SECOND!!

雨愁軒経

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第四章 減量と決戦と風に立つライオン

王者と挑戦者とフットスタンプ

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 葵は内心、頭を抱えていた。


「(もう少し小さな声で言ってくれねえかなあ!)」


 そう、全部聴こえている。会場の熱気と歓声はモヤみたいに降り注いで、反響して、思わず立ち眩んでしまいそうになるけれど。兎萌の声だけは。俺の好きな女の声だけは。ぼやけることなく真っ直ぐに伝わってくる。


「……ははっ」


 最高だな、この感覚。


「笑った……? 余裕か、いや。諦め、あるいは気でも狂ったか」
「いいや?」


 怪訝な表情をする舞流戦に、葵は肩を竦めて返す。


「ようやく捕まえたんだよ。『三羽目のウサギ』を」


 それだけ告げて、拳を構える。
 俺には幸せさいきょうセコンドが付いているんだ。


「負ける気がしねえ!」
「ほざけ!」


 渾身のストレートをお見舞いしてやる。
 かと思えば、逆に肺の上から衝撃をぶち込まれる。
 意地と意地がかち合う度に、会場がぐわんぐわんと地揺るぎした。
 葵が蹴れば、ルーキーが一発入れたと喜ぶ声と、チャンピオンは何をやっているんだと落胆するため息が。
 舞流戦が殴れば、それでこそ王者だと囃し立てる声と、どうせこのまま釈迦堂一強で終わるのだと言う諦めの吐息が。
 どちらにせよ悲喜交々。散らかし放題にひのこを飛ばす口。それはそれは、見ている側にとっては醍醐味。興奮の雄叫びなのだろう。

 だが、うるせえな、と葵は思った。

 今までは、結果よりも途中の努力を認めて欲しい、なんて青臭いことを願っていたこともある。けれど、的外れな評価ならば、いっそ不要だ。
 こちとら板の上の魚じゃあない。気化したアルコールのように汗と熱気の立ち込める中、勝手にフランベされるなど、冗談じゃない。
 欲しいのは罵詈雑言のブランデーではなく、勝利した暁の狂喜乱舞シャンパンだけだ。

 聴覚のほとんどをシャットアウトする。
 熱気の霧の中、全神経を研ぎ澄ませ、目の前の相手の一挙一投足に目を凝らす。

 ふと、舞流戦が笑っていることに気が付いた。


「聴こえるか、川樋葵。エールって奴は、思ったよりも汚いだろう。ファンやサポーターも、一歩間違えれば暴徒フーリガンと化す。そんな混沌から投げつけられる言葉は、耳を劈くだろう」


 グローブに言の葉を乗せ、王者は問うてくる。


「これが玉座だ。針のむしろなんだよ、ここは。それでも欲しいなら、この椅子をくれてやる。座る度胸があるのならな」


 葵はきょとんとした。身構えてはみたものの、どこか拍子抜けだった。
 お返しに、こちらも魂を込めて、ぶん殴り返す。


「いらねえよ、ンなもん。座ってる場合じゃねえだろ。ここはリングだ。尻が付けばテンカウントの始まり。そうだろ!」


 初めて、舞流戦が葵の攻撃を、ディフェンスした。
 両腕でボディを庇い、たたらを踏んだところで、奴は――


「ハッ」


 満面の愉悦に、頬を歪ませる。


「嬉しいよ、川樋葵。仕合う相手がのは、デビュー戦以来だ!」


 王たる獣は怒号を発し、猛攻撃の雨を降らせてきた。
 葵は必死に攻撃を捌きながら、舞流戦の言葉の意味を模索していた。

 釈迦堂舞流。通称【二殺拳】にして、現在の男子高校生のトップ。

 それはきっと、高校生になってから辿り着いたものではない。生まれ持った体格とセンスで、幼い頃から、ある程度の高みに君臨していたことだろう。さらに努力によって、現在の玉座を手に入れた。
 しかし、葵が初めて出会った時から、舞流戦はずっと、餓えた狼のような目をしていた。


「ああ……そうか。そりゃあ、腹が減るよなあ」


 自分の中では、初心者が二歩進んだのと同じようなものなのに。他の選手たちと同じように、一歩ずつ歩いているだけなのに。
 周囲から貼り付けられた『最強』というレッテルのプレッシャーが肩にかかって、重くなった腕では拳をうまく振るうことができなくなってもなお、踏み出した歩み出した一歩が『他者にとっての二歩』であることを強いられる。

 自分は強者だから勝って当たり前なのだと、必死に言い聞かせて。思い切り挑むことなどできずに、視線は常に挑戦者あしもと。満たされるはずもない。


「分かってくれるか、ルーキー」
「いや、分かりたくねえ。贅沢で腹立つぞ、チャンピオン」


 こっちはずっと、その対極にいたのだから。
 髪色が日本人然としていないというだけで、幼い頃より、ありとあらゆる場所から爪はじきにされてきた。学校という、いてもいい権利を渡されても、結局は鼻をつまみ、腫れ物に触るように接される日々。当然、そんな膿のような存在に、友達なんてろくにできなかった。

 けれど、兎萌が、教えてくれたんだ。

――大丈夫。話聞くよ?
――そういう偏見、うっざいよねえ。
――一緒にやろうよ。キック。

 自分のような人間でも、戦っていいんだってことを。
 葵は腹の底から雄叫びウォークライを張り上げた。。


「うだうだ言ってんじゃねえぞ、チャンピオン! お前の叫びは、お前にしか上げることができねえんだ! 最強ってのは、周りから評価されるもんじゃねえ。お前自身が決めるんだよ!」


