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第三章 Don't Think, Feel.

〈6〉伝説

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 十分後。部屋に荷物を置いた李桃たちは、道着へと着替えて旅館の前に集合していた。

「昨日話したとおり、臨時コーチに指導してもらう。お前たちの剣は少々特殊だし、オレはほとんど李桃の相手にかかりきりになるからな」

 同じく道着に着替えていた紅葉が、二つの列の間に立っている。
 列は、李桃たちからなる伊氏波高校剣道部の五人と、その目の前に五人。紅葉は二列の間に立っているため、総勢十一人だった。李桃たちと向かい合う面子の中には、東沢高校の主将、林崎凛の姿もあった。

「稽古の組み合わせを伝えるついでに、自己紹介も済ませてしまおう。まず、李桃はオレとだ」
「はいっ!」

 ついに合宿が幕を開ける。引き締まる気持ちに、李桃の返事も勢いがあった。

「姫芽香には林崎刀子とうこ先生に来ていただいた。お前は面識あるな?」
「はい。居合を学ばせていただいていますので」

 指し示されたのは、凛の隣に立つ妙齢の女性。おだやかで腰の低そうな彼女は、苗字から分かるとおり、凛の母親である。

「娘たちがお世話になっております。ふふ、こんなおばさんでもいいのかしら?」

 ぽやぽやと柔らかい口調で頬に手を当てる刀子を、紅葉が「何をおっしゃいますやら」と困ったように持ち上げた。さすがに年の功には勝てないのだろう、たじたじである。

「そして、見取り稽古をしたいという本人の希望で、娘さんにサポート役を務めてもらう」

 紅葉に促されて、凛が進み出た。

「みんな、久しぶり。一週間、お世話になります」
「こちらこそ。よろしく、凛」

 姫芽香も前に出て、握手を交わす。
 組み合わせで一対二になるのは姫芽香だけ。残るのは、それぞれの目の前に立つ剣士たちの風格に固唾を飲んでいる瑠璃たちだ。

「瑠璃は美由紀とだ。東沢との練習試合で会ったから、顔は知ってるな」
「は、はい。よろしくお願いします!」

 相手が『慧眼』と呼ばれていたことを知っているせいか、声が裏返る。一方の美由紀は、その場から「よろしく」と軽く挨拶するだけで、堂々としていた。

「次は翡翠。お前には、彩羅についてもらう。オレや美由紀と同じ国体選抜選手として一緒に戦った奴でな、通称は『妙音の彩羅』だ。刀子先生の娘さんでもある」
「こんにちはあ。林崎彩羅でえっす」

 進み出た女性は前かがみになり、目の横でピースサインを作ってみせた。ぴょんと跳ねた一つ結いの髪は、母親と似ても似つかない快活さがある。凛も含め、父親似なのだろうか。

「聞いたよん。この間、凛たちのチームに圧勝だったんだってえ?」
「ぐさっ!?」
「何でも一年生の子にストレエト負けしちゃったとか! もうお姉ちゃん悲しいわあ」
「ぐさぐさっ!?」

 彩羅が言葉の棘を発する傍から、直撃を受けた凛が胸を押さえて仰け反っている。

「……彩羅。妹を弄るのもいいが、次に行ってもいいか?」

 見かねた紅葉が話を切った。コレが一番厄介だったのだ。それは共通認識だったようで、美由紀と、もう一人咲の前に立つ巨体の女性までもが、呆れたように他人のふりを装っている。

「んもう、仕方ないわねえ」

 当の彩羅本人も軽い調子で、悪びれた様子もない。

「咲は真澄についていけ。同じく国体メンバーで、『不動の最澄さいちょう』と呼ばれていた」
最上もがみ、真澄だ」

 紹介されて、ずいと一歩詰めてきた巨体に、咲が首を縮めた。

「お、お願いします……」
「うむ。拙こそよろしく頼む」

 真澄と呼ばれた女性は風貌こそ威圧感があるが、その細くした目には温かみがあった。

「ねぇ紅葉センセー、名前が『ますみ』なのに、どうして『さいちょー』なんですか?」

 ふとした疑問に、翡翠が挙手をする。

「ああ、こいつはこの辺りの生まれなんだよ。んで……なんだっけ? 単に名前を略したわけじゃなかったよな」
「うむ。ここ宝珠山立石寺は、天台宗でな。立石寺自体は円仁が開いたのだが、天台宗開祖の最澄にあやかってつけられたのだ」

