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雨愁軒経

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第二章 ゴリラと大空とバレンタイン・キッス

晩ご飯と間接キスと秘めた決意

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 シャワーで流しきってから着替えて戻ると、兎萌がコートを投げてくれた。


「また降ってきたみたいだから、体冷やさないようにね」


 そう言ってから、彼女は堪えきれずに噴き出した。


「あははっ、ひっどい目」
「うるせ」


 腫れぼったくなっているのは、更衣室の鏡で自覚していた。
 まだ時計は十八時半くらいなのに、ジム全体が薄暗い。


「皆は?」
「誰かさんが長風呂してる間に帰ったよ」


 そっか、と呟いて、葵は、いそいそとコートに袖を通してから、鞄を手に取る。まともに兎萌の顔を見ていられなくて、足早に立ち去ろうとしたが、


「ちょい待ち」


 フードをひっ掴まれてしまった。おのれ、わざわざコートを渡してきたのは着させるためか。


「ちょっと、晩ご飯に付き合わない?」
「……ああ」


 戸締りと施錠をして、空を見上げる。星が視認できるくらいだから、冷え込みは強いが、雪の量はそんなに心配することはなさそうだ。

 七時半にはラストオーダーになっちゃうんだあ、と言いながら、少し早足気味の松葉杖に、彼女が転ばないよう、そっと寄り添ってみる。こんな自分でも、それくらいの支えの役割にはなれるだろうと、心の中で言い訳をして。

 駅とは反対方向に歩いて、やがて着いたのは、北欧の一軒家を思わせるような外観の喫茶店だった。内装も、どこかの貴族の応接間のようで、落ち着いた趣がある。

 葵たちは、その中でも一際大きい窓の傍に通された。大きな花びらを押し固めて並べたような、お洒落な枠組みの窓の向こうには、烏帽子山が見える。


「景色、いいでしょ」
「ああ、春になったら、もっと綺麗なんだろうな」
「烏帽子山公園の千本桜は、さくらの名所百選に数えられているからね。時期になったら、また来よっか」
「お、おう……」


 あっさりと次回の約束を取り付けられ、葵は戸惑った。やったなデートだぞとデレついた脳内の自分を必死で押し返し、平静を装う。

 手書きのメニューは温かみがあった。一つ一つ、丁寧に書き添えられたコメントが、見るだけでも楽しい。「あの頃のナポリタン」の下に『あの頃ってどの頃?』と書かれているのはずるい。それを聞きたいのはこっちだと、余計に笑ってしまいそうになる。

 悩んだ末に葵は、目玉焼きのせナポリタンを、兎萌は店の名前を冠したカレーライスを注文した。店員の「お飲み物は」という問いに、コーヒーと答えようとすると、兎萌から待ったをかけられる。


「これ、飲んでみたいから、一つずつ頼んで?」
「かしこまりました。レモ――」
「おおっとちょっと待ってください店員さん! 彼に言わせますんで!」


 悪戯っ子のような笑顔に、すべてを察したような店員が、失礼しましたと、上辺だけの謝罪でもって引き下がる。
 葵のメニューを持つ手が震えた。この手のものは、秋葉原にしかないと思っていた。


「お、思い出香るレモンスカッシュと、青春のお飲み物クリームソーダを、お願いします……」
「はい、よく出来ました」
「……もう、お嫁に行けない!」
「なによこのくらいで。というかそれお店に失礼な感想よ。――あ、注文は以上です」


 何かを通じ合ったように視線を交わす兎萌と店員から、葵は窓の外へと意識を逃がした。
 まだメニューを閉じずに鼻歌まじりの表情を、横目で窺う。薬膳カレーを指さしては「マツの実ってどんなのだろ。マツボックリ……じゃあ、ないよね?」なんて、いつもの百面相を始めるものだから、困る。


