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2章 |空蝉《うつせみ》に|泡沫《うたかた》に
2-5
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-慶永Side-
季節は夏。
梅雨のジメジメを乗り越え、半袖1枚でも蒸し暑さが残る。
お盆前の三連休初日に近くの花火大会に行くことになった。
太陽は真上から熱の帯びた光を浴びせ、日陰に行かないと少し汗ばむ。
これだけ暑いと頭がクラクラしてくる。
紫外線とかセロトニンとかそんなことはどうでも良くなるくらいの暑さに日差しそのものが嫌いになりそう。
前回と違って今回は恋人として行く。
同じイベントなのに感覚がまるで違うのは気のせいだろうか。
前日買ったストライプ柄の黒の浴衣を着て駅で待ち合わせる。
「お待たせ」
振り向くとニコッと笑う彼女がいた。
白地に青のダリアがデザインされた浴衣とサックスブルーの帯の組み合わせでやってきた。
首元にはレースが見える。
すらっとした白く細い脚がが太陽の光に照らされ、身も心も誘惑された。
アップにした髪とそこから見える頸は目のやり場をどこに持っていって良いのかわからなくさせ、ぷくっとした唇にそのまま吸い込まれそうになった。
花火が打ち上がるまではまだ時間があるので、軽くランチをすることにした。
少し歩いた先にあるレストランでランチをした後も日差しは熱を帯びたまま。
「ねぇ、アイス食べたい。コンビニ寄ろうや」
近くのコンビニで彼女がアイスを、俺はホットコーヒーを頼み、イートインスペースで休憩する。
「けいくんって夏もホット飲みよるよね」
「夏に熱いコーヒーを飲む。これがいいんだよ」
「それわかるかも。真冬に冷たいアイスを食べとると身体がキュッとなるやん?それと同じ感じやろ?」
いや、その感覚全くわからない。
俺はホットコーヒーが好きなだけなのだが。
「全然ピンときとらんやん」
そう言いながらもバニラアイスが溶ける前に食べ切ろうとカップと向き合っている。
「友達も暑い日に熱いのを飲むんよね。スタイルが良いのはそのせいかな。それにしてもこのアイス美味しい!」
1人呟きながら美味しそうに食べている彼女の横顔は楚々とした姿とは逆の少女のような可愛らしさを垣間見せた。
「なぁ、紫苑」
「ん?」
スプーンを口に入れながら首を傾げて俺の方を見る。
「今日の格好似合ってる」
驚いた様子の彼女は目を瞬かせながら下を向いた。
その頬はみるみるうちに赤らんでいく。
いつも下ろしていて見えない耳も燃え盛る炎のように真っ赤に染まっている。
「あ、ありがと」
思っていたよりも恥ずかしがる彼女の仕草にこちらも恥ずかしくなってきた。
「似合っとーよ」
恥ずかしさを隠すようにえせ博多弁で返すと、
「40点」
お互い目を合わせて破顔する。
前回よりもちょっとだけ点数が上がった。
カフェに行って時間を潰す。
次の休みどこに行く?とか、好きなアニメがもし実写化されたら誰が適任だと思う?とかそんな話をしているうちにあっという間に陽が落ちていた。
彼女と待ち合わせる前に場所取りしておいた河川敷へ向かう。
「いつの間に取っといたと?」
「俺の分身がいてさ、そいつにお願いしておいた」
「何それ?」
橋を照らす街灯と車のヘッドライト。
水面に反射するマンションの光がこれから打ち上がる花火のお膳立てをしている。
静かさに包まれた街を牛耳るかの如く一つの花火が天高く打ち上がった。
歓声とともに多くの人がスマホで動画を撮っている。
それに続けとばかりに右の空、左の空と花火が順々に上がっていく。
打ち上がる花火を見ている彼女の瞳はとても美しく、心の奥底まで踊らせた。
そっと手を握ると、花火を見たままギュッと握り返してくれた。
「楽しかったね」
「うん。こんなに楽しい花火大会、私はじめてかも」
それは純粋な言葉だと感じた。
「また来年行こうね、けいくん」
「約束する」
つないでいた手を強く握った。
駅の光が見えると同時に人の数が増える。
出店が街に賑わいと彩を与える。
駅前に近づくと電話が鳴った。
付き合いたてのころ、デート中に電話が鳴ったことがある。
そのとき電話に出るべきか迷ったが、やましいことがないなら電話に出てという彼女の言葉を素直に受け入れ、それからは必ず電話に出るようにしている。
そのほとんどが仕事の電話だった。
「ごめん、ちょっと」
と言って手を離し、電話に出る。
ー話はすぐ終わった。
正直大した話ではなかった。
果たして電話する必要あっただろうか?
