SECOND!!

雨愁軒経

文字の大きさ
上 下
4 / 37
第一章 パンツとキックとドロップアウトボーイ

留年と条件と希望の瞳

しおりを挟む
 つい、数時間前のことだった。HRの後、そのまま職員室まで連れ出された葵は、担任教師から告げられた言葉に、立ち眩んでいた。


「留年……ですか?」


 震える手から、試験結果の羅列された用紙が滑り落ちる。一項目のみ赤字で印刷された五十八点が、散った花びらのように舞う。高校二年の冬にして、人生初めての赤点である。


「正確には、特待生の資格を剥奪しての留年です」


 担任の冷たい訂正ついげきに下唇を噛む。

 原因は、単純なケアレスミスだった。この学校の試験は昨年から、大学受験を見据えるためという理由もあり、マークシート形式が採用されていた。解答欄がずれてしまったことに気付いたときには後の祭り。どこからズレたのか探している間にタイムアップとなり、正答だったところまでのラインがこの点数だったというわけである。これだけであれば、ただのミス。全面的にこちらが悪い。

 ただ、最悪だったのが、この教科の担当が、目の前にいる担任のものだったということだ。


「そんな、どうにかなりませんか! 他の教科は九十点以上をキープしてます。追試でも補講でも何でもやります。急に留年なんて言われても!」


 焦りと不安から捲し立てる。しかし、担任はすげない態度の長嘆息で打ち切ると、苛立たしそうに机を指で叩いた。


「受験でも、その言い訳が通じると思っているのですか?」


 淡々と、しかし喉にねっとりと絡ませてから唾棄するような忌々しい口調で、彼女は突き放してきた。二十代で顔立ちもスタイルもいい女教師……でありながら、男子生徒からの人気がほぼ皆無である理由が、この態度である。

 しかし、言っていること自体は正しいのだから、誰も、何も言えなかった。


「追試? 補講? それらは善意の救済措置であって、義務ではありません。事前に赤点の基準を伝えている以上、それを満たせなかったのですから、不合格です。むしろ、三月までに部活動で結果を残せば不問にするという譲歩をしただけでも、感謝をしてほしいものですね」
「ですが、上野わの先生……他に赤点を取っている生徒は、追試があるじゃないですか」


 食い下がる。せっかく勝ち取った特待生枠だ、こんなところで手放して、母に苦労をかけるわけにはいかない。
 しかし、上野は鼻を鳴らすだけで、歯牙にもかけなかった。


「髪色について、校則を守れと再三指導したのに従わない生徒を、守ってやる必要はないと思いませんか?」
「ですから、これは地毛で――ッ!」
「そうでしたね、お父様譲りのものでしたか? ですが関係ありません。これが我が校の校則です。その髪のままでいたいのならば、それが許される学校にいけばいいでしょう? 接客業をするならば声を出さなければならない。運送業ならば重い物を運ばなければならない。それを承知で選んでおいて、自分は人見知りだから女だからとのたまい、あまつさえパワハラ扱いにするような人間は、ただの非常識だとは思いませんか?」


 我が校の学生の髪色は規定以内でなければならない、それだけです。と、上野は拾い上げた試験結果と一緒に、胸へ突き返してきた。


「……どうにか、なりませんか」
「くどい。三月までに部活動で結果を出すか、留年か。選びなさい」


 話は終わりだと言わんばかりに椅子を回し、デスクに向かった上野は、その後一切、こちらへ一瞥たりともくれることはなかった。





   *   *   *   *   *





 事情を話し終えると、嫌われてんねえあんた、と兎萌がスカートのの裾から手を離した。


「それで土曜日なのに制服着てたんだ。そういや、あんた何部だっけ?」
「帰宅部だよ。できるだけバイトをして、家に入れてた」


 年末年始の激務に忙殺されていたとはいえ、その自己管理ができずに凡ミスをかましたなんてことは、情けなくて言えなかった。


「よく出来た息子ですなあ。しかしまあ、帰宅部ってのはきついわね。部活に入るからには黒髪になるだろうし、結局、三月までじゃあ成績が残せないだろうから留年。留飲を下げたい目論みがまあ露骨なことで。葵も、ハーフなのは本当なんだから、もっと主張すればいいのに」
「はじめのうちは言ってたんだけど、それが校則だの一点張りでさ。染めねえでいることが唯一の抵抗だったんだけどな……」


