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第四章 ロクドウツジ
(6)愛していたわけではないと
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千本鳥居のような再三の『大丈夫なの』を通過して、晴れて私は、性犯罪被害者のメンヘラ女という称号を首にぶら下げることで下校を許された。大丈夫か、だなんて、大切な人が逮捕されることが平気な女がいるとしたら、どうかしていると思う。
すっかり暗くなった昇降口で靴を履き替える。
降っていたはずの粉雪は、雨に変わっていた。
傘立てに差しておいたはずの傘がない。コンビニで買った透明なやつだったから、気づかれないだろうと思われたのかもしれない。ところがどっこい、名前も書いていない自覚はあるから、必ず、六つある穴の壁側の真ん中に入れるって決めている。
……なんて、気づいたところで、連れて行かれてしまった傘は戻ってこない。
身体を冷やすのは怖いけれど、もう、雨に打たれて帰ろう。びしょびしょのまま、帰ったら不貞寝をして、いっそ濡れたフローリングと一緒に腐ってしまえばいい。
絶望へのはじめの一歩。踏み出して、ため息を吐いたところで、声をかけられた。
「君が、薄墨冬子ちゃんだね」
綺麗な女性だった。コートを着ているけれど、多分、スタイルいい。スーツでも来たら一流のキャリアウーマンに見えそうなくらい、理知的な目をしてる。栄助さんに似ている、と思いかけて、どれだけ未練がましいのだと、また自己嫌悪。
「どちら様でしょう」
「ああ、ごめんね。私は長谷堂季咲。あのバカの姉だよ」
えっ、うそ、ほんとう。栄助さんの面影を見たのは、妄想ではなかったなんて。
けれど同時に、恐怖を感じた。もしかしたら、弟はお前のせいで捕まったんだ、とか、殺されてしまったりする可能性さえある。鞄を振り回して反撃するべきか。それとも、栄助さんのお姉さんだというのなら、神妙にするべきだろうか。
私が目を白黒させていると、季咲さんはくしゃっと微笑んだ。
「栄助が話していた通りだね。いい目をしてる。そんなに構えなくていいよ、私は冬子ちゃんの味方だから。あ、冬子ちゃんって呼んでもいいよね」
「えっ、あ、はい。お姉さんこそ、どうして……」
「季咲でいいよ。いやあ、家にいても五秒ごとにどよーんとため息を吐く居候ちゃんがいるもんでねえ。仕事が手に付かないし、気にかければ『一人にじでぐだじゃいいい』とか言われるし。仕事部屋に籠っても電話がひっきりなしだしでねえ。スマホの電源切って、居候ちゃんも親御さんに任せて、来ちゃった」
なんて、おどけてみせて。
出しつくしたと思った涙がまた、つう、と零れた。
「それで、私のところに?」
「うん。あのバカと約束したからねえ」
「約束……」
不意に、えずいて蹲る。季咲さんが駆け寄って、支えてくれた。
冬の雨の夜なのに、背中に感じるのは、温かい手だった。
「大丈夫?」
「……はい、平気です」
季咲さんは、そっか、とだけ言って、私の手にホットの缶コーヒーを握らせてくれる。
「だいぶ温くなっちゃってるけど、ごめんね。乗って。少し、話そうか」
可愛らしいライトグリーンの軽自動車まで案内された私は、後部座席に乗ろうとして、季咲さんから「いやいや、話すんだから隣に来てよ。さみしーなー」と、軽い調子で助手席をぼふぼふ叩かれた。
なんだろう、栄助さんと色々似ている気がするのに、口を開くと全然違う。きっと、このお姉さんにからかわれ続けて、ぶっすーとした顔になってしまったんだろうと思うと、少し、笑いそうになった。
車に乗り込むと、彼と同じタバコの匂いがした。
「奈緒ちゃんにハサミを振り下ろさないでくれて、ありがとね」
学校の敷地を出たところで、季咲さんが呟くように言った。
「あの子、うちの従妹なんだけどさ。今、随分参っちゃってるんだ。色々。従姉の私に免じてくれ、ってのも変な話だけれど。できれば、これからもよろしくしてやって欲しい」
「……正直、今は。頷けるか分かりません」
