上司は観察される側に変化した。あの時あの上司は、自分も一人の人間だったと自覚しただろうか。今となってはどうでもいいことだけれど。過去の記憶で楽しめる。過去の記憶と向きあうことは、最高のスリルがある。私はどんどん自分を暴いているのかも知れない。今の自分が自分でいられているのは、もしかしたら嘘かも知れない。虚像の自分かも知れない。過去の記憶を発掘することで、今の自分を維持できないほど、輪郭が崩れ去ってしまうかも知れない。自分に嘘をつき続けることは難しい。私はもしかしたら、いくつかの記憶を勝手に都合よく操作したかも知れない。だとしたら、今の私の一部は嘘になる。長く生き続けることで、私は少しずつ暴かれていくだろう。日々の何気ない視線で不意に、私は戸惑ってしまうかも知れない。みんな自分を正しく把握しているだろうか?人は弱いから、自分を勘違いさせてくれる存在をどうしても好きになる傾向がある。人は適度に適当に褒めておけばいいという技術を会社員で学んだ。その方が自分を守れるから。裸の王様を裸だとは言わない。ただ裸の王様をいつでも裏切れる準備は気づかれないように進めておかなければならない。裸の王様を裸だとはっきり言うためには、適度なポジションと覚悟が必要だ。それを今になって理解した私は、結局馬鹿だったのかも知れない。純粋だった私が一番嫌いだった私になっている。過去の私について思う。馬鹿って。純粋な目は、そのものが見える。ただ見えたことをそのまま言うには、リスクを覚悟しなければならないということを社会に出て痛みとして知った。私はいい人ではない。かといって特別悪い人でもない。そのバランスを取るために、曖昧な距離にいる人に本心を言ってしまい、その言葉を流され痛い目にあったこともある。私は言葉を飲みこむことを習熟しなければいけない。きっとどうでもいいことに感情を激しく動かし、無意味にそれを言葉に訳していたのだろう。訳した言葉を内側に溜めておく器には限界がある。もう私は子供ではない。見ないことも重要なのかも知れない。サッと流すことも必要。でないと自分がおかしくなってしまう。自分に対する悪意のある視線を効果的に消去してしまう内面の動かし方も、知らないうちに身についている。私は無意識に進化している。退化はしていない。自分を注意深く観察して、そう確信できる。人の名前が最近覚えられないのも、それは退化ではなく記憶の洗練だからだろう。名前を脳が憶えようとしないのは、私にとってその人は記号のような存在だからだろう。日々の生存のためにはいざとなったら必要ではない。だから私の脳はエネルギーを使ってまで憶えようとはしない。誰とでも仲良くしなくても、生きていける。その事実を社会人になって突きつけられた。誰とでも仲良くすることは、その逆で危険だった。大人の世界には利害や欲望が錯綜する。きっともう純粋な付き合いなど、出来ないのだろう。ただ子供の時も純粋な付き合いなんて無かったような気もする。一人でいるのが嫌だから、仕方なくこの子と一緒にいようと思っていた自分と、今になって向き合えている。そんな自分に静かに悶々としてきて今の私がここにある。過去の私を今の私は飲みこんではいない。そんな過去の私はいづれ、昇華されていくのだろうか?過去の余韻で今を生きている。過去の匂いが時々鼻腔に香る。別に。過去から逃げているわけではない。過去を整理出来なければ未来が入ってこない。現実がその場その場で曖昧に過ぎていく。その場その場の繋がりなど、私はすでに求めていなかったのかも知れない。過去を見つめることで、今を生きる私の思考が修正されていく。恋愛は甘味。その甘味に酔ったまま、結婚という法的な繋がりを勢いでしてしまったらと思うと……。修正には莫大なエネルギーと犠牲が飛び散る。それはそれで、人生の味なのかも知れない。お酒の味がより深くなるのかも知れない。でも私はそれほどお酒が飲めない。不本意に傷つきたくない。自分のあるがままの流れをみすみす塞き止め濁したくない。自分の流れをもっと大事にしようと思う。蓄積された過去の記憶は、もう十分だという実感がある。材料を求めて奔走する時間は、もう終わっているのかも知れない。私に対する私の実験は、もう終わった。その材料を元に、私は私の料理を作ればいい。不自然ではない、心臓の動悸を感じる。良い予感だから?うまく頭が纏まらない。今日は運よく肉体的にも精神的にも調子いい。音に対して神経質になっていない。内面の体調がいいから、外側の雑音を跳ね返しているのだろう。このままの状態が続けばいいけれど、日常はそんなに甘くはない、というか甘くなかった。自分以外が幸せに見えて、何かに突拍子もなく依存してしまいたくなる。平穏な気持ちで誰にでもやさしく接したいのに。そんなふうに毎日を生きたいのに。そんな自分の気持ちが一日が終わると細かく擦り切れている。私は今、どこにいるのだろう。すべての現実と、正常な精神の状態で私は向き合うことが出来ているだろうか?便利な世の中だから、ふと孤独になった時に、その便利さから滑り落ちるような感覚に、私は不安になっているのだろう。簡単な答えは検索すれば一瞬で提示される。その答えは、私にとっての正解だろうか?複雑な思考を経ていない目の前に提示された答えは、私を正しく導いてくれるのだろうか?私は今、本当にどこにいるのだろう。私の思考は情報の波に、ただ流されているだけではないだろうか?どんぶらこどんぶらこと、実体のない場所へ、運ばれているような気もする。それは私の勘違いだろうか?花はそれでも美しく咲いている。その真実さえも、うすい幻のなかで見ているような錯覚がある。感覚が空間に溶けこんでゆく。思考だけがどんどん進んでゆく。私の肉体を無視して、だからそのコントロールが難しい。単に歩いているだけなのに、どこまでも歩いていけそうな気がする。歩いているだけならきっと私は自由だ。私に対する無価値な視線はそのまま視界の隅から過ぎていけばいい。私は自由だ。自分の意思で歩いている。だから自由なんだ。頭の中身がゆっくり動いている。きっと、私をコントロールする回路が作り直されているのだろう。だから今しばらくこのままでいいのかも知れない。今度私はどんな人になっているだろう。どんな景色として、日常が映るのだろう。毎日が眠いのは、きっとそのせいなのかも知れない。私を取り巻く環境は激しく動いている。それなのに、私の時間はゆっくり動いている。このままでいいのかも知れないし。いい意味で、自分に不必要な部分は諦めている。だから不必要に疲れてもいない。もっと力を抜いて、生きられるかも知れない。きっともう大丈夫かも知れない。意識でとらえている錯覚は罪ではないと思う。みんないい人だと錯覚したい。それでもいつでも逃げられる準備はしてある。そんな自分が今では愛おしい。そんな自分がずっと嫌いだった。一点だけを見つめて歩き続けることはきっと正しくない。私は私自身になにやら恥ずかしい。どうか過去の私に負けませんように。きっと後は何とかなるだろう。そんな予感がある。
私達はどこに向かっているのだろう。会社は世の中をより便利により快適により安全にそして楽しくする公器なのだろう。そんな流れの中で個人である私は、どこまで幸せになれるのだろう。基本は何も変化なんてしていない。便利に快適になったから、こんなにも孤独を感じるのだろう。安全になったから、死という感覚が曖昧になっているのだろう。より楽しくなったから、きっと無理に笑わなければおかしな人に見られてしまうのだろう。私は日々を生きていながらどこにいったいいるのだろう。考えなければいけない時間が私を強くする。過去の時間は、ただ私の皮膚の上を流れていくわけじゃない。きちっと記憶に残っている。残像であれ残り香であれ感情の傷としても。そのすべての記憶に私は感覚を研ぎ澄ませる。一人は怖いものじゃない。その時間こそが、心地いい。本当に着たい服。本当に聴きたい音楽。それは独りにならなければ絶対に見えてこない。そんな確信が私にはある。どうしてあんなにもベタベタするのだろう。独りになって記憶を探り、その記憶に対して私は独り憤慨する。会社は私にとって、生活費を稼ぐためだけの場所。それ以上でもそれ以下でもない。中には出世したい人もいるだろう。でもそのジャンルの人の気持ちは私には分からない。きっとそんな気持ちが私の中には皆無だからだろう。その人と、私の会社での呼吸はきっとリズムが違うのだろう。見えている世界だって違うはずだ。私は目の前の仕事をサッサと片付けて、サッサと帰りたい。私は私以上でもなく、私以下でもない。そんな感じで静かに生きている。海の中の生物のように、自分に適した深度で環境で生きているし、それを邪魔されたくないだけだ。より綺麗になりたい。よりおいしいものが食べたい。そんな日常がふつうに素敵に流れている。人生を楽しみたいなんて、意識的に感じて生きているわけじゃない。いのちの輝きは不自然な膨張ではなくて、きっと淡々と使用していくものだろう。私は私に無理はしない。目の前の問題に、前向きな感情でごまかしたりしない。嫌いな人を無理に愛したりしない。近づかないようにするだけだ。自分の存在を否定も肯定もしない。ただ他人が自分の事を否定し、肯定もしないのなら、闘う以上の利益があるなら闘うし、その価値が無いならサッサと逃げてきた。不自然に生きたいとは思わないし、不自然なネガティブな感情で死にたくはない。不自然に感情を乱れさせる存在が最近苦手になった。生きたくもなく死にたくもない。朝死んでいなければ、その日のやるべき事を淡々と遂行するだけだ。私は私の人生を生きればいい。どうして日々は、単純に流れていかないのだろう。どうしてこんなにも感情は激しく動くのだろう。ストレスの解消の仕方がうまくないのかも知れない。長く生きていくと思うと軽く憂鬱になる。何を考えて、みんな毎日毎日会社に吸い込まれてくるのだろう。きっと何も考えていないから、同じことを繰り返していけるのだろう。目の前を流れる景色や言葉が最近、ひと事のように感じる。自分から発した言葉も、反射で出てきた言葉で、私の感情は何も動いていない。用意されている言葉をその都度発していけばいいだけなのだから、会社での私はロボットと何ら変わらない。そんな私でも、時代には影響されているのだろう。ニュースは気になるし、それなりに関心はある。ただ結局最近大事なのは、天気だ。雨だと憂鬱になるし、風が強いと嫌な気持ちになる。出勤時の洋服の選択が、私の気持ちを微妙に興奮させてくれる。褒められれば一日気持ちいい。最近彼氏と会っていないけれど、きっともう別れたんだろう。私の気持ちは特に揺れ動かない。恋愛という言葉が最近めんどくさい。どこかにこんな気持ちを発散させてくれる抜け道はないだろうか?それともこの無感情、無感動な状態がふつうなのだろうか?もう十分幸せなことは理解している。だから過去の記憶が目の前を流れるのだろう。会社の駐車場から会社へと向かう。会社へ向かっているのか過去へ向かっているのか、時々分からなくなる。今を生きているはずなのに、時間の感覚に戸惑う私がいる。今やらなければならないことをやることが、過ぎた時間を後悔しないことだから、体と精神がうまくリンクしなくても、きっと会社へ歩いていくのだろう。それが当たり前の呼吸として、体に染みこんでいるのかも知れない。その呼吸を疑問に思う私は、きっと変わっているのかも知れない。世の中は正しく発展しているだろうか?私は会社に貢献することで、自分を幸せにしているだろうか?忙しいことは考えなくていいことなので、自分を都合よく見失えているので心地いい。ぐったりとした疲労にナルシスト的に酔えるのできっと心地いいのだろう。だからそんな人が私は嫌いだ。その人がいなくても会社は回る。社長がダメなら代わりは誰かいる。私は私の分量だけ貢献する。薄っぺらい繋がりを忘我させてくれるカリスマは、この会社にはいない。だから淡々としたルーティンなリズムに会社がなっているのだろう。きっとゆっくり衰退している。それは誰もが感じているのに何も言わない。それでも同じリズムは繰り返さなければいけない。何かがおかしいのに、何でみんなあんなにもポジティブなんだろう。うまく頭が回らない。回らないまま、そのまま時間が過ぎて行く。私には、私のやらなければいけないことがあるんだもの。それをやるだけで肉体が疲れてしまう。「疲れる」と言うと、母に叱られるんだけれど。家族関係はうまくいっていると思う。それはそれでいいとは思う。一枚の絵画として、時間の流れから抜け出してしまえばね。ふつうの家族でも、微妙に変化はしている。外界からの不穏な刺激で、いつ壊れてしまうのか、私はそれが微妙に不安だ。
