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第二章 オイカゼヨウイ
(6)私のために、弾いて……ください
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「ベートーヴェンとか、モーツァルトとか?」
「彼らは、その恋模様を追うだけで本が作れるくらいに……そうだな、ロマンとやらに溢れているんだよ」
彼が遠い目をする。まだ知らない一面に、吸い込まれそうになる。
「なあ冬子。演奏は、弾き手によって異なることを知っているか」
「単に個人の力量の差、っていうわけじゃあないんだよね」
「ああ。解釈の問題なんだよ。その曲はどんな背景に生まれて、どんな想いで書かれて、どんな物語を描いているのか。そうしたセンスを磨いていくのがプロの世界だ。技巧を競うだけなら、作曲もできない演奏家なんて、楽器ごとに必要人数がいれば済む。さだまさしだってそうだろう。彼より巧い演奏をするヴァイオリニストもギタリストもいるだろうし、彼よりも善く愛を描く詩人がいるかもしれない。それでも、さだまさしは唯一無二。その意味が分かるか」
「ん、わかるよ」
感性、と一言で括ってしまえば、陳腐で、曖昧で、つまらないものに成り下がってしまうけれど。そうした漠然とした、ただただ巨大ということだけが分かっている霞の城に立ち向かっているのが、彼らアーティストと呼ばれる人たち。
「まっさんもテレビで言ってた。小さい頃、ヴァイオリンの神童と呼ばれていたけれど、弾いても巧いのが当たり前の世界だったって」
「だろうな」
栄助さんは少し、もどかしそうに笑った。
「まあ、つまるところ俺は落伍者だ。そうした感性の世界に付いていけなくなったんだよ」
そんなことない、と否定することは、とても無責任だと思った。彼はこんなにも優しくて、温かい人なのに。感性なんて、人並み以上に持ち合わせているはずなのに。それでも、否定してあげられない自分が悔しかった。
私は、親身になってくれる栄助さんに甘えながら、のうのうと『食事』を続けている極悪人で。楽観的で。愚か者。言葉にしてしまえばそれだけしか残らない、文字通り『かわいそうな子』だ。
けれど彼は、きっと、元カノさんと別れたあの日から、自分の心が見えなくなっている。自分はメンヘラなんだろうなあ、なんて自覚しながら生きながらえている私とは、大違い。
本当に病んでいるのはどちらなのだろう。本当に救いが必要なのは、どちらだろう。
輝くことを忘れても、星は星。手を差し伸べたくても、私の手のひらは届かない。
「でも、まだ弾いてはいるんでしょう」
「誰かを想えなくても、自分のためには弾けるからな」
ああ。なんて、私は。
見えてきたコンビニのLEDから、あざけられているようにさえ思える。カロリーメイトもチーズ味しか残っていないし、肉まんの什器が出ているくせにホットドリンクはないしで、散々だった。夏の入りという切り替え時だから仕方ないのかもだけれど、チーズ味の方は許すまじ。
駐車場の縁石に腰かけて、袋の中をかき回す。栄助さんの方からはプルタブの音しかしないことに顔を上げると、彼の手にあるのは、ブラックの缶コーヒー一本だけだった。
「夜にそんなものを飲んだら、眠れなくなるよ」
「お前こそ、こんな時間に肉まんを食べていいのか」
「イジワル。まともなものを食べろと言ったかと思えば、そんなこと言うんだ。この時期にこういうの見つけたら、つい買っちゃうって」
にいっ、と悪い顔をしてくる栄助さんを頑張って睨み返しながら、一計を案じた。
「はい、半分こ!」
たじろいだのを見逃してあげない。猫を噛んで調子に乗ったネズミは、ほれほれ、あーん、と肉まんを突き出してやる。
しかし、意外や意外。彼はあっさり、身を乗り出してきた。
