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I.不幸に見舞われた男の末路

転職とホラーサスペンス

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 市内のマンション街だ。朝からうるさいサイレンの音が鳴っている。
 高層階の地面から離れた生活は、窓からの眺めが結構優雅なのに、そのせいで良さが半減した。
 朝食代わりのコーヒーも、奮発した豆の旨味が存分に生かされていないような気になった。
 とんがり屋根に反射する朝の光を眺めていたら、誰かが外の階段を登ってくる音が僕の元に届いてくる。
 年季の入ったマンションでは日常だから何とも思わず聞いていた。けれどその足音は僕の部屋の前で止まって、やがてベルを鳴らした。
 朝からの来客に扉を開けてみると大家のおばさんが立っている。
「フォルクスさん。お電話ですよ」
「ああ、ありがとうございます」
 大家さんは短く告げてから階段を登っていくようだ。
 手には水に濡れたモップを引きずっていて、軌跡を描くみたいに床をビチャビチャに濡らしていた。
 この人があまり親切じゃないことはマンション内じゃ有名で、たぶん僕宛の電話だと聞いても急いで階段を登って来てくれたわけじゃない。
 僕はその濡れた階段を滑りながら、ほぼ落下に近い状態で駆け降りた。
 電話は一番下の大家さんの部屋の前にある。受話器を上に置かれた状態で待っていた。
 すぐさま拾い上げて「お待たせしました」と、息切れを隠して話した。
「フォルクス・ティナーさんでしょうか?」
「はい。そうです」
 よかった。電話はまだ繋がっていた。相手方は年配の男性のようだ。
「オクトン病院にお電話くれましたよね?」
「は、はい。ぜひ面接を受けたくて……」
 医院長の不在を理由に電話を切られてから数日経っている。そこからわざわざ医院長が直々に掛け直してくれたみたいだった。
「じゃあ面接の日にちを伝えるね。メモは良いかな?」
「大丈夫です!」
 面接日時や持ち物の指定を聞く。
 家に居てもいつも手帳を持ち歩いていて正解だった。これから紙とペンを上階まで取りに上がっていたらさすがに電話が切られていただろう。
 手帳に数字や言葉を書き込んでいると、頭上からポタポタと雨が降ってきて雫が灰色の模様になって手帳に現れた。
 受話器を肩で挟んだまま上を見上げる。巻き貝のような階段の上階で大家さんがモップを動かしていた。
 ピタッ。と、雨粒は僕のまぶたの上にわざわざ着地した。
「うわっ」
「ん? どうかしましたか?」
「い、いえ。大丈夫です」
「じゃあ当日よろしくね」
 相手方の電話が切られ、僕も受話器を戻している。
 とりあえず良かったと安心してホッと胸を撫で下ろした。
 前向きな気持ちで部屋に戻ろうとするけど、気付けば足元はどこも水浸しに。おまけに肩も頭も水が滴っているから素直に喜ぶのは難しそう。

 別に良いことがあったと知らせるためじゃないんだけど、僕の足は知らずにいつもの店へと歩いている。
 薄いガラスの扉の向こうに制服姿のウェイトレスが居て「いらっしゃいませー!」の掛け声と共に振り返った。
 そしてそのお客が僕だって分かると、目を大きく開けてから白い歯を見せて笑う。それが唯一の癒しに間違いない。
「……ふーん。再就職先決まったんだ?」
 メニュー表に没入していたら彼女から言ってきた。
 彼女はカウンターに両肘をついて僕に顔を近付けている。はたから見れば、注文を悩んでいるお客に付き添うような形だ。
「まあね。一応医師免許があるから」
 隠していても出てしまう得意顔を彼女には覗かれてしまう。
「……まあ、医院長が優しい人だったからだよ」慌てて言い直した。彼女はそんな小さい男の姿にも楽しそうに笑ってくれている。
「でもそうなんだ。ちょっと残念かも」
 突然悲しい顔をされた。
「なんで残念なんだよ」
「だって一緒に働けたら楽しいかもって思ってたんだもの」
 そうしてため息まで吐かれてしまう。
 そりゃ僕だってこんな素敵な女性と一緒に働けたら夢のようだけど。
「僕には接客は出来ないって」
「接客は私がやるから。君は作る担当で」
 あどけない笑顔を向けられた。
 僕はそれを直視出来ずに目を逸らしていて、レジ傍のレーズンクッキーの袋を手に取る風を装おう。
「だとしたら僕はずっと嫉妬してるだろうね……」
 しかし、ぼやきをかき消してくれるみたいに「いらっしゃいませー!」と彼女が言う。
 さっきの僕の言葉が何だったかを聞き返してくれることはしないで、従業員の顔になって注文を尋ねてきた。
 正直もう唐辛子入りのサンドは食べたくない。ここはちゃんといつも頼むセットを注文する。
「かしこまりました! 少々お待ちくださいね!」
 払い慣れている金額を用意していると、僕はひとつ腑に落ちたことがあって手を止めた。
「……あわよくば、だ」
 あの古い友人が嘆いた言葉を僕は一人で繰り返している。
 頭の中で、ものすごい速度で整理が付けられた。
 この代金はサントイッチセットを買うためのものじゃなく、まるで彼女の好意を買っているみたいだという点で合致したわけだ。
 僕はサンドイッチが好物で約毎日食べているんじゃない。彼女と話をしたいからで、親しい笑顔を向けられたいからに違いない。
 未経験の接客業も挑戦してみたら良かったかも。なんて少し考えてしまうのも、彼女と近付けるチャンスを逃したからだ。
 途端に「キャバレーと一緒じゃないか」と、僕の中のひとりの僕が訴えた。
 い、いやいや……僕の唯一の癒しをそんな悲しいものにしたくない!
「お待たせしましたー!」
 紙袋を目の前に置かれて、僕はその代金を支払った。
 いつも通りに釣り銭の無いようピッタリの金額で差し出した。なんなら領収書を受け取る時も、彼女の手に触れないよう紙の端を摘んでいる。
 そんな些細な気遣いなんて彼女は気付かないけど。
「あ、あのさ!」
「なあに?」
 僕の緊張した言葉と真反対で、彼女は気軽に返事をした。
「映画とか好き?」
 一瞬びっくりしたウェイトレスは、わずかにはにかみながら「好きよ」と答える。
 その「好き」という言葉自体にドキドキしながら、早速日時を指定しようと嬉しくなっていると先に彼女が言った。
「ホラーサスペンスが大好き!」
 にっこりとした笑顔は僕をからかっているんだなとすぐに分かる。
 これ以上話を進めようとしないのは僕も彼女も同じだ。
「また来てくださいねー!」
 明るい声に送られてガラスの扉を出た。
 怖いもの見たさに後ろを振り返ってみれば、彼女は僕の後に来た男性客にも白い歯を見せた同じ笑顔で話し込んでいた。
 意外でも何でもない。ああ、なんだやっぱりそうなんだ。という感じだ。
 枯れ葉を運んでいく風に吹かれながら、悲しい顔で言われた「ちょっと残念かも」が若干後を引く。
 本当に彼女が残念がってくれていたなら僕は少し嬉しいかもだけど、そんな事はないな。
「はぁ……」
 幸せを逃す溜め息をし、僕はぼんやりと考えた。
 ホラーサスペンスの代表作って何だっけ。
 実はそんなに映画好きというわけでもない。
 話題になった作品ならタイトルが思い浮かぶけど。ホラーサスペンスっていうカテゴリーがどういう物なのかは、ずいぶん長いこと答えが出なかった。
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