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第二章 オイカゼヨウイ
(8)追い風になるように
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急に足取りの重くなった彼を引っ張りながら、お化粧品の専門店に入る。店員さんにお願いすると、いくつかオーデパルファムのサンプルを用意してくれた。夏仕様の袖を捲ったとき、一瞬、栄助さんがぎょっとした。大丈夫、出すのは手の甲と、腕の背の側。そこへ気になったサンプルたちを吹きかけて、一度、そのお店を後にする。
「気に入ったものがなかったのか」
「ん、違うよ。ノートって、聞いたことないかな」
「生憎と、そういうものとは無縁でな」
あら意外。お姉さんだとか、元カノさんだとか、エプロンの君だとか。栄助さんの身近には女性がいるようだから、そういうことも知っていると思っていたけれど。
「これはこれは、調教のしがいがありそうだね」
「調教って、お前な……」
「簡単に言うとさ、トップ、ミドル、ラストで香りが変わるんだよ。最初の十分くらいと、三時間くらいまでと、消えるまで」
「なるほど、薬液の揮発か。なら、その十分を潰すつもりなんだな」
「さすが、正解。香りの概要は見せてもらったけれど、実際に試して見ないことには、ね」
やっぱり、地頭がいい。表現が固いのは笑ってしまいそうになるけれど、私が一を伝えるだけで、二も三も理解してくれるのは頼もしい。
エスカレーターで二階に上がりながら、これならジェラートが後でもよかったね、なんて他愛のない話をして。ちょうど、目の前の楽器店が目に入った。
「ここでは弾かないからな」
「ちぇ、まだ何にも言ってないのに」
拗ねて踵を返す。こうなったら、ゲームセンターででも浪費させてやるんだから。
そう思った矢先、目の前に無造作に並べられていたものを見て、いいことを思いついた。
「ねえ、栄助さん。恩返しさせてよ」
「……何だ、藪から棒に」
怪訝な顔の前で指を立て、そのまま、すいーっと横にシフト。御覧に入れますは四台のマッサージチェア。立っている旗には無重力マッサージと書いてある。正直、イミワカンナイけど。重力がなかったらどうやって座るのさ。
「十分で二百円だって。時間的にも、ちょうどいいんじゃないかな」
「これに座れと」
「だいじょーぶだいじょーぶ。あんまり人もいないし」
栄助さんをチェアに押し込んで、私のお財布から二百円を投入。傍から見ていると、スイッチを入れた瞬間、彼の強張った体がぐでーっ、と垂れていくのがはっきり分かって、バレないように慌てて口を覆って一歩さがる。まさか、こんな堅物系男子がゆるキャラみたいになるなんて、誰が想像できただろう。ふふっ、だめ、笑うよ、こんなの。長谷堂先生は爽やかあ、なんて黄色い声を出している子たちに見せてやりたい。あ、やっぱりダメ。独り占めしたい。
横隔膜がゴキゲンなせいで未だぷるぷると震える手を黒いシートの隙間に差し込んで、彼の頭にそっと添える。
どんなマッサージチェアでも首までが限界。だから心ばかりのお返しに、ヘッドスパをしてあげたかった。
栄助さんは小顔というタイプではないから、頭も大きい。ずっしりと、脳が詰まっているという感じがする。温かくて、思ったよりというか、むしろイメージ通りというか、歪な形。頭頂部の少し後ろ側がぺこーんと平たくなっているのは、保育器にいる頃はやんちゃだったからかしら。そういえば、彼の子供の頃については一切聞いたことがない。今の落ち着いた雰囲気も好きだけれど、泥んこになって走り回っているというのも、想像すると可愛い。
手首と腕につけている香水を彼の鼻に馴染ませるように、できるだけ身を乗り出してやる。
「冬子。お前、美容師のセンスがあるんじゃないか」
「そこはエステとか、リフレとかじゃないんだ」
そう言うと、栄助さんがわずかに身じろぎした。なんだかんだムッツリだよね、彼。
黙ってしまった栄助さんは、やがて、呆れているのかリラックスをしているのか分かりにくい長嘆息をしてから、吐息たっぷりの声で言った。
「髪を洗ったあとの、この時間が好きなんだよ」
へえ。どうやら後者だったみたい。違うな。前者四割、後者六割、くらい。
「ねえ。私が美容師さんになったら、来てくれる?」
「もちろんだ。その時は是非、指名させてもらおう」
イフの話なのに、なんだか、将来の約束をしているみたいで、腕の付け根の辺りがきゅっと締まった。くすぐったい。
