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16-01 愛と知るとき
しおりを挟む四番目の複製体、英雄以外の名を持たない彼は、生まれたばかりの頃はまっさらの状態だった。
言葉は話せる。けれどそれ以外のものを知らなかった彼は、目に入るもの全てに興味を持った。
けれど一番最初に関心を抱いたのは、きっと。
「貴方はオルトス。でも、みんなの前では、ナシラ・アルシャフトなの」
「ナシラ」
「そう。私は……ガトリン。貴方の聖女よ」
しいらに母親の話をされたとき、彼にはそれがどういうものなのか分からなかった。けれど、後でルーヴェに聞いた話から、母とはガトリンのような人なのだと思った。
彼はガトリンから多くのことを学んだ。
文字。物の名前。食事のとり方。身体の洗い方。眠り方。そして、蕩けるような快楽を伴う交わりも。
ガトリンのことが好きだった。彼女は優しくて、自分を大事にしてくれる。だからナシラも彼女を大事にしようとした。
それでも、何も知らない彼にも、どうしても納得できないことがあった。
「うまい」
食事を頬張るナシラを見て、ガトリンは笑う。けれどそれはどこか引き攣っていて、無理に笑っているようだった。彼はそれがどうしても苦手だった。
「どうしたの」
「え? なにが?」
「ガトリン、つらそうだ」
「…………」
その指摘に彼女はいつも俯いてしまう。でもまた、あの無理しているような笑みを浮かべて、優しくナシラに言うのだ。
「オルトスもそれが好きだったから……ね」
ガトリンはナシラをオルトスと呼んだ。けれど時折、彼女が口にする“オルトス”という名前は、別の誰かを指しているのではないかとナシラは思うようになっていた。
「オルトス……」
次第にその名前を聞くのが、怖くなった。
それでもガトリンはナシラを愛した。否、愛していると、言葉にした。
けれど彼には分からなかった。愛とは何かと、あいしてるとは何かと、ガトリンに問いかけた。
「難しいことを聞くのね」
「難しい?」
「うん、難しい」
首を傾げるナシラの頭を撫でて、ガトリンは困ったような顔をする。
「愛してるは、好きっていう感情と似ていてね。ナシラも、ご飯食べるの、好きでしょう?」
「うん」
「でも、人に向ける感情だから、食べたりはしない。その人と一緒にいたいとか、触っていたいとか、そういうことを考えるようになること、かな?」
「いっしょにいたい……」
いまいち納得のできない感覚に眉根を寄せていると、ガトリンは儚げに笑った。
「いろいろあるのよ。もっと笑ってほしいとか、もっと自分を見て欲しいとか、……幸せでいてほしい、とか」
「むずかしい」
「いつか分かる日が来る。だって貴方は……」
そこまで言葉にして、彼女は俯く。そしてまた苦しそうな笑みを浮かべると、そっとナシラを抱きしめた。
「貴方を愛してるわ、オルトス」
「…………」
彼女の愛は、心地よかった。胸に引っかかるものはあれど、ずっとこのままでいたいと思った。
そのころのナシラにとってガトリンは、世界の全てと言ってもよかった。
あの時、までは。
「貴方は、オルトスの姿をした……ただの化け物よ……!!」
分かっていた。自分がオルトスではないということくらい。
それでも、ガトリンの言葉で彼は否応なく理解してしまう。
自分は、何者でもない。オルトスでもない。英雄ナシラ・アルシャフトでもない。
ただの、怪物なのだと。
それを裏付けるように、ガトリンの代わりに連れてこられた聖女たちは、皆自分の姿を恐れた。一時だけ耐えた一部の聖女ですら、ガトリンと同じ苦い笑みを向けてきた。
それでも彼には聖女が必要だった。司祭たちに強いられるまま震える彼女たちを無理に組み敷いて犯すたび、もっと自分が醜悪な化け物になっていくような気がした。
触りたくない。触られたくない。見たくない。見られたくない。
いつしか誰でも拒絶するようになった。もう、傷付きたくなかったから。
「ナシラ。今日から新しい聖女が来ます」
「…………」
「今度は……うまくいくはずですから」
何も知らないルーヴェの気休めのような言葉にも、彼は何も返せなかった。
きっと何者にもなれないまま、自分はこの場に存在することだけを望まれるのだろう。そう思えば全てがどうでもよく思えた。
そんな彼が日々オツロとの戦いをこう着状態のまま維持できたのは、ひとえに原始的な欲求への素直さ故だったのだろう。聖女絡みのいざこざに頭を僅かに悩ますことはあれど、それ以上に日々食事をし、柔らかなベッドで身体を休められる喜びの方が彼には大事だった。それだけで、まだ生きていたいと思えたからだ。
そして転機が、訪れた。
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