9 / 37
第一章 パンツとキックとドロップアウトボーイ
罠と宣戦布告とセコンドの意味
しおりを挟む
まるで試合前にローブを脱ぐように、兎萌は羽織ったジャージを脱いで丸めると、職員室の外へ置いてきた鞄の下へと放り投げて。
「お言葉ですが、上野先生。『勝てるわけがない』なんてのは、私たちファイターに対しての侮辱です。どうか、取り消してください」
兎萌の言葉に、上野はわずかに気圧された様子だったが、すぐに不快感を露わにした。
「……では、勝てるというのですか?」
「さあ?」
「はあ?」
いよいよ声にも苛立ちを隠せなくなってきた彼女に、兎萌は続ける。
「彼次第ですから。それに、時の運って言うでしょう? 歴戦の選手が、新人の振り回す腕に沈むことだってあるんです。断言はできませんが、少なくとも私は、勝ちに行きますよ」
お前はどうよ、と問いかける銀河に、葵は強く頷いて返す。
「俺も、本気で取り組みます!」
「だから、世の中そう甘くは……っ!」
「その言葉、かなりの矛盾を孕んでいるって、お気づきですか?」
「いいえ、留年に関する話ですから、たまたま期限が年度末になっただけですもの!」
上野の冷徹な仮面が、勝ち誇った興奮に剥がれる。
しかし兎萌が指摘した『矛盾』は、葵にかけられた罠に対するものではなかったらしい。
「世の中は甘くない……嫌いなんですよねえ、ソレ。ええまあ仰ることは甚だ尤も。努力もせずに勝つことはできませんから、正しい言葉なのでしょうね」
「ほら、貴女だってそう思って――」
「けれどその言葉は、彼の努力を潰すためにあるものではないはずです」
「無駄な努力に終わると、忠告しているだけでしょう!」
眉を顰めた上野に、兎萌がにぃと歯を見せ、舌なめずりをしたようにも見えた。
「では、先生はどうですか?」
「……は?」
「先生の経歴は存じています。そこがいわゆる名門大学ではないことも、勤務先であるこの学校が名門高校でないことも。現在御付き合いされていると噂のあの先生とのことも。すべては、自分でも選ぶことの適うような甘い世界だからですか? ハッ、だったらせめて、自分の受け持つクラスの学力くらいどうにかしましょうよ。川樋くん以外に何人います? 御自分のクラスで、『甘い世界』で、赤点なんてものを出した指導力を疑うべきではありませんか。
キック部のこともそうです。学校の売名のため、わざわざ人数不足を無視する特例を作ってまで立ち上げた際、これまた評価のために顧問に就かれたのが上野先生ですが……あれから、顧問として一ミリでも、キックの勉強はしてくださいましたか? 練習場所であるうちのジムに、顔を出していただいたことさえありませんが」
次々と口を突いて出る暴論めいた指摘に、とうとう上野が絶句した。
そんな上野からつまらなさそうに目を背けた鬼が、こちらの肩に手を置いてきたものだから、葵は思わず飛び上がりそうになる。
「傍から見れば分の悪い賭けに思えるでしょう。けれどなかなかどうして、彼は本気ですよ」
そう言って、鬼はまた、牙を剥いた。
葵は彼女を頼もしく思う一方で、正直、やめてくれとも願っていた。お前が煽るのは勝手だが、腹いせに俺の評価を下げられるかもしれないのだ。最悪、留年撤回の条件さえ反故にされてしまってはどうにもならない。
気もそぞろに成り行きを見守っていると、不意に、太ももをひっ叩かれた。
「いきなり何すんあだだだだだっ!?」
飛び退ろうとした咄嗟の動きに付いていけなかった筋肉が、悲鳴を上げ、攣ってしまう。葵は立っていることもままならず、職員室の床にうずくまった。
すると兎萌は、やっぱり、と苦笑しながら傍に屈み、足を優しく伸ばしてくれながら、言葉を続けていった。
