アマツヘグイ

雨愁軒経

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第二章 オイカゼヨウイ

(5)深夜のお散歩

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 外に出ると、夏本番一歩手前の夜風はまだ涼しく、やきもきする頬を冷やしてくれた。

「本当に、コンビニで構わないのか」
「やってみたかったんだ、深夜のコンビニデート。それに私、夜はコンビニ飯だから。勘当されているとはいえ、資金援助はされてるんだよ。ありがたいことにね」
「この先にはファミマとセブンがあるんだが、行きつけはあるか?」
「栄助さんの好きな方でいいよ。私はカロリーメイトと、何かプラスアルファがあれば、それで」
「お前は僧でも目指しているのか」
「瀬戸内寂聴さんって、いい女だよね」
「……俺が言えた義理じゃあないが、もう少しまともなものを食え」

 栄助さんが苦い顔をする。栄養価は抜群だよ、なんておどけて見せると、呆れの色が加わった。確かに食物繊維の面では不安があるけれど、そんな顔することないじゃんか。

 ウシガエルの合唱をバックにぶらぶらと歩く。さりげなく、手の触れそうなところまで近づいた。避けられてはいないようだけれど、彼がこちらを確認しておいて、手を握ってくれないことにはちょっと心がしぼむ。ただでさえ田舎の夜という味気ないムードなのに、ロマンを抜いたら畑の臭いしか残らないじゃないか。私は、田舎の香水、なんて呼び方は反対。まあ、そうは言っても、鹿の睾丸ムスクを喜んでふっている時点で大概品がないとは思うのだけれど。

「そういえば。今日も車でかけていたが、冬子はどうして、さだまさしが好きなんだ」

 意外な質問だった。やっぱり、どんな本を読んだか、という辺りには触れてこないみたい。私があの本たちに目を付ける、という可能性自体、考えていないのかしら。だとすれば、彼の魂胆とやらは、完全なる善意となる。

「んー、暗さ、かな」
「今、適当に答えただろう」
「あれっ、バレた?」
「姉貴も好きなんだよ、さだまさし。昔、暗いとからかったら、明るい曲調の恋の歌や、シンフォニックな応援歌、コメディソングの多さを酒の勢いで朝まで語られたことがある」

 それぞれがどの曲たちを指すのか容易に想像できてしまって、おかしくなる。

「アレが言うには、『中島みゆきは芸術、さだまさしは教科書』ということらしい。からかったが最後、次の飲みの時には焼き増しのCDを渡されたよ。ラベルに『お姉ちゃんセレクト』とか書いてあるものを、五枚もだ」
「わかるわかる、軽くピックするだけで百曲超えちゃうもの。それで、お気に入りはあったの」
「『まほろば』や『修二会』なんかは好きだな。最近のところだと『おんまつり』か」
「おお、なかなか渋いチョイスですなあ」

 さだ曲の中でも難解といわれるものだ。栄助さんとは気が合いそう。それに、お姉さんとも。

 仕方ないことなのだけれど、みんな、テレビでやっていたような曲しか知らないから、さだまさしの歌は暗い、なんて決めつけてかかる。ただ無性に腹が立つのは、フルコーラスでちゃんと歌詞を聴いていないくせに『関白宣言は女性蔑視』なんて判を押してくる大馬鹿者たち。そんなだから、洋楽の別れの歌を結婚式の入場に使って顰蹙を買うんだ。

 伴侶どころか、愛し合うということさえ軽んじて。結婚式を盛り上げようとするばかりで、結婚という意義なんか見ようともしない。血を吸う中で愛を模索する私と、幸せとやらの形式ガワにこだわるだけの人たち。どちらがかわいそうなのかしらね。

 ああ、もちろん、『意見には個人差があります』けれども。

「それで、本当のところは」
「言葉がね、綺麗なんだ。一音一音、丁寧に乗せた日本語の美しさは、とてもね」

 そう話すと、栄助さんは少し考えこむような顔をしてから、噛みしめるように言った。

「ああ、分かるよ」
「国語教師としてはシンパシー?」
「それもあるが、音楽に触れていた時期があってな」
「へえ。バンドとか」
「いいや、ピアノだ」

 驚いた。けれど、作業用のBGMがピアノだったことも、どうりで。

 そういえば、腰掛庵でもピアノを気にしていたっけ。てっきり、物珍しそうにしていただけかと思っていたから。ちょっぴり悪いことをしちゃったな。

 『食事』のときも、抱きしめてくれる手の優しさが繊細だった。初めてのことだから、これが標準なのだろうと思っていたけれど。どうやら、私はかなりの当たりくじに出遭ってしまったみたい。自分を大凶に見せかけようとする、へそ曲がりさんだけれど。

「……似合わないと思っているだろう」

 私がにまにましていると、彼が眉を顰めた。

「ううん、逆。ピアニストの栄助さんを想像して、きゅんときた」
「からかうな」

 そっぽを向いてしまう肩を逃がさないように、くるりと回り込む。けれど、栄助さんの顔は往生際の悪いことに、明後日の方へ逃げてしまった。照れちゃって、かーわーいーい。

「本当なのになあ。だって、ピアニストって、燕尾服とかタキシードを着るんでしょう」
「いつの時代の話をしているんだ。普通のスーツで十分だよ」
「あらま。でも、それはそれで、いいかも」
「何でもいいんじゃないか」
「そんなことないよ。栄助さんだから、だもん」

 唇をタコさんにしての抗議は、速足で躱されてしまった。もう。

 仕方なく、広い背中を追いかける。すぐに足を緩めてくれる辺り、やっぱり優しい。

 二十一時半ともなると、辺りは寝静まっていた。多分、ちらほら見える部屋明かりは、学生とか、社会人の方のもの。それでも、基本的に二世帯以上が同居している家が多いから、茶の間やリビングのあるだろう一階は暗くなっている。ぼやっとした光が上から注いでくる闇の中を歩いていると、世界を二人で独占しているような気がして、わくわくしてくる。レッドカーペットのような華やかさはないけれど、十分、魅惑的な漆黒。今だけは、畑の臭いも田舎の香水と思ってあげなくもない。

「ねえ。触れていた、ってことは、やめちゃったの」
「ああ。趣味程度には弾いているが、追いかけるのはやめたよ」

 ふと、栄助さんが空を仰いだ。一緒になって想いを馳せていると、彼は、ぽつりぽつりと、星屑を零していく。

「歴史に名を刻む音楽家たちの、名前くらいは知っているだろう」

 声色が、遥か空の向こうのように、深く濃くなった。
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