「ん、それでいいよ。っていうか、一番悪いのはあのバカだから。ったく、壊す覚悟をしろとは言ったけれど、壊し方ってもんがあるでしょうに。あのバカ」
ハンドルをボンゴのようにべちんべちんと打ち鳴らす彼女に、もう、耐えきれない。笑ってしまう。
「バカ、バカって、季咲さん、そればっかり」
「ああ、ごめん。品がなかったかな」
「いいえ。だって、栄助さん、バカだし」
「違いない」
あかねヶ丘の方へ出る交差点に差し掛かったところで、左ウィンカーが点いた。
「南陽でいい?」
「えっ……?」
「ドライブの目的地。今日、終業式だったんでしょう。だから赤湯温泉に行って、ゆっくり一泊して、明日は米沢で美味しいものでも食べて帰ろっか、っていうプラン」
「…………はい?」
一体何を言っているんだろう、この人は。
「栄助さんが捕まったんですよ」
「うん。そだね」
「そんな時に、呑気に温泉だなんて」
「プラス美味しいものね。米沢牛とか」
「いや、あの。私の言いたいこと、伝わってます……か?」
戸惑う私の心を、季咲さんはからからと笑い飛ばした。
「や、だってさ。奈緒ちゃんと、学校と、警察から話を聞いて思ったんだけど、捕まったのって、あいつの選んだことでしょう」
「ええ、まあ」
「冬子ちゃんはその理由、心当たりあるって顔してるけど?」
「……はい」
「じゃあ、一緒になって下を向いてたってアホらしいじゃない。学校の方も、冬休みの間にカテイノジジョーって呪文唱えて転任する体を取りたいらしいから。そうしてくれるんなら、その間に弟の嫁と小姑で仲を深めようかなーって」
言葉を失った。そして、分かった。
栄助さんは直接話してくれたことがないけれど。きっと、彼が心を閉ざした時に立ち直れたのは、この人のおかげだ。
「あ、勝手に弟の嫁、って先走っちゃったけれど。一つ、確認。冬子ちゃんは、栄助のことを愛していたかな」
「いいえ」
この人の前でも、素直になれるって、分かった。
「おおっと、予想外。愛していたわけではないと」
「はい」
ばっさり切り捨てる。だって、そんな質問、考えるまでもないことだもの。
窓の外を見る。蔵王に差し掛かったところから望める、夜景の向こうの方。小さくって見えないけれど、今頃、あの辺りにある山形警察署に、彼はいる。
「愛しているんです。今でも」
すっかり暗くなった昇降口で靴を履き替える。
降っていたはずの粉雪は、雨に変わっていた。
傘立てに差しておいたはずの傘がない。コンビニで買った透明なやつだったから、気づかれないだろうと思われたのかもしれない。ところがどっこい、名前も書いていない自覚はあるから、必ず、六つある穴の壁側の真ん中に入れるって決めている。
……なんて、気づいたところで、連れて行かれてしまった傘は戻ってこない。
身体を冷やすのは怖いけれど、もう、雨に打たれて帰ろう。びしょびしょのまま、帰ったら不貞寝をして、いっそ濡れたフローリングと一緒に腐ってしまえばいい。
絶望へのはじめの一歩。踏み出して、ため息を吐いたところで、声をかけられた。
「君が、薄墨冬子ちゃんだね」
綺麗な女性だった。コートを着ているけれど、多分、スタイルいい。スーツでも来たら一流のキャリアウーマンに見えそうなくらい、理知的な目をしてる。栄助さんに似ている、と思いかけて、どれだけ未練がましいのだと、また自己嫌悪。
「どちら様でしょう」
「ああ、ごめんね。私は長谷堂季咲。あのバカの姉だよ」
えっ、うそ、ほんとう。栄助さんの面影を見たのは、妄想ではなかったなんて。
けれど同時に、恐怖を感じた。もしかしたら、弟はお前のせいで捕まったんだ、とか、殺されてしまったりする可能性さえある。鞄を振り回して反撃するべきか。それとも、栄助さんのお姉さんだというのなら、神妙にするべきだろうか。
私が目を白黒させていると、季咲さんはくしゃっと微笑んだ。
「栄助が話していた通りだね。いい目をしてる。そんなに構えなくていいよ、私は冬子ちゃんの味方だから。あ、冬子ちゃんって呼んでもいいよね」
「えっ、あ、はい。お姉さんこそ、どうして……」