「葵は今朝、私――つまり五十一キロの重りを背負った状態で、同じ足跡しか踏んではいけないというルールの下、ジムの周りを十周してます。その後の雪かきに、ジム内の雑巾がけをほぼ一人で行い、高負荷の筋トレまでしてきました。それに一昨日は生スパーを見て――」
そこまで話したところで、彼女は「まあ、こっちはいっか」と切り上げる。
「少なくとも、未経験者の初日にさせるメニューではありませんでした。疑われるのであれば、ぜひ、動きやすい服装を着用の上、明朝五時半にうちのジム『アルカディアス』までお越しください。他の先生方でも構いませんよ? 歓迎します。池黒先生など、如何ですか?」
そんな誘いに、体育教師の池黒はおろか、誰もが口を噤むことしかできずにいた。
兎萌はにっこりと、唖然としたままの上野の手に、改めて入部届を載せ、
「結果を出せば留年撤回のお約束、忘れないでくださいね」
そう言い残して、、葵の手を引いて職員室を後にした。
* * * * *
何という言葉をかければいいか分からず、ようやく葵が口を開けたのは、校門を出た後でのことだった。
「俺が言うのもなんだけど、良かったのか? お前まで先生にケンカ売ることはねえだろ」
「んー、そうねー」
空を睨んで何やら言葉を探した兎萌は、あ、そうだ、と手を打った。
「葵はさ、ボクシングで選手に付いている人が、どうして『セコンド』って言うか知ってる?」
「えっ? そう言われてみれば、分かんねえな」
「セコンドって、数字を数えるときの、ファースト、セカンド……のセカンドと同じ意味なの」
今の大ヒント、と付け加えて、自販機の前で足を止める。
「じゃあ、二番目って意味なのか?」
兎萌は電子マネーのパネルに財布を押し当て、選んだあたたかいお茶のペットボトルをこちらへ放って来た。
「正解。昔はさ、次に出場する選手がコーナーサイドにいたから、セコンドって呼ばれるようになったんだって」
「その口ぶりだと、今じゃあ違うんだよな」
「そうね、一応ライセンス制になってるかな。といっても、ある程度ジムの裁量で申請できるから、キックに真剣な人なら、ほとんど問題なく取れるんだけどね」
もう一本購入したお茶をジャージの袖で持ち、温かくなった口の中の空気を、ほう、と空に遊ばせながら、私も持ってるんだよ、と言った。
「もひとつ問題。ライセンスの規則にはね、『セコンドは、試合に臨んで、ボクサーを補助し、また、ボクサーに対して助言を与えることができる。』ってあるの。この意味、分かる?」
職員室での気迫はどこへ行ったのかと思う程の無邪気な表情で、こてっと小首を傾けて訊ねる彼女に、葵は対照的に難しい顔で首を傾げた。
セコンドの規則自体を口の中で反芻しても、まあそうだろうな、という感想を抱くだけで、その裏に秘められた意味といわれても、咄嗟には見えてこない。
「……すまん、降参」
素直に白旗を上げると、兎萌はかっかっか、と某ご老公のように笑った。
「正解はね、『試合に臨んで』の部分。試合に臨んだボクサーを補助、ではなくて、セコンド自身がボクサーと共に試合に臨む、という文章になってるんだよ」
「ボクサーと、一緒に……」
「そ! 葵の試合には、女子フライ級王者の私も、王者の私も! 一緒に出るってワケ」
「何故二回言うかね、君は」
「だってだって、SANAさんに勝ったのが嬉しかったんだもん! もっと言うと、お兄ちゃんはミドル級王者で、世界大会出場経験あり。明日葉さんも、経験一年目でアマチュアの東日本大会で優勝した実力者。そんなわけで、葵には、割と頼もしい布陣が付いてるんだぞ?」
笑顔で差し出された、袖からちょこん突き出た大きな拳に目を疑う。頭では、それが女の子の小さな拳だと分かっていながら、葵はぽかーんと、あっぱ口を開けていることしかできない。
「だから私も、先生の敵に回っただけのこと。以上、文句ある?」
