アマツヘグイ

雨愁軒経

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第四章 ロクドウツジ

エピローグ

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 四年近く、月日が経った。正確には三年半だろうか。

 強姦は5年以上の有期懲役である。初犯だろうと金があろうと、罰金を払ってさよならはできず、結果、ここまでの時間がかかった。模範囚という評価を頂戴したが、それでも、刑期を満了するまでの仮出所、という扱いらしい。

 無言でスナック菓子を食うだけの誕生日会を3度ほど経て。その時でさえ厳しく目を光らせていた割に、手続きを終えた瞬間、刑務官から奇妙な奴だったよと肩を叩かれた。

 明日の観桜会――これまたほぼ無言の花見のことだ――にくらいは参加したかったです、なんて冗談で返しそうになったが、口にすれば本当に残らされてしまいそうで、口を噤む。袋貼りにも飽きていたところなのだ。出られるのならば、拒む理由もなかった。


 姉から連絡があったと聞かされた。忙しくて迎えにはいけないから、漆山から山形までの三駅分歩いてこい、とのことらしい。

 少し、ホッとした。帰ったところで、待っているのはさもしい独り暮らしなのだから、いっそ、季咲と顔を合わせないまま娑婆の空気とやらに耽溺するのもアリだろう。

「お世話になりました」

 頭を下げて、完全に塀から出たところで、高く昇った太陽の方へ振り返る。

 桜が、綺麗だった。

 すぐ近くの国道へ向かうトラックが横切り、排気ガスが桜を飛ばしてしまう。ふと、未だ見ぬ新潟の桜を連想した。SLの吐き出した煙は、こんな風に桜を汚したのだろうか。

 収監されてすぐの頃、面会に来た季咲が、冬子は無事に卒業したと話してくれた。その後は知る由もないが、それを聞けただけでも十分だった。

 受刑中、片時たりとも冬子のことを忘れたことはなかった。毎晩うなされるほど胸に突き刺さった痛みは、半強制的な禁煙など塵芥に感じるほど苦痛だった。

 あの日、取調室で警察官から「気は確かか」と詰られた。気は狂いそうだった。

 檻にぶち込まれてすぐ、他の受刑者から「よく平気な顔をしてられんな」と嘲笑われた。心配されなくとも、培ったポーカーフェイスが剥がれかけるくらいにはボロボロだった。

 正気や平気で、できるはずがない。心から愛している女性に対して、その日々のすべてをなかったことにすることなど。

 記憶の最後に残っているのは、冬子の怯えた顔だった。無理もない。視線があったわずかなタイミングで、彼女の瞳に映っていたモノを見た時には、俺自身が戦慄したくらいだ。

 悪魔になる、と歌った曲があったが。アレはもう、外道や化生の類だろう。ひきつる頬を気取られないように引き上げ、懺悔に垂れようとする目を叩き起こした歪んだ顔は、これが伝説に残る幽鬼の正体だと、本能的に理解した。


 彼女が進学した専門学校は二年制だったか。今頃は社会人、就職先は見つかっただろうか。元気でいてくれているだろうか。

 舞い散る花びらが心を濯いでくれることを願いながら、桜並木を歩く。


 遠くの方から、幼い男の子の手を引いて歩く女性が見えた。

 赤のジャケットに白のワンピースという、武骨にも見える出で立ちではあるものの、艶やかな長い黒髪が花吹雪に映える、桜の枝を折ったような美人だった。我が子を刑務所の前で散歩させるのは、どうかと思うが。


 眩しくなって、視線を伏せて歩く。

 男の子の足が見えて、足早にすれ違ってしまおうとした。それなのに。

「桜、綺麗ですね」

 声をかけられた。膝が震える。

「髪に花びらが付いたのだけれど、取ってもらえるかしら」
「……暫く、そのままで」
「どうして?」

 必死に頭の中のページを捲る。畜生、最悪だ。

 彼女の言葉も、声も、仕草も、笑顔も、温もりも、唇も。余すところなく憶えているというのに。肝心の、自分自身の言葉が出てこない。

 彼女にどう語り掛けたか、どう囁いたか、どう髪を梳いたか、どう笑いかけたか、どう抱き締めたのか、どうキスをしたのか。

 否。憶えているはずだ。喉元まで出かかっているのだから。


 ただ俺は、それを口にしていいものか、迷っている。

「似合って、いるからだ」

 声が震える。

 歯を食いしばって堪えようとしても、痙攣をし始めた横隔膜は止まってくれやしない。

「ありがとう。でも桜は嫌い。花の下が怖ろしいから」
「坂口、安吾か」
「さすが」

 頬に、どうしようもない程熱いものが伝う。

 立っていられなくなりそうだった。

 それでも、確認しなければならないことがある。

 ページを遡る手を止めて、後ろの方の、止まってしまった白紙のところへ戻る。

「その子の名前を、訊いても?」
「想像付いてるくせに、イジワル。栄慈だよ」
「ああ……いい、名前だな」
「でしょう。未来が栄え、慈しまれるように、って。父親の名前からも、一文字いただいているんだよ。――ほら、栄慈」