「ならば、いただこう」
抱き寄せるように肩に手を置いてきて、一瞬、キスされるのかと思って縮こまったのが運の尽き。あろうことか、私の手元の方をかじられた。ちゃっかり差し出したものは持ってってるし。これは想定外。どうするの、これ。間接キスしちゃうじゃん。
栄助さんのクセに。
もう頭に来た。したり顔の栄助さんに見せつけるように、肉まんにかぶりついてやる。一気に食べたらぱさぱさの生地が喉に張り付いて、むせ返った。それを笑ってくるイジワルな人をぽかぽか叩いて追いかけまわすと、彼は「悪い、悪かった」とひいひい言いながら、ジャケットのポケットから小さいペットボトルのお茶を出して、キャップを開けて渡してくれた。
「飲み物、買ってなかったろ」
「わざわざ買ってくれていたの?」
「いいや、偶然だ。帰ってから飲もうと思ってたものだよ」
今度はこちらがそっぽを向く番だった。格好つけちゃって。私のためだ、って言ってくれたならお礼の一つもしたけれど。そうじゃないって言うなら、いいもん。私が感謝をするのは、あなたの言う、小さなハッピーをくれた偶然とやらに対してだけなんだから。
駐車場に車がやってきて、バカみたいにはしゃぐ私たちを尻目に、二十代前半くらいのカップルが店に入っていった。
「今の彼氏の方、冬子に見惚れていたな」
「まさか」
笑い飛ばす。そんなことよりも、私にとっては、彼女さんの反応の方が嬉しかった。
栄助さんに向けていた視線と、ほんのちょっとだけ垣間見せた険しい目つき。あれは、嫉妬。ふふん、どうだ、とガッツポーズをしてやりたくなった。ちゃらちゃらしていて猫背でガニ股歩きのノータリンと比べたら、うちの栄助さんはおつむの出来がまるで違う。顔も、うん、多分、勝っている、と、思う。おそらく、メイビー、色眼鏡補正を抜きにして。けれどそんなもの、事実でしかないから。好みってものは否定しないけれど、二十年も経てばみいんな立派なオジサンになっている。いーっ、だ。
好きな男性が、他の女性からも良く見られているのは、最高。その中で一番に選ばれて、ついでに私だけが知る彼の一面があったりすれば、女としての誉れ。なんて、強がってみるけれど、性格悪いくせに、肝心なところは弱気になってくる。
さっきのカップルからのものではなく、栄助さんの言葉が聴きたい。
「ねえ、先生。私たち、恋人同士に見えるかな」
彼は無言で、肩を竦めて見せるだけだった。ズルい人。
けれどそれじゃあ嫌だから、追い縋る。コンビニの明かりから離れて心細いのを堪えて。
「あのね。お願いがあるのだけれど」
「何だ」
「栄助さんがピアノを弾く理由。そこに、一人、追加してほしい」
彼の目が見開かれた。夜闇のせいで大きくなった瞳に、下唇を噛んだ私が映っている。
肩越しに見上げる空は綺麗で。今宵は、満月だった。
「私のために、弾いて……ください」
栄助さんは睫毛を伏せて、少し迷ってから、泣き出しそうな私の肩を引き寄せた。
「ああ。喜んで」
「えっ、いいの」
訊いておいてなんだけれど、不安なものは不安だ。胸板に耳を澄ませても、彼のリズムがどっしりと構えすぎていて。もどかしくなって、顔をずり上げる。
「来週末、冬子の誕生日だろう。そこで贈らせてもらうよ」
「どうして、知って……」
「担任だぞ。職権濫用ってやつだ」
いけないんだ。悪びれもせずに微笑んでいるなんて、本当、いけない人。
けれど、それがどうしようもなく嬉しかった。勝手にパーソナルデータを調べたことは、ちょっぴりストーカーちっくだけれど。これまでの、私の『食事』に身を任せるだけのものではなく、初めて、彼の方からこっち側に踏み入れてくれたことだから。
「ありがとう、栄助さん」
腕に寄り添って、帰り道を辿る。歩幅を合わせてくれるのをいいことに、ゆっくりと歩いた。
きっと、満月の夜が素敵なんじゃなくて、素敵なことがあったときに、そこに満月があることが印象に残るのかもしれない。
