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第二章 襲来、王者の剣!
〈8〉千葉直刃
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数分後。面を装着した李桃は、重い足を引きずるように立ち上がった。
「モモちゃん、大丈夫なの……?」
本気で心配してくれている姫芽香の声には答えず、開始線へと向かう。
いや、答えられなかったというほうが正しいだろうか。勝負は時の運などという言葉があるが、別にそういった概念から断言ができなかったわけではない。
大丈夫なはずがなかったのだ。これまでに何千回と結んで来たはずの面紐でさえ、三度は結ぶのに失敗した。緊張の理由が判っているのならば対処のしようもあるが、そうもいかない。
一つだけ間違いないことは、全力で立ち向かうしかない敵であること。常に相手を大敵と思って油断するなという教えはあるものの、それでも身構えてしまうのである。
コートの反対側では、着付けを済ませていた千葉が、制服のままの宮崎茉莉奈を元立ちに軽く打ち込みをしながら、身体をほぐしていた。
こうして遠目から見ている分には、技量の高さに舌を巻きこそすれ、実に平和に感じる。
「さて。一本勝負にしましょう。反則はなし、有効打突は互いの自己判断。よろしいかしら?」
「は、はいっ!」
返事の声が裏返ってしまった。しかし、一歩コート内へと踏み出したことで、身体に染み付いた身構えが、心構えが。本能のままに鼓動を昂ぶらせてくれる。
互いに礼を交わし、提げ刀姿勢から三歩進んで蹲踞。
開始の号令はない。それでも、睨み合った状態から、二人が立ち上がったのは同時だった。
「やあああああああああ!」
気持ちで負ければ、その時点で喰われる。退くことは許されない。李桃が腹の底から気合いを放ち、一気呵成に踏み込んだ、刹那。
「けえええええええええっ!」
びくん、と。千葉の放った気声に貫かれた足が竦んでしまう。
まずい。固まった右足に意地を込め、後方へと蹴って面打ちを躱す。千葉が斬り下ろした竹刀が面金を掠め、焦げたような臭いが弾けた。
李桃は息を呑む。ようやく気づいた。気づいてしまったのだ。――剣を手にして敵を斬るということが、どれほど傲慢で重い業であるか。
脳裏を過っていく千葉の言葉に、彼女がどんな剣道を追い求めているか、彼女の背後に視える大蛇の正体は何なのか。ようやく、理解することができた。
「殺人、剣……」
声が震える。彼女に怯えていたのは、負けることへの恐れから立ち直れていなかったからではない。これまでの自分の剣道では考えもしなかった、全く別の問題だったのだ。
殺気。李桃が感じていたただならぬ気配は、命の危険そのものだ。
「何をぼさっとしていますの? 足が止まっていますわよ!」
追撃を放ちながら、千葉が咆哮する。面金は打突部位ではないため、有効打突になることはない。つまり、どちらかが場外に出た訳でもない限り、仕切り直す必要もない。
李桃は気を引き締め直す余裕も与えられないまま、苛烈な攻めを必死で凌いでいた。
辛うじて面を反撃すれば、竹刀ごと削ぎ落とすような出ばな小手が降り、いっそのこと受け止めて耐えようとしても、その防御ごと押し付けるような重い一撃の的となる。
面を打ったままの体勢で、こちらの顔面へと押し寄せる拳に吹き飛ばされた李桃は、もう虫の息だった。あの日の試合ではもう少しまともに動けていたはずだが、思っていたよりも、遥かに差がついている。正直、手も足も出ない。
場外に出ていたことが不幸中の幸いか、千葉は追撃を止めた。彼女はおぞましいほどに冷酷な瞳でこちらを一瞥してから、開始線へと戻っていく。
李桃は小手越しの手を床につけながら、やっとの思いで立ち上がった。
「立ち上がる気概はおありなのね。よろしい、三流から二流へと戻ってきた貴女には、相応の礼を以てお相手して差し上げますわ」
「…………」
相応の礼とは、つまるところ『手加減の度合い』なのだろう。構え直した李桃は、千葉の背後にいる大蛇が舌なめずりしたことに気づき、慄然とした。
とぐろを巻いた蛇が次にとる行動など、決まっている。牙を剥くのだ。