 真澄はそこまで言ってから、ふえーっと感心している李桃たちに気づいて、気まずそうに視線を逸らした。ほのかに、頬を赤らめて、もごもごと言い淀んでいる。

「……もっとも、拙の家は日蓮宗なのだが」
「おいおいそれは初耳だぞ!?」

 十年間明かされなかった衝撃の事実に、紅葉たちが飛び上がった。

「そうよ。だったらそんな二つ名否定しなさいよ!」
「あははっ。相変わらずだよねえ、ますみんは」
「う、うむ。すまない」

 指で頬を掻きながら詫びる真澄を、李桃たちはどこかほっこりした気持ちで見つめていた。
 『伝説世代』と呼ばれた元国体選抜選手の中で、彼女が一番女の子らしいのかもしれない。

「……まぁいい。組み合わせは以上だ。稽古の場所や方法はそれぞれコーチに一任する。山の中だから遅い時間まではできないだろうが、とりあえず、十八時にはここに戻ってくるようにしよう。各自準備が整い次第取り掛かってくれ、解散!」


 紅葉の号令に続いて上がった快活な返事が、山寺の青い空へと吸い込まれていく。





 * * * * * *





 稽古場所に向かうと言う紅葉の後に続いた李桃だったが、早くも音を上げかけていた。

「ふぇえ……ほ、本当に山の中でするんですか?」
「ああ、そうだ」

 もう先ほどから、何度声をかけても淡白な返事しかもらえていない。
 はじめは、駅前から少し進んだところに、立石寺へと上る石段が見えた。思えば、ここで紅葉が道を曲がったところから、疑問に思うべきだったのかもしれない。そのまま山形と宮城を繋げる仙山線の線路沿いに進み、あれよという間に登山口に入ってしまった。

――稽古の場所や方法はそれぞれコーチに一任する。

 確かに紅葉はああ言った。だが常識的に考えて、なんらかの道場や体育館、さらに具体的に言えば来る途中にあった小中合併校の敷地を借りるのだと思うだろう。
 まさか、文字通り山の中だったとは。
 いくつもの看板や大岩を素通りしたある時、ようやく紅葉の方から声をかけられた。

「喜べ。あと百メートルちょっとだぞ」

 喜べなかった。この険しい山道で、単純な距離の数字を信じられるわけがない。
 苦い顔をしながら紅葉が示す木の柱を覗き込むと、向かう先へと続く道は『垂水不動尊』と書かれている。山奥にある不動尊。こと山形県には『滝不動』という有名な心霊スポットが上山市にあると耳にしたことがある。そんなホラーめいた雰囲気を醸し出す字面に震えていると、ぐふー、ぐふーと、足下で人ならざるモノの息遣いが聞こえた。

 恐る恐る視線を落とすと、両の手でも余るほどの大きさを持つ、黒光りしたアイツがいた。近所の田んぼで見ることはあるし、夜になれば合唱も聞こえるのが山形の風物詩ではあるが。

「いやああっ、でっかいヒキガエルぅぅぅ!?」

 ここまで大きな個体は見たことがなく、李桃は悲鳴を上げて跳び上がる。自然は恐ろしい。

「おいバカ、急に走るな。死ぬぞ」
「ひぃぃぃぃぃんっ!?」

 紅葉から首根っこを掴まれ、泣く泣く戻ることにする。初日にして、もう帰りたかった。

「ぜぇ……ぜぇ……死ぬって……どういうことですかぁ?」
「ああ。あっちは『城岩七岩』と言って、山肌に突き出した岩が、反対側から見ると城壁に見えるという修行兼登山コースだ。それぞれの岩から眺める景色は綺麗だが、なんせ手すりがなくてな。お前みたいにちょろちょろしてると落ちて死ぬぞ。冗談抜きに」
「ふぇ、ふえぇぇぇえええっ!?」

 悲鳴が木々に反響して霧散する。ほんに、自然は恐ろしい。
 紅葉の背負う防具袋を掴みながら、縋るようについていくと、やがて開けた場所に出た。

 サンゴ礁のようにぼこぼこと穴があいた、乳白色の岩壁。地面に近いところの岩であれば、道中の岩々と同様に苔や草が生しているのだが、そびえる白壁だけはほぼ緑色がない。岩を彫っただけの簡易的な階段の上には、木の鳥居が見えた。
 まるで海の中にあった土地が山の上に飛んできたような、神秘的で異様な空間である。

