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第一章 パンツとキックとドロップアウトボーイ
金髪と黒とキザ眼鏡
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「あ、黒――」
気がついたときには、川樋葵はパンツに顔面を蹴りつけられていた。
受け止めようと身構えてはみたが、横からおまけに飛んできた松葉杖に足を取られ、そのまま雪の上へと倒れ込む。
頬を挟むなめらかな感触は、筋肉の付きがよくて少し首が締まりそうである上に、スカートに顔を覆われたことで、絶対に息をしてはならない魅惑の香り空間。そんな生殺しの牢獄に閉じ込められた葵の思考回路は、このまま物理的にも社会的にも死んでしまうのではないかと、一抹の不安にぐるぐる渦を巻いていた。
「あー、いたたあ……」
週末の土曜日に担任教師から呼び出され、残酷な宣告を突き付けられただけでも気が滅入るというのに。夜の待ち合わせ時間まで気を紛らわせようと散歩した結果、女子高生のスカートの中に顔を突っ込むなど、泣きっ面に蜂もいいところである。今は冬だぞ、くそ。
「ごめん、大丈夫? ってあなた、川樋くん……よね?」
「ああ……いっそこのまま社会的に死ぬのもアリかなあ」
「はっ? ちょ、ちょっと。変なところ打っちゃった? ごめんね。ほんと、大丈夫?」
降って来た少女が手早く雪を払って、体を起こしてくれた。
「どっか痛くしてない?」
「えっ、ああ、うん。問題ねえよ」
葵はそう言うと、自分がひっかけたことで飛んで行ったらしい松葉杖が、歩道の縁に寄せられた雪の塊に突き刺さっているのを見つけ、引き抜いた。
少女に渡そうとしたところで、首を傾げる。
自分と同じ高校の、女子の制服。そして、松葉杖。
振り返ると、ほんっとごめんねと両手を合わせている、見覚えのある顔と、雪に濡れて乱れた長い黒髪。顔立ちは清楚系美少女のそれでありながら、下校時の服装は制服の上にジャージを羽織る、着崩したもの。
「お前、羽付か!」
葵は手を打った。彼女は羽付兎萌。クラスメイトだ。
「今っ更気付いたんかーい! 隣の席でしょうが、私ら!」
彼女は松葉杖を受け取るや否や、杖の先でターンッ! と地面に突いた反動を利用して、鋭い右のミドルキックをかましてきた。
内臓がこそげ取れたかと錯覚するような痛みが脇腹を襲う。かなり力を抜いているだろうことは分かるものの、それでも一般ピーポーには馴染みなんてあるわけがない。
「ごふっ……さ、さすが、『蹴り姫』……」
「蹴り姫言うなし。そのあだ名、あんまり好きじゃないのよね。かわいくないもん」
「そうか姫ってかわいくないのかー。じゃあ、元・天才キックボクサー?」
「元じゃないが! まだまだ現役よ」
羽付はつんと顔を逸らし、松葉杖にもたれた。
ハムスターのように膨らませた頬で主張する怒ってますアピールがどこか可愛らしくて、つい、葵の悪戯心が首をもたげる。
「そうかあ? 今さっきハイキックかまそうとして滑って転んだ奴が、現役ぃ?」
「そのおかげで私のパンツを拝めたんだから役得でしょーが」
「み、みみみ見てねえし!」
「ふうん? 『あ、黒』」
「申し訳ありませんでしたあああ!」
見事な返り討ちに玉砕した葵は、真っ赤になった顔を冷やすべく、雪へ頭が突っ込まんばかりに土下座した。
「まあ、いつもはトレパン穿いてるんだけど、怪我して練習どころじゃないからってテキトーこいてた私も悪いんだけどねえ。うりうり、頭が高いぞ、もっと伏せろー」
けらけらと笑いながら、松葉杖で周囲の雪を飛ばして追撃されるのを、慎んで受ける。
「ところで羽付さん」
「んー? なんだね変態さん」
「変態じゃねえし。当のハイキックかましそこねたお相手さんは、どうすんだ?」
立ち上がって、指をさす。
