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第三章 Don't Think, Feel.
〈4〉再起
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今日の稽古が急遽休みとなったことを受けて、帰宅組は、学校から天童駅までの道を少し外れたところにある和菓子店『腰掛庵』へとやってきていた。帰宅組の中でも、普段は電車通学をしていない姫芽香も同伴である。
学校を出る次点で電話をかけた際に「お気をつけてお越しくださいませ」と添えられたことが礼儀や冗談からの言葉ではないと思えてしまうほど、車一台すら満足に通ることが難しい、舞鶴山麓のやや奥まった細道を抜けた、お世辞にもアクセスの良いとはいえない場所にある。
しかし、時期によっては平日でも県内外の客で混雑する大人気店なのだ。帰宅組もそれを覚悟していたが、完全予約制という規制が敷かれるまでには辛うじて猶予があったらしい。
入口で靴を脱がねばならないことに驚きながら、無事に店内の喫茶スペースへとたどり着いた四人は、ほっと一息をついた。
言うまでもないが、別に彼女たちは、李桃を差し置いて甘味処へと遊びに来たわけではない。
「んー、ほわっほわのとろっとろー……」
この店の看板メニューであるわらび餅を頬張った瞬間、翡翠の顔が蕩けた。
黒文字を口にくわえたままで頬に手を当て「ああぁ、しあわしぇだぁー」と腰をくねらせている彼女に、対面から、ほうじ茶のお代わり用急須を弄っていた咲の半眼が向けられる。
「翡翠、モモみたい」
「えっ、ホント!? そんなに似てたー?」
「まったく……他にもお客様もいらっしゃるのだから、静かに食べなさい」
「はーい。でもさ、ヒメっちだってさっき『ふぉぉ、これはっ!』って顔してたでしょ?」
「ぐっ……し、してないわよっ!」
保護者撃沈。耳まで真っ赤にしてそっぽを向きながらも、ちゃっかり小皿を手に持ったままの姫芽香に、からかうような視線の追撃がかけられる。
元から断つ必要に迫られるが、テーブルを挟んで向かい側にいられては敵わない。まさか立って回り込むわけにもいかない姫芽香は、救いを求める目を翡翠の隣にいる姉に向けるが、
「本当にほっぺが落ちそうですね。だだわらび、という名前も可愛らしいです」
山形名物だだちゃ豆をふんだんに使ったずんだ餡とこし餡をわらび餅で包んだ季節限定の一品に、目を閉じて吐息を漏らしている瑠璃には届くことはなかった。
……重ねて言うが、別に彼女たちは以前から行ってみたいスイーツ店として目をつけていただとか、十七時閉店のため平日の部活帰りには寄れずに溜まっていた欲求を解放しにきただとか、そんなことはない。はずである。
「モモっち、部活辞めちゃうのかなー……」
結局、本題に入ることができたのは、ひととおり舌鼓を打ち終え、ほうじ茶ですっきりしてからのことだった。
「どうかしらね。それはないと思うのだけれど」
「ですが、紅葉先生にお話があると仰っていたのですよね?」
「ん。タイミング的に、可能性大」
誰からともなく気の重さに溜め息を吐く。手持ちの情報はあまりに不足していた。
今日の部活が臨時休業となった連絡とともに、その理由は聞いていたのだが、李桃に訊ねても『ごめんね、これはあたしの問題だから』と乾いた笑顔を浮かべられるだけで、肝心なところは話してもらえなかったのだ。
「んもー、水臭いぞモモっちー!」
テーブルに横顔を突っ伏した翡翠が、黒文字をぺしぺしと弄びながら自棄気味に呻く。
