アマツヘグイ

雨愁軒経

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第三章 オウゴンリツ

〈4〉アメイジング・グレイス

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「君は、確か。サックスの」

 記憶にある顔だった。春にここで見かけて以来、アニメソングもイケる口だということで、季咲がいたく気に入っていた。

「差し支えなければ、ご一緒させていただいても構いませんか」
「ああいや。申し訳ないが――」
「いいよ」

 答えたのは冬子だった。

「安心してよ。栄助さんのピアノ、聴き逃さないから」

 そう言って、腕を軽く叩いて見せる。

「上等だ」

 即興演奏エチュードのお手並み拝見ということらしい。

 足下からサックスのケースを抱え上げた女性と共に、ステージへ向かう。

「せっかくだ。ジャズアレンジと洒落込もう」
「わかりました。胸をお借りします」

 それはこちらの台詞だった。こちとら、腕には現役を退いて六年もの鈍りがある上、胸にも先約が居る。貸してやれる空きなどないのだから。まして、目の前にあるのはグランドピアノ。家にあるのはアップライトのため、今回に向けたリハビリを始めるまではご無沙汰だった。

 席に着く前にピアノの屋根を上げる。使わないが、ついでに気分で譜面台を起こす。

 鍵盤を二オクターブ分ほど確認すると、中々どうして、急な頼みだったというのに調律に支障はない。マスターは伊達や酔狂で音楽を愛しているわけではないと、改めて思い知る。

 宴もたけなわの客席に一礼する。マスターと冬子以外はろくに意識を向けていないが、それでいい。大仰で格式ばった舞台を用意するような代物じゃあない。

「よろしく頼むよ」

 一人と一台に声をかけ、深呼吸。鍵盤に指をかける。

 シフトペダルを踏んで祈りを込めた。元々ピアノは三本の弦を叩いて一音を出す。鍵盤ごとハンマーをずらすことで叩かれる弦が減り、音量の減少と音色の変化が与えられるペダルだ。

 アメイジング・グレイス。かつて黒人奴隷で富を成していたジョン・ニュートンが、嵐の航海で自らの生命の危機に瀕し、神に祈ることを理解したきっかけから芽吹いた懺悔と感謝の詩。

 客席の一角が一瞬、ざわめいたかと思うと、酔いの喧騒が波のように引いていく。まるで、ニュートンの貨物船の穴が塞がれた時のように。

 客席の様子を耳で確認して、ペダルから足を離す。それを合図に、ソプラノサックスが産声を上げた。

 信心も碌に持ち合わせていない俺が祈ったところで、神を困らせてしまうだけかもしれないが。それでも、今だけは、神に祈ってみようと思う。

「(なあ、神よ。あの日、道を踏み外して彷徨っていた俺は、救い上げてくれたんだろう)」

 簡単なことだ。それと同じ恵みを施してくれればいい。

 誰もが皆、傷を負っている。ニュートンも、嵐の航海を転機として行動を改めていったが、それでも以降六年もの間、奴隷貿易に関わっていた。そんなことを、ここにいる客席の皆は知っているだろうか。世界中の、祈りを捧げる人々は知っているのだろうか。そして、それを知ることで、評価を変えるだろうか。

 ニュートンは奴隷貿易を断ち切れなかった悪人なのだから、この詩も欺瞞と罵るのか。あるいはこの詩を以て、彼の心の痛みを赦すのか。

 どちらが正解などとは断ずることができない。かといって、そこで思考を放棄してしまえば、心はたちまちに死んでいくだろう。


 テーブル席の若い社会人たちを思い出す。

 理不尽な扱いはされたくないと願いながら、自分たちは悪口三昧だ。では、彼らは悪なのか。それとも『自分たちも苦労してきた』などという御立派な大義名分を振りかざして、部下の苦しみに手を差し伸べる努力を放棄している老害の方だろうか。どちらの言い分も理解できる。未熟ならば邁進するべきだし、社会に出れば楽なことばかりではないということも真実だろう。

 恋や愛もそうだ。ひいては、人間関係も同じこと。

 初めて『社会人としての笑顔』で顔を覆ったとき、季咲はこちらを指さして大笑いしていた。気持ち悪いと。しかし実際、仮面を被っていた方が効率も良ければ評価も高くなる。そう反論すれば、彼女は『薄利多売を目指すなら、せめて売りなさいよ』とまた笑い転げた。


 一体、何が正しいのだろう。手首の傷を隠している冬子が悪いのか。それとも、それを見てしまって逃げ出した荒木が悪いのか。あるいは、冬子を勘当した両親か。もしかしたら、冬子に血の味を教えた過去なのかもしれない。

 恨むだけなら簡単だ。人生が歪められたことを、運命だとか、サダメだとかいう言葉を口にして逃避すればいい。だが、その中にあって、手を伸ばそうと藻掻く者もいる。かつて現役時代に知り合ったピアニストにも、失明しながら前を向き続けている青年がいる。


 これから先、未来に何が待っているかも分からない。しかしそんな恐れから、わずかでも彼女を解き放つことができるのなら。喜びと安らぎのベールに包まれるのなら。

 祈りを込める。ラウドペダルを踏んで弦からダンパーを離し、こえを響かせる。


 マスターには茶化されたが、愛おしい女ただ一人のために鍵盤を叩くのも悪くない。

 賞レースの勝敗や技巧的な優劣のプレッシャーから解き放たれ、己の持てる感受性のありったけを指先に込める。鍵盤を愛撫する。彼女に伝われと切に願いながら。

 ささやかでいい。俺たちにとっては、それが驚くべき恵みアメイジング・グレイスなのだ。


 大サビのところで、一瞬、音が跳ねた。

 左手の和音の着地点がずれて、歪に重なった。複雑な和音のフィギュレーションを弾くわけでもないのに指がもつれたか。否、これは。

「(……ちぃっ)」

 もつれたのは腕だ。神の試練とやらは厄介なことをしてくれる。練習では一度も発生しえなかったアクシデントが襲う、本番の悪魔を送り付けてくるとは。ああ、これも逃避か畜生!


 視界の端でカウンターを窺う。冬子の指からストローが落ちた。


 最悪だ。譜面も読めず、今のミスもアレンジの一つに見えている素人の目は誤魔化せただろうが。こいつにだけは、目一杯に伸ばした手の歯切れが悪くなったことは見抜かれてしまった。

 当然だ。彼女は薄墨冬子なのだから。おそらく、その理由さえも。

 気を取り直す。祈りのための指を組む。天を仰ぎ、剥がれてしまった左腕の瘡蓋は意識の外に追いやる。

 頼む。拙い手なりに作り上げた蝋の翼なんだ。どうか、焼かないでくれ。

 しかし懺悔室の扉は、演奏終了という名の神父によって閉ざされた。
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