上 下
3 / 7

別れ

しおりを挟む
 秋めきだした日暮れの時。私は訓練用具を片付けていた。
「おっとごめん」
 人にぶつかって言われる。ただちょっとしたちょっかいに悪気が無いって意味。背後で男性兵士が嫌な笑い方をしていた。仕方ないものだと少しだけ我慢していた私だ。
 他の女性兵士たちよりも遅れて脱衣所に入った。清潔に掃除されたお風呂場は貸し切りで、単純に喜んで今日の分の汗をゆっくりと流した。
 しかし再び脱衣所に戻ってみれば私の着替えが無いのだ。誰かが間違えて持っていってしまったのか。いいや、私以外の人が出入りした様子は感じられなかった。
 ぐるっと周りを見回す。どうやら私の衣服は別のロッカーに入れたみたい。少し疲れているのかな? ふと苦笑を漏らした時、私の元へ大きな腕が伸ばされた。
「なにっ……うぐっ……!?」
 ひとりの男性兵士だ。名前も顔も知っている。
「騒ぐな。静かにしろ」
 私の両手首を片手で易々と持ち上げて、もう片方の手で口を塞がれてしまう。
 このままでは犯される。頭で理解し、護身術を使おうとした。あれだけ練習を重ねたのに経験の差だろうか、体力や体格の違いだろうか、全てを押さえ込まれる。
「じっとしろ。すぐに終わる」
 私も男も必死だ。
 相手が自身の穿き物の留め具に手間取った時、どうにか私は身をよじって逃げ出した。咄嗟に掴めたものはバスタオル一枚のみ。
 人の目も確認しないで廊下を走っていた。誰にも会わずに女部屋に滑り込むことだけを願って。なのに神様はこんな時に限って私に罰を与える。
「うおっと!?」
 横から出てきた人とぶつかった。知らない歳上の兵士だ。しかし最悪だったのは、その隣にあの人が居たということ。
「あららら、着替えを盗まれちゃった?」
「あっ!」
 咄嗟に何もかもを隠そうとしても難しい。あたふたするくらいなら走って今すぐに逃げなくちゃと思うのに、こんな時にどうして。あの人の瞳からまた離れられない。
「あ、あの。これは、あの……」
 言葉が出ないでいると、彼の冷たい瞳は自ら振り切られた。
「先に行く」
 その通りに彼は行ってしまう。
「おおい、マーカス。どっち行くんだよ」と、もうひとりも私に構わず彼を追いかけた。
 私は彼に救われたの? それとも失望されたの? 
 マーカスさん……。初めて名前を知るのもタイミングはどうして今なんだろう? どうして再会するのが今だったんだろう?
 女部屋にてほとんど裸で逃げてきた私を女性兵士は慰めてくれた。ここではよくあることだと言ったけど、決して彼女たちは笑ってはいない。
「女は男に応えるものだから」
 最近忘れていた言葉を聞くことになる。そんなものは幻想にしたいけど現実的には無理だって言っていた。事態の結果が理由でお城を去っていく女性兵士が多いとも、彼女らは口を揃えて語っていた。

 弓形の月が薄明かりを照らしている。初めて私がこのお城に来て美しいと感動した中庭の中だ。私は最後の夜をひとりで感傷に浸っていた。
 気取ったベンチに座るよりも、石畳の上にお尻を置いている方がここでは何故だかソワソワしない。だけど膝の上に指先を置いて私はリズムを刻んでいた。すぐにでも復帰できるように今から練習しておこうと思って。
 空想の鍵盤を弾いても音が鳴らない代わりに、鼻歌を歌って過ごしていた。
 音感を感じる耳は少し鈍っていて、けれども砂利の動く音には敏感になった。私はすぐに後ろの気配を察知して振り返った。
 そこに居たのは彼だ。あの時と何にも変わらない冷たい眼差しを私だけに向けていた。
 でももう遅い。
「就寝時間は過ぎているが」
 久しぶりに聞いた声でも私はもう何も揺らがない。
「あなたこそ起きていて良いんですか。それとも死刑執行部隊は特別待遇なんですか」
 彼は一瞬険しく私を睨んだ気がした。瞬間的に私は彼に殺されるのではないかと恐ろしくなった。でも、それでももう良いと強がって私は彼に背を向けた。
「明日の朝に去りますので。心配しないでください」
 彼のことは無いものとし、もう一度指を動かして鼻歌で補う。しばらく奏でたのちに、彼は静かに言った。
「あの時のピアニストだったのか」
「……記憶力が良いんですね」
 風の吹かない夜は静か過ぎてダメだ。私は時々鼻をすすらなくちゃならなくて、その度に「寒いですね」とか「風邪を引くので戻った方が良いです」と投げる。
「そうだろうか」
 彼はそう言うばかりでつまらなく、私はついに「もう行ってください」とまで告げた。なのにどうしてか彼が居なくならなくて困った。
「あの……」
「なんだ」
「どうやったら死刑執行部隊に入れるんですか」
 教えてくれるなんて思っていない。これから去ろうという人物に不必要な情報だと言われるに決まっていた。だけど彼はちゃんと答える。
「銃技術を満点取ること。敵兵を六百人殺すこと。もしくは国の王を二人以上殺すこと」
 六百人……。
「あなたは敵兵と国王どっちを多く殺したんですか?」
「国の王を十一人殺している」
 淡々と告げる彼。
 どうして王様を十一人も殺すことが出来たの? 心は痛まないの?
 私が勝手に心苦しくなった時、ようやく私は兵士に向いていなかったんだと自覚できた。
 死刑執行の見学で耐えきれずに後ろを向く徴兵兵士のよう。私もいま彼に背を向けているのが、なんだかそれと同じみたいに思う。
「もう行ってください。どうかお幸せに」
 私の片思いは何色に染まることなく萎んでいった。
 彼の足音が遠ざかっていき、私の鼻歌はその足音をいつまでも辿っているから、いつのまにか知らない曲を奏でている。指先との動きだってバラバラだ。
 静かな時間がいつまでも永遠みたいに続いている。ちゃんとひとりになったなら、ようやく自分の気持ちに寄り添っても良いでしょう?
 私は彼が「あの時のピアニスト」と覚えていてくれたことが嬉しかった。
しおりを挟む

処理中です...