「仕方がないですよ、翡翠ちゃん。傍で見ていたわたしたちでも感じた怖さを、モモちゃんは直接受けちゃってるんですから」
「そうね。千葉さんは中学時代も恐ろしく強かったけれど、あの時でさえ、今と比べれば子供レベルだったもの」
「ん。千葉と『羅刹』……最凶」
敢えて触れないようにしていたが、いつまでも目を背けてはいられなかった。
内村桜花。大江実業の稽古風景は、姫芽香たちの脳裏に焼き付いている。あの残忍な稽古法に培われた故の王座だということは、まざまざと思い知らされた。
――剣を手にして敵を斬るということが、どれほど傲慢で重い業であるか。
千葉が発したあの言葉は、どういう意味が込められていたのだろう。頂点に上り詰めるためにはあのような稽古を積んでこそ資格がある、ということなのか、あるいは。
「殺人剣、か……」
重圧を抱え切れずに零れた姫芽香の呟き。それに弾かれたように、だん、と翡翠がテーブルを叩きつけて顔を上げた。
「あーもうやめやめ! ナシ、この空気ナシー!」
うがー、と吼えた彼女は、姫芽香たちを見回して、言った。
「もう考えても仕方ないじゃん。それに、敵は千葉だけじゃない。ウチらが戦う相手だって、同じ大江実業でレギュラーやってて、とーぜん同じくらい強いんでしょ!?」
「え……ええ、まあ。そうね」
「だったら戦おーよ、モモっちと一緒に。確かにウチが最初に武道場に行ったのは、興味本位だったよ。でもモモっちが言ってた剣道三倍段は間違ってて。ぶっちゃけさ、紅葉センセーが指摘した時点で、『じゃあ帰る』って、できたわけじゃん。
けど残った。ウチも、瑠璃姉も、咲先輩も。あれからさ、まだ一ヶ月だけどさ、剣道、楽しかったじゃん!」
振り絞るように訴える翡翠に、瑠璃と咲は俯き加減に、頷いた。
「ヒメっちもそーだよ。剣道部に戻ろうって思ったのは、モモっちが誘ってくれたから? もちろんそれもあると思うけどさ、それだけじゃないでしょ。剣道、好きだからでしょ?」
じっと覗きこんでくる目と目が交錯し、
「ありがとう、翡翠。おかげで目が覚めたわ」
姫芽香はふっと、口元を緩めた。
「モモちゃんのために、できることをしましょう。私たちを彼女が『活かして』くれたように、今度は私たちがお礼をする番よ」
「賛成です。わたしたちの剣道には、モモちゃんが必要ですもの」
「ん。翡翠もたまにはいいこと言う」
「えへへ、これも活人剣になるのかなー?」
「ふふっ。心に剣を持っている、と考えれば、あながち間違いじゃないかもしれないわね」
剣道とは己が生き方のことでもある。武士が高楊枝を使ってでも誇りを守ろうとしたように、刀を持たぬ時でも、いや、刀を持たぬ時こそ剣士たらねばならないのだ。
「なんかさー、ヒメっちが言うとクサいよねー」
「う、うるさいわよ!」
「翡翠、そうじゃない。姫芽香はいい匂い」
「うっ、~~~~~~! もう、知らないっ!」
つんと顔を背けた姫芽香は、その向こうからおずおずと顔を覗かせた従業員と目が合った。
「も、申し訳ありません、騒がしくしてしまって……」
「いえ、お気になさらず。ですが、そろそろ閉店の時間が近くなっておりまして……」
「えっ、嘘、やだ!?」
鞄の持ち手に引っかけてある腕時計を慌てて確認すると、もう十七時は目前だった。気がつけば、他の席にいた客たちも帰っているようだ。
御馳走様でした、と忙しなく席を立つ。瑠璃たちが支度をしている間に会計を済ませようとした姫芽香は、ふと、テイクアウト用の販売スペースに目を留めた。
「あの、差し支えなければ。一つお願いしてもよろしいでしょうか……?」
そんな、レジの前で従業員へと申し訳なさそうにしている彼女に、追いついた翡翠たちが慌てて財布を取り出す。
