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しおりを挟む視察以外で街中に出るのは初めてだった。ナシラと手を繋ぎながら、しいらは目立たないようなるべく落ち着いた足取りで街を歩き回る。
「いやぁ、いいねぇ。お小遣いも貰っちゃったし、何か面白そうなものがあったら買ってみよう」
上機嫌なしいらの姿をじっと見つめながら、ナシラは小さく頷く。普段は何もせず下ろしている髪を一つに括って、隠れている右目も見えていると、まるで別人のようだ。
「(別人のようだ、けど相変わらず美男子だ……)」
「しーら、楽しい?」
「ん? うん、楽しいよ」
素直に楽しんでいることを伝えれば、ナシラは何か意味ありげに頷いている。
「どうかした?」
「どうもしない」
「そう?」
「うん。ただ……」
ぎゅっと、しいらの手を握っている手に力がこもる。最近は少しずつ表情が豊かになりつつある彼は、また口元を緩めて笑みを浮かべた。
「しーらが楽しいと、僕も楽しい」
「…………」
思わず彼女は、あまりにも儚いその微笑に見惚れてしまった。
ナシラはほとんど裏表がない。思ったことはすぐ口に出すし、人に対して遠慮がない。
でもだからこそ、彼の口からこんな言葉を聞くとしいらはいつも舞い上がってしまいそうになる。どきどきと高鳴る心臓は、明らかに大きな心境の変化を示していた。
「そっ、そういえばさ、ナシラは今まで休日、聖宮で休むばっかりだったじゃん? 街とか、聖宮の外に興味なかったの?」
慌てて話題を切り替えて、彼女は自分の気持ちに見て見ぬ振りをした。ほとんど無意識に。
「街、いつでも見える」
「あー、そっか、毎日街の上飛んでるから」
「それに、あまり聖宮から出たことなかった。外に出たいとも、思わなかった」
竜鎧という力によって自由に空を飛べる彼にとって、あまり聖宮の内と外という感覚はないのかもしれない。自由を知ってるからこそ、必要性を感じない、というような。そう思うと、穏やかに過ごすために外出するというのは、あまり良い手段ではなかったかもしれない。
「ナシラはいつから聖宮にいるの?」
「ずっと」
「へぇ、じゃあ生まれながらの英雄とか、そんな感じなのかな? よく分かんないけど……」
英雄とはどういう経緯で見出されるものなのだろうか。そもそもナシラの単独でオツロを撃退しかけたという唯一無二の功績は、一体どれくらい前の話なのだろうか。
思い返してみれば、そうした疑問はあまり口には出してこなかった。単純に関心がなかったというのもそうだが、なんとなく聞いてはいけないような雰囲気を感じていたのだ。
だが今は聖宮の外。これはいい機会かもしれないと思い、しいらは気になっていたことを聞こうとした。
――ナシラ・アルシャフトというのは、アイゴケロースの英雄に与えられる名前です
――あ、そうなの。本名じゃないんだ
「そういえば、ナシラって本当の……」
そこでちょうど市場にさしかかり、人々の活気に溢れた声が大きくなる。その中で聞こえてきた会話に、思わずしいらは話を中断して耳を澄ました。
「最近は魚が獲れなくなってきた。もしかしたら、あの頃みたいに……」
「やっぱり噂は本当だったのか……?」
不安に滲んだ話を聞いて脳裏をよぎるのは、この前の休日に見た海の姿だ。最初は見間違いかと疑ったが、あれは明らかな異変だった気もする。
もしもあれが本当に異変なのだとしたら、まさか原因は。
「しーら」
「へ」
軽く腕を引かれたしいらは驚いたようにナシラの方を見る。どうしたのかと首を傾げれば、彼は少し離れた場所にある店を指さした。
「花」
「あ、ああ……お花屋さんだね」
「しーら、最近育ててるやつ」
「そうそう。見てみようか?」
関心を持ったらしいナシラに付き合い、しいらは花屋の側に近寄る。するとそれに気付いた気さくな店員が話しかけてくる。
「いらっしゃい! 奥さんへのプレゼントかい?」
「おっ、おお奥さん!?」
「あれ? 違ったかな、これは失敬。でもでも、プレゼントに花は最適だよ。両親でも友人でも恋人でも、大切な人に贈るといい」
奥さん呼びにしいらが動揺していると、ナシラは考え込むようにじっと花を見つめる。そしてちらりとしいらの方を見た。
「(ま、まさかこれは……)」
頭に浮かんだのはとてもベタな展開だ。うっかりそれを期待してしまいそうになって、妄想を振り払うように彼女は首を横に振った。
「これが欲しい」
ぶっきらぼうな注文を受けた店員は、何やら緊張しているしいらに気付き、微笑ましげに頷いた。気を利かせたのか綺麗なリボンで丁寧に括ってくれる。
ナシラが選んだのは淡い桃色の花だ。異世界らしく見たことのない種類の花だが、どことなくバラの花に似た花弁のつき方をしている。
不思議そうにラッピングされた花を見つめると、ナシラはそれを案の定しいらへと差し出した。雰囲気もへったくれもないが、逆にその飾らなさが彼らしかった。
「くれるの?」
「大切な人に贈るものだから」
直球で放たれたその言葉に、じわりと顔が熱くなっていく。
それは今までに経験のない感覚だった。けれど常識として、この感情が何であるか、しいらは分かっていた。
「あり、がと……」
堪えようとしても口元がどんどん緩んでいく。嬉しくて、舞い上がっている自分に呆れながらも、自然とそれが表に出てしまう。
「大事にお世話するね」
「しーらが育ててるやつは、誰かにあげるの」
「えっ……そうだなぁ」
花を育て始めたのは単に暇だったからだ。特別花が好きだとか、そういうわけではないつもりだった。
けれど、何となくナシラがどんな答えを欲しているかは分かった。
「綺麗に咲いたらナシラにあげるね」
「……うん」
どこか満足そうに笑うナシラを見て、しいらは彼の手を少しだけ強く握りしめる。そうすればナシラも同じように力を込めて、ゆっくりと指が絡みついてくる。
もしかしたら今、同じ気持ちかもしれない。そんなことを思ったのと同時に、しいらは何者かに腕を引っ張られる。驚いてそちらの方を向けば、見覚えのある金の髪の女性が彼女を睨みつけていた。
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