二〇代がもうすぐ終わる。それはそれでとても軽微なことだけれど、私を憂鬱にさせるのかも知れない。何かが揺らいでいる。その余波を、私の皮膚が感じているのかも知れない。時代と無関係に生きられないから。「私はわたし」に執着すると無駄に疲れるから。とりあえず生きられている。とりあえず生活は繋げられている。これを死ぬまで連続させていかなければならない。いつでも裏切れる準備はしている。友達。仲間。自分にとって本当に大事にしなければいけない存在なんて、きっとごく僅かだということに気付いてからは、ふつうの日常生活にも警戒心が必要だということに、いつの頃からか気づいた。何気なく発した言葉は良くも悪くも陰湿につよい。言っていい事と悪いことの判断を、瞬時に判断しなければいけないことに、毎日疲れる。飲み込んだ言葉は私のどこに沈んでいくのだろう。それが堆積していき、私の心を蝕んでいくのだろうか?私は私を守らなければならない。なぜならかけがえのない「わたし」だから。自分を守るために、仲良くしなければならない。ふつうに生きていたって、そんな緊張感の中にいる。それはそれでバランスが取れている。なぜなら、私が「私」でいられるのだから。私が「私」でいられない限界が来たら、サッサと逃げてしまおう。そのリスクの準備を秘密裏に進めていかなければならない。その時、心が壊れてしまわないように。その時、生活が壊れてしまわないように。世の中との戦いの仕方は、私は私のやり方で。どうか私の心が綺麗にメッキされた言葉に騙されませんように。狡猾に。結局私は立派な大人ではない。だから狡猾に。立派な大人の定義なんてよく分からないけれど。最近こんな感じで楽しい。私が働くことで、世の中に対して些細な振動になればいい。それが私の存在の意味を感じさせてくれると思うから。それが今の私の役割を感じさせてくれるから。「なんの為に生きているの?」と純粋な子供の目で言われたら、私は戸惑ってしまうかも知れない。会社での曖昧な存在が、その言葉で一瞬に赤裸々に露骨に浮き彫りにされてしまうことを私は知っているからかも知れない。一生懸命に働いているつもりにさせてくれる、所が会社なのかも知れない。給料の金額は世の中に対する貢献度と見るなら、私はそれほどの貢献度は無いのだろう。会社は賑やかだ。その賑やかさに、うまく私はごまかされているのかも知れない。その賑やかさに皮膚が、最近拒否反応を感じている。この変化に私は戸惑っている。疲労の対価をお金に換算するのはいやらしくうしろめたい感じにさせる。それを最近している自分がいる。きっと私が最近何かを諦めたのだろう。何かを悟り、何かに気付いて、無意識に諦め、そして最近そのことに意識的に気づいたのだろう。人が目の前を流れていく。ただそれだけで不安だった今までの私。人間という、ひとつひとつの質量が、それぞれの意識を持って動いているのが何気なく不思議だ。地球という天体に人間が動いている。日頃、自分は生命だということを忘れている。きっと私も、奇跡の存在なんだろう。毎日をヘトヘトに疲れているけれど。実家暮らしだから、一人暮らしに比べれば楽だと思われるから、自分のことをあまりしゃべらなくていい距離感を、会社では保っている。当たり障りのない言葉の投げ合いに、笑っていればいい。本当に大事なことは、自分の内側だけでこっそり熟成させなければならない。きっと誰もが孤独なんだろう。最近それを、感じられるようになってきた。きっと誰もが、自分の存在に不安なんだろう。支配されるのも嫌だし支配するのもイヤ。世の中には支配するのが好きな人がいるから。ただ、究極的には支配されているのかも知れない。それはそれとして興味がない。私の輪郭を土足で越えてくる存在が嫌い。曖昧な言葉で距離感を曖昧にして、表面上は仲良くしていたいだけだ。無関心であり続けたい相手が会社にはたんまりいて、それを狡猾に曖昧にしなければならない。自分は敵ではないということを示すために、どうでもいいことに共感するように笑わなければならない。精神的に疲れている時は、それなりに苦痛だ。会社にいる時の時間と自分の部屋にいる時の時間。それはきっと別次元の世界だろう。ここにいるのにここにはいない感覚。早く過ぎてしまえばいいと思う時間。生活のためと割り切るしかない時間。いろんな種類の時間が同じ時間の中で流れていく。それが過去になり、過ぎて行った時間だったと哀愁を感じるのだろう。些細な時間の流れは憂鬱だ。「まだこんな時間」という言葉に変換されてしまう。つまらなくもなくそれほど楽しくもない。こんな時間が心地いい。大きな流れの中でいったい私は、どこにいるのだろう。片隅にいることだけは何となく分かる。それでも実家にいるから幸せに生きていけているのかも知れない。両親との関係は良好だ。他県からわざわざ部屋を借り、会社に通勤しながら生きている人に対して私はどんな気持ちを持てばいいのだろう。それほどの魅力がこの会社にあるとは思えないけれど、人それぞれだからそれはそれでそっとしておけばいいのだろう。当たり障りのない天気の話とかしてその場を繋ぎ、時間が過ぎるのを待つ。大人になったら情熱的な言葉なんて必要なく、逆にそんな言葉は暑苦しい。自分の輪郭の内側で、私はひっそり生きていきたい。今日もふつうに終わった。テレビをつければ情報が飛び込んでくるけれど、消してしまえば自分の輪郭の外側の世界から隔絶される。情報を取りたいと思う私は、きっと世の中と繋がりたいのだろう。寂しい人にはなりたくない。独りよがりに生きたくない。曖昧さの流れの中で、自分の言葉は持っていたい。自分を殺し過ぎる協調は、自分の価値を不当に下げることだと思うから。ただ会社に働きに行くだけなのに、こんなにも心を緊張させなければいけない。きっと私はストレスを感じているのだろう。働くことは当たり前だって理解はしている。働くことは嫌いじゃない。ただこの心の緊張が仕事を嫌いにさせていくのだろう。数年前にこの会社に転職してきた訳だけれど、前の会社の人とは二度と会いたくない。それだけ私の心は緊張し、その緊張に私は耐えられなかった。それでも淡々とした日々は過ぎていく。世の中の為に、淡々と過ぎていくのだ。個人的にはどうでもいいことだ。こんな思考は社会人としてだめだって分かってる。この会社は社会の為の、仕事をしているのだろうか?会社の為の、仕事ではないのか疑問だ。そんな猜疑心を奥底に抱えながら、私の日々はこの会社で淡々と過ぎていくのだ。この会社が世の中から淘汰されるなら、されればいい。特にそれほど思い入れはない。家から近い。それだけは好きだ。ただそれだけだ。潰れたら潰れたで、どこかに吸収されるだろう。私の日常が変わらなければ、どこに吸収されようがどうでもいい。みんなそれぞれ、どんな気持ちで働いているのだろう。会社というものを信用し、仲間というものを信用し、幸せな気持ちで働いているのだろうか?私は考え過ぎなんだろうか?自分の居場所がよく分からない。分からないまま、時間が流れていく。ただ、会社に対しても世の中に対しても、うまく反応はしていると思う。自分が嫌な気持ちになる環境からは何気なく逃げる。そのことに関しては、とても素直になった。誰にでも好かれたいとは思わなくなった。そう思えるということは、きっと私がつよくなったのだろう。私は私の場所でおしゃれをする。うまく世の中に反応している。だからきっと大丈夫だろう。そんな私はきっと不安なんだと思う。自分をどの程度暗くしたらいいのかどの程度明るくしたらいいのか最近分からない。それはそれで、外側の世界とのバランスで、感覚を調節していこう。それがある程度必要な協調ということなのだろう。きっと私だって時代に洗脳されている。十年先の未来人から見たら、今着ている洋服だって使っているスマホだってきっと恥ずかしがられるぐらいのツールだろう。それが今の最先端なのだ。そう思うと笑ってしまう。それを今の私は得意気になっているのだ。どうでもいいことに、真剣になっているような気がする。本当に大事な事に、目を背けているような気もする。何が真実で何が嘘なのか?その微妙な境目で、私は苦しんでいるのかも知れない。ふつうに暮らしているだけなのに、こんなにも考えることがあって疲れてしまう。感性の刺激は生きている証拠。私は自分を見失っていないだろうか?世の中に対して私なりの正しい距離感で生きているだろうか?今日はいい天気だった。それでも夜になったら風が吹いている。刻々と時間は流れている。私も刻々と死に向かっている。何の為に生まれ、何の為にここにいるのだろう。朝になったら私なりの社会的な時間が流れ始める。過ぎていった時間に付随する記憶を、私は許すことが出来るだろうか?このまま流れた記憶として、放っておいて、大丈夫なのだろうか?私をこの先、苦しめることはないのだろうか?孤独は私を癒しもするし、苦しめもする。会社に行くことで感情が刺激され、その効果で意識の外側から放っておいた記憶が流れ込んでくる。それでも目の前の現実に対応しなければいけない。複雑な処理が、私の内側で無意識に行われている。それを私が黙って観察している。いったい“わたし”とは何なのだ?だからあるがままの自分を生きようと思う。あるがままの自分を受け入れようと思う。そう思えたら、空が青かった。当たり前だけど、青かったのだ。みんな何を考えて生きているのだろう。言葉にしたら、本当の気持ちから逸れてしまうような気がする。もどかしい現実。それでも今日の空は、あるがままに青く美しい。自分にとって、本当に大事なものだけ守りたい。私を不安にさせるものから、私は自分を守りたい。今日も私は生きている。そう思える私はきっと今のところ幸せなんだろう。感性がくたくたにならなければ最近よく眠れない。これはいったいどういう事なのだ?ふつうに起きてふつうに働いてふつうに眠る。これが人間としての真実ではないの?どうしてこんなに生きていることに不安になるの?芸術家のように、いのちを限界まで燃やすってどういうことなの?そんな余計な知識が余計に私を不自然に、焦燥感で慌てさせるのかも知れない。才能ある人間は、この世の中の不自然なシステムを変えればいい。それを私は関わりのない安全な場所で、見ていたい。それで権力を持てばいい。それで自分の命の燃焼を存分に感じればいい。私にとっては関わりのないことだ。ただそれを安全に楽しめればいいだけだ。才能ある人間と、そうでない私のような人間では、きっといのちの燃やしかたが違うのだ。自分の輪郭を、見失わないようにしたい。感情を不自然に沸騰させる無責任な言葉を吐く熱い人から自分を守るために。ふつうのままで、日々を流れていきたい。うまい具合に流れているのか追い立てられているのか、たまに感覚がごっちゃになる。こんな私はこれでいいのだろうか?
「こんなままで生きています」
今の私はこれなのだ。損な気が、しないでもない。休みの日、何もしないという事に、罪悪感でいじいじして終わる。そんな感じを与える今の世の中の、これも一種の洗脳なのだろうか?趣味は特にない。休みの日は疲れ切っている。簡単に掃除をして、ゆっくりと、それでいてあっけなく時間が終わってしまう。それがいったい何がダメなんだろう。私にいったい何が足りないのか、本当に分からない。実家暮らしだからいけないのだろうか?特に両親から出て行けとも言われない。今現在、うまくいっているのだ。とやかく言われる筋合いはないのだ。とやかく言われている訳ではないけれど。自分は自分でありたいと思っているだけなのに、どうしてこんなにイライラするのだろう。そんなある日の数年後、父が死んだ。突然死んだ。びっくりした。私は三〇代になっていた。このまま過ぎて行く筈だった時間。私には、親が死ぬなんていうことは、ある筈はないとさえ思っていたのかも知れない。時間の経過をうまく整理できない。それでも日常は淡々と過ぎていく。心が弱っていることを、悟られたくなかった。私は一人っ子なので、母と二人きりになってしまった。予想していなかった現実。親が死ぬという現実は、他人事だった。当たり前な自然なことなんだろうけど、私にはまだ早いような気がした。何もかもが、準備をする前にやって来るような気がする。夢であって欲しいという感覚と、今までの感覚の延長線上ではもう生きられないという憂鬱と。何とか立ち上がって仕事に行けるから、まだ私は大丈夫なんだろう。このままの私で、しばらく流れて行こうと思う。
