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01-01 覚悟の一夜

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「ヘニル様は先にお部屋でお待ちになっております」


 腹心の侍女の言葉に、湯浴みを済ませた彼女は激しく鳴る心音を抑えるかのように深呼吸をする。それを心配そうな目で見つめる侍女は、かがみ込むと座る彼女の手を取った。


「今からでも遅くはありません、お考え直しを。確かにヘニル様は優秀な戦士、それも神族……ですがあの軽薄者が姫さまとの約束を守る保証もありません。大事な御身を捧げるなど……」


 それに彼女はすぐさま首を横に振った。


「ちゃんと約束はしたわ、身体を捧げたら忠誠を誓うって。物証になってしまうから契約書は作れなかったけど……でもきっと大丈夫! それにもし約束を破っても絶対に逃さないわ! ……剣も馬も、全然得意じゃないけど」


 これからすることは決して当事者である自分と今から会う男、この侍女以外に知られてはならないのだ。そのため、やり逃げでもされようものなら誰も頼ることなどできない。

 その上相手は超人と称される神族だ。見た目は人と変わらずとも、その力は常人の何倍もある。


「いっぱい勉強したし、その……がんばって奉仕、してくるから」
「ああ、姫さま……おいたわしや……」
「サーシィはこの部屋で待っててね。じゃあ、行ってくるよ」


 城を抜け出して向かったのは、城下の平凡な宿。彼女は顔に特徴が無く、いろいろ訳あって王城の外に出ることも無かったため、店主には彼女が王族であるどころか、高貴な身分であることすら分からないだろう。服装も質素なものを着てきたし、カモフラージュはバッチリなはずだ。

 借りていた部屋を出て、男が取っているはずの部屋へと歩き出す。
 ここに来るまで長かった、かもしれないなどと思い返し、足が重くなる。これが身内に知られれば、特に宮宰なんかに気付かれれば説教では済まされないだろう。

 けれど、これが彼女の覚悟だった。

 彼女の国はゆっくりと真綿で首を絞められるかのような窮地に陥りつつある。ならば戦況を打開するための戦力、それも一騎当千の力を持つ神族の力が必要なのだ。たった一人でも、彼が戦列に加わることは王国軍にとって非常に重要な意味を持つ。

 部屋の前に辿り着き、彼女は息を呑んだ。
 これはとてつもない大博打だ。けれど自分の身体でこのリターンを得られるならば安いものだと、そう心から思っていた。

 こんこんと扉を叩く。そして返事を待たず、彼女は扉を開けた。


「時間ぴったりだな、姫様」
「ここでその呼び方はやめて」
「んじゃあ何て? 名前で呼べってか? なんて恐れ多い」
「そんなこと思ってないくせに」


 軽薄そうな笑みを浮かべ、寝台の上で男は笑う。
 柔らかな乳白色の髪と、その隙間から覗く金色の瞳がランタンの火に照らされてキラキラと光る。薄着のその身から鍛え上げられた肉体が伺え、その端正な顔立ちも相まって芸術品のようにも思える。
 しかしその表情から滲み出る“軽さ”のようなものが、本来あってもよさそうな品位を消しさってしまっている。そんな男だ。


「約束、覚えてるでしょ」
「もちろん。この国のお姫様の処女貰うんだ、破ったらバチが当たる」


 はっきりとしたその物言いにかっと彼女は赤面する。それを見た男はクスクスといやらしく笑うのだ。


「突っ立ってないでこっち来いよ」


 男はそう言って彼女を誘う。それに意を決して彼女は一歩踏み出した。
 これまでにあったことを思い返しながら。
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