SECOND!!

雨愁軒経

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第四章 減量と決戦と風に立つライオン

プレッシャーとルーキーと機械仕掛けの獣

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 その時が近づいてきた。葵はリングへ向かう。
 ここで負けるわけには行かないと、重くなる足に鞭を打つ。


「すごいな……」
「何が?」
「お前たちファイターって、いっつもこんなプレッシャーと戦っているのか」


 思わず乾いた笑いが漏れる。

 それに目を丸くしていた兎萌は、ふっと相好を崩して、背中を引っ叩いた。


「だから気持ちいいんじゃない」
「気持ちいい?」
「そ。相手に勝つと同時に、くよくよ考えていた自分もぶっ飛ばせる。一粒で二度美味しい」
「なんだそれ、のど飴かよ」


 茶化すような微笑みに、葵はツッコんで。
 けれど、


「……だな!」


 頷いた。その感覚は、鷺ノ森との戦いで、ちょっとだけ掴んでいる。ほんの端っこに指がかかっただけかもしれないが、あと二戦もあるのだ。引き寄せてやろう。

 リングに上ると、拳統王が不敵な笑みを浮かべていた。鷺ノ森のような相手を惑わすためのものではない。純粋に、自身の勝利を疑わず、相手がどう思おうが知ったことではないといわんばかりの、強者の眼だ。


「先ほど君たちは、鷺ノ森と戦うことを『おあつらえ向き』だと話していたな」
「だったら、何だよ」
「なに、僕も宣言しようと思ってね。君が一回戦で鷺ノ森と戦ったことは、僕にとって『おあつらえ向き』だ」
「……何?」


 牙を剥いて見せる拳統王に、葵は怪訝に思った。
 まったく、考えることが多すぎて敵わない。ゴングの音で出来る限りの荷物を振り落とし、葵はグローブを構えた。
 対して拳統王は、悠々と迎える。


「本当のキックボクシングを見せてやるよ」


 奴が踏み込んでくる。先手を取られた。
 だが、このスピード感は、むしろ葵にとっても僥倖である。勇魚や、明日葉や、春近から、この一ヶ月で刻まれ続けたビートに近い。
 パン、パンと、リズム良くパンチを撃ち落とす。大丈夫、受けられる。


「甘いんだよ!」


 拳統王は吼え、鋭く足を伸ばしてきた。
 体の真正面に放つ、足底でのキック。いわゆる『ケンカキック』というもので、キックでは、相手を牽制しつつ距離を取る、ディフェンスのテクニックとしても用いられる。
 当然、攻撃に使用することも可能だ。
 攻防一体の、隙のない連撃。オールラウンダーの評価は伊達ではない。


「ぐっ……」


 葵は腹を抱えそうになるのを、どうにか堪える。
 しかし、それでもわずかに下がってしまった顔のブロックを、追撃のフックで持っていかれそうになる。
 立て直す。今度はそれによって、葵の体が振り子のように揺れ戻った、元の位置に戻る瞬間のわずかな硬直に、ボディブローが放たれた。


「ぐ、う……っ!」


 ダウン。
 テンカウントの中、大きく息を切らしながら、葵は脂汗が滲むのを感じていた。これがレバーへの攻撃ってやつか。


「(チクショウ)」


 痛みと悔しさに、歯を食いしばる。
 脳内で拳統王の攻撃をロールバックしたが、考えてみれば、奴の動きは予測可能な範囲だった。ただそれが、寸分違わぬ的確なタイミングで、寸分違わぬ的確なポイントに向けて放たれるものだから、予測ができたところで回避不可能と化している。

