アマツヘグイ

雨愁軒経

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第三章 オウゴンリツ

〈3〉『灰かぶり』って、私にぴったりだよね

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 それから週末までは、スキマ時間を見つけては鍵盤を叩いていた。おそらく、現役時代にもこれほど胸を躍らせてピアノに向き合ったことはないように思う。奈緒が来る金曜も、予定が入ったという名目で断らせてもらい、その日の晩はカロリーメイトで済ませた。久々に口にすると、存外美味かった。

 冬子とは夕方に霞城セントラルのロビーで待ち合わせ、そのまま『ンダベナ』へ向かう。

 マスターには話を通していたし、レストランとしての側面も持っているため杞憂かもしれないが、彼女には用意していた帽子を被ってもらった。

 まだ酒を飲むにも早い時間だ。

 がらんとしたカウンター席に陣取ると、マスターがにたにたと顔を寄せてきた。

「おい、栄の字。どこでこだなめんこい子ば捕まえて来たんだず」
「捕まえたとか言うな、鬱陶しい。ピアノに興味があるうちの生徒だと言ったはずだろう」

 一蹴するも、彼は「どうだかねえ」と上機嫌でフードメニューを二種類取り出した。レストランのものと、バー用のスナックのものだ。

「嬢ちゃん、何でも好きなもの頼めな。おじさん負けてけっがら」
「どうせなら全持ちしろよ。今弾いて帰ってもいいんだぞ」
「かーっ。生意気あがすけつかしやがってよお!」

 軽口を叩き合っていると、スーツの肘の辺りを引っ張られた。冬子が帽子のツバから送ってきた窺うような視線に、頷いて帰す。

「悪いな。ある程度客が入ってから弾くという約束なんだよ」

 それが、今日この場を借りる条件だった。弾かないのならば季咲も呼んだ挙句に料金を倍、他を当たるにしても生徒を酒場に連れてくる教師がいると言いふらす、などと脅してくるのだから、抗えるはずもなかった。

「俺がどれだけ頼んでも弾いてくれねえくせに、彼女のお願いなら二つ返事ってんだから、こいつは」
「ほお、マスター。やっぱり今日は奢りにしてくれるのか」
「なんだず、ちょっとからかっただけだべしたや。愛の力はすげえってよ」
炭酸水ペリエ
「ぐ、悪りがったから、そんな怒らねえでけろや」

 マスターの態度を見れば、あの脅し文句も冗談だろうことは分かる。

 別にそれを分かっていて彼に頼んだわけではないが、こちらとしても、どこか、ここで弾きたいという想いがあったのは本当だった。

 きっかけが欲しかったのかもしれない。そして、再びピアノを誰かのために弾くことを、見届けてくれるオーディエンスが。

「ねえ、マスターさん。ノンアルコールのカクテルで、甘めのものってありますか」
「ぴったりのがあるぜ。フルーツジュースを混ぜたヤツでな。その名も『シンデレラ』!」
「わあ、素敵」

 明るい声を出した冬子は、手際よく準備を始めたマスターに聞こえないよう耳打ちしてくる。

「『灰かぶり』って、私にぴったりだよね」
「言っておくが、仮にマスターがお前のことを知っていても、皮肉を言える脳味噌はないぞ」
「ふふっ、だろうね。ちょっとムサい――こほん。もとい、温かい人だもの。栄助さんが通う理由も分かるよ」

 本当に、こいつは。見透かされたのが悔しくなって、煙草に火を点ける。

「何か食べておけ。また風邪でも引かれたら敵わん」
「はあい。じゃあ、アボカドのミニピザをひとつと、ライチを二人前で」
「好きなのか。ライチ」
「うん。ちょっとえぐみのある甘さがいいよね」

 栄助さんのみたいで、と要らぬ囁きが添えられた。誕生日であるせいか、場所が場所であるせいか、今日の冬子は浮足立っているように見える。

「なんだず、やっぱり美人はライチが好きなんだな。ほら、あれだ、楊貴妃。三大美女の。あいつもライチが好きだったって、テレビかなんかで見たぜ」
「む、失礼な。ちゃんと私は風に飛ばされますう」
「えっ、は、なにて?」

 混乱したマスターが、視線で縋りついてきた。

「楊貴妃には豊満説があってな。彼女よりも前の時代に、趙飛燕という痩せぎすな女性がいたんだが。玄宗皇帝がそれを引き合いに、楊貴妃に対して『そなたならば風に飛ばされまい』とからかったという逸話のことだよ」
「中国の四字熟語には『痩燕環肥』というものがあるんです。趙飛燕のようにスレンダーで、出るところは玉環――つまり楊貴妃のように。って。ああでも、傾国って意味では合っているかもね。栄助さんを傾けさせる女だもの、私」
「言ってろ」

 マスターは唖然と声を漏らした。

「なんつーか、季咲ちゃんみたいな子だな」
「ふざけろ。アレと一緒にするな、アレと」
「ねえ、その季咲ちゃんっていうのは、どちら様?」
「前に話したろ。姉貴だ」
「んだのよ。こいづら本当に仲良ぐってなあ――」

 勢いを取り戻したマスターの思い出語りは聞くともなく、炭酸水で喉を潤してから、気もそぞろに指のストレッチを行う。

 もし。俺のピアノを楽しみにしてくれていたのならば。必ず、応えてやりたい。


 軽くナッツをつまんでいるうちに、客も集まってきた。カウンターの個人客が二人、テーブル席にはカップルらしき男女と、団体様御一行が二組。

 団体の片方は自分と同年代くらいの連中の集まりだった。上司の悪口で盛り上がっているのを聞く分に、どこかの会社の若手の集いらしい。老害連中とつるむのが嫌なだけで、飲みニケーションとやらは健在か。

 そろそろ頃合いだと、腰を上げる。

「冬子、リクエストはあるか」
「そうだね、アメイジング・グレイスとかどう」
「なるほど。『風に立つライオン』か」

 アメイジング・グレイスがメロディに取り入れられているさだまさしの楽曲を挙げると、冬子はカクテルグラスに挿したストローを咥えたまま満足そうに笑った。

「さすが、分かってるね。話が早くて嬉しいよ、栄助さん」
「じゃあ、俺はルパン三世のテーマな」
「そっちは請け合わん。茶々ではなく酒を淹れていろ」

 拗ねたようにしゅんと引き下がったマスターを横目に、いつかは、とすまなく思う。

「あのう、今から演奏されるんですか」

 ピアノ席へ向かおうとしたところで、カウンターの端に座っていた女性から呼び止められた。
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