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それはダウンズ男爵夫妻が世話になっているスタイナー子爵の家を訪れたときのことだった。
一通り話を済ませ、ダウンズ男爵であるデクランが席を外した時、まるでタイミングを見計らったかのようにスタイナー子爵令息のレオナードが驚くべきことを言ったのだ。
「ダウンズ男爵夫人、いや、あえて名前で呼ばせてもらおう。エルザ、君は実に美しい。気に入った。愛人にならないか?」
「あの……冗談ですよね? レオナード様」
「冗談でそのようなことを言うものか。もちろんエルザが既婚者であることも承知の上だ。俺は知っての通り独身だから気にする必要はない」
「私には夫がいますので……」
「それが何だというのだ。愛に障害は付き物だが、夫がいようが大切なことは俺とエルザの気持ちではないのか?」
あまりにも真剣に伝えるレオナードからは本気だという強い気持ちが感じられたが、エルザはデクランと結婚しているため、要望に応じては夫を裏切ることになる。
それが愛されていない夫であろうともエルザは裏切ることはできなかった。
「……お言葉ですが、守らなければならないものもあります。私は既婚者です。どうかお許しください」
「そうか。だがそれはスタイナー子爵家との関係を考えてのことか? どうなのだ?」
「……いくらスタイナー子爵家のご令息であるレオナード様の要望であろうとも、私には応じることはできません。お言葉ですがレオナード様がそのようなことをするとは信じられません。今なら私が何も聞かなかったことにできます。どうかお考え直しください」
「それが答えか。スタイナー子爵家との関係を悪化させようが構わないというのだな?」
確認するようにレオナードはエルザに訊いたが、それは脅しかけるようにエルザには感じられた。
しかしエルザは屈しない。
自分を裏切るような恥ずかしい生き方を選ぶくらいなら、両家の関係を悪化させようとも自分の意思を貫くつもりであり、もし問題に発展しても既婚者に愛人になるようもちかけたレオナードに非があるからエルザやダウンズ男爵家の名誉は守られるという判断もあってのことだ。
「私の意思は変わりません」
「……そうか。ならば聞かなかったことにしてくれないか? 厚かましいとは思うが、それが両家にとって一番良い選択だろう」
「はい、私は何も聞いていません」
エルザの意思を確認できたことでレオナードは態度を一変させ、何も聞かなかったことになった今、二人の間には妙に緩んだ空気が漂っていた。
愛人とはいえレオナードの真剣な気持ちにエルザの気持ちも少しだけ動いてしまったのは事実。
(デクランもレオナード様くらい情熱的に私を求めてくれればいいのに……)
本当に何も聞かなかったことになんてできるはずがなかった。
冷めた夫婦関係だからこそ、より一層レオナードの熱い気持ちはエルザの心を揺さぶった。
二人の間には沈黙が漂い、レオナードは悩んだあげく、真実を打ち明けることを選んだ。
「やはり何事もなかったように振る舞うなんて無理だ。申し訳なかった、ダウンズ男爵夫人。全てを話すことはできないが、愛人になるよう誘ったのはダウンズ男爵の許可を得てのことだったのだ」
「まさか……デクランが、そんな……」
レオナードの表情からは嘘をついているようには思えず、いくら冷めた夫婦関係とはいえ、妻が愛人になることの許可を出したことは信じられなかった。
しかし真相を明かされれば納得できることも多い。
レオナードとエルザは何度も顔を合わせているが、愛人を作るような人には思えず、エルザにそのような誘いをすること自体に違和感を覚えていた。
全てを語られずとも誰かの何かしらの意図があっての今回の出来事だと察することはできた。
全貌が明らかにされずとも確かなことが一つある。
(デクランは私を守ろうとしなかった。大切にするなら許可なんて出すはずないじゃない。それがデクランの気持ちだったのね……)
ただ愛されないだけならまだしも、邪推すれば愛人として差し出されたとも解釈できる。
たとえ愛されずともダウンズ男爵夫人として恥ずかしくない振る舞いをしてきたエルザにとっては、自分の努力も意思も忍耐も、全てが否定されるように思えてしまった。
レオナードの前だというのに溢れ出る涙を堪えることはできなかった。
「……すまない、このようなことになってしまい」
「……いえ、申し訳ありません、レオナード様は何も悪くありません。ただ、少しだけ……いえ、自分でも驚くくらい悲しかったので……」
「……ダウンズ男爵夫人を悲しませるつもりはなかった。それは誓ってもいい。だが俺の責任もある。本当に申し訳ない」
「違います、レオナード様は悪くありません。夫が、デクランが私をどう考えているのか改めて気付かされてしまったからです」
レオナードもどう声をかけていいのかわからなかった。
下手に夫婦関係に口出しすれば浮気を疑われるかもしれず、席を外しているデクランがいつ戻るかもわからず、余計なトラブルを避けるためには一歩引いた振る舞いをしなければならない。
涙を拭うエルザの姿を見て何も感じないはずがなく、もどかしさを覚え、エルザを悲しませたデクランの今までの仕打ちに腹を立てた。
それからは重い空気が漂い言葉も少なめになり、十分すぎるほどの時間が経ち、何食わぬ顔のデクランが戻ってきて、話し合いは終わりとなった。