つまり、私の言いたいことは。月がきれいですね、ということ。
創作説なんて知らない。意味が通じればよし、だ。
「彼らは、その恋模様を追うだけで本が作れるくらいに……そうだな、ロマンとやらに溢れているんだよ」
彼が遠い目をする。まだ知らない一面に、吸い込まれそうになる。
「なあ冬子。演奏は、弾き手によって異なることを知っているか」
「単に個人の力量の差、っていうわけじゃあないんだよね」
「ああ。解釈の問題なんだよ。その曲はどんな背景に生まれて、どんな想いで書かれて、どんな物語を描いているのか。そうしたセンスを磨いていくのがプロの世界だ。技巧を競うだけなら、作曲もできない演奏家なんて、楽器ごとに必要人数がいれば済む。さだまさしだってそうだろう。彼より巧い演奏をするヴァイオリニストもギタリストもいるだろうし、彼よりも善く愛を描く詩人がいるかもしれない。それでも、さだまさしは唯一無二。その意味が分かるか」
「ん、わかるよ」
感性、と一言で括ってしまえば、陳腐で、曖昧で、つまらないものに成り下がってしまうけれど。そうした漠然とした、ただただ巨大ということだけが分かっている霞の城に立ち向かっているのが、彼らアーティストと呼ばれる人たち。
「まっさんもテレビで言ってた。小さい頃、ヴァイオリンの神童と呼ばれていたけれど、弾いても巧いのが当たり前の世界だったって」
「だろうな」
栄助さんは少し、もどかしそうに笑った。
「まあ、つまるところ俺は落伍者だ。そうした感性の世界に付いていけなくなったんだよ」
そんなことない、と否定することは、とても無責任だと思った。彼はこんなにも優しくて、温かい人なのに。感性なんて、人並み以上に持ち合わせているはずなのに。それでも、否定してあげられない自分が悔しかった。
私は、親身になってくれる栄助さんに甘えながら、のうのうと『食事』を続けている極悪人で。楽観的で。愚か者。言葉にしてしまえばそれだけしか残らない、文字通り『かわいそうな子』だ。
けれど彼は、きっと、元カノさんと別れたあの日から、自分の心が見えなくなっている。自分はメンヘラなんだろうなあ、なんて自覚しながら生きながらえている私とは、大違い。
本当に病んでいるのはどちらなのだろう。本当に救いが必要なのは、どちらだろう。
輝くことを忘れても、星は星。手を差し伸べたくても、私の手のひらは届かない。
「でも、まだ弾いてはいるんでしょう」
「誰かを想えなくても、自分のためには弾けるからな」
ああ。なんて、私は。
見えてきたコンビニのLEDから、あざけられているようにさえ思える。カロリーメイトもチーズ味しか残っていないし、肉まんの什器が出ているくせにホットドリンクはないしで、散々だった。夏の入りという切り替え時だから仕方ないのかもだけれど、チーズ味の方は許すまじ。
駐車場の縁石に腰かけて、袋の中をかき回す。栄助さんの方からはプルタブの音しかしないことに顔を上げると、彼の手にあるのは、ブラックの缶コーヒー一本だけだった。
「夜にそんなものを飲んだら、眠れなくなるよ」
「お前こそ、こんな時間に肉まんを食べていいのか」
「イジワル。まともなものを食べろと言ったかと思えば、そんなこと言うんだ。この時期にこういうの見つけたら、つい買っちゃうって」
にいっ、と悪い顔をしてくる栄助さんを頑張って睨み返しながら、一計を案じた。
「はい、半分こ!」
たじろいだのを見逃してあげない。猫を噛んで調子に乗ったネズミは、ほれほれ、あーん、と肉まんを突き出してやる。
しかし、意外や意外。彼はあっさり、身を乗り出してきた。
「ならば、いただこう」
抱き寄せるように肩に手を置いてきて、一瞬、キスされるのかと思って縮こまったのが運の尽き。あろうことか、私の手元の方をかじられた。ちゃっかり差し出したものは持ってってるし。これは想定外。どうするの、これ。間接キスしちゃうじゃん。
