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Ⅰ.進む国/留まる国
情報屋の女2
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沈黙の海に溺れていると知らぬ間に馬車は停止していた。リュンヒンが降りだしたから、俺も後に続いて馬車を出た。
降り立った場所は騒ぎのあった広間では無い。人気も無い裏路地であった。まさか俺はこの男に騙され連れてこられ、ここで心臓を刺されでもするんじゃないかと思うほど、物騒極まりない暗い暗い場所である。
とにかく俺はプルプル震える指を抑えつつ、リュンヒンの行くうしろをついて行った。そして目の前に見えてきたのは、ここだけ煌々と眩しい光を放つ異様な看板だ。傍の扉もまた異様だ。裸の男女が果実を取り合う絵なんかが書かれている。
「なんだこれ……」
「どこかの宗教画だよ」
気色が悪いこの絵をリュンヒンはもろともしない。そして丸では無さそうなドアノブを押して中に入っていった。俺ももちろん後から続こうとは思うが、ドアノブに巻き付いたヘビの飾りが巧妙すぎて引いている。
一人だと決して足を入れない領域だ。何拍子なのかも分からん音楽が流れた空間に、足や胸を出した女性が酒やつまみを運んでいた。客は女性目当ての男ばかりかと思えばそうでもない。女性である身で水タバコなど加えてケラケラ笑うのが目につく。
リュンヒンは彼らに一切関心を向けず店内奥へ足を進めた。階段を降りた所にまた扉があり、ここを開けるとようやっと少しは落ち着ける空間に出会える。
「着いたよ。ほら、あそこの席にいる」
彼が指差すところには、こちらに手を振っている女性がいた。
一階はおっかない所であったが、地下はただのバーのようであった。カウンター席だけある狭い店で、マスターが我々の酒を用意している。ここでは落ち着いた音楽が身にしみるのであった。
例の女性、俺、リュンヒンの並びで座らされ、初対面の女性を隣にギクシャクしてしまう。あまりじろじろ見るのもよろしく無いが、そっと見やると体にピッタリ添わせた黒の服を着ており肩や足を出していた。
言うなれば海苔巻きか。と思えば、少しは緊張も和らぎそうだ。しかしこの女性、どこかで見たことのある顔をしている気がする。ふと目が合いフフッと微笑まれた。
「彼女は情報屋。実際かなり腕が良いんだけど、ただしちょっとユニークな情報屋だ」
酒が来る前にリュンヒンから紹介を受ける。情報屋という職業を聞いたことぐらいはあるのだが、こうして目の前にするのは初めてである。想像では男がする職業のような気がしていたのだが。
「彼女は主を持たないやり方でね、いつも自由気ままに現れたり現れなかったりするんだよ」
「はあ? なんだそれは。幽霊か何かか?」
俺が素っ頓狂な事を口走ったせいで、リュンヒンも彼女も笑い転げている。「違うわよ」と初めて彼女の声を聞いた。
「あたし、情報を渡すのが仕事なんだけど、社交界や舞踏会しか行かないって決めてるの。その方が楽しいし、美味しいものだって食べられるし、ごきげんな男爵からおひねりを貰えたりするからね」
見た目は割とクールな印象であるのに、話すと弾むような言い方をする女性である。そのアンバランスさに驚いていると、カウンターに俺達の酒が置かれた。
この場で三人で乾杯をさせられ、俺はその酒を口の中に入れる。その瞬間、顔のあらゆる穴から蒸気が吹き出たかと思った。思わずむせ返ると、何でも無いリュンヒンや彼女に両側から背中を擦られている。
彼女の名前は会うたび変わるらしい。服装も容姿も香りも変えるのだそうだ。本人はそれを楽しんでいて、社交場の独身・既婚者問わず男たちを虜にするのが趣味だと熱弁していた。
俺はそれを聞き流しながら、下らないと思い酒を飲んでいた。
「そういえば奥さんと仲直りは出来たの?」
彼女が聞いた。俺は思わず飲んでいる酒で噎せ返った。
頬杖の隙間から口角をくいっと上げながら、何でも知っているという顔をされる。これが情報屋の仕事というやつなのか。これなら人の私情にがめつい老婆と変わらん。
「そうだよ。僕も気になっていたんだ。あれからどうなったんだい?」
リュンヒンも乗り出してくる。
「……どうもこうも無い。仲直りとか言うがこっちは喧嘩だってしていない」
彼女とリュンヒンは同時に同じ仕草をした。額に手をあて、あちゃーと呆れる形だ。
「君のことだから、そうなんじゃないかって薄々思っていたんだよ」
「何がだ?」
「リュンヒン。あたしもよ。ほんと男って周りが見えない生き物なんだわ」
ねー! と、男であるリュンヒンが賛同しているのが謎でしかない。二人は俺を差し置いて、誰とは言わずに俺のことを釣り上げた話題で盛り上がった。
「男は言うのよ。喧嘩なんかしてない。怒っているのはあっちの方だ。俺から謝る? 何を何でだ。時間が解決してくれる。ほら俺達は喧嘩なんかしてなかっただろう。ってね」
「そうそう。大体は男が悪い。女性は不安になっているだけなんだ。君、まさかエセル君に『なんで怒っているんだ!』なんて言っていないだろうね」
急にパスが俺に渡される。
「言っ…………」
「はあ。ダメね。ダメダメよあなた。ほーんとダメな男」
今日出会ったばかりの女性に「ダメ」と幾回も言われた。そこまで言われると、自分がダメな男な気がして参ってしまう。すると今度は二人に励まされることになり、こいつらは俺をいったいどうしたいんだと混乱した。