そこには、こちらのやり取りに置いてけぼりになりながらも、未だこの場を離れようとはしない、眼鏡をかけた青年がいた。男の自分から見ても整った顔立ちをしている。今日の祭にかこつけて女子高生を狙いに来たのだろうか。イケメンめ。
青年は眼鏡の端を挟むようにつまんで直し、挑発的に目を細めてきた。
「ああ、百目鬼くんのことを忘れてたわ」
「なんだ知り合いかよ。てっきりナンパかと」
「なーるほどねー。私を助けようとしてくれたんだ」
「べ、別にお前のためじゃねえから」
「はいはい。私と気が付かないでも駆け付けてくれたヒーローさんだもんねー? ま、実際アレは、ナンパみたいなもんだし、正解」
髪を指で梳きながらため息を吐いた羽付だったが、ふと、こちらを見てにやりとした。蹴りさえなければ美少女だなんて印象が一瞬にして吹き飛ぶような、悪魔的な笑みである。
まずいまずいまずい。俺はこの笑みを知っている。父が何かを企み、子供の自分をを巻き込んで何かをやらかした――後の、母の顔だ。とてもとても、写真写りが良さそうで。はい。
脳が打ち鳴らした警鐘に、葵は思わずたじろいだ。彼女が戦闘民族だということを、自分で言いながら失念していた。彼女は蹴り姫などという生ぬるいものではなくい。今目の前にあるのは、粉うことなき狩人である。
「ねえ、葵」
語尾にハートが付きそうな甘い声色の圧力に、葵はついに一歩も動けなくなった。
これは、逆らえば殺される。
「ナ、ナンデショウカ、羽付さん」
「やだなー、兎萌って呼んでって言ったじゃん?」
「は、はいぃ?」
おいおいおいおい、そんなこと言われた覚えはねえぞ!
返答に戸惑っていると、彼女は表情をそのままに、ドスの効いた低い声で囁いてきた。
「ぱ・ん・つ」
「なんでしょう兎萌様!」
「と・も・え」
「はいっ、なんでしょう兎萌……さん!」
「さん?」
「サーと言ったのでございます、サー!」
葵がぴんと背筋を正し、軍の訓練のように応答をすると、羽付も松葉杖を教鞭のように手で弄びながらよろしい、と満足げに頷いて、青年の方へと向き直った。
「と、いうわけなんで。あいつにはそう伝えておいてくれる?」
「僕の目には、たった今取り繕ったようにしか見えないんだけれどね? 高校生の分際で、そんなに明るい色の金髪をしたヤンキーなんて、品がないにも程がある。本当に君の趣味かい?」
「き、金髪ヤンキー……」
葵はがっくりと肩を落とした。言われる覚悟はしているが、こればかりは慣れることがない。
「だとしても問題ないでしょう? 今であれ数か月前であれ、髪の色がどうであれ、彼が私のカレ。どうせ今日はジムに寄るつもりはないし、どのみち待ってても無駄よ。しっしっ」
羽付が松葉杖で払うと、青年は苦い顔でこちらを一瞥し、大きな大きなため息で嘲笑ってきた。粉うことなき挑発に、葵はたまらず一歩進み出る。
「やめておきなさい」
杖で胸元を制される。優しい声色に足が止まりかけたが、しかし、
「――貴方じゃ彼には勝てない」
その一言に、葵を留まらせていた一線が掻き消えた。
「上等じゃねえの。それに、仮にも俺は彼氏なんだろ? 俺の髪はともかく、彼女のお前がコケにされてんのを、黙って見てられっかよ!」
「えっ、ちょ! だーもう、百目鬼くん!」
駆けだした葵を追い越していく羽付の叫びに、百目鬼は眼鏡の端を直し「分かっている」と呟くと、その腕を腰の後ろで組んだ。
「(舐めやがってチクショウ!)」
手を出す必要などないとでもいう風な気取った態度も大概腹が立つが、何より、羽付と一言で通じ合ったってのも気分が悪い。そう考えると、自分が一時的な彼氏役を求められている今の状況も、濁った底なし沼のように気味が悪い。
やるせなさを怒りに乗せて、拳を振りかぶる。しかし、青年がわずかに身じろぎしただけで避けられてしまった。ならばと放った振り返りざまの追撃・左ストレート――は、雪道に足を取られて鼻先すら掠めることもできない。それどころか、滑って膝を付いたこちらの眼前に、いつの間にか蹴り足が寸止めされている。