「い、いやああああああっ――――――っ!?」
闇雲だった。打とうとする意志も、狙いもあったものではないが、ただただ手を出さなければいけない気がして、悲鳴を上げながら飛びかかった。
そんな李桃の振り上げた竹刀を、手を、一瞬にして千葉の竹刀が潜り抜けてくる。
ああ、突かれた。そう気づいた時には、既に体の重心が大きく後方へと浮き上がっていた。
高校剣道から使用が許される『突き技』。その中でも特に正しく命中させることが難しく、一方で相手を痛めつけるために邪な剣士が多用する、最も危険な技――『迎え突き』。
千葉の放った突きは、わざと喉元に外すような下衆のそれではなく、面の喉部分にある突き垂れを正確に撃ち抜いた妙技。
数メートルも投げ出された李桃は、背中を強かに打ち付けた。打突部位を捉えられた突き技のため外部的なダメージこそないが、彼女にはもう、立ち上がる気力も残っていない。
「モモちゃん!」
姫芽香たちが駆け寄ってきて、李桃の面紐をほどいてくれる。
そんな中で千葉は、李桃に対して侮蔑、嘲笑、怒りや拍子抜けといった色を一切帯びることなく、ただ温度のない目で、見下ろしているだけだった。
一本どころか、ろくに打ち込むことすらできないままの、惨敗だった。
* * * * * *
「やたらと靴があるんだが、何かあったのか……?」
気だるげな声とともに扉を開いた赤ジャージが、入ってくるなり李桃に飛び付いた。
「おい李桃、李桃!?」
「大丈夫です、外傷はありません」
本人の代わりに答えた姫芽香を「んなこた見りゃ判る!」と乱暴に怒鳴りつける。問題は、歯をがたがたと震わせて小さな体を抱き、目を剥いている李桃の内傷の方だ。
「おい。これは、一体何の祭りだ……?」
打つ手なしと諸手を上げた紅葉は、きっ、と首を千葉へ向けた。
「お前たちは大江実業の連中だろう。何をしに来た!」
『柳沼紅葉先生、柳沼紅葉先生。職員室へお戻りください。繰り返します――』
彼女の一喝と同時にチャイムがなり、校内放送が流れる。どうせ職員会議の席に忘れ物をしたか何かだろうと踏んだ紅葉は、舌打ち一つでアナウンスを無視した。
「答えろ、事と次第によっては容赦はしない。大方、オレが誰かってのは知ってるんだろう?」
「もちろんですわ、柳沼先生。十年前の紅花国体で、我が校の顧問とともに県の選抜選手として全国を制した、伝説世代の一人『悪鬼の紅葉』。で、ございますわよね?」
千葉は淡々と、張った水面のように落ち着いた表情で見据え返してくる。
「それではこちらの要件をば。わたくしたちは、伊氏波高校剣道部に試合を申し込みます。日取りは約二週間後、ゴールデンウィークが明けた週末の土曜。
その試合に負けた方は、剣を捨てて廃部にすること、という趣向は如何でございましょう?」
「おいおい、そういうことを生徒が勝手に決めていいのか?」
「――構わん、俺様は認めている。あとは紅葉、貴様の承諾を得るだけなんだよ」
にわかにかけられた声は、紅葉の表情を煩わしさに歪ませた。
カジュアルジャケットを身に纏い、鋭い歯を見せて嗤う長身痩躯の女性。頭の後ろで結ばれた長い髪は龍の尾のように揺れ、しなやかに伸びた四肢は虎の爪のように隙がない。
「久しぶりだなぁ、おい。せっかく呼び出してもらったんだがな、職員室に戻れという放送は聞こえなかったか?」
「桜花……テメェ」
視線が交錯する。女性の名は内村桜花。大江実業高校剣道部の顧問にして、かつての国体選抜において伝説世代と称されたうちの一人、『羅刹の桜花』その人である。
「『羅刹』様が新設剣道部くんだりまでわざわざご苦労なこって。何企んでやがる?」
「うむ。貴様ら、先日『慧眼』が率いる剣道部と練習試合を行っただろう? 弱小校ということは不本意だが、あそこには俺様の親戚が通っていてな。聞いたんだよ。剣士の誇りに泥を塗り、武道場を見世物小屋にしようとする輩がいるらしいとな」
「あー、もういい、テメェの言いたいことは大体分かった」
紅葉は抱えていた李桃の上体をそっと下ろし、立ち上がった。
「上等だ。オレの教え子たちに喧嘩を売ったこと、後悔させてやるよ」
「はっ、剣から逃げた軟弱者が囀る。せいぜいゴールデンウィークの間に鍛えておくことだ」