「ははっ……そりゃ、頼もしいこって」
「こちらこそだよ。二人三脚で繋いだ私の脚は、片方がコレなんだから。ちゃんと支えてよ?」
くしゃっとはにかむ笑顔を向けられると、不思議な安心感があった。まるで昔から、彼女とタッグを組んでいたような錯覚さえ覚える。
「つっても俺、あのキザ眼鏡相手に、ビギナーズラックも当たらなかったぞ?」
「そりゃそうよ。あんたはまだ未経験者。新人ですらないもの」
「そういう問題なのか……?」
「そういう問題なのよ。戦う作法を知らずにやってのけるのは映画の中だけ」
そう言って笑うと、兎萌は勢いよく尻を叩いてきた。
ふつふつと、滾って来るものを感じる。冬の寒さと朝練の疲労で震える脚が、ぴたりと鳴りを潜め、きちんと地に足ついたような気さえした。まるで筋肉痛も吹き飛ぶようで、これから行うトレーニングにも、俄然気合が入ってくる。
ジムに辿り着いた葵は、自販機横のゴミ箱に空のペットボトルを突っ込んで、兎萌の背中を追いかけた。しかし、扉を開いたところで彼女が足を止めていて、後ずさる。
「どうした?」
訊ねると、兎萌が中を指で示した。今朝もでっぷりと寝そべっていたフグが、ジムの中に向かって、威嚇するように喉を鳴らしている。
二人で顔を見合わせる。こういうことはするのかと訊くと、兎萌は、これまでにこんなことはなかったと言う。番犬として置かれているのに、番犬らしい行動に疑問を抱かれるとは。そんな一抹の同情をフグに寄せながら、靴を脱いで中に入る。
受付前の客用椅子に、鋭い目つきをした短髪の青年が腕を組んでいるのが見えた。
制服であることを見る限り、学生なのだろう。しかしどこか老成したような、じっと機会を窺う獰猛な狼にも似た雰囲気は、こちらが背中を見せた瞬間に牙を立てて来るようだ。勇魚ほど大柄ではないが、引き締まった筋肉は実力の裏打ちであることを感じさせる。
一昨日にはいなかったはずだ。彼がフグの警戒対象なのかもしれないと、横目でこっそり窺っていると、ふと、目が合った。しかし青年はすぐに興味なさそうに目を流す。
その先で、青年の顔の動きが止まった。獲物は――
「待っていたぞ。羽付兎萌」
喉が鎖骨の下にあるのではないかと思う程の、堂々たる低い声が響く。
その声に、兄の勇魚を探そうと別方向に顔を向けていた兎萌が、はっとして振り返った。
彼女が思わず手を離した松葉杖が、カラン、と音を立てて倒れる。
「えっと、誰?」
おそるおそる耳打ちすると、兎萌はぎゅっと眉間に皺を寄せて、絞り出すように言った。
「釈迦堂舞流戦――通称『二殺拳』。現在、男子高校生最強と呼び声の高い実力者よ」
「お言葉ですが、上野先生。『勝てるわけがない』なんてのは、私たちファイターに対しての侮辱です。どうか、取り消してください」
兎萌の言葉に、上野はわずかに気圧された様子だったが、すぐに不快感を露わにした。
「……では、勝てるというのですか?」
「さあ?」
「はあ?」
いよいよ声にも苛立ちを隠せなくなってきた彼女に、兎萌は続ける。
「彼次第ですから。それに、時の運って言うでしょう? 歴戦の選手が、新人の振り回す腕に沈むことだってあるんです。断言はできませんが、少なくとも私は、勝ちに行きますよ」
お前はどうよ、と問いかける銀河に、葵は強く頷いて返す。
「俺も、本気で取り組みます!」
「だから、世の中そう甘くは……っ!」
「その言葉、かなりの矛盾を孕んでいるって、お気づきですか?」
「いいえ、留年に関する話ですから、たまたま期限が年度末になっただけですもの!」
上野の冷徹な仮面が、勝ち誇った興奮に剥がれる。
しかし兎萌が指摘した『矛盾』は、葵にかけられた罠に対するものではなかったらしい。