顔を上げると、百目鬼の底冷えするような視線に見下ろされていた。先ほどまでの理知的でクールにも見えた面影はない。彼もまた、戦闘民族特有の瞳の色をしている。
葵は百目鬼の靴を押しのけるようにして立ち上がり、がむしゃらに攻撃を繰り返した。しかし、結果は惨敗。こっちはつるっつるの路面に足を取られているというのに、奴の足はまるで地面に吸い付いているかのようで、滑る素振りさえない。
たまらず、尻もちをついた。
「この足場で、素人にしてはよくやったものだね」
「意地悪言わないであげてよ。彼は『最強の最弱』じゃないんだから」
兎萌の睨みも意に介さず、百目鬼は「また来る」とだけ言い残して、少し離れたところの路肩に停まっていた車の助手席へと乗り込んだ。
車が見えなくなるまであっかんべーなりガンフィンガーなりを連射していた羽付は、しばらく兎のように体を伸ばしてじっと警戒してから、やっと胸を撫で下ろす。
「付き合わせて悪かったわね。助かったわ」
差し出された手を、葵は握れずにいた。
「一発も、当たらなかった」
「そりゃそうよ。彼、県内の学生じゃあナンバーツーだもの」
「……そっか」
自力で立ち上がったものの、雪を払う気力もなかった。羽付の顔を見ることもできない。
よろよろと歩き出した葵は、しかし、首にがっちりと回された腕に捕まってしまった。
「まあまあ、待ちなさいな。どうせなら、このままもう少し付き合ってよ」
「ええ……」
身長差があるため、ぶらさがるようにじゃれついてくる羽付に、葵は気怠い声で抗議をする。
「いーじゃないのよう。今しがたナンパされた女の子を、彼ピは守ってくれないの?」
「あいつは知り合いなんだろ」
「つれなーい。ああそっか、今日はお祭りだもんね。もしかして、先約があった?」
「いや、約束自体は七時からだけどさ……」
うっかり口を滑らせてしまってから、拙い、と思った。こんなもの、陽が落ちるまでは暇だと自白しているようなものである。
いっそ振りほどいて逃げてしまおうかと、羽付の首根っこに手をかけた矢先。
彼女がトドメの一言を、そっと囁いた。
「さっきはパンツを『見た』ことで協力してもらったけれど……『顔を突っ込んだ』ことについての借りは、まだだよね?」
「女の子がパンツパンツ言うもんじゃありません!」
葵は観念して、歩き出したいたずらな笑顔に並ぶことにした。
こちらが付いてくることを横目に確認した羽付は、どこか嬉しそうに頬を緩める。
「それで、女子のスカートの中の感想は?」
「うるへー。次言ったら帰んぞ?」
「わーわー、ごめんって!」
気がついたときには、川樋葵はパンツに顔面を蹴りつけられていた。
受け止めようと身構えてはみたが、横からおまけに飛んできた松葉杖に足を取られ、そのまま雪の上へと倒れ込む。
頬を挟むなめらかな感触は、筋肉の付きがよくて少し首が締まりそうである上に、スカートに顔を覆われたことで、絶対に息をしてはならない魅惑の香り空間。そんな生殺しの牢獄に閉じ込められた葵の思考回路は、このまま物理的にも社会的にも死んでしまうのではないかと、一抹の不安にぐるぐる渦を巻いていた。
「あー、いたたあ……」
週末の土曜日に担任教師から呼び出され、残酷な宣告を突き付けられただけでも気が滅入るというのに。夜の待ち合わせ時間まで気を紛らわせようと散歩した結果、女子高生のスカートの中に顔を突っ込むなど、泣きっ面に蜂もいいところである。今は冬だぞ、くそ。
「ごめん、大丈夫? ってあなた、川樋くん……よね?」
「ああ……いっそこのまま社会的に死ぬのもアリかなあ」
「はっ? ちょ、ちょっと。変なところ打っちゃった? ごめんね。ほんと、大丈夫?」
降って来た少女が手早く雪を払って、体を起こしてくれた。
「どっか痛くしてない?」
「えっ、ああ、うん。問題ねえよ」