内村は駄目押しだとでもいうように吐き捨て、哄笑しながら去っていく。
後に続いた千葉たちも道場を出て行くと、残ったのは、静寂という名のやるせなさだった。
「モモちゃん、大丈夫なの……?」
本気で心配してくれている姫芽香の声には答えず、開始線へと向かう。
いや、答えられなかったというほうが正しいだろうか。勝負は時の運などという言葉があるが、別にそういった概念から断言ができなかったわけではない。
大丈夫なはずがなかったのだ。これまでに何千回と結んで来たはずの面紐でさえ、三度は結ぶのに失敗した。緊張の理由が判っているのならば対処のしようもあるが、そうもいかない。
一つだけ間違いないことは、全力で立ち向かうしかない敵であること。常に相手を大敵と思って油断するなという教えはあるものの、それでも身構えてしまうのである。
コートの反対側では、着付けを済ませていた千葉が、制服のままの宮崎茉莉奈を元立ちに軽く打ち込みをしながら、身体をほぐしていた。
こうして遠目から見ている分には、技量の高さに舌を巻きこそすれ、実に平和に感じる。
「さて。一本勝負にしましょう。反則はなし、有効打突は互いの自己判断。よろしいかしら?」
「は、はいっ!」
返事の声が裏返ってしまった。しかし、一歩コート内へと踏み出したことで、身体に染み付いた身構えが、心構えが。本能のままに鼓動を昂ぶらせてくれる。
互いに礼を交わし、提げ刀姿勢から三歩進んで蹲踞。
開始の号令はない。それでも、睨み合った状態から、二人が立ち上がったのは同時だった。
「やあああああああああ!」
気持ちで負ければ、その時点で喰われる。退くことは許されない。李桃が腹の底から気合いを放ち、一気呵成に踏み込んだ、刹那。
「けえええええええええっ!」
びくん、と。千葉の放った気声に貫かれた足が竦んでしまう。
まずい。固まった右足に意地を込め、後方へと蹴って面打ちを躱す。千葉が斬り下ろした竹刀が面金を掠め、焦げたような臭いが弾けた。
李桃は息を呑む。ようやく気づいた。気づいてしまったのだ。――剣を手にして敵を斬るということが、どれほど傲慢で重い業であるか。
脳裏を過っていく千葉の言葉に、彼女がどんな剣道を追い求めているか、彼女の背後に視える大蛇の正体は何なのか。ようやく、理解することができた。
「殺人、剣……」
声が震える。彼女に怯えていたのは、負けることへの恐れから立ち直れていなかったからではない。これまでの自分の剣道では考えもしなかった、全く別の問題だったのだ。
殺気。李桃が感じていたただならぬ気配は、命の危険そのものだ。
「何をぼさっとしていますの? 足が止まっていますわよ!」
追撃を放ちながら、千葉が咆哮する。面金は打突部位ではないため、有効打突になることはない。つまり、どちらかが場外に出た訳でもない限り、仕切り直す必要もない。
李桃は気を引き締め直す余裕も与えられないまま、苛烈な攻めを必死で凌いでいた。
辛うじて面を反撃すれば、竹刀ごと削ぎ落とすような出ばな小手が降り、いっそのこと受け止めて耐えようとしても、その防御ごと押し付けるような重い一撃の的となる。
面を打ったままの体勢で、こちらの顔面へと押し寄せる拳に吹き飛ばされた李桃は、もう虫の息だった。あの日の試合ではもう少しまともに動けていたはずだが、思っていたよりも、遥かに差がついている。正直、手も足も出ない。
場外に出ていたことが不幸中の幸いか、千葉は追撃を止めた。彼女はおぞましいほどに冷酷な瞳でこちらを一瞥してから、開始線へと戻っていく。
李桃は小手越しの手を床につけながら、やっとの思いで立ち上がった。
「立ち上がる気概はおありなのね。よろしい、三流から二流へと戻ってきた貴女には、相応の礼を以てお相手して差し上げますわ」
「…………」
相応の礼とは、つまるところ『手加減の度合い』なのだろう。構え直した李桃は、千葉の背後にいる大蛇が舌なめずりしたことに気づき、慄然とした。
とぐろを巻いた蛇が次にとる行動など、決まっている。牙を剥くのだ。
「い、いやああああああっ――――――っ!?」
闇雲だった。打とうとする意志も、狙いもあったものではないが、ただただ手を出さなければいけない気がして、悲鳴を上げながら飛びかかった。