「世の中は甘くない……嫌いなんですよねえ、ソレ。ええまあ仰ることは甚だ尤も。努力もせずに勝つことはできませんから、正しい言葉なのでしょうね」
「ほら、貴女だってそう思って――」
「けれどその言葉は、彼の努力を潰すためにあるものではないはずです」
「無駄な努力に終わると、忠告しているだけでしょう!」
眉を顰めた上野に、兎萌がにぃと歯を見せ、舌なめずりをしたようにも見えた。
「では、先生はどうですか?」
「……は?」
「先生の経歴は存じています。そこがいわゆる名門大学ではないことも、勤務先であるこの学校が名門高校でないことも。現在御付き合いされていると噂のあの先生とのことも。すべては、自分でも選ぶことの適うような甘い世界だからですか? ハッ、だったらせめて、自分の受け持つクラスの学力くらいどうにかしましょうよ。川樋くん以外に何人います? 御自分のクラスで、『甘い世界』で、赤点なんてものを出した指導力を疑うべきではありませんか。
キック部のこともそうです。学校の売名のため、わざわざ人数不足を無視する特例を作ってまで立ち上げた際、これまた評価のために顧問に就かれたのが上野先生ですが……あれから、顧問として一ミリでも、キックの勉強はしてくださいましたか? 練習場所であるうちのジムに、顔を出していただいたことさえありませんが」
次々と口を突いて出る暴論めいた指摘に、とうとう上野が絶句した。
そんな上野からつまらなさそうに目を背けた鬼が、こちらの肩に手を置いてきたものだから、葵は思わず飛び上がりそうになる。
「傍から見れば分の悪い賭けに思えるでしょう。けれどなかなかどうして、彼は本気ですよ」
そう言って、鬼はまた、牙を剥いた。
葵は彼女を頼もしく思う一方で、正直、やめてくれとも願っていた。お前が煽るのは勝手だが、腹いせに俺の評価を下げられるかもしれないのだ。最悪、留年撤回の条件さえ反故にされてしまってはどうにもならない。
気もそぞろに成り行きを見守っていると、不意に、太ももをひっ叩かれた。
「いきなり何すんあだだだだだっ!?」
飛び退ろうとした咄嗟の動きに付いていけなかった筋肉が、悲鳴を上げ、攣ってしまう。葵は立っていることもままならず、職員室の床にうずくまった。
すると兎萌は、やっぱり、と苦笑しながら傍に屈み、足を優しく伸ばしてくれながら、言葉を続けていった。
「葵は今朝、私――つまり五十一キロの重りを背負った状態で、同じ足跡しか踏んではいけないというルールの下、ジムの周りを十周してます。その後の雪かきに、ジム内の雑巾がけをほぼ一人で行い、高負荷の筋トレまでしてきました。それに一昨日は生スパーを見て――」
そこまで話したところで、彼女は「まあ、こっちはいっか」と切り上げる。
「少なくとも、未経験者の初日にさせるメニューではありませんでした。疑われるのであれば、ぜひ、動きやすい服装を着用の上、明朝五時半にうちのジム『アルカディアス』までお越しください。他の先生方でも構いませんよ? 歓迎します。池黒先生など、如何ですか?」
そんな誘いに、体育教師の池黒はおろか、誰もが口を噤むことしかできずにいた。
兎萌はにっこりと、唖然としたままの上野の手に、改めて入部届を載せ、
「結果を出せば留年撤回のお約束、忘れないでくださいね」
そう言い残して、、葵の手を引いて職員室を後にした。
* * * * *
何という言葉をかければいいか分からず、ようやく葵が口を開けたのは、校門を出た後でのことだった。
「俺が言うのもなんだけど、良かったのか? お前まで先生にケンカ売ることはねえだろ」
「んー、そうねー」
空を睨んで何やら言葉を探した兎萌は、あ、そうだ、と手を打った。
「葵はさ、ボクシングで選手に付いている人が、どうして『セコンド』って言うか知ってる?」
「えっ? そう言われてみれば、分かんねえな」