アスファルトを歩いていると、ある建物が前々から気になっていた。洋服屋だとは何となく気づいたけれど、それほど積極的に主張していない外観で、ネットで調べてみるとブティックだった。私にはまだ……というか、これからも……というか、入りづらい金額の洋服が売られている。それほど都会ではない街だけれど、商売になっているということは、質のいい客が出入りしているのだろう。それはそれで無関心になろうとは思うけれど、自分が日々やっている仕事を何気なくバカバカシイと感じてしまう。自分が見えている世界と見えていない世界がネットで繋がった時、自分の輪郭を曖昧にしてしまいたくなる。時には自分を見失ってしまいたい。もうすぐ暑くなる季節だから。そのちょっと前の季節だから、曖昧にこんなことを考えるのだろう。うまく私は自分なりに流れているだろうか?価値観は相対的なものだから、卑屈になったり優越感になったりする。いっそのこと、そんなものをふきとばしてしまえばいいのに。私自身もその中にぐちゃぐちゃに混ぜて、ふきとばしてしまえばいいのに。ふつうに生きているだけなのに、いらいらする。自分をどの場所に固定すればいいのか分からなくなる。行きたくない飲み会に行って、居場所があるようなないような。あんな感じに似ているのでいらいらする。行きたくなければ行かなければいいのに断れずに行って後悔する私にいらいらする。季節の変化にいらいらする。時間は過ぎていく。今の私にとって季節の風景に美しさを感じない。きっと日々、忙しいのだろう。感性が衰退しているのだろうか。いつからこんなに忙しくなったんだろう。ただ忙しくないと気持ちが不安定になる。父の死を受け入れる孤独は、今の私には耐えられそうにない。忙しさの隙間に見え隠れする父の死を、少しずつ飲みこんでいくしかない。私にとって本当に大事なことではないごちゃごちゃしたことに、今の私は救われているのかも知れない。どうでもいいことに忙しくしていないと、今の私は立っていられない。頭と体がうまくリンクしていない。それでも季節は過ぎていく。受け入れるということは、諦めていくことなのかも知れないと、何となく理解している自分がいる。私は私で人生が動き始めている。観察者から観察される側に飛ばされたような気持ちがする。風景の見え方が変化した。よって感情の動き方も変化した。よってその動きに連動して出てくる記憶も変化した。その記憶とひとつずつ、対峙しなければならない。孤独はきっと大事なものだろう。私が無意識にどきどきしている。何も考えられない時間に強引に考えようとしなくていいのかも知れない。私の意識は早急に答えを出したいのに。ここに立っていることの意味を早急に出すことが、心地の悪い感覚から早急に抜け出せると、私自身が知っている。でも今は無理。自分の肉体にいらいらする。自分をいい方向に導くイメージは頭の中にあるのに。現実は思うように動かない。裏切れる準備はしてある。人間関係の悩みは要は自分がつよくなればいい。独りでいることに耐性ができ、それを楽しむことができ、自分を守るために時にはしゃべる言葉に輪郭を持たせることが出来れば、それほどストレスは感じない。他人の悪意で、私は自分の存在を否定しない。裏切る準備をしたまま、微妙な距離感でいつ切れてしまってもいい繋がりを日々保つ緊張感は、それはそれで楽しいと思えるようになった。それほど多くの繋がりを持たなくても、日々はふつうに生きていけるということに気づいてからは、気持ちが楽になった。大量の情報によって、自分の輪郭が曖昧にぼやけてしまう。もう二十代ではない。それはそれで未練はない。それほど熱くならなくても、ふつうに日々は過ごせていける。このことにも気づいた。熱い人はなぜか鬱陶しくなった。流れてくる情報に愛が満ち溢れていて、最近感覚的に気持ち悪い。私が年を取ったせいだろうか。それとも男というものを、それなりに知ったからだろうか。大きな流れの外側に、気づいたら放り出されてしまったような疎外感がある。それはそれで別にいい。私は私なのだから。これも一種の孤独なのだろうか?外的要因に私が翻弄されている。心が不穏だ。感情が沸々としているのを感じる。穏やかでありたいと思うのに、穏やかになれない私。知りたいと思うふしだらな探究心が、自分自身を苦しめているのだろう。知るには勇気がいる。知ったら感情が乱れる。それを昇華するには長い時間を必要とする。どこまで知れば、私は健全に日々をふつうに生きられるのだろう。見えないことも見ないことも、それはそれで美しいのかも知れない。この先の向こうには、得体の知れない何かがある。それだけ知っていれば、もしかしたら、それはそれでいいのかも知れない。絶対の観察者にはなれないのなら、相対的なことでしか自分の輪郭を浮かび上がらせることが出来ないなら。毎日私のリズムが刻まれていく。いなくなればいいと思う人。今日も私に漂う空気は軽い鬱のような翳りを含んでいるだろう。すべての人を受け入れる器は私には無かった。それを理解してからはほんの少し気持ちが楽になった。協調と自分とのバランス。その微妙な緊張感が、私を楽しませる。人の心は闇。それが最近心地いい。私は私なのに、その私を私は完全には把握していない。今の時代を生きている私の歪みは、きっと許容範囲なのだろう。許容範囲を超えた時、社会的な制裁を受けなければならないのだから。ぎりぎりこの状態が私にとってのふつうなのかも知れない。このふつうが壊れる時、私はどんな外的要因によって内面が壊れ、意識が理性を飛び越えていくのだろう。軽く想像しただけで怖くなる。私はそんなにつよくない。だからといって、男に依存するほど弱くもない。持家で、母と二人、今は生きている。意識はしていないけれど、協力して生きているのだろう。日常は何気なくざわついているから、淡々と過ぎていっているだけで、この時間が過去になり、この時間を孤独な時に噛み締める時、軽い恐怖を私は感じるだろう。今、私は生きているのに生きていない。未来にこれを噛み締める時、本当に私は生きたことになるんだろう。今は、今を淡々とやり過ごせばいい。そうやって、私は自分に言い聞かせる。自分にとって不都合な時間をうまく避けようと思う。私に対する悪意。私に対する歪んだ視線。それらは両親から受けた愛情によって、私は守られるだろう。孤独は怖いものではなく、一人もまた、怖いものではない。そう思えるのは、たっぷりと両親から愛情をそそがれたからだろう。両親にとって、かけがえのない存在として、愛されたからだろう。恋愛はもう、卒業かも知れない。そう淡々と日常を流れていた時、年下から告白されて、私の内面はまんざらでもなかった。女であることから、女である私は逃れられないのかも知れない。ちょっと付き合うことにした。私は女であることを忘れていたのかも知れない。自分の内面に対して余裕が無かった。彼と何でもない時間を過ごすことで、楽になれているような気がする。すべての私を告白したわけではないけれど。いつ別れてしまってもいい。今は時々一緒にいるだけで、私の一部分が安定しているだけだから。付き合う。付き合わない。カレシ。カノジョ。そんな安物の言葉が目障りに流れていく。私はそんな言葉を自分の感性に入れない。自分が貶められるような予感があるから。適齢期という言葉に脅迫されて、無理やり感情を昂らせ、手っ取り早く好きになるのだけは、何が何でも避けようと思う。時代によって、恋愛の形態は変化する。過去の恋愛形態が、今を生きる恋愛する人、の形態に合っていない。今を正しく認識しようと思う。今、私は年下と付き合っている。ただそれだけのことなのだ。今を生きているのに、過去の余韻の空気が煩わしい。好きでこんな時代に生まれてきたわけじゃない。こんなことを言ってもしょうがないことは分かっている。もしかしたら、複雑に考え過ぎているだけなのかも知れない。自分がどこに立っているのか分からなくなる時がある。だからとりあえずあの子とは別れようと思う。付き合ったとは言えないかも知れない。求めていることが違い過ぎているということに気づく。そこそこ容姿がよかった。ただそれだけだった。それだけでは不満足な精神レベルになっていた。私は一人でも大丈夫。付き合うことで、それに気づけたのは良かった。過去に甘味な余韻をそれを愛だと錯覚出来たのは、純粋に私が若かったからかも。なんだか気恥ずかしい。過去は過ぎて行く。それを自覚することの寂しさ。どうかそれが私の自信になりますように。視線が深くなったのかも知れない。視線が深くなり、一枚一枚嘘の自分が剥げていく。後悔と共に、嘘の自分が剥げていく。笑いたくもないのに笑った過去。人との距離感を、うまく理解出来なかった。世の中とはこういうもの。漠然とそう理解していたのかも知れない。年齢と共に私は変化している。彼との接点は私には必要なかった。自分の人生だけに、集中するべき時なのかも知れない。自分の気持ちが本当に自分の気持ちなのか、不安になる。不安定になりそうな安定。だから不安なのかも知れない。何らかの感情的な沸騰で、不安定な場所に閉じ込められている凶悪なイメージを、理性的にコントロールする自信がない。そのイメージは、日常の隙間に瞬時に現れては消える。年に数ミリずつ、そのイメージは堆積しているのだろう。自分で自分が怖くなる。ふつうの一日がふつうに終わる。それはそれで大それたことなのかも知れない。転職はしたけれど、前の会社での位置と変化はない。回りで働く人間たちも、本質的には何も変化はしていない。コンプライアンスで縛られているから、みんないい人を演じているのだろう。それはそれで前の会社よりは働きやすいのかも知れない。心地のいい場所へ移動する。そのことに罪悪感を感じなくなった。仲間という繋がりはきっと弱さだろう。そう内面を私は述懐する。弱い繋がりを切ったことで、私はつよくなったのかも知れない。いけない子だろうか?私は悪い子なのだろうか?それとも狡い人なのだろうか?日常の些細な裏切りに、私はどきどきする。過去の私に戻りたくないもの。ふつうの日常を流れながら、私は過去の自分と何気なく闘っている。何とか自分が自分でいられるように、何気なく闘っている私を私は、偉いと思う。世の中に揉まれることで、内面が洗練されていく。尖った部分がそぎ落とされていく。そんな内面のプロセスの結果として、人を見る目が鋭くなったのかも知れない。彼に魅力は感じていなかった。でも付き合った。感性と私自身がうまくリンクしていなかった。もしかしたら、感情が弱っていたのかも知れない。私はどこに向かっているのだろう。無責任に、前向きにはもう生きられない。現実に即した呼吸で生きなければならない。誰かに寄り添いたいという瞬間がある。きっとそんな時に、告白されたのかも知れない。彼の呼吸は私には合わなかった。世の中の人を、あるがままに受け入れようと思う。感情の激しい起伏は日々をふつうに流れていくには疲れてしまう。いい意味で諦めようと思う。完璧ではない中庸を流れていくことが、もっともバランスが取れているのかも知れない。これからは、一日終わってくたくたに精神が疲れていることはないだろう。素直に諦めよう。諦めたから、私は吹っ切れたのかも知れない。息苦しさから吹っ切れた。頭のもやもやから吹っ切れた。こんな状態は長くは続かないとは思う。淡々と時間が過ぎていけばいい。そっと。無意識に流れていけばいい。何かを抱えている私はいづれ、救われるのだろうか?擦れ違う人々もきっと何かを抱えているに違いない。感性と空気との接点に、孤独を感じることもある。そんな時の、他人の品のない笑い声が嫌いだ。自分はここにいます的な、あの笑い声が嫌いだ。みんな自分の存在に不安なのかも知れない。不必要に大きな声でしゃべることで、自分の存在をアピールしているのかも知れない。それはそれで体調により、不快に感じることがある。そこをうまくすり抜けていかなければならない。日々の何でもない流れの中だって、これはこれでサバイバルだ。ジャングルの中をすり抜けていくことと、まったく同じではないけれどイコールなのかも。無意識に私の感性は複雑に活動しているのかも知れない。世の中に与えられる私の振動なんて、些細で微々たるものだろう。だから自分以上のことは出来ないしやりたくない。自分の輪郭に責任を持ちたい。私は自分の輪郭以上でもなく、輪郭以下でもない。その輪郭の範囲で人は、世の中と付き合い自分と折り合いをつけているのだろう。価値観から外れる恐怖がモチベーションとなっているような気もする。この場所は、本当に私の居場所だろうか。何とか自分を納得させながら、私は笑っているのだ。そんな自分を時々気持ち悪いとは、思う。それでも時間は何気なく過ぎていく。時間がもったいないと、冷徹に私は感じている。私が求めている時間のスピードと、実際に生きている時間のスピードの差に、いらいらする。毎日は静かなのに、時間の経過にいらいらする。いのちの時間は限られている。何もしなければ、焦燥感で不安になる。いのちは私に、いったい何をさせたがっているのだろう。私は正しく生きているだろうか?独りよがりではなく、世の中に対して正しく生きているだろうか?しがらみはいっそのこと、破壊されてしまえばいいのに。それはそれですっきりするだろう。大人は目の前の生活にいっぱいいっぱい。若者は未来に対して病んでいる。それがなんとも言えない空気を醸し出している。その鬱屈した空気を私は吸っている。吐き気はしない。