 背を雪に沈めようとしたが、雪かきの過程で押し固められたそれは岩のように固くなり、まるで安い椅子のような心地の悪さだった。

 雪国生まれの人間だというのに、イギリスの血が入っているというだけで雪からも拒否されているようで、乾いた笑いが漏れる。こちとら英語もろくに喋れない純山形人だぞこのやろう。


「そういう偏見、うっざいよねえ……うちの業界も刺青問題があるけど、そもそも威圧してナンボのアウトローを押し込める文言も『規則だから』なのよ。日本には昔からそういう方々がいるから、なおさら印象を拭えないでいるんですって。だったらまず彫師を摘発したらいいじゃない。できないの? なんで? それが答えでしょ? って思うわよ、ホント」


 いやまあ私は刺青入れないけど、と兎萌は足下の雪を蹴飛ばす。


「うちのパパとママだってそう。私がキックを始めようとしたときには、『女の子が野蛮だ!』なんて騒いでさ。結果を出すようになった途端、手のひらくるっくるー」


 すぐ隣に、我が事のように頬を膨らませてくれる人がいるだけで、少し、胸のつっかえが取れたような気がした。


「まあ、そこはもうどうにもならないとして。優等生クン、部活の目途は立ってんの?」
「高校総体に向けて追い上げをしてる時期に、初心者を迎えてくれるところなんてねえよ。人数不足のところにも頭下げてみたけど、同好会のようなものだったり、大会に出ても結果を残せない弱小部だからって断られた」
「早速声はかけてみたんだ。偉いじゃん」
「結果が伴わなきゃ、徒労っていうんだよ」


 冷めきっていた豚汁を飲み干し、兎萌の分と重ねてゴミ箱に放り込む。いっそこのまま肩の荷も捨てていけたらいいのにと思ったが、生憎、祭り用の仮設ゴミ箱は一杯だった。

 さらに重く感じる現実に足を引きずりながら振り返ると、兎萌はぐるぐるバットのように松葉杖へおでこを押し当て、何やら難しい顔をしていた。

 けれど、話を聞いてもらえただけで、もう十分だ。


「つか、兎萌こそ制服じゃねえか。何か用事があるんだろ? じゃあ、俺は行くから」


 努めて明るく声をかけるも、どこか虚空を見つめた彼女から返ってくる言葉はない。

 沈黙数秒。もう返事は待たずに踵を返そうかとした時、不意に、兎萌が「うし!」と叫んだかと思うと、こちらに飛びつき、突然制服を捲って、隙間から体をぺたぺたと触りはじめた。


「ちょっ、何すんだよ!?」
「触ってんのよ」
「いやいや、そういう意味の質問じゃねえだろコレ!」


 反射的に振り払おうとしたが、実戦で鍛えられた彼女の力は、見た目の細さからは想像できないほどにどっしりとしている。掴んで引き剥がそうにも、するりと手首の返しだけで逃れていくのだから、まるで巨大なドジョウか何かとやり合っている気分だった。


「へえ、これが葵のカラダか。けっこうイイの持ってんじゃん」
「きゃー、やめてー!」
「こらこら、騒がない。私が不審者みたいになっちゃうでしょうが」
「今まさに自分が行っていることを文章に起こしてから、もう一度言えるか? なあ!?」


 必死に訴えると、兎萌はしょーがないなとむくれて見せて、ようやく手を離し――最後にへそに指を入れていく辺り、本当に抜け目のない奴だ。


「ねえ葵。こっからは私のお願いなんだけどさ。もうちょっとだけ付き合ってくれない? お母さんに残念な報告をしないで済むかもしれないよ」
「心配には及ばねえよ。クラスの女子から体をまさぐられたなんて報告、できるか」
「ごめんて、拗ねないでってば」