 紅葉はその奥へとすり抜け、お不動様の前で荷物を下ろした。赤い塗装の鉄柵の向こうは滝なのだろうが、水はわずかに垂れている程度だった。

「よし、ここで稽古にしよう。正真正銘、山寺の最奥だ」
「大丈夫なんですか、これ。怒られたりするんじゃ……」

 倣って防具と竹刀を置きながら、上目遣いに訊ねる。

「良い子は真似しちゃ駄目だろうな。もっとも、この辺りまで来る人はほとんどいないだろ」
「いや、あの、神様たちに……」
「ぷっ、ははは。そう思うなら、真摯な気持ちで稽古をしろ」
「ふ、ふぁい……」

 上手く言い包められたような気もするが、従うしかないだろう。
 紅葉からはまず竹刀を置いてこいと言われたため、無手で向かい合う。開けた場所とはいえ、それは登山道と比較しての話である。うっかりすれば、転落しても不思議ではなかった。

「さて。ここであまりごちゃごちゃした知識を教えてもアレだしな。お前には、剣道と截拳道で異なる要素から二つだけ、徹底的に意識してもらう」

 そう言って紅葉は、右半身に構えた拳を放って見せた。

「まずはパンチ・ファースト。腰から出ろと教えられる剣道とは違い、截拳道では常に手が先でな。手が当たってから、踏み込み足が着地する。フックなんかを打つ時はヒップ・ファーストとも言われるが、手が最初であることは常に変わらない」

 しゅっという呼気とともに繰り出される拳は、生き馬の目を抜くが如く。まるで、映画に見たブルース・リーの再来のようだった。
 そんな紅葉の構えや攻撃動作に、李桃があっと声を上げる。それは、前もって剣道と截拳道が似ていると聞いていたからこそ目に留まったものなのかもしれない。

「構え、似てますね……。左足の踵は浮かせてるし、足の間隔も同じくらいだし。もしかして、右拳は相手の顔に向けてますか?」

 挙げられた要素に、紅葉は眉を上げた。

「そうだ、よく気づいたな。竹刀の延長線で相手の喉や左目を狙うように、截拳道では縦拳が相手の顔を捉えている。だからこそ、左足の蹴り、腰や肩の旋回、腕の伸び、これらを同時に行うだけで、高速かつ強烈な力が乗るんだ。構えていれば出すだけでいい、簡単だろう?」
「い……今のところは」

 李桃は曖昧に頷く。理屈では理解していても、まだ初心者。自信は無かった。
 おいおい解るさと手を振って、紅葉は続ける。

「次にフォーリング・ステップ。これは剣道にはない概念だな。截拳道の攻撃概念がストレート・リードなんて呼ばれるものだから、ついつい直線的なものと思い込みそうになるが、そうじゃない。攻撃は微妙に放物線を描くんだ。分かるか?」

 言いながら、紅葉は攻撃を繰り返している。スローで見せてくれるという加減はないらしい。

 目を皿のようにして、一挙手一投足をつぶさに観察すること数回。
 李桃は何度目かの攻撃の後でようやく、突き出された拳の高さが、瞬間的なインパクトを終えて若干下がっていることに気がついた。しかし、何故だ。空手の正拳突きのような技では、びしっと打った姿勢で止まっているものである。

 その疑問は、見よう見まねでやってみたことで解決した。

「あっ、踏み込み足!」
「正解だ。後から着地する右足で、重力を利用した最後の力を放つんだ。よく、標的の向こう側を狙って突け、なんて言われるが、ただ腕を突っ張らせたところでろくな衝撃は与えられない。それだけじゃないぞ。これがなければ、攻撃後のフットワークの即時性が落ちるんだ」
「攻撃の後のフットワーク……剣道でいう『残心《ざんしん》』ですね」

 なるほど、と手を打つ。剣道と截拳道は、動きこそ違えど、意図するところは同じようだ。
 剣道の有効打突において、一般的には『気剣体一致』と略される。充実した気勢、正しい刃筋、適正な姿勢の三つだ。しかし、これだけでは足りない。有効打突の定義には『残心あるものとする』という明確な一言が添えられている。

 残心とは『打突した後にも油断せず、相手のどんな反撃にも対応することができる身構え、心構え』のこと。截拳道の概念に照らし合わせれば、パンチを打つだけで満足することなく、その後に着地した足でもって、相手の反撃に対応できる態勢を整えろということなのだろう。

「まずはこれをやっていこう。合宿中は、これと面をつけての稽古を交互にやっていくぞ」
「はいっ!」

 こうして、霊験あらたかな秘境での稽古――もとい、修行が始まった。
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