未来に、この時の頃を思い出して、吐いたりするのだろうか?それはそれで楽しみだ。自分で言っていて、意味分からないけれど。何もない時代に生まれなくて良かったなとは思う。安くおしゃれも楽しめる。いい意味で無関心でいられる。忙しいことは、本当の自分から逃げ続けられることだと思うから。洗練された世の中だから、私は孤独を楽しめるようにならなければいけない。その先に、何気なく死んでしまえればいいと思う。何気なく、静かに埋葬されたいと思う。生活のために働いている。会社に行けば、嫌な人もいる。そしたら感情をコントロールしなければいけない。嫌な事があったら洋服を買うことにしている。それで嫌な事はとりあえず昇華される。働くということには、もっと高尚な意味があるのかも知れない。でも今は、そんなことはどうでもいい。だって私は“いま”を生きているんだもの。今の生活レベル以上の生活は望まない。さらに上げるために、これ以上頑張りたくない。こんなぼんやりした生活を維持できるように、会社の上の人には頑張って欲しい。結果が出せない上の人は、すぐに取り替えてしまえばいい。人の上に立ちたいわけだから、努力をして欲しい。今の生活を続けたいから、だから仕方なく私はそんな人達に気を使うのだ。気を使った分だけ頑張ってもらわなければ困る。上にいる人の人事がどうなろうが、最近どうでもよくなった。私は私の生活が守れればいい。いつでも逃げだせる心の準備はしている。その時のために、触角は何気なく鋭敏にしてある。気を使ってもしょうがない人。とりあえず気を使っておこうという人。そんな仕分けを内面でさり気なくやっている私。本当に大事なことに、気づいたような気がする。この仕事をやるために生まれてきたなんて思えなくてもいいと、最近気づいた。そんなことを思えなくても、自分の輪郭を保ちながら、それなりに幸せに流れていけることを知った。会社員をやりながら、そんなことに気づけた。私は何のために生きているのかなんて自分を責めるほど、今の自分に苦しくない。会社がどうなろうが、私には関係ない。目の前の仕事に責任を持つだけだ。ただそれだけだ。それを考えるのは体は遊んでいる上の人達だ。きっと頭の中までは遊んではいないだろう。完全には信用はしていないけどね。何気なく警戒をしながら生きている私。何でもない日常を生きているだけなのに、こんなにも考えることがあり過ぎる。ひとつひとつ向き合い、私は小さな何かしらを悟っていく。今日もこれで大丈夫だよねって、自分に言い聞かせている自分がなぜか滑稽だ。勝手に私は“わたし”をしている。私は“わたし”以上でもなく“わたし”以下でもない。私は“わたし”の範囲でしか生きられない。逃げるし戸惑うし、時には泣くし。そんなに私は強くない。何もやりたくない時にはやらない。何もやらない。それが自然なことだと思うから。頭のスピードに、体が限界の時がある。限界の筈なのに、脳はその体をさらに酷使しようとする。脳が求めていることを、あまり信用はしないほうがいいのかも知れない。情報を取り過ぎると余計に判断が錯綜する。自分はどこに立っているのだろう。自分の目に映っているものは真実なのだろうか?そんな不安が最近ある。もっと若かった頃、そんな疑問なんてまったく無かった気がする。自分の目に映ったものはすべて真実だった。無意識にそんな確信があった。本当そうに見えることは、すべて嘘のような気がする。それを私は経験を裏付けとして、理解し始めている。これが精神的に大人になっていくということなんだろう。どうやら私の脳の一部分が苦しんでいるようだ。長い時間を掛けて、その部分を現実の流れにさり気なく適応できるように、修正しなければいけない。これが生き延びるというみじめさなのかも知れない。自分の中で、変化させてもいい部分と変化させてはいけない部分の区別が難しい。そのバランスを、私自身が判断していかなければならない。私は私自身の経営者だ。ミスをすれば淘汰される。うまく自分をプロデュースしていかなければならない。私に対する悪意を事前に察知し、うまく回避しなければならない。どうしようもなくなった時その時は、サッサと逃げてしまおう。結婚をしているわけでもなく、ましてや子供はいない。それを私は都合よくプラスに考える。政治と会社のシワ寄せを、もろに被るのはばかばかしい。守るべきものがいないということは身軽だ。母は母で経済的に自立している。父がいないだけで、今までどおりの生活が流れている。私は“わたし”でいることが出来ている。上司やその上の人が流動的なことに、まったく興味はない。何やら騒がしいけれど、どうでもいいことだ。所詮、皮膚の外側の出来事で、他人ごとだ。私は私でいつでも逃げられる精神的な準備はしている。生活を、維持していかなければならない。きれい事だけを立派に演説する、力のない男は馬鹿だと感じるようになった。死ねばいいのにと、陰湿に思うようになった。こんな私は異常だろうか?男にとっての生きるということと、女にとっての生きるという考え方は、きっと分かり合えないくらいの深い溝があるのだろう。男は勝手に“いきる”を追求すればいい。女は目の前の生活が大事だ。同じような一週間が繰り返される。これが私にとっての正しいリズムなんだろう。私の輪郭に合った、リズムなんだろう。働く。無意識に私は働いている。そんな自分をぽつんと感じるもう一人の私がいる。働きたくない。と、声を大にして言いたい。そんな葛藤をしながら時間は機械的に過ぎていく。その時間に全部の心を乗せることが出来ない。それが私に退屈を感じさせるのだろう。生きていく。生活を繋げていく。今の私は生きてはいないけれど、働くことで生活は繋げている。この連続が続くことを、憂鬱に感じているのだろう。この憂鬱はきっと、お金で解決できる憂鬱だろう。それがあることで、働くことの根本的な思想が変化するかも知れない。きっと、もっと気持ちが楽に仕事が出来るかも知れない。いつでも辞めることが出来るという安心感。辞める不安から解放されるという安心感。責任の範囲を広げるためには継続した資本がいる。がんばらなければいけないことは十分知っている。ただ自分の範囲を超えたがんばりは出来ない。社会に出る前は、自分に無限の可能性を感じた。だから今までそれを信じた私は苦しかったのだろう。出来ないものは出来ない。自分の可能性を理解した私から、余分な力が抜けていく。なるようにしかならない。私の意思とは無関係に、世の中は淡々と流れていく。その流れが、孤独を感じさせるのかも知れない。私はここにいるのに、私は何を求めているのだろう。気持ちが不安定なまま生きるのは素直に嫌だ。無意識に、私は闘っているのかも知れない。目覚めると一日が始まる。爽やかに目覚めなければいけないのかも知れない。始まってしまえば時間は無感覚に流れていくのだから、一日は早い。気づくと季節は変化している。自分にとって、別の世界があるような淡い予感は、ある。私は何を見ようとしているのだろう。淡々と流れる時間の向こう側に、私は何を見ようとしているのだろう。自分をどきどきさせることを私はまだ、期待しているのだろうか?私は自分に行きづまっているのかも知れない。本当の私はここで終わりなのかも知れない。世界は思った以上に狭かった。科学の進歩で寿命が延びた。それはそれでいいことなのだろう。生きなければならない。でもそんなに働けない。そんなにがんばれない。会社はやっぱり休みが多いほうがいい。過酷な環境で自分を鍛えたいと思った無謀な時期が馬鹿に思える。そんなに私はつよくはなかった。だからあの時転職したのだ。我慢をしていたら、精神も肉体もぼろぼろになっていたと推測する。人を完全に信用出来るほど、私はもう純粋ではない。純粋とはきっと、馬鹿を美しくばかにするための言葉なのかも知れない。経験を、大事にしなければいけない。向き合いたくない経験こそ、大事にしなければならない。現実の世界でまた向き合わないために、自分の内側にある向き合いたくないことと、向き合わなければならない。感性は昇華され、私にとって不必要な感性が淘汰されていくだろう。私の本質は何も変わってはいない。ただ、感性が変化している。経験は痛み。痛いからこそ記憶にこびりつく。そのこびりつきを取るには時間がかかる。その時間が何でもない日常の流れの隙間にポツンと現れる。微妙なバランスで、私の精神は正常を保っているのかも知れない。ひとり言を言っている私を、母に気持ち悪いと言われたことがある。無意識に私はひとり言を言っていた。きっとそのこびりつきと、闘っていたのだろう。いま会社を辞めたら私はもしかしたら、そのこびりつきに支配されてしまうかも知れない。現実との接点があるからこそ、私は“私”を保っていられるのだろう。自分に対して何気なく不安。恋愛ではもう、この種類の不安は消えないだろう。精神的に稚拙な男はもう無理かも知れない。日々流れていくことの中に、生身の“わたし”を感じる。皮膚の下を流れる血液を感じる。私は生きている。この事実にどきどきする。私の中を流れる情報をすべて取り去ったら、どんなに楽になるだろう。みんな平等だったあの頃に、戻れるかも知れない。平穏と焦燥が入り混じったあの頃に。何も怖くなかったあの頃に。今日は何だかもの悲しい気分になる。今日の私は物憂げな目をしているだろうか。鏡を見るのが不安になる。傷ついた自分に酔っている?だからそのための音楽を聴くことにする。過去に聴いた音楽が、今の私を救ってくれる。無意識に、精神の安定を求めている。安心したい。癒されたい。それが今の私の無意識の欲求なのかも。大人の世界は素っ気なく、淡々と流れていて、孤独を楽しめるならば心地いい。自分の輪郭をはっきりと浮かび上がらせてくれる場所。その場所で、“いま”の私は気づいたら生きている。そんな場所でも自由に生きたいと思う。目の前のことに対して自分に合った選択をしていきたい。だから自分の頭で考えなければならない。それには知識が必要だ。そっと秘密裏に、自分を高めていかなければ。薄い繋がりをはっきり切る勇気を、その時すぐに使えるように、何気なく持っていたい。別に友達ではない、別に仲間ではないと、はっきり言える自分を何気なく持っていたい。自分の生活の輪郭をはっきりさせ、不法侵入者に対してそれをいつでも突きつけられる、精神的なつよさを持ちたい。学生の頃のほうが、精神的に苦しかったような気がする。社会に出てからは素っ気なく裏切れるので楽。私は“私”でいられているような気がする。とりあえず生活のために働く。より自分に合った環境で働きたい。与えられた仕事はきちんとやる。ただそれだけだと思うし、それだけだったような気もする。必要以上の繋がりを求めるから、きっとおかしくなっていくのだろう。人にはそれぞれ心地のいい距離感がある。変な仲間意識はそのバランスを破壊してしまう。殺すわけにはいかないから、近づかないようにするだけだ。世の中はテイサイのいい殺し合いだと、何気なく認識するようになった。俯瞰で見渡せば、それはそれで世の中のバランスを保つためだろう。殺し合いの激しい現場には近づかない。目の前の生活を維持していかなければならない。より静かな快適な生活を提供してくれる“それ”こそが、今の私にとっての真実だ。だから“いま”の会社は“いま”の私にとっての真実なんだろう。過去の真実だった価値観をバカ正直に心酔するわけにはいかない。時代は変化している。価値観や道徳なんて、きっとファッション的なものだろう。精神は周囲に敏感に反応する。その周囲に反応し過ぎて、今まで私は苦しかった。無知だったから苦しかった。私は“私”だ。私には私の生き方がある。私は私の頭の範囲内でしか生きられない。苦しいのは自分に対して無理をしていることと、最近何気なく理解した。出来ないものは結局出来なかった。出来る人に任せればいい。出来ない自分がわざわざやり、ストレスを感じる自分はバカだった。転職は、自分の精神と肉体を救うための最善の方法だったと、自分を納得させる。そのことで、両親との距離感が歪んだけれど、父が亡くなり母と二人だけになって、それはそれで過ぎた出来事として、それでも今の私にこびりついている。出来ないものは出来ない。でもやってみなければ分からない。私だって、必死に生きている。自分を愛することなんて、そう簡単には出来ないことなんだと思う。私は自分を信用しようとしている。だからこんなにも、もがいているのだ。普通に生きていくことのほうが、熟練した高度な技術を必要とするのかも知れない。会社を辞めてしまいたい。もう大人だから、会社を辞めた時のめんどくささを思ってとりあえず出勤する。悲観しているわけでもない。何かのひょうしに大金が手に入れば、素っ気なく辞めてしまうだろう。そんなバランスの中で今日も出勤する。会社員をすることで、どこかの境地には辿り着いている実感がある。