葵はそう言うと、自分がひっかけたことで飛んで行ったらしい松葉杖が、歩道の縁に寄せられた雪の塊に突き刺さっているのを見つけ、引き抜いた。
少女に渡そうとしたところで、首を傾げる。
自分と同じ高校の、女子の制服。そして、松葉杖。
振り返ると、ほんっとごめんねと両手を合わせている、見覚えのある顔と、雪に濡れて乱れた長い黒髪。顔立ちは清楚系美少女のそれでありながら、下校時の服装は制服の上にジャージを羽織る、着崩したもの。
「お前、羽付か!」
葵は手を打った。彼女は羽付兎萌。クラスメイトだ。
「今っ更気付いたんかーい! 隣の席でしょうが、私ら!」
彼女は松葉杖を受け取るや否や、杖の先でターンッ! と地面に突いた反動を利用して、鋭い右のミドルキックをかましてきた。
内臓がこそげ取れたかと錯覚するような痛みが脇腹を襲う。かなり力を抜いているだろうことは分かるものの、それでも一般ピーポーには馴染みなんてあるわけがない。
「ごふっ……さ、さすが、『蹴り姫』……」
「蹴り姫言うなし。そのあだ名、あんまり好きじゃないのよね。かわいくないもん」
「そうか姫ってかわいくないのかー。じゃあ、元・天才キックボクサー?」
「元じゃないが! まだまだ現役よ」
羽付はつんと顔を逸らし、松葉杖にもたれた。
ハムスターのように膨らませた頬で主張する怒ってますアピールがどこか可愛らしくて、つい、葵の悪戯心が首をもたげる。
「そうかあ? 今さっきハイキックかまそうとして滑って転んだ奴が、現役ぃ?」
「そのおかげで私のパンツを拝めたんだから役得でしょーが」
「み、みみみ見てねえし!」
「ふうん? 『あ、黒』」
「申し訳ありませんでしたあああ!」
見事な返り討ちに玉砕した葵は、真っ赤になった顔を冷やすべく、雪へ頭が突っ込まんばかりに土下座した。
「まあ、いつもはトレパン穿いてるんだけど、怪我して練習どころじゃないからってテキトーこいてた私も悪いんだけどねえ。うりうり、頭が高いぞ、もっと伏せろー」
けらけらと笑いながら、松葉杖で周囲の雪を飛ばして追撃されるのを、慎んで受ける。
「ところで羽付さん」
「んー? なんだね変態さん」
「変態じゃねえし。当のハイキックかましそこねたお相手さんは、どうすんだ?」
立ち上がって、指をさす。
そこには、こちらのやり取りに置いてけぼりになりながらも、未だこの場を離れようとはしない、眼鏡をかけた青年がいた。男の自分から見ても整った顔立ちをしている。今日の祭にかこつけて女子高生を狙いに来たのだろうか。イケメンめ。
青年は眼鏡の端を挟むようにつまんで直し、挑発的に目を細めてきた。
「ああ、百目鬼くんのことを忘れてたわ」
「なんだ知り合いかよ。てっきりナンパかと」
「なーるほどねー。私を助けようとしてくれたんだ」
「べ、別にお前のためじゃねえから」
「はいはい。私と気が付かないでも駆け付けてくれたヒーローさんだもんねー? ま、実際アレは、ナンパみたいなもんだし、正解」
髪を指で梳きながらため息を吐いた羽付だったが、ふと、こちらを見てにやりとした。蹴りさえなければ美少女だなんて印象が一瞬にして吹き飛ぶような、悪魔的な笑みである。
まずいまずいまずい。俺はこの笑みを知っている。父が何かを企み、子供の自分をを巻き込んで何かをやらかした――後の、母の顔だ。とてもとても、写真写りが良さそうで。はい。
脳が打ち鳴らした警鐘に、葵は思わずたじろいだ。彼女が戦闘民族だということを、自分で言いながら失念していた。彼女は蹴り姫などという生ぬるいものではなくい。今目の前にあるのは、粉うことなき狩人である。
「ねえ、葵」
語尾にハートが付きそうな甘い声色の圧力に、葵はついに一歩も動けなくなった。
これは、逆らえば殺される。
「ナ、ナンデショウカ、羽付さん」
「やだなー、兎萌って呼んでって言ったじゃん?」
「は、はいぃ?」
おいおいおいおい、そんなこと言われた覚えはねえぞ!
