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第三章 Don't Think, Feel.

〈7〉修行(前編)

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 姫芽香は刀子に導かれるまま、参道を登っていた。李桃たちが最初に曲がった道を、そのまま進んだルートである。

 防具袋を背負っている自分の隣には、刀子から渡された細長い桐箱を抱えた凛が並んで歩いている。徐々に、違和感が形になってきた。
 刀子は防具の類を持っていないのだ。何をするつもりなのだろうか。渦巻く疑念にせっかちになるわけにもいかず、姫芽香は唇を引き結んで稽古の時を待つことにした。

 凛の顔を窺うと、疲れの色が見える。三十分以上は歩いただろうか。仁王門をくぐって暫く進むと、刀子は参道を左の方向へと向かった。右側に向かえば、高さ五メートルにも及ぶ黄金の阿弥陀如来像を安置した奥の院がある。
 左の道の先には、立石寺の祖・慈覚大師円仁を祀った開山堂や、堂内で最も古い、写経が納められた納経堂とがあるが、刀子の足はどちらにも向かわなかった。

「着きました」

 おっとりと告げられた場所は、断崖に突き出した五大堂だった。清水の舞台に匹敵すると言っても過言ではない、山寺を一望できる道場である。
 板張りの床の中央まで進み出た刀子は、凛に桐箱を開けるよう指示する。

「姫芽香さんたちの剣風は伺っています。ですので、私からはこんなものを用意してみました」

 桐箱の中には、黒の革袋が二つ入っていた。居合刀を仕舞うためのものだ。
 彼女は一振りを袋から出して、刀を改めてから帯に差す。姫芽香も倣って、袋から刀を取り出した。その瞬間、持った感触だけで、自分がこれからどんな稽古をすることになるかを察してしまった。波がうねるような鍛え肌の刀身に、刀を改める手が震える。

「綾杉肌……これは、出羽の月山派。おそらく、月山貞利氏の作品でしょうか」
「ちょっと、刀匠月山って言ったら真剣じゃない……お母さん、何をする気!?」

 姫芽香の呟きに、凛が弾かれたように叫ぶ。
 対する刀子は、澄んだ水のように、静かに目を閉じていた。

「無論、真剣で立ち合うのです。居合と剣道は似ていても、あくまで非なるもの。この合宿を通して、姫芽香さんには、夢想宿神流の神髄を感じていただきます」
「いやいや、こんなの危険なんてものじゃない! そもそもこの場所だって、落ちたら――」
「いえ。大丈夫よ、凛」

 親友が叫んでくれた苦言を、ぴしゃりと打ち切る。

「敵は殺人剣の使い手……私自身が真剣を振るい、刀が人を殺す道具だと心の底から理解した上でなければ、それを超える活人剣など語れないわ」

 まだ覚悟ができているわけではないが、逃げる訳にもいかなかった。
 道場の上で間合いを取り、互いに礼をして構える。

「さあ、参られませ」
「やあああああああああっ!」


 従うままに踊りかかった一太刀目。しかし姫芽香は、刀を振り下ろす直前で目を剥いた。
 刀子が微動だにしないのだ。このままでは、彼女の肩を確実に切り落としてしまう。やっとの思いで肘から先を強張らせ、寸前で刀を止めることに成功した。

「――っ!?」

 しかし、安堵するのも束の間。視界の端でうねりを帯びた銀光だけを判断材料に、姫芽香は反射的に足を蹴った。
 間合いを切ると、はらりと前髪の端の方が舞い落ちる。躱したか。ああ、躱せた。
 うら若き女子の命である髪を失ったことなど些細な事。あのまま留まっていれば、頭が瞼の上の高さで輪切りにされ、脳症を撒き散らして絶命していた。

 本気だ。そう理解した途端に、肺が過呼吸を始める。今更になって、膝がたがたと震えだす。

「なぜ、止まったのです?」

 鋭利な切っ先を向け、冷酷な眼差しで射抜いてくる刀子に、姫芽香は紡ぐ言葉を見失った。
 ああ、今まで自分は、剣の道にいながら、どれほど温い世界に生きていたのだろうか。
 人を殺すかもしれないということが、自分が殺されるかもしれないということが、こんなにも心臓を潰されるような、逃げ出したいものだったなんて。

「来ないのならば、こちらから参ります」
「もうやめてよ、お母さん!」

 割って入ろうとする娘を寸前への斬り払いで竦ませた刀が、こちらの正面で振り被られた。
 姫芽香は首を捻って躱そうとして、直後に横っ飛びする。これは面への攻撃などという生易しいものではないのだ。形振り構わず、文字通りに転がって逃げる。転がった身体が手すりの間を支える柱にぶつかったことで、自分が危うく五大堂から落ちるところだったと気づく。

 転がった先で確認すると、道着の袖口が切り落とされていた。あとほんの少しでも遅ければ、肩から先が無くなっていただろう。

「仮にこれが竹刀だとしても、防具に頼ってはいけません。防具とは鎧ではないのです。あくまで、稽古をする上での怪我を防ぐための道具に過ぎない。解りますね?」
「は……はい……」
「感じるのです、姫芽香さん。心の目で観た敵を。心の耳で聴いた刀の声を」

 姫芽香はすでに全身が冷や汗に塗れていた。心の目どころか、見の目すら恐怖にぼやけている。心の耳は、命の危険を打ち鳴らす鼓動で麻痺している。

 これが、モモちゃんが千葉さんに感じていた恐怖の淵なの……?