 彼女が頭を撫でてやると、栄慈と呼ばれた男の子は、やたっ、と笑った。

「おとーさん、だっこ!」

 確かに噛み合わせたはずの歯が、カタカタと鳴る。

「な……ぜ……」
「あぶらかたぶらー。ちゃんと毎日、写真を見せて調教していたからね」
「調教……って、お前な……」

 不意に、細くしなやかな指に頬を包まれた。それが、目元に溢れるものを拭うためだと分かったとき、とめどなくなった。

「お勤めご苦労様でした。おかえりなさい、栄助さん」

 差し出された手に、青い箱が握られていた。愛飲していた『ピース』だ。

「俺、は――」
「赦されていいのか、って? そんなの決まっているでしょう。成人式も寂しかったし、卒業式なんて、二回分も見逃されたんだよ、許してなんてあげないから」

 そう言って彼女は――冬子は、笑った。本当に髪に付いていた桜は、彼女に似合う色だった。

「ああ、いけない。忘れるところだった」

 彼女が栄慈を足下に呼び寄せる。

「さあ、目を閉じて。十数えてごらん」

 栄慈はそれに頷いて、かくれんぼでも始めるかのように、母親の足に顔を伏せた。

「いーち、にーい……」

 微笑ましい光景に陽の光が差し、視界がプリズムのようになっていく。


 そこに、ペールオレンジの花弁が過った。


 冬子が手の平を振りかぶったのだと理解したときには、視界から彼女の色が外れ、左頬に鮮烈な痛みが走っていた。

 この痛みを忘れて、もう何年になるだろうか。記憶を――母の愛情を思い出すために、引っ叩かれたところが熱く震える。

「ん、なかなかいい音がしたね。気が引けるけれど、気持ちいい。変な感じ」

 自分の手をさすりながら、彼女はふにゃっと相好を崩した。

「ひとまずこれは、あの日、名前を呼んでくれなかった分。言いたいこと、怒りたいこと。それと、甘えたいこと。まだまだあるからね、覚悟していてよ」

 ちょうど十を数え終えた栄慈の頭を、しゃがみこんで撫でてやってから、冬子は強めに吹いた花嵐に目を細める。

「風、強くなってきたね。ほら、そっちに車、停めてるから。ちゃっちゃと栄慈をだっこして、行こ。季咲さんがご飯の用意して待ってくれてるし。あ、そうだ、奈緒ちゃんが桜餡の大福を持ってきてくれるって」
「やたっ、だいふくー」
「やたっ、だよねー」
「ねー」

 視界がぼやけて、桜が冬子の髪に溶けていく。どうにか見逃さないように目を凝らせば、彼女の方から、花飾りを目の前にまで近づけてくれた。

「ちゃんと、腹八分目にしておいてよね。三年半分、私を食べられるように」

 懐かしい囁き。それなら飯など入る余地がない、という冗句は、声にならなかった。

 気が付けば冬子と栄慈の足下に跪き、生まれたばかりの子供ように泣き喚いていた。

 全て失って、この身一つしか残っていない。しかし、この身が、心が、残っている。


 人生の歯車の噛み合わせがずれたとするのならば、それは一体いつのことだろう。

 ただひとつ、確かに言えることは、自身の選択に因るものなのだということだ。愛した女性に非道い言葉を浴びせたことも、それでも泣くことのできなかった自分の薄情さも。そうした事実から逃避をしたくなって、人はしばしば、運命だとかいう言葉を口にする。

 それでも時折、運命の悪戯、とやらが訪れることがある。ずれた噛み合わせが正の方向にずれ直すことで、悲しい螺旋が、幸福の輪廻へと変わる。彼女が差し伸べてくれた手で、涙を思い出すことができる。

 それもまた、運命だというのならば。

 命を懸けて恩を返すなどという傲慢を願っても、笑ってくれるだろうか。それとも、そんなことは当然だと、叱られるだろうか。


「冬子」


 愛しい人の名前を呼べば、返事があった。


「もう一度、君を愛させてくれないか」

「ん、やだ」


 冬子はくすくすと可笑しそうに「そんな顔をしないでよ」と舌を出した。


「私は途切れたことがないんだよ?」

「ああ、そうか。そうだな」


 目元を拭い、立ち上がった。


「愛している」

「ん。私も、愛しています」


 栄慈を抱き抱え、桜並木を寄り添って歩く。
 それだけで。ただ、それだけで良かった。

 持てる力の全てを尽くして、歩き続けよう。

 最愛の女性と、彼女との子供が、幸せでいられるように。





――アマツヘグイ(了)――
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