だから今の環境を捨ててしまえる覚悟はあるけれども、僅かな貯金を考えるとその覚悟をすぐに採用するわけにはいかない。とりあえずは「また朝か……」という言葉を飲み込む。精神のどこかを“つん”とつつかれたら、一気に私の精神のバランスは歪んでしまい、理性的な感情のコントロールが出来ないかも知れない。私は“私”が怖い。人が、連続した行動をやり続けるには、思想が必要だと気づいた。今までの思想では、会社員を続けることは、そろそろ出来ないという予感がある。収入を得、そのことによって生活の幅が広がって楽しかった。自分の好きなものが買える。それは快楽だった。私はもう、じゅうぶん自分を楽しんだのかも知れない。内面をそろそろ書き換えなければいけない時期なのかも知れない。このまま生きてしまいたかった気もする。きっとなるようになるだろう。なるようにならなければ、私はそこまでだったのだろう。今日は天気はいいけれども風が少し強い。そのことに気づけている私は、内面に少しばかりの余裕があるのだろう。今日は久しぶりに熟睡できるかも知れない。当たりまえに眠れていた頃が懐かしい。どきどきする。なぜかどきどきする。別に怯えることなんて何もないのにどきどきする。今という時代に“ぽつん”と放り出された私。とりあえずは生きていかなければならない。それがなぜか滑稽だ。目の前には生活がある。生物的に、私の体は勝手に基礎代謝をしている。死ぬに死ねない。迷惑だけれど本能的に死にたくはない。かわいい洋服を見れば、欲しい。いったい私とは何なのだ?子供を持ちたい気持ちがないわけではない。それはきっと本能的なものだろう。その本能と、どう向き合えばいいのかよく分からない。時代に薄ら笑いで俯瞰されているようで、気持ち悪い。正しさの基準が自分の中で曖昧なのだ。その曖昧さが便秘のようで気持ち悪いのだ。きっと本能だけで生きることを、許さない時代なんだろう。肉体の進化が、今の時代に追いついていないような気がする。時代の進化はその時代に所属する人々の欲望の結果だろう。肉体の進化が昔のままだから、精神と肉体がうまくリンクしないのだろう。子供を持ちたいと思う本能を、現実のいろいろな出来事に、うまくごまかされているような気は、する。私はどうすればいいのだろう。どう生きればいいのだろう。自分にとって本当に大事な事は、誰にも相談することは出来ない。相談したとしても、的確な答えは出てこないだろう。自分のことなのに、自分の事がよく分からない。静かな時間が過ぎていくのに不安がつきまとう。不完全なバランスが、日常を流れていくための完璧なのだろう。完璧な体調。完璧な精神状態。そんな日は、一年のうちに何日あるだろう。淡々と流れていくことこそが難しい。世の中は大きくうねっている。目の前を大きくうねっている。それなのに、私の日常は淡々と流れている。子供の頃、大人の人は何でも知っている。そんな錯覚があった。大人になってみると、大人という人種があることを私は発見する。大人というものを、美しく見過ぎていたのかも知れない。それはそれで人それぞれだから、それらの中で自分として生きる免疫が出来るまで、会社というツールは役だった、という実感がある。いつのまにか硬質な免疫が出来ていた。自分が硬質にならなければ、ちょっとしたくだらない刺激にも崩されてしまう。もう。私は“私”の人生に責任を持たなければならない。それをしっかりと自覚しなければならない。それぞれの人は、淡々と流れている。その中の一人が私でもある。ただそれだけなのに、一日が終わるとくたくたになっている。鏡を見るのが嫌になるくらいに。必死に私は時間にしがみついているのだろう。もうしがみつかなくてもいいと、誰かやさしい人にそっと囁いて欲しい気もする。自分にとって、本当に大事な人を私は求めている。自分の人生を大事に生きたいから、自分の人生を大事に生きている人と関わっていきたい。人を選別することは好きではなかったけれど、これも生き抜くための知恵として、受け入れていかなければいけないのかも知れない。差別をしているわけではない。自分の輪郭をはっきりさせる代わりに距離感を明確にしなければ私自身が壊されてしまう。人の気持ちは大事。それと同じくらいに自分の気持ちも大事。そこに軋轢や緊張感が生まれる。だから私は考え続けなければいけないのだろう。どうやったら、お互いに自分の輪郭を失わずに協調できるのかを。人の気持ちを考え過ぎて、疲れた。私には私の限界があることを知った。世の中は流れている。そんな私の悟りなんか無視して流れている。自分を大事にしながら自分なりに、その素っ気ない世の中に参加し続けなければならない。誰とでも仲良くすることは無理。知り過ぎることによる免疫を、どこまで強くすればいいのだろう。世の中は裏と表で動いているのだろう。私の見えている世界は、全体の何パーセントなんだろう。すべてが見えなくても知らなくても、生きていける。現に私はここに生きている。私は私で精いっぱい生きているのだ。知らないことは恥ずかしいことだと理解はしているけれど。知ったからといって、いったい何が変わるのだろう。見なくていいことと、知らなくていいことの、感性の閉じ具合がうまく機能していない気がする。だから一日が終わるとヘトヘトになっているのだろう。私には私の目に合った景色があるのだろう。地球上に生まれた人間の数だけ視点があるのなら、いったいどの視点が正しいのだろう。自分が所属する集団の中から世の中を観察し、内面を変化させることで協調し、とりあえずはこの会社で私は生き残っている。内面が記憶と共に沸騰している。頭の中では別の世界で私は生きている。現実の私はその私に追いついていない。考えることをしばらく止めたいと思うけれど、すぐに不安と焦燥でイライラする。だから働いているのだろう。働いていさえすれば、その間はそんなもやもやから逃げられるのだから。自分を忘れられている時間はある意味快楽なのかも知れない。私は今の私が嫌い。私の予定どおりの私になっていないから、きっと嫌いなんだと思う。自分の意思とは関係のない不思議な“ちから”によって、今の私がここにあるような気がする。“いま”の私を、私は受け入れたくはない。もっと素直に今の環境を受け入れて、もっと感謝の気持ちを持って日々を流れていかなければいけないのかも知れない。そんなことは頭ではきちんと理解はしている。昨日は平穏にちゃんと生きられたのに、今日は精神的に不安定だ。普通に生きているだけなのに、何でこんなに苦痛を感じるのだろう。よく笑う人、に対して今の私は意味が分からない。なぜ笑っていられるのだろう。何気なく、そんな視線で見てしまう。この時の私の視線は正常だろうか?異常だろうか?絶えず笑っている人は正常だろうか?とりあえずは多数派の雰囲気に合わせることで、自分を守らなければいけない。それは知恵として、理解をしている。自分の価値観を疑いたくなる不安。だからその場に協調することで、安心感を得ているのかも。過ぎてみなければきっと分からないのだろう。過去を振り返り、検証することで、真偽ははっきりするのかも知れない。検証している間も、淡々と時間は過ぎていく。だから歴史は繰り返されていくのだろう。世の中から離れてみなければ、世の中が見えてこない。一度流れ始めた流れは、もうどうすることも出来ないのだろう。その流れに背を向けてしまえる人ならいいけれど、その流れの中でしか生きられない人はどうすればいいのだろう。私は背を向けて転職した。その過去を、何度も何度も考える。なぜ何度も考えるのか、自分でも不思議。今の自分ともう一人の自分。このままの自分でいたくないなら、あの時の判断は間違っていたのではないかと検証したくなる。本当に時間は淡々と過ぎていく。リアルだ。私はもう三十を過ぎた。その時々で、真剣に生きてきたけれど、あっという間という言葉をリアルに実感する。生まれたばかりの私がもう三十を過ぎた。それはそれで運がよかったのだろう。今はいいけれども恐ろしいことがゆっくり近づいてきているような気がする。何をどうすればいいのだろう。何も答えが出ないまま、やっぱり時間は淡々と過ぎていく。もがく内容の質が変化したから、それによって戸惑ってもいるのだろう。一つの問題に答えを出して、すっきりしてそのまま生きてしまえる時間は短い。新しい問題がまた目の前にある。問題というか、不安を感じるのだ。だから人は、仕事をしたいと思うのだろう。自分の輪郭をはっきりさせなければ、何をしでかすか分からない自分が怖いから、仕事をしたいと思うのだろう。当たり前のように仕事をしてきたけれど、最近やる気がない。仕事があるだけで、感謝をしなければいけないのかも知れない。でもやる気がない。素直に辞めたい。会社に対してやり切った感がある。これが一番の憂鬱の原因だと気付いた私。「だったら辞めればいいだろ」と必ず言われるだろうから言えない、からそれが不安として何気なくストレスになっているのだろう。仕事が嫌いだというネタで日常会話をしたい。緊張感が一気に崩れ、一瞬で空気が悪くなるだろう。私はそのまま辞めてしまいたい。曖昧な繋がりをスパッと切ってしまえたら、どんなにスッキリするだろう。世の中にはいろんな人がいる。その事実を実際に自分の目で見ることが出来た。合う人と合わない人。行き場を無くした言葉の流れの隙間を、私はこれからうまく避けながら生きていこう。自分にとって大事な言葉は、それほど世の中には落ちていない。生き延びることにプラス、品を持ちたい。相性もあるし、その時の雰囲気でうまく流れることもある。いちいち傷ついていたら、体力の消耗が激しい。自分を深く見つめ過ぎてもいけない。過去は過去として、流れ始めている。気づかなければ、きっとあのまま流れていけたのだろう。感傷的な気持ちになる時間が最近増えたような気がする。若さには過去がなく、大人には過去がある。その過去が、大人の老化を促進させるのだろう。蓄積された過去を持ち続けることは苦しい。その過去と向き合うことはもっと苦しい。だから大人は本当に大事なことから逃げてしまうのだろう。仕事は本当に大事なことだろうか?自分から逃げる仕事は本当に大事なことだろうか?その仕事の先に、世の中と自分の幸せがあるのなら、それは最も大事な仕事なんだろう。あまりに生活に追われた仕事をすることは、正しい判断を見失う。思想を基準にこれからは働かないといけないのかも知れない。目の前のことにがむしゃらだった。それはそれで美しい日々として、気恥ずかしい思い出になった。もう。あの頃の私ではない。もう、あの頃のまま、生きてしまえない。過去のように生きられるけれど、それは“いま”の私が許さない。これからの私は“いま”ここが、スタートラインだ。自分がやりたいこと。それが世の中から求められることが理想だろう。その理想がうまく機能している人を、私は素直に嫉妬する。そんな人を目の当たりにすると、自分を愛することを、挫折しそうになる。私は“わたし”という認識に、莫大なエネルギーを使ってしまってイライラしてその日は終わってしまう。生まれたことを辞めたくなる。質のいい生き方を求めるから、苦しいのかも知れない。単に生活していければいいだけだったら、こんなにも苦しくならないのかも知れない。自分がますます分からない。この時見えている風景は、後々の私の強力な栄養になるだろう。この時感じる孤独から、私は逃げてはならない。自分をごまかすことを、未来へ先送りしてはいけない。それを本能の声として、これだけはあるがままに受け入れなければいけない。すべての失敗は孤独を源泉とするような気がする。それを体感として、私は知っている。友達との距離感だって、意識的にコントロールしなければいけない年齢に気づいたらなっていた。今まで当たりまえだったことに、私は無意識のうちに考え、疑問を感じ始めている。何気ない風景を、あまりに私は何気なく通り過ぎてきてしまったような気がする。父がいた風景は当たりまえだった。父を失ったという過去の景色が、今の私を少しずつ苦しめる。その景色は内面をゆっくりまわっている。少しずつ血液の中へ、溶けていっているのかも知れない。父が死んだ事実は現実として飲み込んだ筈だった。死とは、ものすごいことなのかも知れない。いづれ私は死ぬということを、日々の私は忘れている。あたりまえなこと。自然なこと。だからといって、不自然に感情を高揚させる気にはならない。生命体としての自分にまで、視点を飛躍させる気にはならない。死んだ父を見た時、そこにはもう父はいなかった。肉体だけがあった。その父のそばに、生きている私が居た。死んだ父を目の前にして、私は生きているということを感じた。自分には体温があった。普段、考えもしなかったそんな事実に気づいた。今の私はとりあえず現実を生きている。隙間時間に過去を考えている。未来は必然とやってくる。淡々とやってくればいい。