「セコンドって、数字を数えるときの、ファースト、セカンド……のセカンドと同じ意味なの」
今の大ヒント、と付け加えて、自販機の前で足を止める。
「じゃあ、二番目って意味なのか?」
兎萌は電子マネーのパネルに財布を押し当て、選んだあたたかいお茶のペットボトルをこちらへ放って来た。
「正解。昔はさ、次に出場する選手がコーナーサイドにいたから、セコンドって呼ばれるようになったんだって」
「その口ぶりだと、今じゃあ違うんだよな」
「そうね、一応ライセンス制になってるかな。といっても、ある程度ジムの裁量で申請できるから、キックに真剣な人なら、ほとんど問題なく取れるんだけどね」
もう一本購入したお茶をジャージの袖で持ち、温かくなった口の中の空気を、ほう、と空に遊ばせながら、私も持ってるんだよ、と言った。
「もひとつ問題。ライセンスの規則にはね、『セコンドは、試合に臨んで、ボクサーを補助し、また、ボクサーに対して助言を与えることができる。』ってあるの。この意味、分かる?」
職員室での気迫はどこへ行ったのかと思う程の無邪気な表情で、こてっと小首を傾けて訊ねる彼女に、葵は対照的に難しい顔で首を傾げた。
セコンドの規則自体を口の中で反芻しても、まあそうだろうな、という感想を抱くだけで、その裏に秘められた意味といわれても、咄嗟には見えてこない。
「……すまん、降参」
素直に白旗を上げると、兎萌はかっかっか、と某ご老公のように笑った。
「正解はね、『試合に臨んで』の部分。試合に臨んだボクサーを補助、ではなくて、セコンド自身がボクサーと共に試合に臨む、という文章になってるんだよ」
「ボクサーと、一緒に……」
「そ! 葵の試合には、女子フライ級王者の私も、王者の私も! 一緒に出るってワケ」
「何故二回言うかね、君は」
「だってだって、SANAさんに勝ったのが嬉しかったんだもん! もっと言うと、お兄ちゃんはミドル級王者で、世界大会出場経験あり。明日葉さんも、経験一年目でアマチュアの東日本大会で優勝した実力者。そんなわけで、葵には、割と頼もしい布陣が付いてるんだぞ?」
笑顔で差し出された、袖からちょこん突き出た大きな拳に目を疑う。頭では、それが女の子の小さな拳だと分かっていながら、葵はぽかーんと、あっぱ口を開けていることしかできない。
「だから私も、先生の敵に回っただけのこと。以上、文句ある?」
「ははっ……そりゃ、頼もしいこって」
「こちらこそだよ。二人三脚で繋いだ私の脚は、片方がコレなんだから。ちゃんと支えてよ?」
くしゃっとはにかむ笑顔を向けられると、不思議な安心感があった。まるで昔から、彼女とタッグを組んでいたような錯覚さえ覚える。
「つっても俺、あのキザ眼鏡相手に、ビギナーズラックも当たらなかったぞ?」
「そりゃそうよ。あんたはまだ未経験者。新人ですらないもの」
「そういう問題なのか……?」
「そういう問題なのよ。戦う作法を知らずにやってのけるのは映画の中だけ」
そう言って笑うと、兎萌は勢いよく尻を叩いてきた。
ふつふつと、滾って来るものを感じる。冬の寒さと朝練の疲労で震える脚が、ぴたりと鳴りを潜め、きちんと地に足ついたような気さえした。まるで筋肉痛も吹き飛ぶようで、これから行うトレーニングにも、俄然気合が入ってくる。
ジムに辿り着いた葵は、自販機横のゴミ箱に空のペットボトルを突っ込んで、兎萌の背中を追いかけた。しかし、扉を開いたところで彼女が足を止めていて、後ずさる。
「どうした?」
訊ねると、兎萌が中を指で示した。今朝もでっぷりと寝そべっていたフグが、ジムの中に向かって、威嚇するように喉を鳴らしている。
二人で顔を見合わせる。こういうことはするのかと訊くと、兎萌は、これまでにこんなことはなかったと言う。番犬として置かれているのに、番犬らしい行動に疑問を抱かれるとは。そんな一抹の同情をフグに寄せながら、靴を脱いで中に入る。