栄助さんのクセに。
もう頭に来た。したり顔の栄助さんに見せつけるように、肉まんにかぶりついてやる。一気に食べたらぱさぱさの生地が喉に張り付いて、むせ返った。それを笑ってくるイジワルな人をぽかぽか叩いて追いかけまわすと、彼は「悪い、悪かった」とひいひい言いながら、ジャケットのポケットから小さいペットボトルのお茶を出して、キャップを開けて渡してくれた。
「飲み物、買ってなかったろ」
「わざわざ買ってくれていたの?」
「いいや、偶然だ。帰ってから飲もうと思ってたものだよ」
今度はこちらがそっぽを向く番だった。格好つけちゃって。私のためだ、って言ってくれたならお礼の一つもしたけれど。そうじゃないって言うなら、いいもん。私が感謝をするのは、あなたの言う、小さなハッピーをくれた偶然とやらに対してだけなんだから。
駐車場に車がやってきて、バカみたいにはしゃぐ私たちを尻目に、二十代前半くらいのカップルが店に入っていった。
「今の彼氏の方、冬子に見惚れていたな」
「まさか」
笑い飛ばす。そんなことよりも、私にとっては、彼女さんの反応の方が嬉しかった。
栄助さんに向けていた視線と、ほんのちょっとだけ垣間見せた険しい目つき。あれは、嫉妬。ふふん、どうだ、とガッツポーズをしてやりたくなった。ちゃらちゃらしていて猫背でガニ股歩きのノータリンと比べたら、うちの栄助さんはおつむの出来がまるで違う。顔も、うん、多分、勝っている、と、思う。おそらく、メイビー、色眼鏡補正を抜きにして。けれどそんなもの、事実でしかないから。好みってものは否定しないけれど、二十年も経てばみいんな立派なオジサンになっている。いーっ、だ。
好きな男性が、他の女性からも良く見られているのは、最高。その中で一番に選ばれて、ついでに私だけが知る彼の一面があったりすれば、女としての誉れ。なんて、強がってみるけれど、性格悪いくせに、肝心なところは弱気になってくる。
さっきのカップルからのものではなく、栄助さんの言葉が聴きたい。
「ねえ、先生。私たち、恋人同士に見えるかな」
彼は無言で、肩を竦めて見せるだけだった。ズルい人。
けれどそれじゃあ嫌だから、追い縋る。コンビニの明かりから離れて心細いのを堪えて。
「あのね。お願いがあるのだけれど」
「何だ」
「栄助さんがピアノを弾く理由。そこに、一人、追加してほしい」
彼の目が見開かれた。夜闇のせいで大きくなった瞳に、下唇を噛んだ私が映っている。
肩越しに見上げる空は綺麗で。今宵は、満月だった。
「私のために、弾いて……ください」
栄助さんは睫毛を伏せて、少し迷ってから、泣き出しそうな私の肩を引き寄せた。
「ああ。喜んで」
「えっ、いいの」
訊いておいてなんだけれど、不安なものは不安だ。胸板に耳を澄ませても、彼のリズムがどっしりと構えすぎていて。もどかしくなって、顔をずり上げる。
「来週末、冬子の誕生日だろう。そこで贈らせてもらうよ」
「どうして、知って……」
「担任だぞ。職権濫用ってやつだ」
いけないんだ。悪びれもせずに微笑んでいるなんて、本当、いけない人。
けれど、それがどうしようもなく嬉しかった。勝手にパーソナルデータを調べたことは、ちょっぴりストーカーちっくだけれど。これまでの、私の『食事』に身を任せるだけのものではなく、初めて、彼の方からこっち側に踏み入れてくれたことだから。
「ありがとう、栄助さん」
腕に寄り添って、帰り道を辿る。歩幅を合わせてくれるのをいいことに、ゆっくりと歩いた。
きっと、満月の夜が素敵なんじゃなくて、素敵なことがあったときに、そこに満月があることが印象に残るのかもしれない。
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