私はもう、何も期待はしないし、だからといって諦めているという意味ではなくて。自分ではどうすることも出来ない摂理のようなものがあるということを感じているだけだ。私は“わたし”でいようとすることに、執着し過ぎていたのかも。どうでもいいことには流されようと思う。どうでもいいことは、どんどん目の前を流れていけばいい。その時の時間だけは無視しようと思う。自分にとって優位な時間が流れ始めるまで、待つしかない。これを耐えるという言葉で表現するべきなんだろうか。逃げながら楽しみながら、待つことだって出来ると思う。自分の基本を押さえたまま、その回りの形だけを変化させて、のらりくらりとすることだって知恵だと思う。限られた体力を、うまく分配しなければいけない。争うことは無駄なエネルギーの消費だ。うまく避けて、温存しておかなければいけない、という知恵が身についた。過ぎてみて、初めて見えることがある。許せる人と許せない人。私という存在は、今まで私と関わりを持った人たちの記憶の中で、どちらに分類されているだろう。真実を映し出す鏡があるのなら、私はその事実をあるがままに受け入れることが出来るだろうか?勘違いしていられているから、私は社会生活を生きられているのかも知れない。今の勘違いの幅は、許容範囲だと思う。許容されなくなった時、その時は疎外されるだろう。今までなるようになってきた。私は私の摂理をあるがままに受け入れるしかない。自分の摂理からは逃げない。嫌な事を経験したから、自分の輪郭を見ることが出来たと、嫌な記憶を受け入れたい。つよくなれ!私。まだ私には、やるべきことがある。考えることがある。死んだら考えることが出来なくなる。過去の自分より少しだけ強くなっている。もう少し、生きてみたい。死にたかったわけでもない。そんな言葉が不意に流れたことがあっただけだ。今という時代を生きている人は、どんな感じで生きているのだろう。楽しく生きているだろうか?本当に大事なことは本当にしゃべりたいことは、本当にしゃべることが出来ないから。私は私を理解されたがっている。社会の流れの一部として流れている私。感情の乱れを巧妙に隠さなければいけないけれど、時には限界がある。もう無理だと感じた時は、何もやらないことにしよう。複雑な視点の中で、私の心が複雑に掻きむしられている。冷静になれ!私。今の現実に“わたし”を適応させていかなければならない。毎日何かしら軽い苦痛がある。過去の記憶との対峙であったり、同居する母との軽い軋轢であったり。視点を変化させれば私の内面はやすらかになれるだろうか?このままの価値観で生きてしまいたい私とこのままでは駄目だと曖昧に思っている私と。危機感を持てと煽られても……。その言葉に感情が不自然に乱されて、結局“嫌な気持ち”がぽつんと残るだけだ。ふとした情報に目が留まり、真偽がはっきりしない“それ”に内面が掻きむしられる。私なりの日常が停滞してしまう。無責任の煽りは迷惑だ。その都度情報を集め、自分を深く見つめなければならない。結局自分に帰ってくる。情報を無責任に発した人は、それを理解しているだろうか?説明を受け、納得したつもりになっている私が結局、馬鹿なんだろう。曖昧に捉えていたことを分かりやすく説明されることで、一時的に安心する。ただ時間が過ぎてみると、自分の現実は何も変化なんてしていない。人は結局不安が嫌いだ。生活に直結しない知識は私の中で淘汰されていっている。知識と現実の生活。結局私は何になりたかったのだろう。仕事はとりあえずやってはいるけれど、仕事は何をやってるの?と訊かれたら、「会社員」と答えるしかない。淡々と流れている時間の中で、自分の立っている場所が分からなくなる時がある。実力って結局なんだ?最近一日終わると虚しくなる。気づくと“ぽつん”とした私がいる。激しく心を動かされたことに、最近いい意味で心が乱れなくなった。もういいのかも知れない。今の環境に対して、私のある部分が限界まで高められ、その部分が“もういい”と私に言っている。どうする私?淡々と今の環境で流れていきたいという私と、今の環境に息苦しさを感じ始めている私。でもまだ大丈夫。今の環境のまま、もう少し流れていける。それほどせっぱ詰まった息苦しさではない。ネットの情報は錯綜し過ぎていて、あまりに自分の現実と乖離していて、読めば読むほど頭がくらくらする。情報の取り過ぎは害になるということを体感している私。いったい真実はどこにあるのだろう。何を無防備に信じられるのかよく分からない。不安を抱えながらとりあえず朝が来て働き夜になって眠る。そうやってこの地球上に存在している人類の一部の私。だから何?って自分で思う。もっと私はふつうに生きたいのかも知れない。私にとってのふつう。世の中の流れに会社を通して合わせなければいけないのは理解はしている。私はロボットではない。出来ないものは出来ない。複雑な葛藤をして辿り着いた私なりの境地が今はある。若いからこそ出来たことが今は出来ない。体力的なことではなくて、感覚的に、もう出来ないのだ。プライドとかではない。出来ないものは出来ない。やりたくない。過去は過ぎた。その時の新鮮な感覚も憎しみも過ぎたのだ。その余韻を引きずったまま、今まで私の時間は過ぎた。その間に私のもやもやした記憶は少しずつ昇華されていった。だから私は今、ぽつんとした気持ちになっているのだろう。過ぎてみれば早かったと思えるけれど、過去の匂いのする場所、人とは正直関わり合いたくない。そこを何とか通り過ぎて、今の場所に私がいる。その今の場所に、息苦しさを感じている私。この場所が私の最終到達点なのかも知れない。とりあえず私はもがいてきた。気づいたら、私はぽつんとしている。だから私にとってはふつうに生きたいと感じるのかも知れない。過去に振り回されて、何だか疲れた。そんな感慨だけが、ある。これからやってくる私の未来は、少しでも良質になっただろうか?過去を反省し、飲み込んだことで、未来は変化しただろうか?熟睡できなくなったのは、いつの頃からだろう。心臓が締めつけられる感覚がするから、ストレスで自律神経が血管を締めつけているのだろう。疲れているのによく眠れない。訳が分からないまま、最近一日が過ぎている。起きているのに起きていないような。それは起きていることを、私が望んでいないからかも知れない。きっと、みんな自分が不安なのだ。自分にとって本当に大事な気持ちを、最近私は誰にも言っていない。気持ちのバランスが、不安定になっているのかも。言っていいことと、そうでないもの。そのブレーキを調節することが最近めんどくさい。それはそれで、複雑に脳を瞬時に働かせるから疲れる。ストレスで、私は死んでしまわないだろうか?うまく自分をコントロールしなければいけないということは知っている。私はそんなにつよくない。つよい人に甘えたい。こんな自分が“いま”ここにいる。過去の恋愛は、稚拙な夢だったような気がする。過ぎた時間に恥ずかしい。だからサッサと遠い記憶の場所まで過ぎてしまえばいい。これから私は人を好きになることに、慎重になるだろう。自分の弱い部分を知ったから、その部分に巧妙に触れようとする人から、自分を守らなければいけない。私はそんなにつよくない。でもそんなに弱くもない。今日も何気なく嫌なことがあったけれど、気づいたら夜だ。一日が終わっている。今雨が降り出してきた。梅雨だけど、部屋は除湿をしているので快適なのだ。お風呂に入ってこの部屋に戻ってきた。この時間が一番私は好きかも知れない。もう眠りたいけれど、眠ってしまったらすぐに朝が来てしまう。でも本当には眠れていない。浅い眠りなのだ。私はどきどきしている。何をこんなに怯えているのだろう。原始的な本能で、何か危険を感じているのかも知れない。どうなんだろう?そんなことを考えているから、きっと眠れないのだ。ぐっすり眠れる日は来ると信じたい。こんな感じで何とか生きている私。このままの私では、外には出られない。だから私はお化粧をする。そのままの私で生きてこられたのは何歳までだっただろう。純粋だった私が今は懐かしい。このまま生きてしまってはいけないような気もする。そんな焦燥感さえ、過ぎようとしている。純粋に夢中だったし、純粋に日々が新鮮だった。そんな過去に対して、あったような気もするし無かったような気もする。過去に過ぎた人が、人を介して私のことを知っていると“いま”の私が聞いた時、その人は私の事を知っていても、“いま”の私の記憶には存在していなかった。学生の頃、私はその人に対して興味が無かったのだろう。興味が無いことを巧妙に隠して、仕方なく会話をしていたのだろう。同じ時間を過ごしていながら私には記憶が無い。記憶の中に存在していない同級生。それはそれで意地悪な気持ちで楽しい。別に好きで同級生になったわけじゃない。ただそれだけのことなのかも知れない。妙な仲間意識はない。仕方なく笑っていたような気もするし、仕方なく一緒にいたような気もする。卒業してからかなりの時間が過ぎている。私は“いま”の時間を生きている。過去の時間を生きてはいない。私にとって、過去は過ぎたのだ。過去の友達は記憶の点として昇華され、今の私の下地になっている。過去の同級生に会い話し掛けられると、違和感がある。距離感がしどろもどろになり、うまく会話が出来ない。私にとって、過去は美しかっただろうか?過去がうまく今の私に融合しない。だとしたら、過去の余韻を引きずったまま、今の私は生きているのだろうか?今日は頭の中がうまくまとまらない。不自然に記憶が暴走している。過去の記憶は美しく都合のいいように昇華されている、なのに私の過去を知る“過去の人”が別の視点から私を突きつける。戸惑っている私。はっきり言って迷惑だ。せっかく苦労して自分を昇華させたのに、無思想に生きていた自分に引き戻そうとする。何やら無残な罪悪感を感じる。きっとその弱さや罪悪感と、何気なく今まで闘ってきたのかも知れない。だから今はそっとしておいて欲しいのかも知れない。過去から急速なスピードで、現在へ飛び越えたのかも知れない。それを過去の人と触れることで、はっきり自覚出来たのかも知れない。今の私は何気なく生きてはいない。それを感じることが出来た、何気ない経験だったとこの経験を昇華する。昇華させることで、私は自分を冷静にしようとしている。これは悪いこと?そうしないと明日、会社に行けないかも知れないから。今日もまた、よく眠れないだろう。それでも明日は時間的にやってくる。体調は良くもなくちょっと悪いと感じるくらい。このくらいが日々を生きるには、調度いいと思えるようになった。あまりテンションを上げると体力が持続しない。気合で乗りきっていた自分を今は馬鹿に思える。これからは、体力も頭を使ってうまく配分しながら使っていかなければならない。もう過去の私ではない。でも経験から得た珠玉の知恵がある。もう過去なんだ。美しい思い出も悲しい出来事も、みんなみんな過去なんだ。終わったことに、私は今までいじいじしていた。もう過去にしよう。私はいつか必ず死ぬ。重要なことは、たったこれだけのことだったのかも知れない。仕事で失敗した時、一瞬だけれど死にたかった。かなり落ち込んだ。過ぎてみれば何とも思わないという言葉が、その時心の底から憎らしかった。今はその言葉がはっきり理解出来る。過ぎたのだ。過ぎてみれば早かった。だから今は何とも思わない。いい経験をしたと、八〇パーセントで思える。それくらいまでに、精神が回復した。私のいのちが生きたがっている。私のいのちがまだ、死にたがっていない。まだ私の死ぬべき“時”ではない。時間が過ぎれば、もう少し私の有利に働く時間が順番として廻ってくるかも知れない。だから今は静かに耐えようと思う。耐える時間だと思う。それまで私は逃げる。どんどん逃げる。今の私はだからこれでいい。私は私の時間を生きる。もっと自分に素直に生きられると思う。私は“いま”を生きているだろうか?過去という時間にまだ縛られている。“いま”という時間を生きていながら、私は今、いつの時間を生きているのだ?後悔をしているわけじゃない。あの時の私では、その時起こった現実に、うまく適応出来なかった。?……!後悔しているではないか!私。後悔をしているから、もう二度と後悔はしたくないから、こうして過去を“現実の今”を生きながら反省し、今の私だったらどう対応するかと、幾度もシュミレーションしているのだ。過去の私ではない。もう過去の私ではないのだ。今という現実に過去に起こった出来事が目の前に現れても、今だったら私らしく、うまい対応が出来ると思う。時間は過ぎている。なのに私の成長はゆっくり過ぎて、“今の現実”にうまく対応出来ていない。私の内側に、処理されない過去が堆積していく。それでも“今という現実”は淡々と過ぎていく。過去を抱えながら、今という現実を生きなければならない。“今”という現実を維持しながら、過去を昇華し、決別していかなければならない。