「もしかして、お金足りなかった!?」
「すみません、すぐにお出ししますね!」
「ん。はい」
あまりのテンパり具合――約一名、やけに淡々としているが――に苦笑しながら、姫芽香は首を振る。わらび餅とお茶のセットだけでは四人分とはいえそこまでの額にならない上、元からまとめて払って、後から個人分をいただこうという算段ではいたため、問題ない。
「ねぇみんな。まだ時間はあるかしら?」
姫芽香はそう言って、悪戯っ子のように小首を傾げてみせた。
* * * * * *
紅葉から『燃えよドラゴン』を借りて帰った李桃は、祖母が夕食の支度をしている隙を見てレコーダーへと飛び付いた。村山家では居間のテレビでしかDVDを見ることができないのだ。
祖母にばれたところで差し支えないのだが、なんだか気恥ずかしい。彼女が教え子に託したものを、さらに孫が借り受ける。そんな因果に、祖母が物凄く近く感じたからだ。
村山ナツが、そして柳沼紅葉が、どんな光景を見ていたのか。緊張と期待が入り混じった鼓動の速さは、配給のロゴカットの間にも治まることはない。
画面の中では、ブルース・リーが弟子にキックを指導していた。とりあえずと蹴って見せられればやり直しを命じ、怒りに任せて放てばまたやり直させる。
不意に放った一蹴りが無心による鋭いものだったことに、思わず返しのステップを踏んでしまったリーは『何か感じたか』と嬉しそうに問うた。
しかし弟子は考え始めてしまう。無心に放った技の理由を考えてしまったのだ。そんな彼の頭を、リーが引っ叩いて言う。
『Don't Think! Feeeeeel!』
燃えよドラゴンをほとんど知らない人でも聞いたことがあるだろう、あのセリフだ。
「考えるな……感じろ」
リーの一挙手一投足を見逃さないよう、李桃はテレビとの距離を寄せる。
『これは月を示す指と似ている。指に気を取られていると栄光を見失うぞ』
はっとした。いつの間にか、千葉の殺気に勝つための方法だとか、内村の指導には負けられないだとか、勝敗という表面上の価値に拘っていた自分に気がつかされる。
――今話したことをよく頭の中で考えろ。それを試合に『無心』で出せたら上出来だ。
稽古をする上での意識の持ち方について話した紅葉が、そう言っていたことを思い出す。
李桃もさすがに『Don't Think! Feel!』という言葉が、単に直感に任せて適当にやれという意味ではないことは理解していた。常に稽古や考察を重ねて技を研鑽し、いざ本番、ここぞという時の技は迷いなく放つべきなのだと。
だからこそブルース・リーは、せっかく無心で蹴りを放つことができたのに、その理由を考えてしまった弟子を責めたのである。今さら考えるようでは駄目なのだと。
「そんなこと言われても、難しいよ……」
画面の中の弟子とともに目を伏せる。
三年前感じたものより、ずっと明確になっていた千葉の殺気。そしてそれを執行することができる彼女の力量。無心で動くのは何も技だけではない。恐怖という感情に足が竦むこともまた、脊椎反射からなる無意識によるものだ。
剣道には『四戒《しかい》』という教えがある。予期しない敵の動作に驚くことなかれ、相手を懼れることなかれ、相手を、そして自分を疑うことなかれ、いざという時に惑うことなかれ。
これらの感情を理性で押さえ込むことはできるのだろう。それは修練によって達成されるのかもしれない。しかし、押さえ込むというアクションを起こさねばならないということは、これらの忌むべき感情が、既に発生してしまっているということ。
――容赦なく叩き潰せ、完膚なきまでだ!
