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第四章 そして天使はまい降りた
そして天使はまい降りた(1)
しおりを挟む激しくなる雨音に榊は再び玄関のロールカーテンを少しずらしあたりの様子を伺った。
小さな診療所ではあるが、榊の養父が自分にと遺してくれた大切な財産だった。
榊が施設で働いている間はコミュニティが管理してくれていたので、人が住んでいなくてもそう荒れる事も無かった。
榊がここを開業する際、外観はほとんど変えなかったが、内観はだいぶ手を入れてもらった。
さすがに父が使っていた器具や機材は老朽化していたのでそれらを新しいものに入れ替え、壁紙も床材も新しいものに貼り替えた。
一階は診療スペース、そして二階が榊の居住スペースになっている。
外看板は父が開業していた時と同じ名前を掲げていたので内科医うたっていたが、簡単な外科手術なら対応できるように処置室の片隅には手術台と分娩台にもなるリクライニングのベッドもあった。
一般の患者には必要が無くてもコミュニティからの顧客には必要なものであった。
診療所の仕事はそのほとんどを榊一人でこなしていた。
普通の開業時間内だけは事務と助手を兼ねた年配の女性を雇っていたが、患者を診察して処置をするのは榊だけだったから患者が多く来た日の時間外に特別な顧客の対応までこなすのは正直きつい時もある。
今日は運悪くそんな日でもあった。
だから感傷的になってしまったのかもしれない。
疲れのピークを迎えていた上に、雨まで降って来て最悪だと思う榊は、厚い雨雲を恨めしげに見上げた。
そして再びカーテンを閉めようとして目線を下げると、庭木の隙間から小さな人影が佇んでいるのが見えた。
辺りはほとんど明かりも無いのに黒い影がぼうっと浮かびあがって見えた。
一瞬この世ならざるモノを見てしまった様な気がして固まってしまった。
だが次の瞬間にはドアを開けて飛び出していた。
「瞬!」
自分でも驚くくらい勝手に身体が動いていた。
例え幽霊だろうとお化けだろうと関係ない。
どんな形であれ、あの子が来てくれたなら迎え入れる。
榊の心は初めから決まっていた。
だがその影だと思うくらい黒づくめその子を抱き締めた時、まぎれもなくあの瞬だという事を榊は確信していた。
「瞬!」
長い間そこに立っていたのだろうか小さい身体は冷たく冷え切り、ガタガタと震えている。
その歯の根も合わないだろう紫がかった唇が薄く開かれたが、言葉を発する前に榊の腕の中で気を失ってしまった。
すぐさまその子を抱き上げ榊は診療所に引き返した。
診療所のベッドに降ろし、濡れた身体を温めようとその子の濡れた服を脱がせようとして榊は一気に悪い予感がする。
瞬が着ていた服は黒の上着に白いワイシャツそして黒いズボンだった。そして何よりその首に巻かれていたネクタイの色も黒かった。
それはどう見ても喪服としか言いようがない。
とりあえず上着を脱がせ、ネクタイを引き抜き白いワイシャツの胸元を緩めてやると、そこに白い柔肌が露わになる。
それは傷一つない無垢な肌だった。
それを見て一瞬安堵するする自分がいた。
だが榊の一番気になるところはそこではなかった。
瞬の黒いズボンを脱がせようとベルトを解きウエストのボタンに手を掛けた。
自分でもおかしいくらいに手が震えてしまう。
カチャカチャと診療所に響く金属音とその振動に血の気の失せた小さな白い顔が僅かに歪み、そして閉じられた長い睫が揺れ動いた。
「チューター?さかきさん?」
声変わりしていてもすぐに分る。
やはりこの少年はあの時の瞬に間違いなかった。
「瞬か?瞬だろ?」
その言葉を聞いてその少年は言葉にならず首を縦に振るとポロポロと涙を零し始めた。
あれからもう八年近く時が経っていた。
年齢的にももう少年ではない瞬は、さっきまでここに居たあの青年と同じくらいだろうと想像したのは正解だった。
あの青年と瞬の感じはどことなく共通するものがある。
瞬はあの頃の面影を残しつつ青年の顔にと変わっていた。背丈もあの頃よりはずいぶん大きくなった。
抱き上げた時の感触はあの頃とは違う骨格を感じたが、それでも榊にはあの瞬だという事を間違いはしなかった。
ズボンはそのままに榊は濡れた身体を拭いてやろうと乾いたタオルで瞬を包み込み、そしてしばらくタオル越しに瞬の肩を抱き締めていてやると、ようやく瞬の身体に温かさが戻って来た。
「何かあったのか?」
何もないのに瞬がここに来るはずもない事は分っていた。
それも主人を伴わず、喪服でやって来たなら尚更だった。
「堂島様は一緒じゃないのか?」
「…お父様は病気で亡くなりました」
榊は一番最悪の答えを聞いたような気がしていた。
***
主人が先に亡くなった養子が一番困るのはその後の事だった。
親族だというものが突然現れ、自分の存在を全否定してくる場合がある。
養子の分際で財産を受け取ろうなどと思うな、相続放棄しろ等と、さんざんな言われようをする事だってある。