「誰からやったと?」
「梨紗からだった」
梨紗というワードに反応し、一瞬彼女の眉間に皺が寄る。
「なんて?」
「さっき河川敷にいた?って話だった」
「それだけ?」
「それだけ」
「……なにそれ」
彼女の表情かわ忽ち曇っていく。
「梨紗さんにはもう会わんで」
「え?何で?」
「電話も嫌」
「どういうこと?」
「だって、けいくんのこと絶対好きやもん」
「いや、さすがにそれはないっしょ」
あの梨紗に限ってそれはない。付き合っていたころに比べて仲は良くなったと思うが、復縁とかそういう感じじゃない。フラれた側だし、そもそも俺にその気はない。
しかし、彼女とは熱量が違った。
付き合ってはじめてというくらいに怖い表情でいる。
「帰る」
つなぎ直した手を離し、止まっていた足が駅の方へと動き出した。
急な展開に一瞬何が何だかわからなかった。
「おい、紫苑」
後ろから呼び止めようとしても反応がなかったので、彼女の腕をつかんで止めた。
「離して」
振り向くこともせずに低く冷たい声でそう言う。
「何怒ってんだよ」
「怒っとらんし」
「怒ってんじゃん!」
「怒っとらんし!」
その力のこもった声にはどこか悲哀を孕んできるようにも思えた。
つかんだ腕を振り払い、足早に去っていく彼女を追いかけようとするが、それを拒むように電車が目の前を横切っていく。
夏の駅を彩る提灯たちは俺たちの心を遠ざけるかの如く儚く光を灯していた。
-紫苑Side-
泪を堪え、洟を啜りながら改札に入り電車を待つ。
喧嘩したとき、感情的になりすぎて地面を強く踏みながら歩いたせいで下駄の鼻緒が親指と人差し指を刺激して痛い。
「もう、最悪」
誰かに聞いてほしくて優梨に電話して愚痴る。
「雪落さんってなかなか鈍感だね」
「マジでありえんよね」
「でも紫苑のことを大切に想ってるからこそ電話に出たんだと思う」
私の気持ちを汲んで電話を出たことはわかっている。
電話の相手も内容も包み隠さず話してくれたことが彼の優しさだということもわかっている。
浴衣を新調して、ネイルも可愛くして気合い入れて臨んだのに、2人だけの思い出にしたかったのに邪魔された。
つないだ手、離さなければよかった……
「せっかくの楽しいデートやったのに最後の最後で台無しにされたんよ?優梨は許せると?」
「気持ちはわかるけど、時間が経てば経つほど仲直りするタイミングなくすよ?」
「どうしたらいいと?」
「ちゃんと会って話すべきだよ」
電車が来たのと同時に頭の中を整理する。
花火大会終わりということもあって車内はほぼ満員。
会って話すべきって言われても何て言ったらいいの?
吊り革に掴まりながらスマホを開いてメッセージを打つ。
(さっきはごめん。直接会って謝りたいけんこれから会えん?)
送信ボタンが押せずにメッセージを消してはまた同じ内容を打つ。
でもやっぱり送れない。
スマホの画面を見ながら考えなくても良いことまで考えてしまう。
しばらくすると、背後からひどい悪寒がした。
誰かに何かを触られた気がした。
まさか痴漢?
そんなわけないよね。
前の駅でも満員だったし、ただの不可抗力だと思う。
再びスマホを見ながらメッセージを打っては消すことを繰り返す。
結局送ることはできなかった。
次の駅に着く前、電車が揺れた。
するとその流れに乗じてお尻を触られた。
今度はたしかに手のひらの感覚を感じる。
身体が一瞬で硬直し、恐怖で声が出ない。
ぎゅうぎゅう詰めの車内では周りの人もスマホに夢中で気がついていない様子だ。
(けいくん、助けて……)
心の中で叫んだ。
来るはずないってわかっているのに。
つないだ手を勝手に離しておいて来るはずがない。
そう思った次の瞬間、
「おい、何触ってんだよ」
ドスの利いた声が車内に響く。
その声に反応し、多くの人がこちらを見ている。
お尻を触っていた男の腕を持ち上げ、いまにも相手の腕をへし折りそうな勢いで睨めつけている人がいた。
眉を顰め、眼鏡の奥から見える鋭く細い目で威圧しているその人は間違いない。
彼だ。
腕を持ち上げられている男はスーツ姿の30代前半くらいの人で明らかに狼狽している。
その証拠に大量の脇汗が白いシャツを濡らしている。
「紫苑、次の駅で降りるぞ」
「う、うん」
彼のこんな怖い顔はじめて見た。
でもなんで同じ車両に?