 脂汗が目に入り、一瞬、気が遠くなるのを感じた。
 舞流戦と戦った時に、失神したことを思い出す。スパーリングとは違う、ガチの殴り合いだからこその現象。

 膝が震えて、上手く立てねえ。
 体育館の証明って、こんなに熱かったっけか。


「立ちなさい、葵!」


 心が望んで止まなかった檄に、葵の体は弾かれたように立ち上がった。


「……あ、れっ?」


 不思議と、膝の震えは止まっていた。
 横目で窺うと、兎萌は自信たっぷりの顔で頷いてくれた。

 まるで、自分では目覚ましを何個かけても起きれないのに、母に起こされると一発で起き上がることができるのと似ている気がして、可笑しくなる。
 ああ、可笑しくて笑っちまう。
 あいつがあんな目をしているのに、一人勝手に、まどろみに沈もうとしてたなんて。

 眠りにつきたいなら布団でやればいい。祈りに目を閉じたいなら、手を合わせりゃいい。
 けれど、ここはリングだ。掛け布団などどこにもなければ、グローブを着けているおかげで、手を合わせることもできない。
 する必要もない。


「はじめ!」
「しゃあっ!」


 気合とともに拳を打ち上げると、拳統王が驚愕に目を見開いた。


「何故、立てる……?」
「俺にはしあわせのウサギがついているからな!」
「また意味の分からない戯言を!」


 葵と拳統王は、同時に拳を出した。互いのボディーに乱打をかます。


「僕は貴様のような弱者が大嫌いだ。守るものだか背負っているものだか知らないが、自分以外のところに支えを置く、その弱さが大嫌いだ!」


 拳統王が足を振り上げた。腰から大きく横を回ってくる、至近距離からのハイキック。
 葵は両手で受けた。吹き飛ばされる勢いを利用して、そのまま一度距離を取る。


「悲しいな、お前」
「何……?」
「俺は分かったよ。守るモンもねえクソガキの、限界がさ」


 葵は思いっきり歯を見せて、笑った。
 父の強さと、母の強さ。その源とするところが、今ならよく分かる。もっとも、バイト先で結婚マウントをとっていたようなクソ上司様のようにはなりたくないが。


「一つ、勘違いを訂正しておく。その支えは外に置いてるんじゃねえ。二人三脚で、ぴったりくっついてんだよ!」


 意地のストレートを放つ。

――セコンド自身がボクサーと共に試合に臨む、という文章になってるんだよ。

 兎萌が教えてくれた。俺とお前が、一緒に戦っているということを。
 守る、だなんて烏滸がましくも傲慢な一方通行を突きつけるから、おかしくなるんだ。
 自分の持てる力、やれること。その何倍も、同時に守ってもらっている。
 それを忘れない。
 だから、葵は一度、目を閉じた。
 この戦い、共に戦うあいつなら、どうする?
 機械のように計算され尽くした、正確無比な攻撃に対して、どう立ち回る?。


「(……そうだ。ここでその『偏見』を引っぺがす)」


 努力の天才だかなんだか知らないが、完璧ではあっても、完全ではない。
 何故なら、少なくとも一人、『釈迦堂舞流戦』には負けているのだ。
 故にナンバーツー。
 拳統王は、葵が鷺ノ森と戦ったことを『おあつらえ向き』と言った。事実、鷺ノ森のような予測不可能のビギナーズラックと、拳統王の予測可能かつ対処不可能な強者のそれとの温度差に、葵は翻弄されっぱなしだった。

 葵は目を開ける。そこが勝機だ。
 一度、拳統王に吹き飛ばされるままに距離を取り、リングロープへと突っ込む。
 散々棘の壁だと思っていたこいつも、利用しようと思えば、それは追い風製造機へと変わる。


「う、らああああああっ!!」


 ロープの反動で助走を加速させ、葵は飛んだ。

 たった一ヶ月で、努力の天才が積み重ねてきたものとのこの差を埋めることなんてできるのだろうか? 答えは否。むしろ見当違いだ。そもそも差を埋めようと検討することが間違いである。そんなだから、弱者は弱者のままであり、健闘になど至ることができない。

