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I.不幸に見舞われた男の末路

初出勤

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 郊外に位置するオクトン病院。外科も内科も備わった大きな病院だけど、入院ベッドが少ないことで、みんな無理なく働いている。
 都会と違って田舎ではあまり需要の無い精神科は窓口がひとつだけ。
 受付カウンターの看護師は他との兼任。僕だけが専任医師だった。ちょうど前の先生が気胸を患い退院するまで僕はその代わりだ。
「こんな場所までバスで通わなくても、市内ならいくらでも働き口はあったでしょう?」
 出勤初日にしてもう五人の人に同じことを言われた。
 最初は理由を色々つけていたけど、さすがにもう説明するのも嫌になってきた。患者に説明するのが僕の仕事なわけで、本当はこんなこと職務放棄なんだけど。
「ええ、まあ……」
 このどっち付かずの二つ返事は大概やり過ごせる。
「さては先生、何かやらかした?」
 時に鋭い勘にドキリとなることもあるけど。
 自分は常連だと言う患者さん。「通い」と言わないで「常連」と言うのは僕にはハテナが浮かんだ。
 貿易会社を引退してもまだまだ働くぞと工場に勤めるお爺さんだった。疾患は特に無いみたいだし、本人も暇つぶしだと言っていた。
 そんな薬も売れない患者なんて都会の病院なら即追い出し案件だけど、ここの病院はその点も緩かった。
「大きな大学を出ておいて片田舎の病院に再就職なんて、何かあるとしか思えませんなぁ」
「そ、そうなんですかね……」
 知りたがりの老人は割と多くいる。なかなかこういう時は逃げにくいんだ。
 そんな僕とそのお爺さんのやりとりを聞きつけて、通り掛かった看護師が足を止めた。
「個人情報ですよ。あまり先生を困らせないで下さいね」
 若い女性看護師に叱られて、お爺さんは機嫌を悪くするどころか逆に嬉しそうに頬を赤くした。
「先生も。ちゃんと自分で断って下さい」
 僕にも叱ると、そのままパーテーションの裏へと消えて行ってしまった。
 再び目線をお爺さんに戻すと鼻を伸ばした顔と目が合う。
「先生は良いですね~。あんな可愛い子と仕事が出来て」
「何を言っているんですか。彼女は僕とは違う部門の看護師ですよ」
 精神医に看護師は居ないということを説明しても、それはお爺さんを説得させるものには全くならなかった。
 それよりも「先生は真面目だなぁ」と呆れられたくらいだ。
 いずれにしても僕の身の上話は中断。世間話の途中で度々看護師が見えると、お爺さんの鼻の下はいつでも伸びている。
「女の子と出会うなんて奇跡に近い事なんだから……」
 お爺さんがひとりで語り出したのは独身人生の軌跡とも言える話だった。
「昔は、恋愛や結婚なんて貴族の行事でね。私みたいな農民の家に生まれた男子は、麦を作って金を作って武器を作って死んでいくのが筋でした。ようやくこの時代に自由が巡って来たとしても、もう私はすっかり歳を取っちゃって。若い子の尻を眺める事しか出来ませんが……それでも感服、感服……」
 とろけただらし無い表情のままで言葉が終わる。
「……あの。僕に話しかけているつもりかもしれないですけど、さっきから視線が僕を追い越しているように思います」
「まあまあ、そんなところだよ。うん」
 お爺さんは自分の欲望に忙しく、僕の話には変なタイミングで唸ったり頷いたりした。
 それは僕の後ろにあるパーティションのせいだ。
 隙間から現れる女性看護師と僕の目があって、はにかみ笑顔で会釈を返されたとしても、僕が何とも思わないのは変なことなのかな……。
 結局よく分からなくて、病が治るよりも嬉しそうなお爺さんとの話に戻る。
「戦争に出ていたんですか?」
「いいや。私はもっぱら武器工場です。運動神経の良い同僚は同盟国の戦争に派遣されて行きましたけどね」
「なるほど……」
 だったらもう少し女性との出会いはあったんじゃないかという思いがするけど。
 問診でも何でもない会話をしているところへ、助け舟のように受付の兼任看護師が現れた。
「フォルクス先生。次の患者さんが来られましたが」
「あ、はい。中に入るよう伝えてください」
 今度こそきっと仕事だ。
「……さあ、申し訳ないですが、そろそろ次の方が来られますので」
 言い終える頃にはもうお爺さんは問診室を出ている。壁の向こうでは看護師とお爺さんの話し声がわずかに聞こえていた。
「まあ、いっか」
 次の患者も見えることだし、お爺さんの恋路のアフターフォローは僕の仕事じゃないしな。
 何よりお爺さんの幸福度が満たされるなら良いことだ。それでストレスになる看護師のアフターフォローこそ、僕の出る幕じゃ無い。

 退勤前のロッカー室で白衣を仕舞いながら、今となっては随分昔のことを少し思い出した。
 あのサンドイッチ店のウェイトレスと初めて仕事についての会話をした日の事だ。爽やかな夏日で僕もそろそろ仕事というものに慣れ始めた頃だったと思う。
「白衣なんて素敵じゃない!」
 そう彼女がとびきり明るい声で言っていた。
「袖も裾も長いし暑いだけだよ」
「でも格好良いわ! ねえね、今度着て来てよ」
「ええ? 無理だよ……」
 お願い! と言う仕草が色っぽくて、馬鹿な僕は「じゃあ患者として来てよ」なんて言ったと思う。
 ……バタン。と音を鳴らしてロッカーが閉められる。
 甘い記憶も一緒にロッカー内に閉じ込めたみたいな感覚だ。現実に戻ったら白電球の薄暗い小部屋で、もろ薬品の匂いが付着し相当酷い。
「お疲れ様です」
 警備員の人と挨拶を交わし、傘立てから自分の傘を抜き出した。
 病院内にいると時間も空模様もまるで感じない。外に出て空を見上げることで、ようやく今の時間が夕暮れで、雨の降り出しそうな曇天なんだと分かった。
 ため息をついたら白いモヤになって現れる。
 冷たい雨が降りだす前に帰りたい。僕は急いでバス停へと向かう。
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