けれど、どうなんだろうね。美容師さんって、アームカバーは付けてなかったような気もするから、多分、私のようなリストカットの痕なんて晒している子じゃあ、拙いでしょう。あーあ、自業自得だ。けれど、栄助さんが身を捧げてくれてから、一度も腕を切っていない。このままいけばもしかしたら、とも思う。
もし、もしもだよ。私が本当に美容師さんになったら、栄助さんは、笑ってくれるかしら。
そう訊こうとしたとき、マッサージが終息する、気の抜けたような駆動音がした。
もう十分経ってしまったらしい。ハッとして振り返っても、タイミングを逃した想いはどこかへ隠れてしまっていて。仕方がないから気持ちを切り替える。
袖を捲ると、はじめの時とは別の香りに変わっていた。ミドルノートたちを肩越しに突き出して、栄助さんの前でふりふりする。
「前に、古文の授業で『追い風用意』って言葉を教えてくれたよね。じゃあこれが、私から栄助さんへの、追い風になるように、選んで」
彼さんは本当に困ったような顔をした。目を閉じて、眉間を揉んで。私のことを考えてくれているのだと思うと、どんなシトラス系よりも清々しくて、どんなオリエンタル系よりも色っぽい、あったかい薫風が吹いてくるみたい。サッシを開けて、この心地を存分に取り込む。
一方で、好みでさっと決めてくれていいのにとも思う。きっと、彼は一生懸命、私が欲しいと思っているはずの存在しない答えを探している。うん、それも正解。
「俺は――」
そう、考えて。当たっていればご褒美を。外れたなら、じっくり教えこんであげる。安心していいよ、間違っても怒ったりしないから。もう、十分、嬉しいから。
「俺は、こっちの手の甲のものが好きだ」
彼が選んでくれたのは、フローラル系を基調にオトナな香りのするもの。ふうん、こういうのが好きなんだ。下着は可愛らしいピンクのものを選んでくれたのに、無垢さだけでなく、艶も求めるんだ。
それとも、これはエプロンの君と差別化するためかしら、なんて。でもいいのかなあ。こんな、学校には付けていきづらいタイプの残り香がバレた日には、エプロンの君からさくっと刺されちゃったりして、ね。
「じゃあ、これにする」
いいよ。そういうことなら、応えたげる。だから、もっと、もっと、彼女と私との違いを増やしていって。やがて栄助さんの中で薄墨冬子という個が完成されたとき、初めて私は、貴方の女になることを許される。用意された大きな枠組みに、めいっぱいの背伸びと、おめかしをして、ぴったり填まってみせる。そこに、エプロンの君が入り込む隙間なんて、あげない。
ちょっと、嫉妬深すぎ、かなあ。余計な人のことを考えすぎたせいか、少し、頭が重いや。
「気に入ったものがなかったのか」
「ん、違うよ。ノートって、聞いたことないかな」
「生憎と、そういうものとは無縁でな」
あら意外。お姉さんだとか、元カノさんだとか、エプロンの君だとか。栄助さんの身近には女性がいるようだから、そういうことも知っていると思っていたけれど。
「これはこれは、調教のしがいがありそうだね」
「調教って、お前な……」
「簡単に言うとさ、トップ、ミドル、ラストで香りが変わるんだよ。最初の十分くらいと、三時間くらいまでと、消えるまで」
「なるほど、薬液の揮発か。なら、その十分を潰すつもりなんだな」
「さすが、正解。香りの概要は見せてもらったけれど、実際に試して見ないことには、ね」
やっぱり、地頭がいい。表現が固いのは笑ってしまいそうになるけれど、私が一を伝えるだけで、二も三も理解してくれるのは頼もしい。
エスカレーターで二階に上がりながら、これならジェラートが後でもよかったね、なんて他愛のない話をして。ちょうど、目の前の楽器店が目に入った。
「ここでは弾かないからな」
「ちぇ、まだ何にも言ってないのに」
拗ねて踵を返す。こうなったら、ゲームセンターででも浪費させてやるんだから。
そう思った矢先、目の前に無造作に並べられていたものを見て、いいことを思いついた。
「ねえ、栄助さん。恩返しさせてよ」
「……何だ、藪から棒に」
怪訝な顔の前で指を立て、そのまま、すいーっと横にシフト。御覧に入れますは四台のマッサージチェア。立っている旗には無重力マッサージと書いてある。正直、イミワカンナイけど。重力がなかったらどうやって座るのさ。
「十分で二百円だって。時間的にも、ちょうどいいんじゃないかな」
「これに座れと」
「だいじょーぶだいじょーぶ。あんまり人もいないし」
栄助さんをチェアに押し込んで、私のお財布から二百円を投入。傍から見ていると、スイッチを入れた瞬間、彼の強張った体がぐでーっ、と垂れていくのがはっきり分かって、バレないように慌てて口を覆って一歩さがる。まさか、こんな堅物系男子がゆるキャラみたいになるなんて、誰が想像できただろう。ふふっ、だめ、笑うよ、こんなの。長谷堂先生は爽やかあ、なんて黄色い声を出している子たちに見せてやりたい。あ、やっぱりダメ。独り占めしたい。