――あんたの『初心者』という肩書は、今のうちにしか使えない貴重なジョーカーなんだから。


「(そう、俺はルーキーだ!)」


 ルーキーがベテランの土俵に立って勝てるわけがない。
 ならば方法は一つ。ベテランをルーキーの土俵に引きずり込めばいい。

 拳統王の攻撃の正確さ、ある程度、対戦する相手の戦闘経験に依存する。自分がこう動くから、相手はこう動く。相手がこう動くから、自分はこう動いて仕留める。そんな風に、キックをする人間の磨いてきた『定石』を積み上げた先でこそ、成り立っているのだ。

 積み上げた定石が、途端に三途の川の石となるのだから、そりゃあ、お前は強いはず。
 だから葵はそれらを足蹴にした。どうせ、こちとら積み上げた石を封印しろというお達しを受けているのだから、全く支障はない。
 ビギナーズラック。予測も不可能で、回避も不可能な、滅茶苦茶な攻撃をぶちかます。そこには、正確に打ち込むべき『対処法の正解』なんてものは存在しない!


「な――ぐっ!?」


 斜め上空から叩き落すパンチが、拳統王の顔面を捉え、リングに打ち倒した。
 テンカウントが開始される。どうだ、ざまあみろ。

 跪き、頬を拭いながら睨みつけてくる拳統王は、それでもフォーカウント程で立ち上がった。
 鼻で笑ってくる余裕がいけ好かない。

 もう一度打ち倒すまで。そう思って葵が踏み込んだところで、ラウンド終了を告げるゴングが鳴った。
 互いに舌打ちをし、背を向ける。
 リングの端に引き下がると、兎萌が水のボトルを持ってやってきた。


「まったく、ひやひやさせてくれるじゃないの」
「しょうがねえだろ。全戦綱わはりだっへの」


 憎まれ口は、途中からねじ込まれたボトルのストローによって塞がれてしまう。


「その綱を走って渡ろうとしてるからひやひやしてんのよ――って」


 不意に、兎萌がハッとしたように口元を押さえた。


「やだ、額が切れてるじゃない!」
「えっ? あー……」


 おそらく、ハイキックを受けた時だろう。なんとなくだが、つま先がこめかみの辺りを掠った記憶がある。


「まあ、ツバつけときゃ治るだろ。ははっ」
「もう、笑いごとじゃないのよ!」


 予想に反して、兎萌はご立腹だった。


「顔の出血量を甘く見ない。もう少し下、まぶたのところが切れていたりしたら、ドクターストップも有りえるんだから」


 それは困った。ドクターストップは、抗えない失格宣告である。
 とりあえず血を止めておかないと、と、傷口にタオルで包んだ氷嚢を押し当てた兎萌は、何を思ったのか、


「ツバ、つけとけば……治るんだよね」


 なんてことを言いだして、タオルを外し、額に唇を押し当てた。
 舌の温かいざらつきになぞられて、傷の形がはっきりと感じ取れる。


「んふ……おいし」


 そう言って、うっとりと舌なめずりをする兎萌に、


「いや引くわー」


 葵は思わず、腰を引いていた。


「ち、ちがうの! 私もしょっちゅう怪我してたから! 汗と血が混ざったのが、その、『戦ってる』って気がするだけで! 変態とかじゃないから!」


 必死で手を振り、目を白黒させて弁解してくる。


「変態じゃないから!?」
「何故二回言うかね、君は」


 だが、気合は入った。
 葵は笑って立ち上がり、「んじゃ、行ってくるわ」と歩き出す。


「変態じゃないからね!?」


 ついに三回目を言いやがった。分かってると、肩越しに手を振っておく。

 鬼の形相をした拳統王と、再び対峙――さあ、第二ラウンドだ。


「何故立てる。どうして立てるんだ、君は」


 苛立ちを隠せない様子で、グローブ同士を打ち付けながら、奴は言った。


「すごい汗だ。しんどいだろう。ルーキーに耐えられるものじゃあない。とっとと沈んで楽になるといい」
「そんなことできるかよ。俺はきっちり、舞流戦あいつもぶっ倒す」
「理解ができないね。何がそんなに君を駆り立てるんだ?」