 丁寧に襟を整えてくれてから、彼女はふと、真剣な眼差しになった。星空にも似た、希望の光をいっぱいに宿した瞳が、じっとこちらへ向けられる。


「私が制服の理由、聞いてきたじゃない? 最初はさ、どうせ足がこんななら、いっそ、キックから離れて、今まで避けてきた……女の幸せ? 的な? ものを味わっちゃおうかなー、なんてさ。今日のお祭りでナンパでもするつもりだったの。うら若き女子高生ですよーって、制服チラつかせてさ。まあ、朝からぶらついて、収穫ゼロなんだけどね」

 嘘つきめ。どうせ誰にも声をかけていなかっただけだ。実際、自棄になりたい気持ちはあるのだろうけれど。
 さっきみたいな目をしたこいつが、諦めているだなんて、とても思えない。


「そして今、私はも~~~れつに、ナンパをしてみたい心境になりました!」
「……はい?」
「実は私、キックボクシングの部長という肩書があるんだよね。とはいっても、明日葉さんが卒業で抜けちゃってから、部員は私だけだけど。ええと、だから。その、つまり、さ――」


 まるで告白をするかのように、照れくさそうな顔で、こちらを見上げてくる。


「一緒にやろうよ。キック」


 吸い込まれた。体をまさぐられている時には痛いくらいだった衆人環視の冷ややかさも、すっかり意識の外になった。ただ、兎萌の視線だけを感じていた。

 遥か深いところできらめく星は、闘志という名前だと、理解した。父のような燃える空とも違う。母のような慈愛の海とも違う。戦士として獰猛にとぐろを巻きながらも、天の川のマーブル模様を繊細に形成する光子。それでいて、女の子であるという誇りを見失うことのない、きらきらした粉砂糖のラメを散りばめたような粒子。それらをぎゅっと凝縮した水晶だ。


 葵の中にあるわずかな野性が、勝てないと悟った。武力でも、人間としても。


「けど、迷惑じゃないか」


 辛うじて、そんな頓狂な言葉を絞り出す。


「むぅ、そういうの、無粋ぃ。そう思ってたら声なんてかけないってば。それに多分、これは恩返しだと思うから」


 彼女はふと、小声でそんなことを呟いた。


「えっ……?」
「んーん、こっちの話」


 けらけらと笑い飛ばしてから、兎萌はほっとしたように胸を撫で下ろしてから、また気恥ずかしそうに笑った。先ほどの強者の瞳が一転して、一人の女の子になっていた。


「三月までなんていらないわ。今月中で十分。葵と私で、先生たちの鼻を明かしてやりましょうよ! どう、私にノってみない?」


 そう言って、差し出された手を、


「ああ。よろしく頼む」


 取る。縋るようにではなく、相乗りのバディとして、しっかりと。

 正直なところ、後がない故に惑わされただけだったかもしれない。しかし、直感的に、こいつとならって、思ったから。

 ぎゅっと力の込めてくれた彼女の手は、腰が引けそうになるくらい柔らかくて、涙が出そうになるくらい、強かった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

それは最早身体の一部

ライト文芸 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:3

モルモット君とふわふわウサギさん

大衆娯楽 / 完結 24h.ポイント:426pt お気に入り:0

余命宣告

ライト文芸 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

桜が散る頃に

BL / 完結 24h.ポイント:731pt お気に入り:0

『腸活コーヒー』

ライト文芸 / 完結 24h.ポイント:937pt お気に入り:0

生存戦争!

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:262pt お気に入り:0

転生者ジンの異世界冒険譚(旧作品名:七天冒険譚 異世界冒険者 ジン!)

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:724pt お気に入り:5,498

迎えに来た宇宙人は、私を溺愛する諜報部員の恋人様

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:28pt お気に入り:5

怖い話ショートショート詰め合わせ

ホラー / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

処理中です...