SECOND!!

雨愁軒経

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第一章 パンツとキックとドロップアウトボーイ

罠と宣戦布告とセコンドの意味

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 まるで試合前にローブを脱ぐように、兎萌は羽織ったジャージを脱いで丸めると、職員室の外へ置いてきた鞄の下へと放り投げて。


「お言葉ですが、上野先生。『勝てるわけがない』なんてのは、私たちファイターに対しての侮辱です。どうか、取り消してください」


 兎萌の言葉に、上野はわずかに気圧された様子だったが、すぐに不快感を露わにした。


「……では、勝てるというのですか?」
「さあ?」
「はあ?」


 いよいよ声にも苛立ちを隠せなくなってきた彼女に、兎萌は続ける。


「彼次第ですから。それに、時の運って言うでしょう? 歴戦の選手が、新人ノーランカーの振り回す腕に沈むことだってあるんです。断言はできませんが、少なくとも私は、勝ちに行きますよ」


 お前はどうよ、と問いかける銀河に、葵は強く頷いて返す。


「俺も、本気で取り組みます!」
「だから、世の中そう甘くは……っ!」
「その言葉、かなりの矛盾を孕んでいるって、お気づきですか?」
「いいえ、留年に関する話ですから、たまたま期限が年度末になっただけですもの!」


 上野の冷徹な仮面が、勝ち誇った興奮に剥がれる。

 しかし兎萌が指摘した『矛盾』は、葵にかけられた罠に対するものではなかったらしい。


「世の中は甘くない……嫌いなんですよねえ、ソレ。ええまあ仰ることは甚だ尤も。努力もせずに勝つことはできませんから、正しい言葉なのでしょうね」
「ほら、貴女だってそう思って――」
「けれどその言葉は、彼の努力を潰すためにあるものではないはずです」
「無駄な努力に終わると、忠告しているだけでしょう!」


 眉を顰めた上野に、兎萌がにぃと歯を見せ、舌なめずりをしたようにも見えた。


「では、先生はどうですか?」
「……は?」
「先生の経歴は存じています。そこがいわゆる名門大学ではないことも、勤務先であるこの学校が名門高校でないことも。現在御付き合いされていると噂のあの先生とのことも。すべては、自分でも選ぶことの適うような甘い世界だからですか? ハッ、だったらせめて、自分の受け持つクラスの学力くらいどうにかしましょうよ。川樋くん以外に何人います? 御自分のクラスで、『甘い世界』で、赤点なんてものを出した指導力を疑うべきではありませんか。
 キック部のこともそうです。学校の売名のため、わざわざ人数不足を無視する特例を作ってまで立ち上げた際、これまた評価のために顧問に就かれたのが上野先生ですが……あれから、顧問として一ミリでも、キックの勉強はしてくださいましたか? 練習場所であるうちのジムに、顔を出していただいたことさえありませんが」


 次々と口を突いて出る暴論めいた指摘に、とうとう上野が絶句した。
 そんな上野からつまらなさそうに目を背けた鬼が、こちらの肩に手を置いてきたものだから、葵は思わず飛び上がりそうになる。


「傍から見れば分の悪い賭けに思えるでしょう。けれどなかなかどうして、彼は本気ですよ」


 そう言って、鬼はまた、牙を剥いた。

 葵は彼女を頼もしく思う一方で、正直、やめてくれとも願っていた。お前が煽るのは勝手だが、腹いせに俺の評価を下げられるかもしれないのだ。最悪、留年撤回の条件さえ反故にされてしまってはどうにもならない。

 気もそぞろに成り行きを見守っていると、不意に、太ももをひっ叩かれた。


「いきなり何すんあだだだだだっ!?」


 飛び退ろうとした咄嗟の動きに付いていけなかった筋肉が、悲鳴を上げ、攣ってしまう。葵は立っていることもままならず、職員室の床にうずくまった。

 すると兎萌は、やっぱり、と苦笑しながら傍に屈み、足を優しく伸ばしてくれながら、言葉を続けていった。


「葵は今朝、私――つまり五十一キロの重りを背負った状態で、同じ足跡しか踏んではいけないというルールの下、ジムの周りを十周してます。その後の雪かきに、ジム内の雑巾がけをほぼ一人で行い、高負荷の筋トレまでしてきました。それに一昨日は生スパーを見て――」


 そこまで話したところで、彼女は「まあ、こっちはいっか」と切り上げる。


「少なくとも、未経験者の初日にさせるメニューではありませんでした。疑われるのであれば、ぜひ、動きやすい服装を着用の上、明朝五時半にうちのジム『アルカディアス』までお越しください。他の先生方でも構いませんよ? 歓迎します。池黒先生など、如何ですか?」


 そんな誘いに、体育教師の池黒はおろか、誰もが口を噤むことしかできずにいた。
 兎萌はにっこりと、唖然としたままの上野の手に、改めて入部届を載せ、


「結果を出せば留年撤回のお約束、忘れないでくださいね」


 そう言い残して、、葵の手を引いて職員室を後にした。





   *   *   *   *   *





 何という言葉をかければいいか分からず、ようやく葵が口を開けたのは、校門を出た後でのことだった。


「俺が言うのもなんだけど、良かったのか? お前まで先生にケンカ売ることはねえだろ」
「んー、そうねー」


 空を睨んで何やら言葉を探した兎萌は、あ、そうだ、と手を打った。


「葵はさ、ボクシングで選手に付いている人が、どうして『セコンド』って言うか知ってる?」
「えっ? そう言われてみれば、分かんねえな」
「セコンドって、数字を数えるときの、ファースト、セカンド……のセカンドと同じ意味なの」