残酷な稽古を指導する内村が、追撃を躊躇った茉莉奈に言い放った言葉を思い出し、李桃は肩を抱いて身を小さくする。思い出すだけで懼れの感情に囚われそうだ。
「容赦なく、叩き潰せ……あっ」
いつまでも顔を背けているわけにはいかないと、思い切って口にしてみた時、いつかの座学で教えられた言葉が蘇った。
――攻めが甘かったら容赦なく叩き潰せ。
確かに、紅葉もこの言葉を使っていた。しかし、字面こそ同じではあるが、その根源にある意志は大きく違っているように感じる。
殺人剣を欲して剣を振るい、それを象徴するように、国体選抜において『悪鬼羅刹』の言葉を二分していた、柳沼紅葉と内村桜花。
そんな彼女たちは、今になって、道を違えている。
――ただ少しばかり必死でいるあまり、道をずれちまったんだべ。
祖母はああ言っていたか。この場合、どちらが道をずれたのだろうか。それとも、どちらとも道をずれたのか。もしかしたら、未だに二人は同じ道にいるのではないだろうか。
李桃は肩を抱いている腕を膝へと戻し、テレビ画面へ向き直る。答えはここにある気がした。
いつの間に随分進行していた映像には、悪しき道へと進んだ先輩武術家に対する憤りに耐えかねるリーの、苦悶の顔が映し出されていた。
李桃は奇妙な感覚に首を傾げる。彼のような達人も、怒りに心を乱すことがあるなんて。
「「「「こんばんはー」」」」
そんな時だった。玄関口の扉がガラガラと開けられたかと思うと、賑やかな声が入ってくる。
あまりに不意のことで、李桃は変な声を上げてしまった。普段ならば、家の前の通りを歩く足音くらい平気で聞こえるはずなのに。映画と思案に夢中だったのだろう。
そして何より、来訪した声に聞き覚えがあったことも、彼女の硬直を長引かせた。
「はいはい。李桃のお友だちだべか?」
一方で祖母は、いつもと変わらない対応をしている。そんな襖障子越しの影に、李桃は苦笑した。懼れについて考えた傍から来訪者に驚き、その声に戸惑い、どうしてかと疑うなど、未熟も未熟である。
「おやまぁ、姫芽香ちゃんまで」
「村山先生、お久しぶりです」
「ほほ、もう隠居した年寄りだべした、畏まらないでいいず――李桃ぉ?」
「はーい、今行きまーす!」
取り急ぎ映画を一時停止して、DVDのパッケージは茶箪笥の中へと隠す。
襖から顔を覗かせると、そこには、仲間たちの笑顔があった。
「これ、お土産。良かったら食べてね」
姫芽香が掲げて見せた黄色の袋には見たことがある。
「えっ、もしかして腰掛庵のわらび餅!? みんなで行ってきたの!? ずるーい!」
そう言ってしまってから、はっと口を噤んだ李桃は、おそるおそると祖母の表情を窺う。
しかし、どうやら彼女は察していたようで。ただ微笑みを浮かべているだけである。てっきり「なんだず、一緒じゃなかったのがれ?」と追及されると思っていたのだが。
結局、祖母が発した言葉は「よく来てけだなぁ。どれ、あがってけらっしゃい」だった。
「あー、ほうじ茶もいいけど、こっちのもおいしー……」
振る舞われた緑茶に、翡翠がうっとりしたような歓喜を漏らす。
「家庭の味、ですね」
「ん。濃いお茶にも合う。最強」
「……他人様のおうちなのに、あなたたちは」
もくもくと当然のごとくミルクケーキを齧っている咲に、姫芽香が頭を抱えていた。
「さすけねぇ。めんこいおなごばかりで、婆ちゃんこそ浮かれてっず」
「そ、そだな、めんこいだあて、先生もじょんだにゃっすー」
ふにゃらと相好を崩した姫芽香は、照れ隠しに煽ったお茶に、熱いやら苦いやらで咽った。
山形の民家では、お茶を濃い目に淹れる傾向があった。茶菓子を常備していることど同様、来訪客をもてなすための風習である。特に正月やお盆などは一度に複数の親類宅を回る人も多いため、そんな中で自分の家だけ薄いわけにはいかない。言ってしまえば、見栄だ。
「でもみんな、ほんな時間にほうひらの?」
いただいたわらび餅を頬張りながら、李桃が訊ねる。
「どうしたも何も、モモっちを引きとめにきたんだよ」
「わたしたち、モモちゃんと一緒に剣道を続けたいんです」