現実はそれ程甘くはない。それなのに、過去が私を苦しめる。今という現実をなんとかやり過ごし、後悔する過去にならないように細心の注意を払う。今の私は過去からの連続した末の私。淡々と過ぎてきたし、これからも淡々と過ぎていきたい。それは私の独りよがりの願望だって、何気なく理解はしている。私の所属する会社に私は身を任せている。そんな私の苦しみなんて、きっと会社は理解なんてしていないだろう。理解なんてして欲しくないし、そんな本当の苦しみなんて知って欲しくなんかない。会社は仕事をするための神聖な場所。とりあえずはその神聖な場所で与えられた仕事を遂行するだけだ。ただ求められている自分に私が納得していないだけ。私はいったい会社に何を求めているのだろう。馬鹿で無能な男の可能性をいつまでも信じている馬鹿な女みたいに自分が見える。所属する会社の現実の輪郭は、それほど美しくはなかった。会社へ繋がろうとした私の努力は無意味だったのだろうか?会社に、より繫がることで結果、社会に貢献しているというプライドがあった。だから何気なく頑張った。私はただの労働者階級だった。それを理解してからは、余分なちからが体から抜けた。被害妄想かも知れないけれど、私はうまく働かされていたのかも知れない。なんというか……働きたくない。必要以上に働きたくない。子供がいなくて良かったなと、何気なくホッとしている自分がいる。美しい言葉は個としての輪郭を取り払ってしまう。まるで魔法を掛けられたみたいに内側からエネルギーが溢れてくる。どうやらその魔法が解けたようだ。今まで私は私なりに頑張って生きて来た。今、私のやるべきことは“いま”を感じることだと直感する。世の中は激しく動いている。それはそれで、大変なことだと理解はする。私はいったい“いま”何をやるべきか?あまりよく眠れていない。だから“いま”はゆっくり眠らなければいけない。母の趣味はガーデニングで、今まで私は一切興味が無かった。最近ふと、その何気なく咲いている花が、美しく瞳に映るようになった。自分に適した季節に、身の丈に合った花を開かせている。私は疲れているのだろうか?それさえも、自分のことなのによく分からない。疲れているなら眠ればいい。そんな簡単なことさえも、いちいち自分に言い聞かせなければ“いま”の私は自分を理解させることが出来ない。私には出来ないこと、私に出来ること、が、こんな状態になって初めて理解できたような気がする。もうがんばらない。出来ないものは出来ない。三〇を過ぎて口のうまい人は、もしかしたら危険かも知れない。人見知りは自分を守るための、防御本能かも知れない。今の私は完璧に自分を信じることは出来ない。なのに人を完璧に信じることなんて出来るだろうか?日々、自分に対してもがいている。けれど弱さに逃げたくはない。これは私にとっての危機感だ。その弱さに入り込もうとする触角を、何気なくガードしなければならない。弱さの固まりとして群れたくない。個としての私として、流れていきたい。まだ私は大丈夫。何が大丈夫か分からないけれど、今まで“磨いた感”がそう私に言っている。今日は天気がいい。洗濯物がよく乾く。今日の私は気分がいいかも知れない。“いま”という現実を感じられている。過去にも未来にも束縛されていない。とりあえずは何とかなるだろう。油断すると、すぐに不安で押し潰されそうになる。自分一人だけ、取り残されているような“寂しさ”を感じているような。だからありもしない“本当”を求めたくなるのかも知れない。本当の友達、本当の仲間、本当の恋人……その他多数。私はもしかして、潔癖過ぎたかも?日々を流れていくには中庸がいい。毎日毎日肌の調子が良いわけじゃない。見られたくない肌の時には会社に行きたくない。日々の流れに自分の体質を適応させなければならないことを、受け入れなければいけなかった。もっと楽に流れていけると思う。もっと楽に流れていくための方法を導き出せる材料が、私の内側にはまだまだ眠っている。その材料と向き合い、自分を修正していかなければならない。普通に生きていながら、私は私で忙しい。何もしていない時間がきっと一番大事なのかも知れない。体はお酒を求めていないのに、脳がお酒を求めることがある。次の日は怠いと知っているのに飲んでしまう。何もしないことは大事だって理解はしているのに何もしないことが不安になる。自分の複雑な仕組みを、まだうまく使いこなせていない。私は私自身に対してぎりぎりだ。肉体的にも精神的にも、自分を投げ出してしまいたいぎりぎりの地点でやっと生きている。「もういい」という言葉が出る数ミリの一歩手前のぎりぎりの場所で私は今、立っているという実感がある。これからはもっと中庸になれると思う。年齢を重ねることで、やっと理解できることもある、ということを理解できたような気がする。私は地理的に移動することは好きじゃない。インドア派だ。ただ、精神的にはほんのちょっとだけ高い場所までやってきたと実感できる。どこまで私は到達できるだろう。ただ地理的に動き回ることだけが好きな人は、きっと何も見えてはいないだろう。どこそこに行ったという事実しか、得ているものはないだろう。心がそこに無ければ、本当に行ったことにはならないのかも知れない。高鮮度の映像をぼんやり見ている時と、それほど変わらないのかも知れない。自分に合わない経験は、無感覚に過ぎていく。自分に合わない人達も、無感覚に過ぎていく。距離感だけがそこにあり、その距離感をうまく使って私は今まですり抜けてきた。極度の緊張感のある距離感は、もう耐えられそうにない。適度の範囲に触角を臆病に伸ばし、危険を感じたら何気なく寄りつかないようにしよう。これからはさらに意識的に、自分を守っていかなければいけないような気がする。そのまま生きてしまえる限界点に、今、私は立っているのかも知れない。コンプレックスというバネでその勢いで、今までそのまま生きてしまえたような気がする。新しい自分を生きるには、勢いではない冷静で普遍的な思想が必要だ。内面を変化させなければならない。過去の自分を深く見つめなければならない。このままの自分で生きてしまうことに恐怖を感じない人が、きっと群れるのだろう。この場所で、繋がりを広げたくはない。弱い者同士でみじめさを共有しているバーベキューみたいで、何気なく近寄りたくはない。きっと群れている人は孤独で不安なんだと思う。顔は笑っているけど目が寂しそうだ。寂しい人ほど良く笑うという事実。私は寂しくないから不必要に笑わない。大人だから、ある程度は流されるけれども不必要にはもう笑わない。もうあの時の自分なんかじゃないから。過去の自分が今の自分を苦しめる。弱かったし、知恵も知識も無かった。だから迎合するしかなかった。今の私の反対の向こうの真正面には、そんな過去の私がいる。そこからの反動で勢いで、今の私が、いる。支点を上げなければ、今とあの時の自分を振り子のように行ったり来たりの繰り返しをするだけだ。今の振り子を捨ててしまわなければ、次のステップには上がれない。本当の勇気を、私は何ものかに試されているような気がしてならない。過去に感じたことのないような焦燥感が“いま”の私を苦しめる。時間は淡々と流れていく。しかも平等に流れていく。その時間を自分にとって正しく使いたい。自分が今やっていることに、「何やっているんだろう……私」と感じることがある。学生の時は、より高い点数を取ることで、それが何よりの正しさだった。今私は社会人。自分にとっての正しさが、まだ理解出来ていないのかも知れない。私は今、自分に対して正しく生きているだろうか?最高に難しい問題を解いているような気がする。要領よく仕事をこなしていくことで、少しずつ自分に気づいていく。仕事をこなせるけれども今の自分ではもうやりたくない。会社をいくつか変わったけれど、過去の会社について、そんな感慨がある。理想とする生き方を生きられる人は幸せかも知れない。私は私の生き方しか出来ない。それを社会人の始まっていない人達から見たら、滑稽に見えるんだろう。私もそうだったから、今だったら理解出来る。出来ないものは出来ない。向かないことをするのはいくら給料が良くても続かない。ひっそり生きられればそれでいい。社会人になった私には、目の前の生活がある。人に迷惑を掛けずにとりあえず生きている。私は私以上でもなく、私以下でもない。過去にノスタルジーを感じている時間はもう終わったのかも知れない。今を生きなければいけない。優越感は、人を盲目にさせてしまう危険性があることを、社会人になって知った。自分が幸せな時、人の目は笑っていない。危険な視線に絶えず晒されていることに、絶えず危機感を持っていなければならない。普通に生きていくにはしたたかさがなければ生き残っていけないのかも知れない。私は私と母の生活を守らなければならない。それ以上でもそれ以下でもない。曖昧な繋がりなど、すっきり切ってしまいたい。内面の奥底では、いつでも裏切れる準備はしてある。今はそんな自分を楽しめるようになっている。そんな自分の変化が怖くもある。正しく裏切りたい。痛い目に合った時、感情でごまかすのはもう止めよう。他のやり方を見つけて“いま”こうして生きているのだから。まだ私は生きられる。私自身がまだ生きたがっている。でも私は芸術家ではない。独りよがりに近い感情では生きられない。今所属する会社で、私はいったいどれくらい輝けるだろう。組織は息苦しいけれど、まだ我慢が出来るレベルだから精神的には大丈夫。社会に対して若さゆえの感情的な主張があったけれど、びっくりするくらい“いま”は無い。全く無い。きっと、安っぽいアーティストに悪影響されたのだろう。社会に出ることで、安っぽいアーティストから強制的に卒業出来たことは、私にとってはプラスだったと断言出来る。生きることは孤独だった。だからこそファッションを自分なりに楽しむことだって出来る。それでも私は私だと、主張することがファッションだと思うから。何もかもが、きっと少しずつしか進まない。“いま”生きている時代にいらいらする。それはそれで、正しい感情なのかも知れない。ただ。いつの時代もきっとこんな感じで人々は生きていったのだろうと推測する。それでも日常は淡々と過ぎてきた。それでも時間は淡々と過ぎてきた。過去の芸術作品を美しいと感じるなら、人間の本質というものは、何も変化はしていないのだろう。時代は変化しているのにその時代に所属する人間は何も変化はしていない。感情の憔悴で、好きではない人を好きになったと勘違いしたりする。本当に大事なものが、見えにくいような気がする。それがはっきり見えた時、私は今までの自分に自信が持てるだろうか?人間の本質に逆らって生きているような気がしてならない。それでも“いま”所属する世の中に時代に合わせて生きていかなければならない。きっと“いま”生きる時代に生まれてきたことは、不幸でも幸せでもない。生まれてきたという“事実”だけだ。過去は過去で、その時代に所属した人達は、大変だったのだろう。未来から過去を見るから、いい時代だったと感じるだけなんだろう。未来を生きる私は過去には生きられない。過去から学んだ知識の効力で、私は今現在、正しく生きているだろうか?結局私は自分の事を何も理解はしていない。だから他人のことが気になるんだろう。仕事で自分をごまかすのは止めよう。とりあえずは生きている。今はそれだけで美しい、とも思えない。いつからこんなに朝が来ることが苦痛になったのだろう。もう憶えてはいない。淡々と、憂鬱に、刻々と過ぎていく時間。私の人生は、歴史の流れに少しでも貢献しているだろうか?。眠ることで、私の頭の中は整理され、洗練されていく。どんどん過去になっていけばいい。何でもない日常が、どんどん過ぎていけばいい。その早い繰り返しで、私は何かしら変化するだろうか?そんな淡い期待が自分に対してまだ、ある。きっと私はまだ進化する。もう過去の私のようには働けない。そんな自分が今となっては懐かしい。過去の私と今の自分。過去の私は自分を好きになろうと必死だった。だから今の私はちょっとだけ自分を好きになれている実感は、ある。支点が変化していることで、見える風景も絶えず変化して映る。もう、出来ないものは出来ない。生きるために必要な分だけ働けたらそれでいいと思っている自分に最近気づいた。私には流れを作り出す才能も魅力もない。だから大きな流れに不快感を持ちながらも迎合している。無心になっていることが、心を閉ざしているのか、大切なものをすでに諦めてしまっていて、それでも何とか自分を守ろうとして閉ざしているのか、最近よく分からない。生きているのか死んでいるのか、よく自分でも分からない時がある。今までの経験による反射で、無意識に頭を使わずに対応しているだけだ。毎日のことだから、エネルギー消費を抑えなければならない。