「ダメを治すには酒が効くよ」と根拠もないジンクスで酒をたらふく飲まされる。するとどんどん酔いが回る。この先記憶が飛び飛びになるが、肩を組んで歌を歌ったような思い出だけ城に持ち帰った。
降り立った場所は騒ぎのあった広間では無い。人気も無い裏路地であった。まさか俺はこの男に騙され連れてこられ、ここで心臓を刺されでもするんじゃないかと思うほど、物騒極まりない暗い暗い場所である。
とにかく俺はプルプル震える指を抑えつつ、リュンヒンの行くうしろをついて行った。そして目の前に見えてきたのは、ここだけ煌々と眩しい光を放つ異様な看板だ。傍の扉もまた異様だ。裸の男女が果実を取り合う絵なんかが書かれている。
「なんだこれ……」
「どこかの宗教画だよ」
気色が悪いこの絵をリュンヒンはもろともしない。そして丸では無さそうなドアノブを押して中に入っていった。俺ももちろん後から続こうとは思うが、ドアノブに巻き付いたヘビの飾りが巧妙すぎて引いている。
一人だと決して足を入れない領域だ。何拍子なのかも分からん音楽が流れた空間に、足や胸を出した女性が酒やつまみを運んでいた。客は女性目当ての男ばかりかと思えばそうでもない。女性である身で水タバコなど加えてケラケラ笑うのが目につく。
リュンヒンは彼らに一切関心を向けず店内奥へ足を進めた。階段を降りた所にまた扉があり、ここを開けるとようやっと少しは落ち着ける空間に出会える。
「着いたよ。ほら、あそこの席にいる」
彼が指差すところには、こちらに手を振っている女性がいた。
一階はおっかない所であったが、地下はただのバーのようであった。カウンター席だけある狭い店で、マスターが我々の酒を用意している。ここでは落ち着いた音楽が身にしみるのであった。
例の女性、俺、リュンヒンの並びで座らされ、初対面の女性を隣にギクシャクしてしまう。あまりじろじろ見るのもよろしく無いが、そっと見やると体にピッタリ添わせた黒の服を着ており肩や足を出していた。
言うなれば海苔巻きか。と思えば、少しは緊張も和らぎそうだ。しかしこの女性、どこかで見たことのある顔をしている気がする。ふと目が合いフフッと微笑まれた。
「彼女は情報屋。実際かなり腕が良いんだけど、ただしちょっとユニークな情報屋だ」
酒が来る前にリュンヒンから紹介を受ける。情報屋という職業を聞いたことぐらいはあるのだが、こうして目の前にするのは初めてである。想像では男がする職業のような気がしていたのだが。
「彼女は主を持たないやり方でね、いつも自由気ままに現れたり現れなかったりするんだよ」
「はあ? なんだそれは。幽霊か何かか?」
俺が素っ頓狂な事を口走ったせいで、リュンヒンも彼女も笑い転げている。「違うわよ」と初めて彼女の声を聞いた。
「あたし、情報を渡すのが仕事なんだけど、社交界や舞踏会しか行かないって決めてるの。その方が楽しいし、美味しいものだって食べられるし、ごきげんな男爵からおひねりを貰えたりするからね」
見た目は割とクールな印象であるのに、話すと弾むような言い方をする女性である。そのアンバランスさに驚いていると、カウンターに俺達の酒が置かれた。
この場で三人で乾杯をさせられ、俺はその酒を口の中に入れる。その瞬間、顔のあらゆる穴から蒸気が吹き出たかと思った。思わずむせ返ると、何でも無いリュンヒンや彼女に両側から背中を擦られている。
彼女の名前は会うたび変わるらしい。服装も容姿も香りも変えるのだそうだ。本人はそれを楽しんでいて、社交場の独身・既婚者問わず男たちを虜にするのが趣味だと熱弁していた。
俺はそれを聞き流しながら、下らないと思い酒を飲んでいた。
「そういえば奥さんと仲直りは出来たの?」
彼女が聞いた。俺は思わず飲んでいる酒で噎せ返った。
頬杖の隙間から口角をくいっと上げながら、何でも知っているという顔をされる。これが情報屋の仕事というやつなのか。これなら人の私情にがめつい老婆と変わらん。
「そうだよ。僕も気になっていたんだ。あれからどうなったんだい?」
リュンヒンも乗り出してくる。
「……どうもこうも無い。仲直りとか言うがこっちは喧嘩だってしていない」
彼女とリュンヒンは同時に同じ仕草をした。額に手をあて、あちゃーと呆れる形だ。
「君のことだから、そうなんじゃないかって薄々思っていたんだよ」
「何がだ?」
「リュンヒン。あたしもよ。ほんと男って周りが見えない生き物なんだわ」
ねー! と、男であるリュンヒンが賛同しているのが謎でしかない。二人は俺を差し置いて、誰とは言わずに俺のことを釣り上げた話題で盛り上がった。
「男は言うのよ。喧嘩なんかしてない。怒っているのはあっちの方だ。俺から謝る? 何を何でだ。時間が解決してくれる。ほら俺達は喧嘩なんかしてなかっただろう。ってね」
「そうそう。大体は男が悪い。女性は不安になっているだけなんだ。君、まさかエセル君に『なんで怒っているんだ!』なんて言っていないだろうね」
急にパスが俺に渡される。
「言っ…………」
「はあ。ダメね。ダメダメよあなた。ほーんとダメな男」
今日出会ったばかりの女性に「ダメ」と幾回も言われた。そこまで言われると、自分がダメな男な気がして参ってしまう。すると今度は二人に励まされることになり、こいつらは俺をいったいどうしたいんだと混乱した。
「ダメを治すには酒が効くよ」と根拠もないジンクスで酒をたらふく飲まされる。するとどんどん酔いが回る。この先記憶が飛び飛びになるが、肩を組んで歌を歌ったような思い出だけ城に持ち帰った。
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