痴漢男の手を引っ張り強引に降ろす。
「ち、違います。何もしてません」
彼は何も言わずに相手を睥睨している。
「触られたよな?」
私は黙って首肯する。
「本人が触られたって言ってんだよ」
「ほ、本当に違うんです。信じてください」
「なら誣告罪でこっちを訴えるか?訴えてみろよ。その代わり、人の女に手を出したことを一生後悔させてやるからな」
その見た目でそんな恐いこと言ったら恐喝みたいに見えるよって思ったけれど、こんなにも私のために怒ってくれたことが嬉しかった。
「……すみませんでした」
「俺じゃなくて彼女に謝れよ」
その後警察がやってきて痴漢男は逮捕された。
後日知ったけれど、その人には奥さんと子供がいたらしい。
この話をもし優梨にしたら、そんなやつ絶対死刑だよとかって言うだろうからやめておこう。
「水飲む?」
彼がペットボトルを渡してくれた。
恐怖や憎悪など様々な感情で喉がカラカラだった。
「ありがと」
「アイス食べに行く?」
「うん、行く」
アイスを買いに行く途中、言わなければいけないことがあった。
「さっきはごめんね」
「俺の方こそ紫苑の気持ち考えずに軽い返事してごめん」
私の方が稚拙で矮小だったと反省しているけれど、彼は彼で思っていることがあったようだ。
「そういえば、どうしてあの電車におったと?」
「直接謝りたくて追いかけていったんだけど、人混みで全然追いつかなくてさ。改札通ったらちょうど電車が来て飛び乗った。そこで紫苑を見つけてなんとか近づいていったらあの男が痴漢してるのが見えて、そっからは無心だった」
この人は好きをちゃんと行動でも表してくれるから安心する。
「そっか、助けてくれてありがとう」
「家まで送っていくよ」
「うん」
きっと私は彼のこういう誠実なところが好きなんだと思う。
季節は夏。
梅雨のジメジメを乗り越え、半袖1枚でも蒸し暑さが残る。
お盆前の三連休初日に近くの花火大会に行くことになった。
太陽は真上から熱の帯びた光を浴びせ、日陰に行かないと少し汗ばむ。
これだけ暑いと頭がクラクラしてくる。
紫外線とかセロトニンとかそんなことはどうでも良くなるくらいの暑さに日差しそのものが嫌いになりそう。
前回と違って今回は恋人として行く。
同じイベントなのに感覚がまるで違うのは気のせいだろうか。
前日買ったストライプ柄の黒の浴衣を着て駅で待ち合わせる。
「お待たせ」
振り向くとニコッと笑う彼女がいた。
白地に青のダリアがデザインされた浴衣とサックスブルーの帯の組み合わせでやってきた。
首元にはレースが見える。
すらっとした白く細い脚がが太陽の光に照らされ、身も心も誘惑された。
アップにした髪とそこから見える頸は目のやり場をどこに持っていって良いのかわからなくさせ、ぷくっとした唇にそのまま吸い込まれそうになった。
花火が打ち上がるまではまだ時間があるので、軽くランチをすることにした。
少し歩いた先にあるレストランでランチをした後も日差しは熱を帯びたまま。
「ねぇ、アイス食べたい。コンビニ寄ろうや」
近くのコンビニで彼女がアイスを、俺はホットコーヒーを頼み、イートインスペースで休憩する。
「けいくんって夏もホット飲みよるよね」
「夏に熱いコーヒーを飲む。これがいいんだよ」
「それわかるかも。真冬に冷たいアイスを食べとると身体がキュッとなるやん?それと同じ感じやろ?」
いや、その感覚全くわからない。
俺はホットコーヒーが好きなだけなのだが。
「全然ピンときとらんやん」
そう言いながらもバニラアイスが溶ける前に食べ切ろうとカップと向き合っている。
「友達も暑い日に熱いのを飲むんよね。スタイルが良いのはそのせいかな。それにしてもこのアイス美味しい!」
1人呟きながら美味しそうに食べている彼女の横顔は楚々とした姿とは逆の少女のような可愛らしさを垣間見せた。
「なぁ、紫苑」
「ん?」
スプーンを口に入れながら首を傾げて俺の方を見る。
「今日の格好似合ってる」
驚いた様子の彼女は目を瞬かせながら下を向いた。
その頬はみるみるうちに赤らんでいく。
いつも下ろしていて見えない耳も燃え盛る炎のように真っ赤に染まっている。
「あ、ありがと」
思っていたよりも恥ずかしがる彼女の仕草にこちらも恥ずかしくなってきた。
「似合っとーよ」
恥ずかしさを隠すようにえせ博多弁で返すと、
「40点」