世の中に少しでも貢献したいという純粋な緊張した社会に出る前の私の決意は、過去の私と共に何気なく過ぎてしまった。その決意は、今の私に受け継がれていない。これはこれで滑稽な事実だ。私の目の前には生活という現実がある。いや……ふつうに生きていることこそが、俯瞰で見れば、世の中に対する貢献なのかも知れない。税金はきちっと支払っている。自分なりに働いている。人に迷惑は掛けていない。大きな組織を導き、世の中に多大な貢献をする才能は私にはないけれど、自分に対して責任を持って生きている。ふつうに生きていても誰からも褒められないし、あからさまに尊敬もされない。淡々と時間が過ぎていくだけだ。淡々と時間は過ぎたけれど、個人として生きられるスキルは身についていない。会社の中でだけ、通用するスキルだということに、最近ふと気づいた。会社の中は忙しい。それが社会的な自分の価値というものを盲目にさせる。井の中の蛙の中で、どうでもいい優越感を競い合っている滑稽さ。個人で生きられないから、本当は不必要な努力で、何とかより大きな組織に食いこもうとするのだろう。それはきっと間違ってはいない。弱い人の生き抜く知恵。私は強くはなかった。だからきっと、今の私は間違ってはいないと自分を納得させる。時代の流れは正しい。だから私はその時代の流れに、うまく自分を合わせていかなければならない。ただ、個人として合わせていける実力はなく。会社はもう、辞めてしまいたいと何気なく思っているけれど、目の前の生活を考えると。こんなことを無意味に反芻しながら私の時間は淡々と過ぎてきた。考え続けている私には、きっとプラスのエネルギーが溜まっていると信じたい。自分の意識をしていない場所を信じたい。私が生まれる前の世の中に、そして私は生まれてきた。母に望まれて生まれて来たと、母から何気なく聞かされた。その時私は何気なく嬉しかった。母は子供を望み、そして私が生まれて来た。うっかり出来てしまった子供ではなく、望まれて生まれて来たのだ。待望の私なのだ。プライドを持って生きられる、じゅうぶんな理由がここにある。今という“点”から誕生したその時の“点”まで、やっと直線で繋がったような気がする。なぜ私はここに生きているのだろう?それは望まれて生まれてきたからだと、今だったらプライドを持って言える。私は愛されて育てられてきた。それだけで、ここにいる意味があるじゃないか?時代の歪みをうまく擦り抜けていきたい。会社に対して必要以上に愛されたいとは思わなくなった。だって私は両親から、じゅうぶんな愛を貰ったのだから。無理なものは無理と、過去の私に言ってあげたい。自分に対して無理をしたから本当の自分に気づけた。社会に対して無知だったから、会社に対して適度な距離を取れなかった。輪郭や距離感をはっきりさせることは孤独かも知れない。曖昧にへらへら笑っているほうが緊張感はない。でもそんな私が私は嫌だった。過去の自分に勝ちたかった。孤独は寂しいものじゃない。宇宙に浮いているあまたの星々は寂しいだろうか?誰かと一緒にいることで、とりあえずの安心を得られる時もあるし、みじめな気持ちになることもある。仲間とは、微妙な言葉なのかも知れない。今の私は仲間というものを感じさせる集合体には近づきたくはないという本能のようなものがある。触角が一瞬でざわつきピリピリする。生命の危機を感じるように。もう私は子供ではなく大人なのだ。大人には、明確な裏がある。その裏には出来るだけ近寄りたくはない。その裏をも飲みこめる人が、きっと政治家方面に向いているのだろう。私には無理。私は私でいたい。難しいことだけど、それでも私は私でいたい。人にはそれぞれ役割がある。私には私の役割がある。人の気持ちは大事だけれど、自分の気持ちも大事。だから無理なものは無理。過去の記憶を何度も何度も引っ張り出して、何度私はこうして今の自分を納得させているのだろう。いつもいじいじしているような気がする。人は、長い時間を掛けてゆっくり自分を飲みこんでゆくのだろう。自分を知らないから見られる夢から自分を知ってから見る夢へ、今私は移行途中なのかも知れない。自分を納得させるための孤独を、私は今現在味わっているのかも知れない。遠くでカラスが嫌な声で鳴いている。今の私にとっては不快感の声だ。まるで嫌な人の声を聞くようで、胃がしくしくする。カラスの中でもその中で嫌われているカラスもきっといるのだろう。近寄りたくはない。羽があるのだから、居心地の良い場所へ行けばいい。こんな感じにカラスの声だけで感情が乱される。感覚が鋭敏になり過ぎている。もっと自分の呼吸を感じよう。ゆっくり呼吸して、自分の代謝のリズムを感じよう。何もやらない。何も考えない。何も感じない。今の私だったらこれが出来るかも知れない。今の私に必要なことは、何も感じないことなのかも知れない。自分の呼吸が整うまで何も感じない。だから自分の呼吸だけを感じよう。鼻から息をゆっくり吸う。それが全身にいきわたるのを感じる。音に対して最近敏感になり過ぎているのかも。生活音や動物の声。その質までが記憶に残っている。昼の音はざわついていて、それだけでストレスになっていると思う。伝えようとする音が強過ぎる。だから一刻も早く自分の仕事を終わらせて、家に帰りたいと思う。こうして今の私は今という時代を生きている。疑問を抱えながら、投げ出したい気持ちをぎりぎり抑えながら、何とか生きている。そんな自分を滑稽だと、冷淡に見ている自分もいて、だから時々私は自分が分からなくなる。冷淡に見ている自分だけでいられたら、どんなに楽だろう。私は人間だから、だから人間以上にはなれない。私は自分を生きながら、自分を観察もしている。流れは絶えず変化する。観察する側の上司は観察される側に変化した。あの時あの上司は、自分も一人の人間だったと自覚しただろうか。今となってはどうでもいいことだけれど。過去の記憶で楽しめる。過去の記憶と向きあうことは、最高のスリルがある。私はどんどん自分を暴いているのかも知れない。今の自分が自分でいられているのは、もしかしたら嘘かも知れない。虚像の自分かも知れない。過去の記憶を発掘することで、今の自分を維持できないほど、輪郭が崩れ去ってしまうかも知れない。自分に嘘をつき続けることは難しい。私はもしかしたら、いくつかの記憶を勝手に都合よく操作したかも知れない。だとしたら、今の私の一部は嘘になる。長く生き続けることで、私は少しずつ暴かれていくだろう。日々の何気ない視線で不意に、私は戸惑ってしまうかも知れない。みんな自分を正しく把握しているだろうか?人は弱いから、自分を勘違いさせてくれる存在をどうしても好きになる傾向がある。人は適度に適当に褒めておけばいいという技術を会社員で学んだ。その方が自分を守れるから。裸の王様を裸だとは言わない。ただ裸の王様をいつでも裏切れる準備は気づかれないように進めておかなければならない。裸の王様を裸だとはっきり言うためには、適度なポジションと覚悟が必要だ。それを今になって理解した私は、結局馬鹿だったのかも知れない。純粋だった私が一番嫌いだった私になっている。過去の私について思う。馬鹿って。純粋な目は、そのものが見える。ただ見えたことをそのまま言うには、リスクを覚悟しなければならないということを社会に出て痛みとして知った。私はいい人ではない。かといって特別悪い人でもない。そのバランスを取るために、曖昧な距離にいる人に本心を言ってしまい、その言葉を流され痛い目にあったこともある。私は言葉を飲みこむことを習熟しなければいけない。きっとどうでもいいことに感情を激しく動かし、無意味にそれを言葉に訳していたのだろう。訳した言葉を内側に溜めておく器には限界がある。もう私は子供ではない。見ないことも重要なのかも知れない。サッと流すことも必要。でないと自分がおかしくなってしまう。自分に対する悪意のある視線を効果的に消去してしまう内面の動かし方も、知らないうちに身についている。私は無意識に進化している。退化はしていない。自分を注意深く観察して、そう確信できる。人の名前が最近覚えられないのも、それは退化ではなく記憶の洗練だからだろう。名前を脳が憶えようとしないのは、私にとってその人は記号のような存在だからだろう。日々の生存のためにはいざとなったら必要ではない。だから私の脳はエネルギーを使ってまで憶えようとはしない。誰とでも仲良くしなくても、生きていける。その事実を社会人になって突きつけられた。誰とでも仲良くすることは、その逆で危険だった。大人の世界には利害や欲望が錯綜する。きっともう純粋な付き合いなど、出来ないのだろう。ただ子供の時も純粋な付き合いなんて無かったような気もする。一人でいるのが嫌だから、仕方なくこの子と一緒にいようと思っていた自分と、今になって向き合えている。そんな自分に静かに悶々としてきて今の私がここにある。過去の私を今の私は飲みこんではいない。そんな過去の私はいづれ、昇華されていくのだろうか?過去の余韻で今を生きている。過去の匂いが時々鼻腔に香る。別に。過去から逃げているわけではない。過去を整理出来なければ未来が入ってこない。現実がその場その場で曖昧に過ぎていく。その場その場の繋がりなど、私はすでに求めていなかったのかも知れない。過去を見つめることで、今を生きる私の思考が修正されていく。恋愛は甘味。その甘味に酔ったまま、結婚という法的な繋がりを勢いでしてしまったらと思うと……。修正には莫大なエネルギーと犠牲が飛び散る。それはそれで、人生の味なのかも知れない。お酒の味がより深くなるのかも知れない。でも私はそれほどお酒が飲めない。不本意に傷つきたくない。自分のあるがままの流れをみすみす塞き止め濁したくない。自分の流れをもっと大事にしようと思う。蓄積された過去の記憶は、もう十分だという実感がある。材料を求めて奔走する時間は、もう終わっているのかも知れない。私に対する私の実験は、もう終わった。その材料を元に、私は私の料理を作ればいい。不自然ではない、心臓の動悸を感じる。良い予感だから?うまく頭が纏まらない。今日は運よく肉体的にも精神的にも調子いい。音に対して神経質になっていない。内面の体調がいいから、外側の雑音を跳ね返しているのだろう。このままの状態が続けばいいけれど、日常はそんなに甘くはない、というか甘くなかった。自分以外が幸せに見えて、何かに突拍子もなく依存してしまいたくなる。平穏な気持ちで誰にでもやさしく接したいのに。そんなふうに毎日を生きたいのに。そんな自分の気持ちが一日が終わると細かく擦り切れている。私は今、どこにいるのだろう。すべての現実と、正常な精神の状態で私は向き合うことが出来ているだろうか?便利な世の中だから、ふと孤独になった時に、その便利さから滑り落ちるような感覚に、私は不安になっているのだろう。簡単な答えは検索すれば一瞬で提示される。その答えは、私にとっての正解だろうか?複雑な思考を経ていない目の前に提示された答えは、私を正しく導いてくれるのだろうか?私は今、本当にどこにいるのだろう。私の思考は情報の波に、ただ流されているだけではないだろうか?どんぶらこどんぶらこと、実体のない場所へ、運ばれているような気もする。それは私の勘違いだろうか?花はそれでも美しく咲いている。その真実さえも、うすい幻のなかで見ているような錯覚がある。感覚が空間に溶けこんでゆく。思考だけがどんどん進んでゆく。私の肉体を無視して、だからそのコントロールが難しい。単に歩いているだけなのに、どこまでも歩いていけそうな気がする。歩いているだけならきっと私は自由だ。私に対する無価値な視線はそのまま視界の隅から過ぎていけばいい。私は自由だ。自分の意思で歩いている。だから自由なんだ。頭の中身がゆっくり動いている。きっと、私をコントロールする回路が作り直されているのだろう。だから今しばらくこのままでいいのかも知れない。今度私はどんな人になっているだろう。どんな景色として、日常が映るのだろう。毎日が眠いのは、きっとそのせいなのかも知れない。私を取り巻く環境は激しく動いている。それなのに、私の時間はゆっくり動いている。このままでいいのかも知れないし。いい意味で、自分に不必要な部分は諦めている。だから不必要に疲れてもいない。もっと力を抜いて、生きられるかも知れない。きっともう大丈夫かも知れない。意識でとらえている錯覚は罪ではないと思う。みんないい人だと錯覚したい。それでもいつでも逃げられる準備はしてある。そんな自分が今では愛おしい。そんな自分がずっと嫌いだった。一点だけを見つめて歩き続けることはきっと正しくない。私は私自身になにやら恥ずかしい。どうか過去の私に負けませんように。きっと後は何とかなるだろう。そんな予感がある。
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