横隔膜がゴキゲンなせいで未だぷるぷると震える手を黒いシートの隙間に差し込んで、彼の頭にそっと添える。
どんなマッサージチェアでも首までが限界。だから心ばかりのお返しに、ヘッドスパをしてあげたかった。
栄助さんは小顔というタイプではないから、頭も大きい。ずっしりと、脳が詰まっているという感じがする。温かくて、思ったよりというか、むしろイメージ通りというか、歪な形。頭頂部の少し後ろ側がぺこーんと平たくなっているのは、保育器にいる頃はやんちゃだったからかしら。そういえば、彼の子供の頃については一切聞いたことがない。今の落ち着いた雰囲気も好きだけれど、泥んこになって走り回っているというのも、想像すると可愛い。
手首と腕につけている香水を彼の鼻に馴染ませるように、できるだけ身を乗り出してやる。
「冬子。お前、美容師のセンスがあるんじゃないか」
「そこはエステとか、リフレとかじゃないんだ」
そう言うと、栄助さんがわずかに身じろぎした。なんだかんだムッツリだよね、彼。
黙ってしまった栄助さんは、やがて、呆れているのかリラックスをしているのか分かりにくい長嘆息をしてから、吐息たっぷりの声で言った。
「髪を洗ったあとの、この時間が好きなんだよ」
へえ。どうやら後者だったみたい。違うな。前者四割、後者六割、くらい。
「ねえ。私が美容師さんになったら、来てくれる?」
「もちろんだ。その時は是非、指名させてもらおう」
イフの話なのに、なんだか、将来の約束をしているみたいで、腕の付け根の辺りがきゅっと締まった。くすぐったい。
けれど、どうなんだろうね。美容師さんって、アームカバーは付けてなかったような気もするから、多分、私のようなリストカットの痕なんて晒している子じゃあ、拙いでしょう。あーあ、自業自得だ。けれど、栄助さんが身を捧げてくれてから、一度も腕を切っていない。このままいけばもしかしたら、とも思う。
もし、もしもだよ。私が本当に美容師さんになったら、栄助さんは、笑ってくれるかしら。
そう訊こうとしたとき、マッサージが終息する、気の抜けたような駆動音がした。
もう十分経ってしまったらしい。ハッとして振り返っても、タイミングを逃した想いはどこかへ隠れてしまっていて。仕方がないから気持ちを切り替える。
袖を捲ると、はじめの時とは別の香りに変わっていた。ミドルノートたちを肩越しに突き出して、栄助さんの前でふりふりする。
「前に、古文の授業で『追い風用意』って言葉を教えてくれたよね。じゃあこれが、私から栄助さんへの、追い風になるように、選んで」
彼さんは本当に困ったような顔をした。目を閉じて、眉間を揉んで。私のことを考えてくれているのだと思うと、どんなシトラス系よりも清々しくて、どんなオリエンタル系よりも色っぽい、あったかい薫風が吹いてくるみたい。サッシを開けて、この心地を存分に取り込む。
一方で、好みでさっと決めてくれていいのにとも思う。きっと、彼は一生懸命、私が欲しいと思っているはずの存在しない答えを探している。うん、それも正解。
「俺は――」
そう、考えて。当たっていればご褒美を。外れたなら、じっくり教えこんであげる。安心していいよ、間違っても怒ったりしないから。もう、十分、嬉しいから。
「俺は、こっちの手の甲のものが好きだ」
彼が選んでくれたのは、フローラル系を基調にオトナな香りのするもの。ふうん、こういうのが好きなんだ。下着は可愛らしいピンクのものを選んでくれたのに、無垢さだけでなく、艶も求めるんだ。
それとも、これはエプロンの君と差別化するためかしら、なんて。でもいいのかなあ。こんな、学校には付けていきづらいタイプの残り香がバレた日には、エプロンの君からさくっと刺されちゃったりして、ね。
「じゃあ、これにする」
いいよ。そういうことなら、応えたげる。だから、もっと、もっと、彼女と私との違いを増やしていって。やがて栄助さんの中で薄墨冬子という個が完成されたとき、初めて私は、貴方の女になることを許される。用意された大きな枠組みに、めいっぱいの背伸びと、おめかしをして、ぴったり填まってみせる。そこに、エプロンの君が入り込む隙間なんて、あげない。
ちょっと、嫉妬深すぎ、かなあ。余計な人のことを考えすぎたせいか、少し、頭が重いや。
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