そうならない為に榊の主人はきちんと弁護士に遺言を預けてくれていたからこの診療所が榊の元に残った。
別に財産など要らないとも思ったが、せっかく主人が遺言までして残してくれた物を初めて見る知らない親戚だというものの好きにさせるのも癪に触って、学校を卒業するまでの費用とこの診療所の権利だけは譲らなかった。
堂島は瞬にそうしてくれていたのだろうかと気になった。
「今日が通夜だったんです。でも本葬には顔を出さないでくれと言われてしまって」
「なんで?瞬は正当な彼の息子だろ?そんなの養子だろうと関係ない」
「息子が勝手に迎えた養子など自分たちとは関わりが無い。それに悪い噂を葬儀場で囁かれるのはお父様に申し訳ないって思わないのかって言われたら仕方がないです」
それもよくある話だった。
確かに堂島の瞬を養子に迎えた経緯には難があった。
きっと家族の了解など取らず、自分の初恋の為に突っ走った行動だったのだろうと思う。
その家族たちは、堂島が生きているうちは放っておいても、先に亡くなった時は、黙ってはいない。
瞬はその家から排除され、後ろ盾を失くすのだった。
「それで瞬はどうしてここに?」
「お父様が教えてくれました。自分が先に居なくなった時は、ここを訪ねてみろと。でも知らなかったんです!ここが榊さんの診療所だったなんて」
「屋号じゃ確かに分らないだろうな『ニコニコ内科医院』だなんて馬鹿げた名前だと自分でも思う。でもそれは私の養父が付けた名前なんだ。ここを訪れた人がみんな笑顔になれるようにと」
「僕もお父様の事で気が動転していたのに看板を見て思わず笑っちゃいました。でも中から榊さんが顔を出してビックリして…」
「ならすぐに入ってくればよかったのに、こんな冷たくなる前に」
榊の腕の中で瞬の身体が僅かに緊張するのが感じられた。
濡れた髪もだいぶ乾き、そのうなじからは懐かしい瞬の甘い匂いが立ち昇る。そこに無意識に鼻を押し当ててしまう。
「…ふぅ」
その時、緊張を逃そうとしたのか小さく瞬が息を逃すのを榊は見逃さなかった。
「瞬…もしかしてトイレにでも行きたいのか、だったらそのドアの奥がそうだぞ」
「違うんです」
「違う?」
「僕に躾をしてくれたあなたなら分るでしょ?」
「まさか!瞬まだ」
「はい。排泄の管理は亡くなるまで主人である堂島の許しが無いとしてはいません」
「じゃあ、いつから我慢をしているんだ?」
「昨日の夜から…」
榊は慌てて瞬のズボンに手を掛け脱がせる。
そこを確認して茫然としてしまった。
瞬のそこはあの時のまま、時が止ったかのようだった。
サイズこそ作り変えられてはいるものの、ガチガチに貞操帯で固められていた。
だが鍵はかかってはいない、しようと思えばいくらだって自由に出来たはずだった。
きっと病に伏していた堂島は瞬にそれを任せていたはずで、瞬はその都度許しだけをもらっていたのではないかと思う。
堂島は結局最後まで、天使である瞬に自ら手を下す事ができなかったのだろう。
そして瞬も、そんな堂島の気持ちにずっと応え続けて来たのかもしれなかった。
それを聞いてしまったら、榊もこの先瞬に手を出せなくなるかもしれなかった。
そんな榊の気持ちを先読みするかのように瞬が言った。
「お父様が最後に言ったんです。ここに行って瞬は大人にしてもらえって。最初、言ってる意味が分りませんでした。でも今なら分る気がします」
榊は何と言って答えてやればいいのか分らなくなってきた。
だが感情の波が勝手に押し寄せて来て、思わず上を向いた。そうしていないと不覚にも瞬の前で涙を見せてしまいそうだった。
「僕を最後まで大人にしてください。そうしないとこの先ずっとこのままで僕は前に進めない!」
優しい腕が伸びて来て、榊の首に回される。
それは施設に居た時、榊が瞬を抱き上げると瞬がしてくる可愛らしい仕草だった。
いつも震えながら落されないように必死に榊の首に腕を縋らせていた。
その腕が再び榊の首筋に触れていた。
そうすると自然と瞬のうなじが榊の鼻腔をくすぐる。
雨の中でも感じられたが、今はもっと鮮明に伝わって来る。
もう子供の匂いではなくなっていたが、瞬のものだとすぐに分った。
そして大人になった瞬の匂いは、想像以上に榊には心地良いものだった。
その手を離したくないと思ってしまう。
しばらくは榊も涙が溢れて止らなかった。
瞬も声を殺して泣いていた。二人で抱き合いながらそうして泣いて泣いて泣きまくった。
涙を流して泣くなんて榊は養父を送った時以来かもしれなかった。
泣くというのは感情が溢れ出ると同時に、胸の中に詰まった靄も一気に解き放ってくれる。
二人で馬鹿みたいに泣いたら気持ちも落ち着き、お互いにすっきりした感じがした。
落ち着いたところで榊はまだ瞬をトイレに連れて行く途中だった事を思い出す。
そして慌てて抱き上げると瞬をトイレに連れて行った。
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