 葵は考え込んだ。そういえば考えたことがなかった。
 けれどまあ、それは、考える必要がなかったからだろう。


「そりゃあ、好きな女の打ち込んでるものだし。それ含めて好きになるだろ、普通」


 半分冗談半分本気でそらとぼけて見せると、拳統王は首の筋が浮き立つ程の力を込めて歯噛みをした。


「ふざけるな。ふざけるな! そんな、道楽でやっているようなキックに、僕の積み上げてきたものが崩されてたまるか!」


 ゴングが鳴った。
 それを合図に、機械は荒れ狂うケモノと化した。


「舞流戦を倒すのは、僕なんだよ!」


 葵は、リング上に嵐が吹き荒れたような錯覚に陥った。

 これまでの、急所を射抜くような繊細さは掻き消えた。すべてを薙ぎ倒す勢いで振るわれる腕は、こちらのガードごと無に帰してくる。
 しかし、決して暴挙ではなかった。荒れ狂ったように見えながら、その実、到達点は間違いなく急所ブル
 直感で悟った。拳統王は、ダーツボードごとぶち抜こうとしている。

 時にはスコールのように降り注ぎ、あるいは津波のように足下から蹴り払う、熾烈な猛攻から逃げ回りながら、葵は舌打ちをした。そんなの反則だろう、と。

 この手の戦い方は、人が芯から豹変するからこそ成立するものだろう。それを、計算尽くで演じて見せるだなんて、あってはならない。

 本当は狂っていないシリアルキラーなんて、あってはならない。


「(けど! 生憎と、バーサーカーは見慣れているんだよ!)」


 飛ぶように三歩ほど後退して、葵は脇を締めた。
 悪いな、兎萌。ちいと約束破るわ。
 イメージする。嫌という程打ちのめされた、あの目を。

 睨むでもなく、見開くでもなく。すうっと、奈落のような瞳の底の奥の奥まで引いて、じっと息を殺し、炎を滾らせる。暗闇に誘われた獲物が、牙に気付いた時には、もう遅い。

 一言でいえば、『凪』。
 そこは穏やかな海であり、しかして間違いなく、そこは海である。
 奴が理性によって凪状態を作り出さない戦闘狂であるならば、こちらが波を押さえればいい。

 葵は目を細めた。すべての音が一気に遠ざかるのを感じた。心臓の音だけが頭の中に反響する。生きている実感だけが、衝動を駆り立てる。武道における『無心』の意味が、今なら理解できる気がした。


「堕ちろ、川樋イイイ――――!!」


 まだ、まだだ。奴は拳を振りかぶってこそいるが、それは弓を引き絞った状態にあるだけで、まだ、攻撃しようという瞬間には至っていない。

 三歩、二歩、一――今!!


「うおおおおおお!!」


 葵は体の中心から拳を放った。剣士・和楽足春近直伝の『出端技』である。
 クロスカウンターが炸裂し、拳統王の体がきりもみしながらリングに刺さった。


「……ふぅー。うし!」


 テンカウントを待つ間、波のように戻ってきた会場の喧騒が、葵の耳まで流れてくる。
 今のは何だと。空手の正拳突きのようだった。いや縦拳だから大陸由来ではないか。そうじゃないアレはまぐれだ。そうだビビって手を出しただけだ。
 主語がないが、間違いなく自分のことだろう。


「(言われ放題だな、俺)」


 苦笑して、カウントゼロとともに拳統王へ駆け寄る先方のセコンドを尻目に、背を向ける。
 いや、まあ。まぐれなのは多分当たってると、少しばかりの謙遜をしながら。
 もちろん残りの九割九部九厘は、勝利の喜びガッツポーズ中指ざまあみろで一杯だった。
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