「季咲でいいよ。いやあ、家にいても五秒ごとにどよーんとため息を吐く居候ちゃんがいるもんでねえ。仕事が手に付かないし、気にかければ『一人にじでぐだじゃいいい』とか言われるし。仕事部屋に籠っても電話がひっきりなしだしでねえ。スマホの電源切って、居候ちゃんも親御さんに任せて、来ちゃった」
なんて、おどけてみせて。
出しつくしたと思った涙がまた、つう、と零れた。
「それで、私のところに?」
「うん。あのバカと約束したからねえ」
「約束……」
不意に、えずいて蹲る。季咲さんが駆け寄って、支えてくれた。
冬の雨の夜なのに、背中に感じるのは、温かい手だった。
「大丈夫?」
「……はい、平気です」
季咲さんは、そっか、とだけ言って、私の手にホットの缶コーヒーを握らせてくれる。
「だいぶ温くなっちゃってるけど、ごめんね。乗って。少し、話そうか」
可愛らしいライトグリーンの軽自動車まで案内された私は、後部座席に乗ろうとして、季咲さんから「いやいや、話すんだから隣に来てよ。さみしーなー」と、軽い調子で助手席をぼふぼふ叩かれた。
なんだろう、栄助さんと色々似ている気がするのに、口を開くと全然違う。きっと、このお姉さんにからかわれ続けて、ぶっすーとした顔になってしまったんだろうと思うと、少し、笑いそうになった。
車に乗り込むと、彼と同じタバコの匂いがした。
「奈緒ちゃんにハサミを振り下ろさないでくれて、ありがとね」
学校の敷地を出たところで、季咲さんが呟くように言った。
「あの子、うちの従妹なんだけどさ。今、随分参っちゃってるんだ。色々。従姉の私に免じてくれ、ってのも変な話だけれど。できれば、これからもよろしくしてやって欲しい」
「……正直、今は。頷けるか分かりません」
「ん、それでいいよ。っていうか、一番悪いのはあのバカだから。ったく、壊す覚悟をしろとは言ったけれど、壊し方ってもんがあるでしょうに。あのバカ」
ハンドルをボンゴのようにべちんべちんと打ち鳴らす彼女に、もう、耐えきれない。笑ってしまう。
「バカ、バカって、季咲さん、そればっかり」
「ああ、ごめん。品がなかったかな」
「いいえ。だって、栄助さん、バカだし」
「違いない」
あかねヶ丘の方へ出る交差点に差し掛かったところで、左ウィンカーが点いた。
「南陽でいい?」
「えっ……?」
「ドライブの目的地。今日、終業式だったんでしょう。だから赤湯温泉に行って、ゆっくり一泊して、明日は米沢で美味しいものでも食べて帰ろっか、っていうプラン」
「…………はい?」
一体何を言っているんだろう、この人は。
「栄助さんが捕まったんですよ」
「うん。そだね」
「そんな時に、呑気に温泉だなんて」
「プラス美味しいものね。米沢牛とか」
「いや、あの。私の言いたいこと、伝わってます……か?」
戸惑う私の心を、季咲さんはからからと笑い飛ばした。
「や、だってさ。奈緒ちゃんと、学校と、警察から話を聞いて思ったんだけど、捕まったのって、あいつの選んだことでしょう」
「ええ、まあ」
「冬子ちゃんはその理由、心当たりあるって顔してるけど?」
「……はい」
「じゃあ、一緒になって下を向いてたってアホらしいじゃない。学校の方も、冬休みの間にカテイノジジョーって呪文唱えて転任する体を取りたいらしいから。そうしてくれるんなら、その間に弟の嫁と小姑で仲を深めようかなーって」
言葉を失った。そして、分かった。
栄助さんは直接話してくれたことがないけれど。きっと、彼が心を閉ざした時に立ち直れたのは、この人のおかげだ。
「あ、勝手に弟の嫁、って先走っちゃったけれど。一つ、確認。冬子ちゃんは、栄助のことを愛していたかな」
「いいえ」
この人の前でも、素直になれるって、分かった。
「おおっと、予想外。愛していたわけではないと」
「はい」
ばっさり切り捨てる。だって、そんな質問、考えるまでもないことだもの。
窓の外を見る。蔵王に差し掛かったところから望める、夜景の向こうの方。小さくって見えないけれど、今頃、あの辺りにある山形警察署に、彼はいる。
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