「ん。大江実業を倒す」
「まぁ、そういうことよ。みんな、モモちゃんが剣道を辞めるんじゃないかって心配してたの」
説明された理由に合点がいった李桃は、手のひらで待ってもらうようジェスチャーして、頬をハムスター状態にしていたわらび餅を飲み込んだ。
「ごめん、心配かけちゃったね。でも、もうだいじょーぶっ!」
居ずまいを正して、顔を上げる。仲間たちの想いは、考えるまでもなく胸に染みていた。
千葉直刃へ抱く恐怖は、正直まだ拭えていない。しかし本来ならば、彼女に限らず、他の誰と戦う時にも大なり小なり怖いものである。
押さえ込むことが難しいならば、素直に受け止めてしまおう。その上で、笑っていよう。
「あたしは剣道が好きだから。みんなも大好きだから!」
ふんすと鳴らした鼻息で、肩にかかっていた重圧が、するりと落ちた気がした。
学校を出る次点で電話をかけた際に「お気をつけてお越しくださいませ」と添えられたことが礼儀や冗談からの言葉ではないと思えてしまうほど、車一台すら満足に通ることが難しい、舞鶴山麓のやや奥まった細道を抜けた、お世辞にもアクセスの良いとはいえない場所にある。
しかし、時期によっては平日でも県内外の客で混雑する大人気店なのだ。帰宅組もそれを覚悟していたが、完全予約制という規制が敷かれるまでには辛うじて猶予があったらしい。
入口で靴を脱がねばならないことに驚きながら、無事に店内の喫茶スペースへとたどり着いた四人は、ほっと一息をついた。
言うまでもないが、別に彼女たちは、李桃を差し置いて甘味処へと遊びに来たわけではない。
「んー、ほわっほわのとろっとろー……」
この店の看板メニューであるわらび餅を頬張った瞬間、翡翠の顔が蕩けた。
黒文字を口にくわえたままで頬に手を当て「ああぁ、しあわしぇだぁー」と腰をくねらせている彼女に、対面から、ほうじ茶のお代わり用急須を弄っていた咲の半眼が向けられる。
「翡翠、モモみたい」
「えっ、ホント!? そんなに似てたー?」
「まったく……他にもお客様もいらっしゃるのだから、静かに食べなさい」
「はーい。でもさ、ヒメっちだってさっき『ふぉぉ、これはっ!』って顔してたでしょ?」
「ぐっ……し、してないわよっ!」
保護者撃沈。耳まで真っ赤にしてそっぽを向きながらも、ちゃっかり小皿を手に持ったままの姫芽香に、からかうような視線の追撃がかけられる。
元から断つ必要に迫られるが、テーブルを挟んで向かい側にいられては敵わない。まさか立って回り込むわけにもいかない姫芽香は、救いを求める目を翡翠の隣にいる姉に向けるが、
「本当にほっぺが落ちそうですね。だだわらび、という名前も可愛らしいです」
山形名物だだちゃ豆をふんだんに使ったずんだ餡とこし餡をわらび餅で包んだ季節限定の一品に、目を閉じて吐息を漏らしている瑠璃には届くことはなかった。
……重ねて言うが、別に彼女たちは以前から行ってみたいスイーツ店として目をつけていただとか、十七時閉店のため平日の部活帰りには寄れずに溜まっていた欲求を解放しにきただとか、そんなことはない。はずである。
「モモっち、部活辞めちゃうのかなー……」
結局、本題に入ることができたのは、ひととおり舌鼓を打ち終え、ほうじ茶ですっきりしてからのことだった。
「どうかしらね。それはないと思うのだけれど」
「ですが、紅葉先生にお話があると仰っていたのですよね?」
「ん。タイミング的に、可能性大」
誰からともなく気の重さに溜め息を吐く。手持ちの情報はあまりに不足していた。
今日の部活が臨時休業となった連絡とともに、その理由は聞いていたのだが、李桃に訊ねても『ごめんね、これはあたしの問題だから』と乾いた笑顔を浮かべられるだけで、肝心なところは話してもらえなかったのだ。
「んもー、水臭いぞモモっちー!」
テーブルに横顔を突っ伏した翡翠が、黒文字をぺしぺしと弄びながら自棄気味に呻く。
「仕方がないですよ、翡翠ちゃん。傍で見ていたわたしたちでも感じた怖さを、モモちゃんは直接受けちゃってるんですから」
