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フェンディー海峡
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日の出とともに海から漁師らが戻ってくる。朝鳴きの鳥はとうに海を渡った。湿気の多い冬の時期だ。錨を下ろすのに唄は口ずさまずに、ざぶんと海のうねりだけが静かに鳴った。
数十の船から引き上げた網を一箇所にまとめて下ろしても、獲れた魚は村全員の二食分には足りない。
「たったのこれだけだ」
「もうこの場所に魚はいない」
父の船からメイは大人達の会話を聞いた。メイは自分のことを子供だとは思っていないが、父と肩を並べて話せることもないと思って船の片付けをしている。
「住む場所を移動した方がいいだろうか。それには時期が悪いか」
顔をしかめる大人達の輪。遠目に見るのはいつからだろう。そろそろ決断の時期かもしれないと、メイはそっと心づもりをした。
その日の晩だ。大人達が起き出す前に、メイは一番に海に戻って深夜の出船準備を始めている。船の表皮をピンと張り直し、ランプのオイルも足しておいた。
防寒用の干し藁を取ってこようとした時、静かで誰もいない真夜中の海に歌が聞こえる。それは女性の美しい声で歌う。
「誰かいるのか?」
「ええ。ここよ」
歌が止まるとメイに答えた。岸の方ではなく、陸地の見えない大海原の方からの声だった。
まさか月が囁き掛けたのか。しかし半月の空を見ても天使のひとりも見下ろしてはいない。
「海を見て。ひとりなの?」
言われた通りに船から顔を出して海のうねりを眺めると、ひとつ小さな頭が浮かんでいた。メイと目が合ったらその頭はじりじりと海の中から近づいてきて、虹色の鱗が時々水面から透けて見える体だ。
船の低いところに白い腕をかけ、漆黒の髪を垂らして先端は海の中にゆらゆらと遊ばせていた。美人で見惚れるのもほどほどに、それよりも時々波を叩いて遊ぶ二股の尾ひれが美しい。
「ひとりなの?」
「うん。ひとりだよ。君こそひとり?」
「ええ。ずっとひとり」
悲しそうに微笑む彼女が哀れで、メイはその横顔に腕を伸ばして指を這わせている。つるりとした質感を得ると幻じゃないとでも確認できたのだろうか。ぽかんと口を少し開けている。
彼女はくすくすと笑った。それから「歌は好き?」と聞いて歌い出す。メイの知らない唄だが心地のいいものだった。
数日の夜が明け、とある朝にいよいよ決断がついたようだ。大人達は今日こそと決めて村ごとの移動を図る。荷物をまとめるが、しかし移りたくない者はこの場にとどまるようだ。村はここで二つに分かれてしまう。
メイの家族は移動を決断した。だから最後の別れになると、出船準備を装ってメイは彼女に会いに行く。
「魚達が飲み込まれてしまうのよ」
二人は指を絡めて手を繋ぎながら、しかし彼女の方が不意にそう元気なく言った。
「飲み込まれてしまうって?」
「フェンディー海峡の渦潮に入ったっきりで出てこない。あの辺りは魚が多くて、みんなそっちに行ってしまうの」
それから彼女は憂いた声を出す。「あなたも行ってしまうのね」と。
皮や道具を押し車に乗せて、いくつかの家族らは冬の凍る地面をよたよたと歩いた。五回は陽が沈むのを想定した長旅だ。凍死者を出さないようにと大人達が張り切って声を掛け合っている。
平野を歩いて行くが、先導するメイの父が待ったをかけた。そして静かに迂回しようと海辺の浜を目指す。そっとメイが荷車から覗いて見てみると、どうやら行く先に女豹がいたようだ。
風の強い浜を歩きつつ、見えてきたのは二つの渦潮。あれがフェンディー海峡だと父が皆に教えた。
するとその時、巨大なサメが海の中から跳ね上がる。移動中の全員がそれを見て足を止めた。
「こんなところにいたのか……」
大人達が口々に言った。跳ねたのは漁の目安にもする魚の群れに現れるサメだった。
「父さん。僕、人魚に会った」
メイをたくさんの大人達が見下ろす。
「人魚に? いつだ?」
「少し前。このフェンディー海峡に魚がたくさん居るって」
メイの話を疑う余地はない。人魚は漁師へ助言を与えに現れる生物と伝えられていた。そして今まさに、その伝説はこの海にて証明された。
「女たちはこの辺りに住まいを建てよ。男は私と共に海に出るぞ」
「僕も行きます!」
「分かった。この父を手伝ってくれ」
浜辺近くは穏やかな波だ。時々船が揺れることがあってもひっくり返ることはない。
沖への中腹にて漕ぐのを止め、網を入れると途端に海の中から引かれるようにして重くなる。あまりの重量に引き上げてみると、もう十分なほどに魚が掛かっていた。