そんな李桃の振り上げた竹刀を、手を、一瞬にして千葉の竹刀が潜り抜けてくる。
ああ、突かれた。そう気づいた時には、既に体の重心が大きく後方へと浮き上がっていた。
高校剣道から使用が許される『突き技』。その中でも特に正しく命中させることが難しく、一方で相手を痛めつけるために邪な剣士が多用する、最も危険な技――『迎え突き』。
千葉の放った突きは、わざと喉元に外すような下衆のそれではなく、面の喉部分にある突き垂れを正確に撃ち抜いた妙技。
数メートルも投げ出された李桃は、背中を強かに打ち付けた。打突部位を捉えられた突き技のため外部的なダメージこそないが、彼女にはもう、立ち上がる気力も残っていない。
「モモちゃん!」
姫芽香たちが駆け寄ってきて、李桃の面紐をほどいてくれる。
そんな中で千葉は、李桃に対して侮蔑、嘲笑、怒りや拍子抜けといった色を一切帯びることなく、ただ温度のない目で、見下ろしているだけだった。
一本どころか、ろくに打ち込むことすらできないままの、惨敗だった。
* * * * * *
「やたらと靴があるんだが、何かあったのか……?」
気だるげな声とともに扉を開いた赤ジャージが、入ってくるなり李桃に飛び付いた。
「おい李桃、李桃!?」
「大丈夫です、外傷はありません」
本人の代わりに答えた姫芽香を「んなこた見りゃ判る!」と乱暴に怒鳴りつける。問題は、歯をがたがたと震わせて小さな体を抱き、目を剥いている李桃の内傷の方だ。
「おい。これは、一体何の祭りだ……?」
打つ手なしと諸手を上げた紅葉は、きっ、と首を千葉へ向けた。
「お前たちは大江実業の連中だろう。何をしに来た!」
『柳沼紅葉先生、柳沼紅葉先生。職員室へお戻りください。繰り返します――』
彼女の一喝と同時にチャイムがなり、校内放送が流れる。どうせ職員会議の席に忘れ物をしたか何かだろうと踏んだ紅葉は、舌打ち一つでアナウンスを無視した。
「答えろ、事と次第によっては容赦はしない。大方、オレが誰かってのは知ってるんだろう?」
「もちろんですわ、柳沼先生。十年前の紅花国体で、我が校の顧問とともに県の選抜選手として全国を制した、伝説世代の一人『悪鬼の紅葉』。で、ございますわよね?」
千葉は淡々と、張った水面のように落ち着いた表情で見据え返してくる。
「それではこちらの要件をば。わたくしたちは、伊氏波高校剣道部に試合を申し込みます。日取りは約二週間後、ゴールデンウィークが明けた週末の土曜。
その試合に負けた方は、剣を捨てて廃部にすること、という趣向は如何でございましょう?」
「おいおい、そういうことを生徒が勝手に決めていいのか?」
「――構わん、俺様は認めている。あとは紅葉、貴様の承諾を得るだけなんだよ」
にわかにかけられた声は、紅葉の表情を煩わしさに歪ませた。
カジュアルジャケットを身に纏い、鋭い歯を見せて嗤う長身痩躯の女性。頭の後ろで結ばれた長い髪は龍の尾のように揺れ、しなやかに伸びた四肢は虎の爪のように隙がない。
「久しぶりだなぁ、おい。せっかく呼び出してもらったんだがな、職員室に戻れという放送は聞こえなかったか?」
「桜花……テメェ」
視線が交錯する。女性の名は内村桜花。大江実業高校剣道部の顧問にして、かつての国体選抜において伝説世代と称されたうちの一人、『羅刹の桜花』その人である。
「『羅刹』様が新設剣道部くんだりまでわざわざご苦労なこって。何企んでやがる?」
「うむ。貴様ら、先日『慧眼』が率いる剣道部と練習試合を行っただろう? 弱小校ということは不本意だが、あそこには俺様の親戚が通っていてな。聞いたんだよ。剣士の誇りに泥を塗り、武道場を見世物小屋にしようとする輩がいるらしいとな」
「あー、もういい、テメェの言いたいことは大体分かった」
紅葉は抱えていた李桃の上体をそっと下ろし、立ち上がった。
「上等だ。オレの教え子たちに喧嘩を売ったこと、後悔させてやるよ」
「はっ、剣から逃げた軟弱者が囀る。せいぜいゴールデンウィークの間に鍛えておくことだ」
内村は駄目押しだとでもいうように吐き捨て、哄笑しながら去っていく。
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