「そうね。千葉さんは中学時代も恐ろしく強かったけれど、あの時でさえ、今と比べれば子供レベルだったもの」
「ん。千葉と『羅刹』……最凶」
敢えて触れないようにしていたが、いつまでも目を背けてはいられなかった。
内村桜花。大江実業の稽古風景は、姫芽香たちの脳裏に焼き付いている。あの残忍な稽古法に培われた故の王座だということは、まざまざと思い知らされた。
――剣を手にして敵を斬るということが、どれほど傲慢で重い業であるか。
千葉が発したあの言葉は、どういう意味が込められていたのだろう。頂点に上り詰めるためにはあのような稽古を積んでこそ資格がある、ということなのか、あるいは。
「殺人剣、か……」
重圧を抱え切れずに零れた姫芽香の呟き。それに弾かれたように、だん、と翡翠がテーブルを叩きつけて顔を上げた。
「あーもうやめやめ! ナシ、この空気ナシー!」
うがー、と吼えた彼女は、姫芽香たちを見回して、言った。
「もう考えても仕方ないじゃん。それに、敵は千葉だけじゃない。ウチらが戦う相手だって、同じ大江実業でレギュラーやってて、とーぜん同じくらい強いんでしょ!?」
「え……ええ、まあ。そうね」
「だったら戦おーよ、モモっちと一緒に。確かにウチが最初に武道場に行ったのは、興味本位だったよ。でもモモっちが言ってた剣道三倍段は間違ってて。ぶっちゃけさ、紅葉センセーが指摘した時点で、『じゃあ帰る』って、できたわけじゃん。
けど残った。ウチも、瑠璃姉も、咲先輩も。あれからさ、まだ一ヶ月だけどさ、剣道、楽しかったじゃん!」
振り絞るように訴える翡翠に、瑠璃と咲は俯き加減に、頷いた。
「ヒメっちもそーだよ。剣道部に戻ろうって思ったのは、モモっちが誘ってくれたから? もちろんそれもあると思うけどさ、それだけじゃないでしょ。剣道、好きだからでしょ?」
じっと覗きこんでくる目と目が交錯し、
「ありがとう、翡翠。おかげで目が覚めたわ」
姫芽香はふっと、口元を緩めた。
「モモちゃんのために、できることをしましょう。私たちを彼女が『活かして』くれたように、今度は私たちがお礼をする番よ」
「賛成です。わたしたちの剣道には、モモちゃんが必要ですもの」
「ん。翡翠もたまにはいいこと言う」
「えへへ、これも活人剣になるのかなー?」
「ふふっ。心に剣を持っている、と考えれば、あながち間違いじゃないかもしれないわね」
剣道とは己が生き方のことでもある。武士が高楊枝を使ってでも誇りを守ろうとしたように、刀を持たぬ時でも、いや、刀を持たぬ時こそ剣士たらねばならないのだ。
「なんかさー、ヒメっちが言うとクサいよねー」
「う、うるさいわよ!」
「翡翠、そうじゃない。姫芽香はいい匂い」
「うっ、~~~~~~! もう、知らないっ!」
つんと顔を背けた姫芽香は、その向こうからおずおずと顔を覗かせた従業員と目が合った。
「も、申し訳ありません、騒がしくしてしまって……」
「いえ、お気になさらず。ですが、そろそろ閉店の時間が近くなっておりまして……」
「えっ、嘘、やだ!?」
鞄の持ち手に引っかけてある腕時計を慌てて確認すると、もう十七時は目前だった。気がつけば、他の席にいた客たちも帰っているようだ。
御馳走様でした、と忙しなく席を立つ。瑠璃たちが支度をしている間に会計を済ませようとした姫芽香は、ふと、テイクアウト用の販売スペースに目を留めた。
「あの、差し支えなければ。一つお願いしてもよろしいでしょうか……?」
そんな、レジの前で従業員へと申し訳なさそうにしている彼女に、追いついた翡翠たちが慌てて財布を取り出す。
「もしかして、お金足りなかった!?」
「すみません、すぐにお出ししますね!」
「ん。はい」
あまりのテンパり具合――約一名、やけに淡々としているが――に苦笑しながら、姫芽香は首を振る。わらび餅とお茶のセットだけでは四人分とはいえそこまでの額にならない上、元からまとめて払って、後から個人分をいただこうという算段ではいたため、問題ない。
「ねぇみんな。まだ時間はあるかしら?」
姫芽香はそう言って、悪戯っ子のように小首を傾げてみせた。
