アマツヘグイ

雨愁軒経

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第三章 オウゴンリツ

(10)鐘が鳴るまで、三時間しかないんだから

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 そっと触れるだけの優しさを、逃がさない。幼稚園の頃から不思議だったもの。王子様のキスでお姫様が目覚めて、幸せに暮らしました。はいほー、はいほー。ってさ。起きたところで、王子様にお礼のキスをしないのかな、って。はい、そこの嫌な私。オリジナルではキスさえしていないなんて、無粋なことは黙っていて。

 唇と唇を繋ぐ糸が引いた。壁の色が透けて、赤い糸に見える。二人がもう繋がっているような気がして、素敵。もう一度舌を絡めて、輪っかを作って通して、蝶々結びにできたなら、カンペキ。

「いいんだな。止まれないぞ」

 真剣な顔してそんなことを訊くものだから、思わず、笑いそうになった。

「何それ、様式美? 何にもカッコよくないよ」

 頬を膨らませてやる。まったく、こうだから困る。私はここにいるぞー、って、おでこをノックしながら呼びかけてやりたい。もう、舞踏会の場にいるんだから。浜辺で追いかけっこをしたいなら、外に行っているというもの。

「ほら。鐘が鳴るまで、三時間しかないんだから」

 腕を拡げて、ホールドの姿勢を取る。身を委ねる覚悟まで示したのだから、さっさとそっちも枠を作って迎えて欲しい。

 まあ、正直。舞踏会にどれくらいの時間がかかるのかなんて知らない。けれど、かの王子様とは違って、貴方はタイムリミットを知っているでしょう。

「だから、栄助さんの思うままに――」

 もう音楽は始まっているのだから。16ビートで、振り付けコレオグラフィはご自由に。あとは、シャル・ウィ・ダンス? という貴方の囁きだけ。これが本当の様式美だよ、栄助さん。

 後になってガラスの靴を片手にうろうろしなくていいように。そう、そうやって、しっかりと指を絡めて、離さないでいて。

「私を、灰かぶりを、シンデレラにしてください」

 そう言うと、彼は髪を梳いてくれてから、綺麗だ、と言った。ああもう、今度はラプンツェルだなんて。ただでさえ、頭の中がお姫様で渋滞中だっていうのに。

 小鳥のついばむようなキスで、イメージを引き寄せられる。色々なものが混じりあって、最後に残ったのは、彼のためのプリンセス。そうであって欲しい。ん、まだちょっと、不安。

「そんなにゆっくりしていて、いいのかしら」

 首筋への優しい手つきにじれったくなって、王子様を急かす。

「俺の思うままで、いいんじゃあなかったのか」

 イジワルな王子様は、ふっ、と歯を見せて、モジモジと擦り合わせる私の脚を撫でてきた。

 多分、震えているのが、バレてる。栄助さんのくせに。にぶちんのくせに。ほんとう、こういうときだけ超能力者になるんだから。ズルい。

 けれど、彼が私のことを考えてくれているおかげで肝が据わった。もう、遠慮なんてしないって、素直になることができて、泣けた。


 一つ、思い出したことがある。

 栄助さんが担任として初めてクラスにきた日。古文の授業で『追い風用意』の話をする前、一瞬だけ黒板に書いて、すぐに消してしまった『斎垣』という言葉。


 ちはやぶる 神の斎垣も 越えぬべし 今はわが名は 惜しけくも無し


 あれは、きっと。私を意識して、隠してしまった言葉。だから、今日まで話すこともしなかったけれど。あれを一番に書いてくれたんだと分かったとき、すごく嬉しかった。

 今も抱き締められる度に、囁かれる度に、進行形で募っていく。


 自分自身ですら、リストカットに血液嗜好症だなんてメンタルのやばい子、関わりたくないのに。それでも、真摯に向き合ってくれる人がいるんだって、伝わってるから。

 教師と生徒っていう、現実的な問題を考えれば無理なんだろうけれど。私の方は、いつだって、準備万端。我が名は惜しけくも無し、です。


 不意に、耳を押さえられた。視線がかち合う。金縛りにあったみたいに動けなくなる。かあっと顔が熱くなって、こめかみの辺りの脈が、脳の芯の方まで蕩かしていく。

「だめ。耳たぶ、熱くて、くっついちゃうよ」
「そのまま溶かしてしまえばいい」

 初めて、彼の前で一糸まとわぬ姿になった。腕の中に強く包み込まれると、体温の優しさの向こうに、やらしい鼓動が聴こえる。彼の中でも私の音がしている。

 ああ、やっぱり。この人が好き。大好き。

 すべてのリズムが一つになって。世界一息の合ったダンスを踊るカップルになる。ジャッジの評価なんてどうだっていい。私が微笑んで、彼が頷いてくれたら、それで満点だ。

「――冬子」

 こういう風に、彼が名前を囁いてくれたのなら。こんどは、私が頷く番。

「うん、いいよ。来て」

 高鳴っている胸の、真ん中の甘いところに、白い砂糖をたっぷり注いでコーティングしてほしい。掻き回して、メレンゲみたいに泡立ててから、貪るように飲み干してくれたなら。それが、こういう行為ぎしきを『食べる』って表現することの意味だと思うから。

 揺さぶられる勢いに振り落とされないように、暴れ馬にしがみつく。彼が動きづらそうにしているのは感じているけれど、こっちだって無我夢中なのだ。彼の吐息の中の一滴さえも零したくなくって、正気を保つので必死。許して欲しい。


 じっくりと、大人の味を教え込まれる。ブラックのコーヒーだとか、ものすごく辛いスープだとか、ミョウガのえぐみだとか、飲んだことはないけれど、もう二年もすれば飲めるビールのような苦味だとか。そういうものとは多分、大違いで。

 よく、歳を取ったら甘いものが食べられなくなる、なんて言われる。うっそだあ、って思いながら聞いていたけれど、今ならわかる。誰かに愛されているという、もっと甘美な天然モノを知ってしまったから、人工甘味料じゃあ胃もたれするようになってしまうんだ。


 だからさ、栄助さん。このままだと私は、黙っていても貴方の色に染まってしまうから。ちゃんと、貴方との恋を教えてもらっているから。

 もう、大丈夫。
 貴方はただ、私を求めてくれるだけでいい。


 ああ、そういえば。汗拭きシートを塗りたくった上に、念入りに追い風の用意をしたから、ちょこおっと雑味が入っているかもしれないのは、ごめんなさいだけど。

 私の味で、貴方の奥底にある苦いところを、全て上書きして。私も、そうなれるよう、がんばって尽くすから。それに気づいたときに、優しく見つめてくれて、ついでに頭をいい子、いい子、ってしてくれたりなんかしたら、それだけでもう、死んじゃうくらい幸せだから。

 存分に、召し上がれ。

 私の異食症が解決するとか、栄助さんが心の傷から真の意味で救われるだとか、そういう、どっちか、じゃあなくって。


 二人で一緒に。同じ色に溶けてしまおう。
 ねえ、栄助さん。
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