 刻み込むように、脳天へとグローブを叩きこむ。


「もうナシだ。何もかもナシで行こうぜ!」
「何……?」
「何かを背負って戦うとか、何かのために戦うだとか。そんなもんは二の次だ。そんなかるい拳じゃあ、テッペンまでなんか飛べねえんだよ!」


 葵は叫んだ。
 それは舞流戦に対してでもあり、同時に、自分に向けてでもあった。

――何で自信ないのよぅ……ずっと、葵は最高だって、伝えてたじゃんかぁ……。

 大切な人の言葉を、自分を、信じるって決めたんだ。もちろん、不安はある。この戦いだって、勝てる保証なんかどこにもない。
 されど、自分で拳を振るうと決めなければ、勝つ未来なんて絶対に来ない。

 足が棒になって、泥に塗れて、苦渋を飲んで、血反吐に喉が枯れたとしても。自分にはできないだなんていう『偏見おもいこみ』を取っ払って、宣戦布告をし続けることでしか、勝ち取ることはできない。


「(ああ、楽しいな)」


 葵は笑った。全力を賭してかち合うのは、こんなにも清々しい。
 棘の道に身削り、苦しみ悶えながら戦い続けるだなんて。
 かつて、刀による戦が終わったとき、武士たちは存在意義を失い、淘汰された。それどころか、人を殺した者として忌み嫌われたらしい。


「だから思い込みを取っ払えよ、舞流戦。『王者』と『挑戦者』、襷を二枚かけちゃいけないなんて決まりはないぜ?」


 そして時を経て、現代。
 ハナっから戦闘の必要がないというのに、そこに身を投じて、鎬を削るだなんて。
 戦闘狂とは、よく言ったものである。


「楽しもうぜ。ぶっ倒れるまで」


 にい、と歯を見せる。それに、舞流戦も乗った。


「オレが勝つ!」
「俺が、勝つ!」


 同時に走り込む。
 繰り出したパンチは――舞流戦の方が、わずかに速かった。


「ちっ、くしょォ……!」


 頸椎が軋み、三半規管が麻痺をする。
 天井の照明が、点から線に変わる。
 王者・釈迦堂舞流戦の【二殺拳】の二撃目が、視界を掠める。


「葵ぃぃぃ――――!!」


 耳に届いた最愛の声援エールに、葵は口元を緩めた。
 走馬灯のように、記憶が脳裏を駆け巡る。

――わわっ、わ! お前、急になにすんだ!
――特訓よ、特訓。まずは私を背負ったまま、建物の周りを一周ね。その後は、一周目で付けた足跡を、寸分違わず踏むように走ること! ちなみに滑ったら殺すから。さあ行けー!


 無意識に、体が動いていた。
 辛うじてリングに着いていた足で踏み切り、膝を打ち上げる。
 ここに今、俺の――俺たちの一歩を刻み込むために。

 しっかり味わえよチャンピオン。空高くから叩きつけたフットスタンプは、芯まで届くぜ?


「が……ふっ!?」


 鳩尾に膝がめり込んだことで、【二殺拳】は霧散し、王者の体が大きくよろめく。
 会場が驚きの声に包まれた。おい、ちょっとばかしフライングだぞ、バカヤロウ。
 葵は拳を天高くつき上げると、そこから思いっきりぶちかました。

 ぽかんと口を開けていたレフェリーが、ハッと我に返って、慌ててテンカウントを開始する。


「1、2、3――」


 葵は肩で大きく息をした。肺が張り裂けそうなぐらいパンパンで、いくら酸素を求めてもキリがない。酸欠で頭がぼうっとしてくる。というか、頭痛え。ボコボコに打ちのめされた体中が痛い。


「4、5、6――」
「(帰ってから、風呂の鏡見んの怖えなー……)」


 絶対グロいことになってる。間違いない。
 舞流戦の方へ視線を向けると、奴は白目を剥いて伸びていた。どうか、そのまま立ち上がらないでいて欲しいものである。


「(にしても、楽しそうな顔しちゃってまあ)」


 笑いながら気を失っているとか、ホラーだろ。夢に出てきたらマジギレするからな。マジで。だから後でライン教えろ。鬼電するから。


「7、8、9――」


 レフェリーの裏返り気味の声が、ラストに近づく。


「10!!」


 最後のカウントを告げる手が振り下ろされ、ゴングが激しく打ち鳴らされた。


「っしゃおらああああああ!!」


 渾身の力を込めて、今日イチの咆哮を上げる。
 リングによじ登ってきた兎萌が、もう松葉杖を突いて――途中で鬱陶しくなって勇魚へと放り投げて――飛び込んでくる。


「やった、やったね! 本当にすごいよ。世界一カッコいいよ、葵!」


 それを、大切に大切に、受け止めた。


「最後、兎萌の声がなかったら、ヤバかった。あそこで踏ん張れたのは、兎萌のおかげだ。ありがとう。お前こそ世界一のセコンドだよ」
「えへへ、どういたしまして」


 葵は、気恥ずかしそうに身じろぎする体を捕まえて高く持ち上げ、一回転した。

 観客席の三百六十度全方位に、最高の彼女を見せつけるように。
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