返答に戸惑っていると、彼女は表情をそのままに、ドスの効いた低い声で囁いてきた。
「ぱ・ん・つ」
「なんでしょう兎萌様!」
「と・も・え」
「はいっ、なんでしょう兎萌……さん!」
「さん?」
「サーと言ったのでございます、サー!」
葵がぴんと背筋を正し、軍の訓練のように応答をすると、羽付も松葉杖を教鞭のように手で弄びながらよろしい、と満足げに頷いて、青年の方へと向き直った。
「と、いうわけなんで。あいつにはそう伝えておいてくれる?」
「僕の目には、たった今取り繕ったようにしか見えないんだけれどね? 高校生の分際で、そんなに明るい色の金髪をしたヤンキーなんて、品がないにも程がある。本当に君の趣味かい?」
「き、金髪ヤンキー……」
葵はがっくりと肩を落とした。言われる覚悟はしているが、こればかりは慣れることがない。
「だとしても問題ないでしょう? 今であれ数か月前であれ、髪の色がどうであれ、彼が私のカレ。どうせ今日はジムに寄るつもりはないし、どのみち待ってても無駄よ。しっしっ」
羽付が松葉杖で払うと、青年は苦い顔でこちらを一瞥し、大きな大きなため息で嘲笑ってきた。粉うことなき挑発に、葵はたまらず一歩進み出る。
「やめておきなさい」
杖で胸元を制される。優しい声色に足が止まりかけたが、しかし、
「――貴方じゃ彼には勝てない」
その一言に、葵を留まらせていた一線が掻き消えた。
「上等じゃねえの。それに、仮にも俺は彼氏なんだろ? 俺の髪はともかく、彼女のお前がコケにされてんのを、黙って見てられっかよ!」
「えっ、ちょ! だーもう、百目鬼くん!」
駆けだした葵を追い越していく羽付の叫びに、百目鬼は眼鏡の端を直し「分かっている」と呟くと、その腕を腰の後ろで組んだ。
「(舐めやがってチクショウ!)」
手を出す必要などないとでもいう風な気取った態度も大概腹が立つが、何より、羽付と一言で通じ合ったってのも気分が悪い。そう考えると、自分が一時的な彼氏役を求められている今の状況も、濁った底なし沼のように気味が悪い。
やるせなさを怒りに乗せて、拳を振りかぶる。しかし、青年がわずかに身じろぎしただけで避けられてしまった。ならばと放った振り返りざまの追撃・左ストレート――は、雪道に足を取られて鼻先すら掠めることもできない。それどころか、滑って膝を付いたこちらの眼前に、いつの間にか蹴り足が寸止めされている。
顔を上げると、百目鬼の底冷えするような視線に見下ろされていた。先ほどまでの理知的でクールにも見えた面影はない。彼もまた、戦闘民族特有の瞳の色をしている。
葵は百目鬼の靴を押しのけるようにして立ち上がり、がむしゃらに攻撃を繰り返した。しかし、結果は惨敗。こっちはつるっつるの路面に足を取られているというのに、奴の足はまるで地面に吸い付いているかのようで、滑る素振りさえない。
たまらず、尻もちをついた。
「この足場で、素人にしてはよくやったものだね」
「意地悪言わないであげてよ。彼は『最強の最弱』じゃないんだから」
兎萌の睨みも意に介さず、百目鬼は「また来る」とだけ言い残して、少し離れたところの路肩に停まっていた車の助手席へと乗り込んだ。
車が見えなくなるまであっかんべーなりガンフィンガーなりを連射していた羽付は、しばらく兎のように体を伸ばしてじっと警戒してから、やっと胸を撫で下ろす。
「付き合わせて悪かったわね。助かったわ」
差し出された手を、葵は握れずにいた。
「一発も、当たらなかった」
「そりゃそうよ。彼、県内の学生じゃあナンバーツーだもの」
「……そっか」
自力で立ち上がったものの、雪を払う気力もなかった。羽付の顔を見ることもできない。
よろよろと歩き出した葵は、しかし、首にがっちりと回された腕に捕まってしまった。
「まあまあ、待ちなさいな。どうせなら、このままもう少し付き合ってよ」
「ええ……」
身長差があるため、ぶらさがるようにじゃれついてくる羽付に、葵は気怠い声で抗議をする。
「いーじゃないのよう。今しがたナンパされた女の子を、彼ピは守ってくれないの?」
「あいつは知り合いなんだろ」
「つれなーい。ああそっか、今日はお祭りだもんね。もしかして、先約があった?」
「いや、約束自体は七時からだけどさ……」
うっかり口を滑らせてしまってから、拙い、と思った。こんなもの、陽が落ちるまでは暇だと自白しているようなものである。
いっそ振りほどいて逃げてしまおうかと、羽付の首根っこに手をかけた矢先。
彼女がトドメの一言を、そっと囁いた。
「さっきはパンツを『見た』ことで協力してもらったけれど……『顔を突っ込んだ』ことについての借りは、まだだよね?」
「女の子がパンツパンツ言うもんじゃありません!」
葵は観念して、歩き出したいたずらな笑顔に並ぶことにした。
こちらが付いてくることを横目に確認した羽付は、どこか嬉しそうに頬を緩める。
「それで、女子のスカートの中の感想は?」
「うるへー。次言ったら帰んぞ?」
「わーわー、ごめんって!」
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