 今の大ヒント、と付け加えて、自販機の前で足を止める。


「じゃあ、二番目って意味なのか?」


 兎萌は電子マネーのパネルに財布を押し当て、選んだあたたかいお茶のペットボトルをこちらへ放って来た。


「正解。昔はさ、次に出場する選手がコーナーサイドにいたから、セコンドって呼ばれるようになったんだって」
「その口ぶりだと、今じゃあ違うんだよな」
「そうね、一応ライセンス制になってるかな。といっても、ある程度ジムの裁量で申請できるから、キックに真剣な人なら、ほとんど問題なく取れるんだけどね」


 もう一本購入したお茶をジャージの袖で持ち、温かくなった口の中の空気を、ほう、と空に遊ばせながら、私も持ってるんだよ、と言った。


「もひとつ問題。ライセンスの規則にはね、『セコンドは、試合に臨んで、ボクサーを補助し、また、ボクサーに対して助言を与えることができる。』ってあるの。この意味、分かる?」


 職員室での気迫はどこへ行ったのかと思う程の無邪気な表情で、こてっと小首を傾けて訊ねる彼女に、葵は対照的に難しい顔で首を傾げた。

 セコンドの規則自体を口の中で反芻しても、まあそうだろうな、という感想を抱くだけで、その裏に秘められた意味といわれても、咄嗟には見えてこない。


「……すまん、降参」


 素直に白旗を上げると、兎萌はかっかっか、と某ご老公のように笑った。


「正解はね、『試合に臨んで』の部分。試合に臨んだボクサーを補助、ではなくて、セコンド自身がボクサーと共に試合に臨む、という文章になってるんだよ」
「ボクサーと、一緒に……」
「そ! 葵の試合には、女子フライ級王者の私も、王者の私も! 一緒に出るってワケ」
「何故二回言うかね、君は」
「だってだって、SANAさんに勝ったのが嬉しかったんだもん! もっと言うと、お兄ちゃんはミドル級王者で、世界大会出場経験あり。明日葉さんも、経験一年目でアマチュアの東日本大会で優勝した実力者。そんなわけで、葵には、割と頼もしい布陣が付いてるんだぞ?」


 笑顔で差し出された、袖からちょこん突き出た大きな拳に目を疑う。頭では、それが女の子の小さな拳だと分かっていながら、葵はぽかーんと、あっぱ口を開けていることしかできない。


「だから私も、先生の敵に回っただけのこと。以上、文句ある?」
「ははっ……そりゃ、頼もしいこって」
「こちらこそだよ。二人三脚で繋いだ私の脚は、片方がコレなんだから。ちゃんと支えてよ?」


 くしゃっとはにかむ笑顔を向けられると、不思議な安心感があった。まるで昔から、彼女とタッグを組んでいたような錯覚さえ覚える。


「つっても俺、あのキザ眼鏡相手に、ビギナーズラックも当たらなかったぞ?」
「そりゃそうよ。あんたはまだ未経験者。新人ビギナーですらないもの」
「そういう問題なのか……?」
「そういう問題なのよ。戦う作法を知らずにやってのけるのは映画の中だけ」


 そう言って笑うと、兎萌は勢いよく尻を叩いてきた。

 ふつふつと、滾って来るものを感じる。冬の寒さと朝練の疲労で震える脚が、ぴたりと鳴りを潜め、きちんと地に足ついたような気さえした。まるで筋肉痛も吹き飛ぶようで、これから行うトレーニングにも、俄然気合が入ってくる。

 ジムに辿り着いた葵は、自販機横のゴミ箱に空のペットボトルを突っ込んで、兎萌の背中を追いかけた。しかし、扉を開いたところで彼女が足を止めていて、後ずさる。


「どうした?」


 訊ねると、兎萌が中を指で示した。今朝もでっぷりと寝そべっていたフグが、ジムの中に向かって、威嚇するように喉を鳴らしている。

 二人で顔を見合わせる。こういうことはするのかと訊くと、兎萌は、これまでにこんなことはなかったと言う。番犬として置かれているのに、番犬らしい行動に疑問を抱かれるとは。そんな一抹の同情をフグに寄せながら、靴を脱いで中に入る。


 受付前の客用椅子に、鋭い目つきをした短髪の青年が腕を組んでいるのが見えた。

 制服であることを見る限り、学生なのだろう。しかしどこか老成したような、じっと機会を窺う獰猛な狼にも似た雰囲気は、こちらが背中を見せた瞬間に牙を立てて来るようだ。勇魚ほど大柄ではないが、引き締まった筋肉は実力の裏打ちであることを感じさせる。

 一昨日にはいなかったはずだ。彼がフグの警戒対象なのかもしれないと、横目でこっそり窺っていると、ふと、目が合った。しかし青年はすぐに興味なさそうに目を流す。

 その先で、青年の顔の動きが止まった。獲物は――


「待っていたぞ。羽付兎萌」


 喉が鎖骨の下にあるのではないかと思う程の、堂々たる低い声が響く。

 その声に、兄の勇魚を探そうと別方向に顔を向けていた兎萌が、はっとして振り返った。

 彼女が思わず手を離した松葉杖が、カラン、と音を立てて倒れる。


「えっと、誰?」


 おそるおそる耳打ちすると、兎萌はぎゅっと眉間に皺を寄せて、絞り出すように言った。


釈迦堂しゃかどう舞流戦まるた――通称『二殺拳キラービー』。現在、男子高校生最強と呼び声の高い実力者よ」
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