* * * * * *
紅葉から『燃えよドラゴン』を借りて帰った李桃は、祖母が夕食の支度をしている隙を見てレコーダーへと飛び付いた。村山家では居間のテレビでしかDVDを見ることができないのだ。
祖母にばれたところで差し支えないのだが、なんだか気恥ずかしい。彼女が教え子に託したものを、さらに孫が借り受ける。そんな因果に、祖母が物凄く近く感じたからだ。
村山ナツが、そして柳沼紅葉が、どんな光景を見ていたのか。緊張と期待が入り混じった鼓動の速さは、配給のロゴカットの間にも治まることはない。
画面の中では、ブルース・リーが弟子にキックを指導していた。とりあえずと蹴って見せられればやり直しを命じ、怒りに任せて放てばまたやり直させる。
不意に放った一蹴りが無心による鋭いものだったことに、思わず返しのステップを踏んでしまったリーは『何か感じたか』と嬉しそうに問うた。
しかし弟子は考え始めてしまう。無心に放った技の理由を考えてしまったのだ。そんな彼の頭を、リーが引っ叩いて言う。
『Don't Think! Feeeeeel!』
燃えよドラゴンをほとんど知らない人でも聞いたことがあるだろう、あのセリフだ。
「考えるな……感じろ」
リーの一挙手一投足を見逃さないよう、李桃はテレビとの距離を寄せる。
『これは月を示す指と似ている。指に気を取られていると栄光を見失うぞ』
はっとした。いつの間にか、千葉の殺気に勝つための方法だとか、内村の指導には負けられないだとか、勝敗という表面上の価値に拘っていた自分に気がつかされる。
――今話したことをよく頭の中で考えろ。それを試合に『無心』で出せたら上出来だ。
稽古をする上での意識の持ち方について話した紅葉が、そう言っていたことを思い出す。
李桃もさすがに『Don't Think! Feel!』という言葉が、単に直感に任せて適当にやれという意味ではないことは理解していた。常に稽古や考察を重ねて技を研鑽し、いざ本番、ここぞという時の技は迷いなく放つべきなのだと。
だからこそブルース・リーは、せっかく無心で蹴りを放つことができたのに、その理由を考えてしまった弟子を責めたのである。今さら考えるようでは駄目なのだと。
「そんなこと言われても、難しいよ……」
画面の中の弟子とともに目を伏せる。
三年前感じたものより、ずっと明確になっていた千葉の殺気。そしてそれを執行することができる彼女の力量。無心で動くのは何も技だけではない。恐怖という感情に足が竦むこともまた、脊椎反射からなる無意識によるものだ。
剣道には『四戒《しかい》』という教えがある。予期しない敵の動作に驚くことなかれ、相手を懼れることなかれ、相手を、そして自分を疑うことなかれ、いざという時に惑うことなかれ。
これらの感情を理性で押さえ込むことはできるのだろう。それは修練によって達成されるのかもしれない。しかし、押さえ込むというアクションを起こさねばならないということは、これらの忌むべき感情が、既に発生してしまっているということ。
――容赦なく叩き潰せ、完膚なきまでだ!
残酷な稽古を指導する内村が、追撃を躊躇った茉莉奈に言い放った言葉を思い出し、李桃は肩を抱いて身を小さくする。思い出すだけで懼れの感情に囚われそうだ。
「容赦なく、叩き潰せ……あっ」
いつまでも顔を背けているわけにはいかないと、思い切って口にしてみた時、いつかの座学で教えられた言葉が蘇った。
――攻めが甘かったら容赦なく叩き潰せ。
確かに、紅葉もこの言葉を使っていた。しかし、字面こそ同じではあるが、その根源にある意志は大きく違っているように感じる。
殺人剣を欲して剣を振るい、それを象徴するように、国体選抜において『悪鬼羅刹』の言葉を二分していた、柳沼紅葉と内村桜花。
そんな彼女たちは、今になって、道を違えている。
――ただ少しばかり必死でいるあまり、道をずれちまったんだべ。
祖母はああ言っていたか。この場合、どちらが道をずれたのだろうか。それとも、どちらとも道をずれたのか。もしかしたら、未だに二人は同じ道にいるのではないだろうか。