「スマホで調べてみたらいいんじゃねえの」
「あ、そっか。あったまいー」


 いっそ、責めてくれた方が気が楽なのに。
 飲み物が運ばれてくると、兎萌はレモンスカッシュのストローを吸い上げてから、じっと、こっちに視線を向けてきた。


「……何?」
「味見したいから、早く飲んでくれないかなあと」
「別に先でいいよ、ほら」


 クリームソーダを差し出し、アイスが傾くのをぼうっと眺める。


「んーおいひ。ありがとー」
「おーう」


 定番のクリームソーダに、炭酸の上でぷかぷか浮かぶアイス。美味しくないわけがない。
 だが、葵はそのグラスに、中々手を付けられずにいた。


「飲まないの?」
「んー、後で」
「ふーん? あ、ちょっとこれ見てよ」


 その声に、窓の外から顔を戻すと、テーブルから身を乗り出してきた兎萌に唇を塞がれた。
 返事をしようとしたものだから開けてしまっていたあっぱ口から、しゅわしゅわと弾ける酸味が流れ込む。彼女の柔らかさと、炭酸の後に抜ける吐息とで、味がぐちゃぐちゃに甘くなる。


「あ、おま、なに、して――」
「間接キスを避ける葵くんに、お仕置きでーす。……キスはレモンの味って、ほんとだね?」
「やっぱり私、もうお嫁に行けない!」


 せめてもの抵抗として、おどけるように突っ伏してみた。そうでもしないと、このキスをカウントさせてしまいそうだったから。

――私、自分より強い人が好きだから付き合うのはムリ、って言ったのよ。

 俺みたいな弱い奴へのそれを、キスだと受け取ってしまう訳にはいかないから。

 兎萌は、ひとしきりけらけらと笑った後で、テーブルに肘を突き、重ねた手のひらに頬を乗せて、はにかんで見せた。


「少しは調子、戻ってきた?」


 その言葉に、流しきっていたはずの涙がじわりと漏れて来てしまう。突っ伏していて良かった。首を振るついでに、袖で拭っておく。


「今日が本番なら。俺はお前を、守れなかった」
「今日が本番なら、ね」


 ほれほれ顔を上げろーと、額を突かれた。


「私は嬉しかったんだよ。葵、泣いてくれていたでしょ」
「っ、聞こえて、たのか」


 兎萌は直接答えず、レモンスカッシュに添えられたレモンの縁を、指で弄んでいる。


「いいんだよ、恥ずかしがらなくても。別に泣き虫でいいって訳じゃあないけれどさ。勝負に挑む以上、勝ちを目指さなければ、負けたら悔しくなければ、嘘だもん」
「けど!」
「けど?」
「…………あれだけ啖呵切っておいて、超カッコ悪いじゃんか」


 実はまだ体の節々が痛む。その度に、体が「お前は負けた」と突き付けてくるようで、店内の暖房の中にいても、芯の方の震えは止まらないんだ。

 けれど兎萌は、「私は超カッコいいと思ったけどなー」と、何の気なしの優しい口調で言った。また一つ、絆創膏が貼られた。


「一番カッコ悪いことはね。勝った時に、それを『信じられない』なんて抜かして、自分を侮辱することだよ。もちろん、時の運はある。けれど、あれはあくまで勝った要因。勝てた事実まで疑うようじゃあ、そもそもあんたは何で試合に臨んだのよって、なるじゃない?」
「それは……たしかに。考えたこともなかった」
「じゃあ、今考えよ。葵が釈迦堂くんに勝てたら、どんな気持ちになる?」
「そりゃあ、めっちゃ嬉しいよ。どうだ見たかー! って、はしゃぐと思う」


 そう答えると、兎萌は安心したように、ストローに口を付けた。


「お前はいいのか?」


 ちゅーっと吸い上げながら、彼女は目線だけで問い返してくる。


「告白みたいなもんだったじゃんか。告白というか、プロポーズ? 俺の女になれ、ってさ。ぶっちゃけ、俺とあいつの勝負とか抜きに、兎萌自身はどうなんだよ?」
「えーそれ聞くぅ? 断るに決まってんでしょうよあんなもん」


 ないないと、体を起こして手を払う。空いたテーブルへ、代わりに注文の品が着地した。

 趣を感じさせるステンレスの銀盆に、想像していたよりもずっと美しい彩りが花を咲かせている。『あの頃』がどの頃かはやっぱり分からないが、どんな頃かは何となく、分かった。
 春になるまで待たずに、もう一度来たいと思うくらいに、あたたかいから。