お互い目を合わせて破顔する。
前回よりもちょっとだけ点数が上がった。
カフェに行って時間を潰す。
次の休みどこに行く?とか、好きなアニメがもし実写化されたら誰が適任だと思う?とかそんな話をしているうちにあっという間に陽が落ちていた。
彼女と待ち合わせる前に場所取りしておいた河川敷へ向かう。
「いつの間に取っといたと?」
「俺の分身がいてさ、そいつにお願いしておいた」
「何それ?」
橋を照らす街灯と車のヘッドライト。
水面に反射するマンションの光がこれから打ち上がる花火のお膳立てをしている。
静かさに包まれた街を牛耳るかの如く一つの花火が天高く打ち上がった。
歓声とともに多くの人がスマホで動画を撮っている。
それに続けとばかりに右の空、左の空と花火が順々に上がっていく。
打ち上がる花火を見ている彼女の瞳はとても美しく、心の奥底まで踊らせた。
そっと手を握ると、花火を見たままギュッと握り返してくれた。
「楽しかったね」
「うん。こんなに楽しい花火大会、私はじめてかも」
それは純粋な言葉だと感じた。
「また来年行こうね、けいくん」
「約束する」
つないでいた手を強く握った。
駅の光が見えると同時に人の数が増える。
出店が街に賑わいと彩を与える。
駅前に近づくと電話が鳴った。
付き合いたてのころ、デート中に電話が鳴ったことがある。
そのとき電話に出るべきか迷ったが、やましいことがないなら電話に出てという彼女の言葉を素直に受け入れ、それからは必ず電話に出るようにしている。
そのほとんどが仕事の電話だった。
「ごめん、ちょっと」
と言って手を離し、電話に出る。
ー話はすぐ終わった。
正直大した話ではなかった。
果たして電話する必要あっただろうか?
「誰からやったと?」
「梨紗からだった」
梨紗というワードに反応し、一瞬彼女の眉間に皺が寄る。
「なんて?」
「さっき河川敷にいた?って話だった」
「それだけ?」
「それだけ」
「……なにそれ」
彼女の表情かわ忽ち曇っていく。
「梨紗さんにはもう会わんで」
「え?何で?」
「電話も嫌」
「どういうこと?」
「だって、けいくんのこと絶対好きやもん」
「いや、さすがにそれはないっしょ」
あの梨紗に限ってそれはない。付き合っていたころに比べて仲は良くなったと思うが、復縁とかそういう感じじゃない。フラれた側だし、そもそも俺にその気はない。
しかし、彼女とは熱量が違った。
付き合ってはじめてというくらいに怖い表情でいる。
「帰る」
つなぎ直した手を離し、止まっていた足が駅の方へと動き出した。
急な展開に一瞬何が何だかわからなかった。
「おい、紫苑」
後ろから呼び止めようとしても反応がなかったので、彼女の腕をつかんで止めた。
「離して」
振り向くこともせずに低く冷たい声でそう言う。
「何怒ってんだよ」
「怒っとらんし」
「怒ってんじゃん!」
「怒っとらんし!」
その力のこもった声にはどこか悲哀を孕んできるようにも思えた。
つかんだ腕を振り払い、足早に去っていく彼女を追いかけようとするが、それを拒むように電車が目の前を横切っていく。
夏の駅を彩る提灯たちは俺たちの心を遠ざけるかの如く儚く光を灯していた。
-紫苑Side-
泪を堪え、洟を啜りながら改札に入り電車を待つ。
喧嘩したとき、感情的になりすぎて地面を強く踏みながら歩いたせいで下駄の鼻緒が親指と人差し指を刺激して痛い。
「もう、最悪」
誰かに聞いてほしくて優梨に電話して愚痴る。
「雪落さんってなかなか鈍感だね」
「マジでありえんよね」
「でも紫苑のことを大切に想ってるからこそ電話に出たんだと思う」
私の気持ちを汲んで電話を出たことはわかっている。
電話の相手も内容も包み隠さず話してくれたことが彼の優しさだということもわかっている。
浴衣を新調して、ネイルも可愛くして気合い入れて臨んだのに、2人だけの思い出にしたかったのに邪魔された。
つないだ手、離さなければよかった……
「せっかくの楽しいデートやったのに最後の最後で台無しにされたんよ?優梨は許せると?」
「気持ちはわかるけど、時間が経てば経つほど仲直りするタイミングなくすよ?」
「どうしたらいいと?」
「ちゃんと会って話すべきだよ」
電車が来たのと同時に頭の中を整理する。
花火大会終わりということもあって車内はほぼ満員。
会って話すべきって言われても何て言ったらいいの?