李桃は肩を抱いている腕を膝へと戻し、テレビ画面へ向き直る。答えはここにある気がした。
いつの間に随分進行していた映像には、悪しき道へと進んだ先輩武術家に対する憤りに耐えかねるリーの、苦悶の顔が映し出されていた。
李桃は奇妙な感覚に首を傾げる。彼のような達人も、怒りに心を乱すことがあるなんて。
「「「「こんばんはー」」」」
そんな時だった。玄関口の扉がガラガラと開けられたかと思うと、賑やかな声が入ってくる。
あまりに不意のことで、李桃は変な声を上げてしまった。普段ならば、家の前の通りを歩く足音くらい平気で聞こえるはずなのに。映画と思案に夢中だったのだろう。
そして何より、来訪した声に聞き覚えがあったことも、彼女の硬直を長引かせた。
「はいはい。李桃のお友だちだべか?」
一方で祖母は、いつもと変わらない対応をしている。そんな襖障子越しの影に、李桃は苦笑した。懼れについて考えた傍から来訪者に驚き、その声に戸惑い、どうしてかと疑うなど、未熟も未熟である。
「おやまぁ、姫芽香ちゃんまで」
「村山先生、お久しぶりです」
「ほほ、もう隠居した年寄りだべした、畏まらないでいいず――李桃ぉ?」
「はーい、今行きまーす!」
取り急ぎ映画を一時停止して、DVDのパッケージは茶箪笥の中へと隠す。
襖から顔を覗かせると、そこには、仲間たちの笑顔があった。
「これ、お土産。良かったら食べてね」
姫芽香が掲げて見せた黄色の袋には見たことがある。
「えっ、もしかして腰掛庵のわらび餅!? みんなで行ってきたの!? ずるーい!」
そう言ってしまってから、はっと口を噤んだ李桃は、おそるおそると祖母の表情を窺う。
しかし、どうやら彼女は察していたようで。ただ微笑みを浮かべているだけである。てっきり「なんだず、一緒じゃなかったのがれ?」と追及されると思っていたのだが。
結局、祖母が発した言葉は「よく来てけだなぁ。どれ、あがってけらっしゃい」だった。
「あー、ほうじ茶もいいけど、こっちのもおいしー……」
振る舞われた緑茶に、翡翠がうっとりしたような歓喜を漏らす。
「家庭の味、ですね」
「ん。濃いお茶にも合う。最強」
「……他人様のおうちなのに、あなたたちは」
もくもくと当然のごとくミルクケーキを齧っている咲に、姫芽香が頭を抱えていた。
「さすけねぇ。めんこいおなごばかりで、婆ちゃんこそ浮かれてっず」
「そ、そだな、めんこいだあて、先生もじょんだにゃっすー」
ふにゃらと相好を崩した姫芽香は、照れ隠しに煽ったお茶に、熱いやら苦いやらで咽った。
山形の民家では、お茶を濃い目に淹れる傾向があった。茶菓子を常備していることど同様、来訪客をもてなすための風習である。特に正月やお盆などは一度に複数の親類宅を回る人も多いため、そんな中で自分の家だけ薄いわけにはいかない。言ってしまえば、見栄だ。
「でもみんな、ほんな時間にほうひらの?」
いただいたわらび餅を頬張りながら、李桃が訊ねる。
「どうしたも何も、モモっちを引きとめにきたんだよ」
「わたしたち、モモちゃんと一緒に剣道を続けたいんです」
「ん。大江実業を倒す」
「まぁ、そういうことよ。みんな、モモちゃんが剣道を辞めるんじゃないかって心配してたの」
説明された理由に合点がいった李桃は、手のひらで待ってもらうようジェスチャーして、頬をハムスター状態にしていたわらび餅を飲み込んだ。
「ごめん、心配かけちゃったね。でも、もうだいじょーぶっ!」
居ずまいを正して、顔を上げる。仲間たちの想いは、考えるまでもなく胸に染みていた。
千葉直刃へ抱く恐怖は、正直まだ拭えていない。しかし本来ならば、彼女に限らず、他の誰と戦う時にも大なり小なり怖いものである。
押さえ込むことが難しいならば、素直に受け止めてしまおう。その上で、笑っていよう。
「あたしは剣道が好きだから。みんなも大好きだから!」
ふんすと鳴らした鼻息で、肩にかかっていた重圧が、するりと落ちた気がした。
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