受付前の客用椅子に、鋭い目つきをした短髪の青年が腕を組んでいるのが見えた。
制服であることを見る限り、学生なのだろう。しかしどこか老成したような、じっと機会を窺う獰猛な狼にも似た雰囲気は、こちらが背中を見せた瞬間に牙を立てて来るようだ。勇魚ほど大柄ではないが、引き締まった筋肉は実力の裏打ちであることを感じさせる。
一昨日にはいなかったはずだ。彼がフグの警戒対象なのかもしれないと、横目でこっそり窺っていると、ふと、目が合った。しかし青年はすぐに興味なさそうに目を流す。
その先で、青年の顔の動きが止まった。獲物は――
「待っていたぞ。羽付兎萌」
喉が鎖骨の下にあるのではないかと思う程の、堂々たる低い声が響く。
その声に、兄の勇魚を探そうと別方向に顔を向けていた兎萌が、はっとして振り返った。
彼女が思わず手を離した松葉杖が、カラン、と音を立てて倒れる。
「えっと、誰?」
おそるおそる耳打ちすると、兎萌はぎゅっと眉間に皺を寄せて、絞り出すように言った。
「釈迦堂舞流戦――通称『二殺拳』。現在、男子高校生最強と呼び声の高い実力者よ」
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

しゅうきゅうみっか!-女子サッカー部の高校生監督 片桐修人の苦難-
橋暮 梵人
青春
幼少の頃から日本サッカー界の至宝と言われ、各年代別日本代表のエースとして活躍し続けてきた片桐修人(かたぎり しゅうと)。
順風満帆だった彼の人生は高校一年の時、とある試合で大きく変わってしまう。
悪質なファウルでの大怪我によりピッチ上で輝くことが出来なくなった天才は、サッカー漬けだった日々と決別し人並みの青春を送ることに全力を注ぐようになる。
高校サッカーの強豪校から普通の私立高校に転入した片桐は、サッカーとは無縁の新しい高校生活に思いを馳せる。
しかしそんな片桐の前に、弱小女子サッカー部のキャプテン、鞍月光華(くらつき みつか)が現れる。
「どう、うちのサッカー部の監督、やってみない?」
これは高校生監督、片桐修人と弱小女子サッカー部の奮闘の記録である。

切り札の男
古野ジョン
青春
野球への未練から、毎日のようにバッティングセンターに通う高校一年生の久保雄大。
ある日、野球部のマネージャーだという滝川まなに野球部に入るよう頼まれる。
理由を聞くと、「三年の兄をプロ野球選手にするため、少しでも大会で勝ち上がりたい」のだという。
そんな簡単にプロ野球に入れるわけがない。そう思った久保は、つい彼女と口論してしまう。
その結果、「兄の球を打ってみろ」とけしかけられてしまった。
彼はその挑発に乗ってしまうが……
小説家になろう・カクヨム・ハーメルンにも掲載しています。

二月のピアノ
紫ゆかり
青春
中学一年生の吉川安佐子は、気まぐれに立ち寄った古本屋で、男子大学生の上条真澄と出会う。
二度目の出会いから、次第に安佐子は真澄を意識し始めるが、そんな安佐子を見守っている、同い年の幼なじみ、小林悠。
少しずつ、真澄との距離が縮まっていくように思う安佐子だが……
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
ライトブルー
ジンギスカン
青春
同級生のウザ絡みに頭を抱える椚田司は念願のハッピースクールライフを手に入れるため、遂に陰湿な復讐を決行する。その陰湿さが故、自分が犯人だと気づかれる訳にはいかない。次々と襲い来る「お前が犯人だ」の声を椚田は切り抜けることができるのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる