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秋
秋の十一
しおりを挟むそれは、父さんのお墓から長屋への帰り道を歩いていた時のことだった。
母さんが思いもよらぬ質問を私にしてきた。
「ねぇ、唄は好きな人はいないのぉ?」
「うぇっ!急に何?」
いきなりそんなことを訊かれるとは思っていなかったので、思わず動揺して変な声が出た。
「だってねぇ、私とあの人の馴れ初めを聞きたがるなんて、唄も恋の話しが出来るような年頃になったんだわぁと思ったら訊いてみたくなっちゃって」
母さんは、にこにこしながらそう言う。
「何よそれ。
私、誰かを好きになったことなんてまだないわ。
というか、私には許嫁がいるんでしょう?
だったら、好きな人なんてできたら困るじゃない」
私の知らない間に許嫁を決めてたくせに、今さら何を言っているのかしら?
好きな人がいるかどうかは、許嫁を決める前に訊いておくべきだったんじゃないの?
「うふふっ、唄に好きな人ができたって別にいいのよぉ。
最初から、唄が嫌がったらお断りするって相手には言ってあるんだものぉ」
「えぇ!?そうだったの?」
そんなの初耳だわ。
「あらぁ、言ってなかったかしらぁ?
ごめんなさいねぇ、ふふふっ」
母さんはいつも通りのほほんと笑っている。
もう、笑い事じゃないわよ!
断ってもいい話しだったなら、許嫁がいるって知った時にすぐに断ったのに。
「ん?でも、父さんも許嫁の話しは知ってるって言ってたわよね?
それって、相手のご両親とも約束してて簡単には断れないってことなんじゃないの?」
「大丈夫よぉ。
相手のご両親とも、唄が嫌がったらこの話しは無しにしましょうねぇって、ちゃんと約束してるからぁ」
「え、そんなことってあるの?」
普通は、親同士が決めた結婚をそんなに簡単に断ることなんて出来ない。
それなのに、何故か私の意志が最優先のような言い方だ。
「実はねぇ、相手のご両親も唄のことをよく知っているから、無理矢理結婚させたりなんかしないのよぉ」
「……」
絶句。
相手のご両親まで私のことをよく知っているの?
しかも、嫌がったら結婚は無しにしてもいいなんて、ずいぶん私に対して優しい。
ますます許嫁への謎が深まってしまった。
「だから、唄は安心して自由に好きなように恋していいのよぉ。
ねぇ、本当に今好きな人はいないのぉ?」
母さんは、もう一度最初の質問を私にしてきた。
「さっきも言ったけど、誰かを好きになったことなんていないわ。
というか、人を好きになるっていうのがどんな感じなのかすらわからないの」
そう、私は恋をしたことが一度も無い。
友人や家族に対する好きはわかるけれど、恋愛の好きは全然わからないのだ。
「うふふふっ、若いわねぇ。
人を好きになるっていうのはねぇ、その人のことが気になってしょうがなかったり、その人に好きな人がいるって考えたら胸が苦しくなったりするものなのよぉ。
唄には、そういう経験は無いのぉ?」
母さんが今言ったことに、私は心当たりがある。
千太に愛している人がいるって知った時、私なんだか苦しかったわ。
それに、千太の愛している人って誰なのかしら?と考えて、最近は夜もあまり眠れずにいる。
まさか、これが人を好きになるってこと?
でも、千太は私の友人よ?
この気持ちは友人としての好きじゃないの?
「母さん、他にはどんな風になるのか教えて」
「うーん、そうねぇ。
その人といると安心したり、自分の命をかけても守りたいと思ったり……あっ、そうだわぁ!
時々すごく恥ずかしくなったりする、とかそんな感じかしらぁ」
母さんは結構真剣に考え込みながら、私に教えてくれた。
やっぱり、全部思い当たる。
私の千太への気持ちは、友人としての好きじゃなくて、恋愛の好きだったのね。
今まで気づかなかったわ。
千太に恋をしていたなんて。
ああ、だけど駄目ね。
だって、千太には愛している人がいるって聞いたじゃない。
私、恋に気づいた瞬間に失恋しちゃったみたい。
なんだか悲しくなってきたわ。
こんなことなら、恋をしているなんて気づかなければよかった。
「私、やっぱり人を好きになったことはまだないみたい。
今の話し、全然当てはまらなかったわ」
私は母さんに嘘をついた。
あの日、母さんも千太に愛している人がいるって聞いていたのに、私が千太のことを好きなんて言えるはずないもの。
「あらぁ、そうなのぉ?
じゃあ、いつか唄に好きな人ができたら教えてねぇ。
母さん、唄のことを絶対に応援するから」
母さんは、私に優しく微笑んだ。
「ありがとう、母さん」
その優しさに泣き出してしまいそうで、私はそれしか言えなかった。
千太への恋は早く忘れよう。
秋の冷たい風に吹かれながら、唄は決意した。
そうだ。このまま許嫁と結婚しよう。
許嫁はあんなにも私を好きでいてくれている。
そんな人と結婚すれば、きっと千太への恋もいずれ忘れられるだろう。
そうすれば、千太がいつか愛している人と一緒にいるところを見ても、ちゃんと祝福してあげられるはずだから。
その夜、唄は初めての失恋の悲しみに枕を涙で濡らした。
それから、千太への恋心を一日も早く忘れてしまいたい唄は、千太を避け続ける日々を過ごすことになるのだった……。
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