デクランのしたことを知った今、エルザはもう今まで通りではいられない。
一通り話を済ませ、ダウンズ男爵であるデクランが席を外した時、まるでタイミングを見計らったかのようにスタイナー子爵令息のレオナードが驚くべきことを言ったのだ。
「ダウンズ男爵夫人、いや、あえて名前で呼ばせてもらおう。エルザ、君は実に美しい。気に入った。愛人にならないか?」
「あの……冗談ですよね? レオナード様」
「冗談でそのようなことを言うものか。もちろんエルザが既婚者であることも承知の上だ。俺は知っての通り独身だから気にする必要はない」
「私には夫がいますので……」
「それが何だというのだ。愛に障害は付き物だが、夫がいようが大切なことは俺とエルザの気持ちではないのか?」
あまりにも真剣に伝えるレオナードからは本気だという強い気持ちが感じられたが、エルザはデクランと結婚しているため、要望に応じては夫を裏切ることになる。
それが愛されていない夫であろうともエルザは裏切ることはできなかった。
「……お言葉ですが、守らなければならないものもあります。私は既婚者です。どうかお許しください」
「そうか。だがそれはスタイナー子爵家との関係を考えてのことか? どうなのだ?」
「……いくらスタイナー子爵家のご令息であるレオナード様の要望であろうとも、私には応じることはできません。お言葉ですがレオナード様がそのようなことをするとは信じられません。今なら私が何も聞かなかったことにできます。どうかお考え直しください」
「それが答えか。スタイナー子爵家との関係を悪化させようが構わないというのだな?」
確認するようにレオナードはエルザに訊いたが、それは脅しかけるようにエルザには感じられた。
しかしエルザは屈しない。
自分を裏切るような恥ずかしい生き方を選ぶくらいなら、両家の関係を悪化させようとも自分の意思を貫くつもりであり、もし問題に発展しても既婚者に愛人になるようもちかけたレオナードに非があるからエルザやダウンズ男爵家の名誉は守られるという判断もあってのことだ。
「私の意思は変わりません」
「……そうか。ならば聞かなかったことにしてくれないか? 厚かましいとは思うが、それが両家にとって一番良い選択だろう」
「はい、私は何も聞いていません」
エルザの意思を確認できたことでレオナードは態度を一変させ、何も聞かなかったことになった今、二人の間には妙に緩んだ空気が漂っていた。
愛人とはいえレオナードの真剣な気持ちにエルザの気持ちも少しだけ動いてしまったのは事実。
(デクランもレオナード様くらい情熱的に私を求めてくれればいいのに……)
本当に何も聞かなかったことになんてできるはずがなかった。
冷めた夫婦関係だからこそ、より一層レオナードの熱い気持ちはエルザの心を揺さぶった。
二人の間には沈黙が漂い、レオナードは悩んだあげく、真実を打ち明けることを選んだ。
「やはり何事もなかったように振る舞うなんて無理だ。申し訳なかった、ダウンズ男爵夫人。全てを話すことはできないが、愛人になるよう誘ったのはダウンズ男爵の許可を得てのことだったのだ」
「まさか……デクランが、そんな……」
レオナードの表情からは嘘をついているようには思えず、いくら冷めた夫婦関係とはいえ、妻が愛人になることの許可を出したことは信じられなかった。
しかし真相を明かされれば納得できることも多い。
レオナードとエルザは何度も顔を合わせているが、愛人を作るような人には思えず、エルザにそのような誘いをすること自体に違和感を覚えていた。
全てを語られずとも誰かの何かしらの意図があっての今回の出来事だと察することはできた。
全貌が明らかにされずとも確かなことが一つある。
(デクランは私を守ろうとしなかった。大切にするなら許可なんて出すはずないじゃない。それがデクランの気持ちだったのね……)
ただ愛されないだけならまだしも、邪推すれば愛人として差し出されたとも解釈できる。
たとえ愛されずともダウンズ男爵夫人として恥ずかしくない振る舞いをしてきたエルザにとっては、自分の努力も意思も忍耐も、全てが否定されるように思えてしまった。
レオナードの前だというのに溢れ出る涙を堪えることはできなかった。
「……すまない、このようなことになってしまい」
「……いえ、申し訳ありません、レオナード様は何も悪くありません。ただ、少しだけ……いえ、自分でも驚くくらい悲しかったので……」
「……ダウンズ男爵夫人を悲しませるつもりはなかった。それは誓ってもいい。だが俺の責任もある。本当に申し訳ない」
「違います、レオナード様は悪くありません。夫が、デクランが私をどう考えているのか改めて気付かされてしまったからです」
レオナードもどう声をかけていいのかわからなかった。
下手に夫婦関係に口出しすれば浮気を疑われるかもしれず、席を外しているデクランがいつ戻るかもわからず、余計なトラブルを避けるためには一歩引いた振る舞いをしなければならない。
涙を拭うエルザの姿を見て何も感じないはずがなく、もどかしさを覚え、エルザを悲しませたデクランの今までの仕打ちに腹を立てた。
それからは重い空気が漂い言葉も少なめになり、十分すぎるほどの時間が経ち、何食わぬ顔のデクランが戻ってきて、話し合いは終わりとなった。
デクランのしたことを知った今、エルザはもう今まで通りではいられない。
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