「もう一本……お願いします!」

 知らなければならない。打ち克たなければならない。姫芽香は歯を食いしばり、もつれる足を必死にもがいて立ち上がった。





 * * * * * *





 山道を歩いていた瑠璃は、口を大きく開けた顔ような天狗岩の前を通り過ぎた。辺りに木漏れ日が差してはいるが、どうにも落ち着かない薄暗さがある。夏場ならばもっと湿気があったのだと思っても、気休めにしかならない。

 前方を歩く美由紀が、本来の登山ルートを逆に歩いているんだと話してくれたが、話半分だった。正直、二度と来ないという自信がある。
 木製の階段で整備された道を登りきったところで、急に視界が開けた。

「山の中なのに、随分と広いところですね……」

 落葉で敷き詰められた足場はやけに平らなことに驚く。左手は山、右手は山の木々に挟まれ、奥の方には屏風のような岩がそそり立っている。

「ええ。ここは修験場なのよ」
「なるほど、それで足場が平らなんですね」
「もう少し行けば『もう一つの山寺』と呼ばれる本院の跡地があるのだけれど、そこに何が残っているか分かる?」
「本堂跡地ですと……記念碑とか、でしょうか」
「んー、惜しい。そこには、跡地を供養するための五輪塔を祀った祠があるのよ。宮本武蔵とは関係のない場所だけれど、五輪の書の『五輪』とは一致する。あなたの二刀流を昇華させるなら、名前くらいあやかってみるのもいいんじゃないかしら?」

 からかうように微笑みながら、美由紀は広場の前に立つ看板を小突いた。

「さらに、毘沙門天のご加護付き」

 瑠璃も促されて看板を覗き込むと、そこには『修験場跡・毘沙門天岩』と書かれていた。どうやら背後の大岩が毘沙門天岩といわれているらしい。

「左に男岩、奥に女岩、広場を下りれば胎内くぐり……」

 読み上げながら、瑠璃はぼっと顔が熱くなるのを感じた。これは宗教的なものであって、決して淫らに考えてはいけないということは、頭では分かっているつもりだった。
 しかし看板にはご丁寧に『男岩(男根)』『女岩(女陰)』『胎内くぐり(産道)』と括弧書きで補足されてくれているのだから、初心な心はどうしてもから騒ぎしてしまう。

 横目で美由紀を盗み見るが、同じく看板を読んでいるはずの彼女は平然としていた。

「ん? どうかした?」
「い、いえっ! あの、ただ、この男岩とか女岩が祀られている理由がよく解らなくて……」
「ああ、陰陽信仰の象徴ね。二刀とは対。対とは陰陽。おあつらえ向きじゃない」

 さらっと言われても何がどういうことか飲み込めない瑠璃をよそに、美由紀は「さあ、始めるわよ」と防具袋を開け始めてしまう。

 面を着けてから、二人は修験場の中心で向かい合った。

 先手必勝。まずは自分の得意技で行こうと、瑠璃は大刀を美由紀の竹刀へと絡める。後は小刀で、力の脆い部分を引っかければディスアームの完了だ。
 しかし、絡め取ったはずの竹刀が、半月を描くように柔らかく、こちらの手を逃れていた。

「……えっ?」

 気がついた時には時すでに遅く。瑠璃は喉元を突かれて尻餅をついた。

「あなたの得意技だったわね。でも、私に同じ技は通用しないわよ。見たものも然り、ね。だから『慧眼』なの。――さあ、二本目よ」

 開始位置へ戻っていく美由紀の背中に動揺しながら、立ち上がる。二週間前の練習試合で、たった一度見せたディスアーム。あれだけで、原理を看破したというのか。
 さらに彼女は、こちらの落胆にふらつく足まで見破ったらしい。

「気にすることないわ。実はね、剣道にも巻き上げや巻き落としと呼ばれる、相手の竹刀をコントロールする技があるのよ」

 笑いかけられても素直に頷けなかった。むしろ、悔しさが増していたかもしれない。
 負けたくない。瑠璃は開始位置に戻ると、構え直した。

「やあああっ!」

 ディスアームを諦めて攻撃へ移行する。まずは牽制の小刀を差し向けるが、敵の竹刀を弾こうとわずかに手首を返した瞬間、小手を打たれてしまう。

「あら、小刀だけで攻めるの? 大刀は置いてきたのかしら」
「もう一本お願いします!」

 考えてみれば、小刀が牽制、大刀がトドメという流れは、紅葉が話していた『日本式二刀流』のセオリー。そうであれば、当然これまでに『慧眼』も研究しているはずである。
 ならばと選んだのは、最初から大刀を振り下ろす一撃。二刀流の大刀は上段の構えをとったときのように頭上へ掲げているため、小刀を警戒して視線が下がりがちの敵にも効果的だろう。

 だが、今度は竹刀を振り下ろすことすらできなかった。
 いつの間に間合いを詰めていた美由紀は、瑠璃が左手に振り被った大刀の柄尻に、ぴったりと剣先を合わせていたのだ。

 まるで二つの竹刀が一本になったかのように、押そうが引こうが逃がしてくれない。こねくり回された挙句、ついに瑠璃は転倒させられてしまった。

「今度は小刀が行方不明。大変ね、山での遭難は一苦労するわよ?」
「くっ……」

 冷笑の挑発に歯噛みする。一体、どこまで見破られているのか。
 これが、かの伝説世代の力。『慧眼』のずば抜けた対応力に、瑠璃は動けなくなっていた。
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