これに男達は喜び、いよいよ宴の唄を歌い始める。住処を移した祝い席を設けるぞと、船は沖の深い場所へと進んでいく。
波が呑み。空が回り。唄がやめば、再び海は静かにうねっている。そこにはもう一隻の船も浮かんでいない。
数十の船から引き上げた網を一箇所にまとめて下ろしても、獲れた魚は村全員の二食分には足りない。
「たったのこれだけだ」
「もうこの場所に魚はいない」
父の船からメイは大人達の会話を聞いた。メイは自分のことを子供だとは思っていないが、父と肩を並べて話せることもないと思って船の片付けをしている。
「住む場所を移動した方がいいだろうか。それには時期が悪いか」
顔をしかめる大人達の輪。遠目に見るのはいつからだろう。そろそろ決断の時期かもしれないと、メイはそっと心づもりをした。
その日の晩だ。大人達が起き出す前に、メイは一番に海に戻って深夜の出船準備を始めている。船の表皮をピンと張り直し、ランプのオイルも足しておいた。
防寒用の干し藁を取ってこようとした時、静かで誰もいない真夜中の海に歌が聞こえる。それは女性の美しい声で歌う。
「誰かいるのか?」
「ええ。ここよ」
歌が止まるとメイに答えた。岸の方ではなく、陸地の見えない大海原の方からの声だった。
まさか月が囁き掛けたのか。しかし半月の空を見ても天使のひとりも見下ろしてはいない。
「海を見て。ひとりなの?」
言われた通りに船から顔を出して海のうねりを眺めると、ひとつ小さな頭が浮かんでいた。メイと目が合ったらその頭はじりじりと海の中から近づいてきて、虹色の鱗が時々水面から透けて見える体だ。
船の低いところに白い腕をかけ、漆黒の髪を垂らして先端は海の中にゆらゆらと遊ばせていた。美人で見惚れるのもほどほどに、それよりも時々波を叩いて遊ぶ二股の尾ひれが美しい。
「ひとりなの?」
「うん。ひとりだよ。君こそひとり?」
「ええ。ずっとひとり」
悲しそうに微笑む彼女が哀れで、メイはその横顔に腕を伸ばして指を這わせている。つるりとした質感を得ると幻じゃないとでも確認できたのだろうか。ぽかんと口を少し開けている。
彼女はくすくすと笑った。それから「歌は好き?」と聞いて歌い出す。メイの知らない唄だが心地のいいものだった。
数日の夜が明け、とある朝にいよいよ決断がついたようだ。大人達は今日こそと決めて村ごとの移動を図る。荷物をまとめるが、しかし移りたくない者はこの場にとどまるようだ。村はここで二つに分かれてしまう。
メイの家族は移動を決断した。だから最後の別れになると、出船準備を装ってメイは彼女に会いに行く。
「魚達が飲み込まれてしまうのよ」
二人は指を絡めて手を繋ぎながら、しかし彼女の方が不意にそう元気なく言った。
「飲み込まれてしまうって?」
「フェンディー海峡の渦潮に入ったっきりで出てこない。あの辺りは魚が多くて、みんなそっちに行ってしまうの」
それから彼女は憂いた声を出す。「あなたも行ってしまうのね」と。
皮や道具を押し車に乗せて、いくつかの家族らは冬の凍る地面をよたよたと歩いた。五回は陽が沈むのを想定した長旅だ。凍死者を出さないようにと大人達が張り切って声を掛け合っている。
平野を歩いて行くが、先導するメイの父が待ったをかけた。そして静かに迂回しようと海辺の浜を目指す。そっとメイが荷車から覗いて見てみると、どうやら行く先に女豹がいたようだ。
風の強い浜を歩きつつ、見えてきたのは二つの渦潮。あれがフェンディー海峡だと父が皆に教えた。
するとその時、巨大なサメが海の中から跳ね上がる。移動中の全員がそれを見て足を止めた。
「こんなところにいたのか……」
大人達が口々に言った。跳ねたのは漁の目安にもする魚の群れに現れるサメだった。
「父さん。僕、人魚に会った」
メイをたくさんの大人達が見下ろす。
「人魚に? いつだ?」
「少し前。このフェンディー海峡に魚がたくさん居るって」
メイの話を疑う余地はない。人魚は漁師へ助言を与えに現れる生物と伝えられていた。そして今まさに、その伝説はこの海にて証明された。
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これに男達は喜び、いよいよ宴の唄を歌い始める。住処を移した祝い席を設けるぞと、船は沖の深い場所へと進んでいく。
波が呑み。空が回り。唄がやめば、再び海は静かにうねっている。そこにはもう一隻の船も浮かんでいない。
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