吊り革に掴まりながらスマホを開いてメッセージを打つ。
(さっきはごめん。直接会って謝りたいけんこれから会えん?)
送信ボタンが押せずにメッセージを消してはまた同じ内容を打つ。
でもやっぱり送れない。
スマホの画面を見ながら考えなくても良いことまで考えてしまう。
しばらくすると、背後からひどい悪寒がした。
誰かに何かを触られた気がした。
まさか痴漢?
そんなわけないよね。
前の駅でも満員だったし、ただの不可抗力だと思う。
再びスマホを見ながらメッセージを打っては消すことを繰り返す。
結局送ることはできなかった。
次の駅に着く前、電車が揺れた。
するとその流れに乗じてお尻を触られた。
今度はたしかに手のひらの感覚を感じる。
身体が一瞬で硬直し、恐怖で声が出ない。
ぎゅうぎゅう詰めの車内では周りの人もスマホに夢中で気がついていない様子だ。
(けいくん、助けて……)
心の中で叫んだ。
来るはずないってわかっているのに。
つないだ手を勝手に離しておいて来るはずがない。
そう思った次の瞬間、
「おい、何触ってんだよ」
ドスの利いた声が車内に響く。
その声に反応し、多くの人がこちらを見ている。
お尻を触っていた男の腕を持ち上げ、いまにも相手の腕をへし折りそうな勢いで睨めつけている人がいた。
眉を顰め、眼鏡の奥から見える鋭く細い目で威圧しているその人は間違いない。
彼だ。
腕を持ち上げられている男はスーツ姿の30代前半くらいの人で明らかに狼狽している。
その証拠に大量の脇汗が白いシャツを濡らしている。
「紫苑、次の駅で降りるぞ」
「う、うん」
彼のこんな怖い顔はじめて見た。
でもなんで同じ車両に?
痴漢男の手を引っ張り強引に降ろす。
「ち、違います。何もしてません」
彼は何も言わずに相手を睥睨している。
「触られたよな?」
私は黙って首肯する。
「本人が触られたって言ってんだよ」
「ほ、本当に違うんです。信じてください」
「なら誣告罪でこっちを訴えるか?訴えてみろよ。その代わり、人の女に手を出したことを一生後悔させてやるからな」
その見た目でそんな恐いこと言ったら恐喝みたいに見えるよって思ったけれど、こんなにも私のために怒ってくれたことが嬉しかった。
「……すみませんでした」
「俺じゃなくて彼女に謝れよ」
その後警察がやってきて痴漢男は逮捕された。
後日知ったけれど、その人には奥さんと子供がいたらしい。
この話をもし優梨にしたら、そんなやつ絶対死刑だよとかって言うだろうからやめておこう。
「水飲む?」
彼がペットボトルを渡してくれた。
恐怖や憎悪など様々な感情で喉がカラカラだった。
「ありがと」
「アイス食べに行く?」
「うん、行く」
アイスを買いに行く途中、言わなければいけないことがあった。
「さっきはごめんね」
「俺の方こそ紫苑の気持ち考えずに軽い返事してごめん」
私の方が稚拙で矮小だったと反省しているけれど、彼は彼で思っていることがあったようだ。
「そういえば、どうしてあの電車におったと?」
「直接謝りたくて追いかけていったんだけど、人混みで全然追いつかなくてさ。改札通ったらちょうど電車が来て飛び乗った。そこで紫苑を見つけてなんとか近づいていったらあの男が痴漢してるのが見えて、そっからは無心だった」
この人は好きをちゃんと行動でも表してくれるから安心する。
「そっか、助けてくれてありがとう」
「家まで送っていくよ」
「うん」
きっと私は彼のこういう誠実なところが好きなんだと思う。
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