 カレーの方は白皿だったが、スパイスとにんにくの芳しい香りが食欲をそそる。兎萌はメロン型に盛りつけられたライスのどこから切り崩そうか睨めっこして、ようやく一口目を掬い上げ、うっとりと目を細めた。


「釈迦堂くんはね。私を女として見てるんだよ」
「いけないのか?」
「んー、そりゃあまあ、私だって女子のはしくれだし? でも、彼のはそれだけ。連れてってやるだ? マンガに出てくるような女子マネかっての。こっちはまだまだマウンドに立ちたいってのに、向こうは私のことを選手として見ちゃいない。それが気に食わないのよ」


 ナポリタンを咀嚼しながら、葵は唸った。
 彼女の言いたいことは、少し理解できる気がした。

 幼い頃、童顔から卒業するのが遅めだったこともあって、髪色とともに、よく「男らしくしなさい」と言われてきた。その度に疑問だった。あいつの方が泣き虫なのに。あいつは女の子をいじめているのに。あいつらは人に掃除当番を押し付けて帰るのに。

 今だってそうだ。グローバル化の進んだ現代社会において、地毛を封じてまで黒髪を強いるのは何故だ? 芸能人のファッションはもてはやして、こちらが許されないのは、何故だ?

 いつだって、男だ女だ学生だ大人だと、カテゴリで押し付けて、個人なんか興味はないんだ。


「もし、さ」
「んー?」
「お前が完全復帰する日が来たら、俺がセコンドをやってもいいか?」


 一瞬、面食らった様子で、兎萌はスプーンを口に咥えたまま、眼を瞬かせた。


「俺は、お前と一緒に戦い続けたい。そうなれるように頑張る。だから!」
「ちょっとタンマ。口にもの入ってるからちょい待って…………うん。こちらこそ。むしろお願いするつもりだったわよ」


 子犬みたいな必死な顔で言うから、なんのことかと思っちゃったと笑う彼女に、葵は胸を撫で下ろした。


「まずは釈迦堂くんに勝って、留年撤回からね?」
「ああ、そうだな。俺は絶対あいつに勝ちたい。羽付兎萌を、釈迦堂舞流戦に渡したくない。どうすればいい?」
「んー。その気持ちを忘れること?」
「へ? 忘れない、じゃなくって?」


 拍子抜けしそうになった。そんな葵をよそに、兎萌は優雅なもので、レモンスカッシュで口の中をリセットをしている。


「ずっと抱えようとしても忘れるよ、人は。ふとした瞬間に。別のことをやってる瞬間に。だから、その時には抱えない。取り組むときにはきっちり密度を高めて、抜くときには抜く。それが本当の『常在戦場』の心構えよ。戦場だって二十四時間臨戦態勢じゃあいられないもの」
「なんか、すげえな。まるで、人生の教えみたいだ。格闘技やってる人って、そんなに色んなこと考えてるのか」
「人生の教えに聞こえたんなら、やっぱセンスあるわあんた。今のは剣道をやってる従兄からの受け売りだから」
「剣道……」


 キックと比べればまだ身近だが、やはり馴染みのない響きに、葵は何度か口の中で反芻する。

 無意識に手が止まっていたのを、野性のお姫様は見逃さなかった。


「食べないの? なら一口ちょーだい」
「っぶね! あげませんー。これは俺のですー」
「えーいいじゃん、カレーも一口あげるからさ。ほれ、あーん」
「ばっ……いいいいらねーし!?」
「美味しいわよ?」
「だろうな!」


 そんな押し問答は、結局ラストオーダーの聞き取りが来るまで続いた。そこで兎萌がパフェを頼もうとするものだから、嫌な予感のした葵はトイレに行くふりをして店員を追いかけ、同じものをこっそり頼んでおいた。

 果たしてその予想は大当たりして、それはそれは悔しそうに兎萌はぶーたれていたが。

 それでも、まだ。たとえカッコつけだと思われようと、ヘタレだと思われようと。釈迦堂舞流戦に勝つまでは、俺は、未満フリのままでいなければならないから。
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