アマツヘグイ

雨愁軒経

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第二章 オイカゼヨウイ

(3)浸るのは、また、こんど

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 嫉妬のモヤモヤは取り除けず、彼にとっての一生徒という枠からも抜け出せないまま、気がつけば夏がやってきた。

 日中は退屈だった。特に、国語の授業は。

 ひとたび長谷堂先生になると、まるでジキルとハイドのように、彼は巧妙に素を隠してしまう。何よりも皮肉なのは、周囲のみんなが求めているのはハイド氏だということ。たしかに人は、他人の前では何かしらの自分を演じているものだけれど、一切の愛を持ち合わせない表面だけのナニカを賛美するのは、見ていて気味が悪い。まあ、暴力を振るったり態度の悪い教師よりはよっぽど好ましいことには激しく同意。ただ、そうやって心地のいいぬるま湯に浸かっていて、いつか立ち止まったときに気がつくんだ。ああ、自分の周りには愛がない、って。

 特に、栄助さんというジキルを知ってしまった私は、なおさらだった。目の前で催されている仮面舞踏会からは目を逸らし、窓の外をぼうっと眺める。生徒会で育てている花壇の色たちも、退屈に褪せていた。

 幸いなことは三つあった。ひとつは、窓際の席を得ているから退屈しのぎができること。二つ目は、夏のおかげで、とくとくと汗ばむ心も誤魔化せること。そしてもう一つは、時折顔を覗かせた栄助さんが、ちらちらとこちらを見てくれること。まあ、そこは知らんふりをさせていただきますが。

 窓の外ばかりを見ているのに、注意さえしてくれない。『食事』の時もこの話題に触れてきたことがなかった。ここまでノータッチを決め込まれるのも、それはそれで露骨だと思うのだけれど、いかがかしら。ん、ああいや、私が言えたことではないか。

 他の授業も、さして面白いと思うこともなく、私の癒しは金曜の放課後だけ。

「ねえ、栄助さんの家に行ってみたい」
「駄目だ」

 ピロートークでのおねだりは、ばっさり切られてしまった。なにゆえ。カーディガンに袖を通しながらという不作法がいけなかったのだろうか。下着は買ってくれたくせに。

「実家暮らしとか? けれど、別に山形では恥ずかしいことでもないよ」
「そういうことじゃあない」
「じゃあ、どうしてさ。そもそも、実家なの、一人暮らしなの」
「実家で、一人暮らしだ」

 私が支度を済ませていることを確認してから、栄助さんは、さも今着たところという風にベルトを締めた。私はそのあとに付いていって、彼が『喫煙室』と呼ぶ教室に入る。

 未成年わたしがこの場にいることもそうだけれど、何よりも、『食事』のあとでタバコをくゆらせる栄助さんを見るのが好きだった。一般的に、終わってすぐタバコに手を伸ばす男性は嫌がられるらしいと聞いたし、多分、私もそう。けれど、この瞬間の彼の横顔は、ああ、今は事後ってやつなんだ、彼もそういうことをしたと思っていてくれているんだ、と思えてきて、普段より二回りくらい色っぽくに見える。

 いつか、本当にそういう瞬間を迎えたいと思っているのだけれど、そういう視線を送ると、彼はさりげなく目を逸らす。授業中、私がしているように。

「親父たちは三年前、関山を越えて仙台に向かう途中で事故にあってな。子供ながらに仲が良い夫婦だとは思っていたが、まさか、逝くときまで一緒とは思わなかったよ」
「兄弟とかはいないの」
「姉が、山形駅の西口当たりに住んでる。ほら、テルサの向かいにマンションがあるだろう」

 栄助さんは煙をふうっと吐いた。その口元が、笑っているように見えた。

「仲が良いんだね。優しい顔してる」
「よく言われるが、認めたくはないな。人使いの荒いアラサーの飲んべえだぞ」

 弱点発見。心の片隅にメモをしておく。よろしくお願いします、未来の小姑さん。

 ため息と一緒に煙を吐いている栄助さんは、まるで本当にお姉さんが苦手で口から魂が抜け出てしまっているようで、笑ってしまう。

「どうした」
「ああいや、ごめんなさい。一人暮らしなら彼女さんを連れ込み放題だなあ、と思って」

 誤魔化そうとして、思いがけず自分にダメージ。その枠にいたいのは自分なのに。

「いないと言っただろう。作るつもりもない」
「じゃあ、私は。私もだめなのかしら」
「そのつもりなら、とっくに押し倒している」

 この頑固者! と叫びたくなる。こちらが何を欲しているか見抜いていて、それを取り上げるなんて。三か月も経ったのだから、そろそろデートの次をご所望したい。

「そういう風にムチで打つなら、アメをくれたっていいじゃない。私の部屋、見たでしょう。エアコンがないんだよ?」
「まさか、夏のあいだじゅう入り浸るつもりか」
「んー、そういうのも楽しそうだれけど」

 それは本当に仲良しになってから。今はまだ、外堀を埋めていく段階だから。栄助さんとの隙間を埋めるように、日曜大工に見せかけて、毎日ちょっとずつパテを塗っていくのだ。

「栄助さんに浸るのは、また、こんど」

 それに。栄助さんは元カノさんとのことがあるから、こういう言い方をしたら嫌がれるだろうけど。好きな男性の家に通うというのも、憧れなんだよ。ウェディングドレスには及ばないけれど。次の次の次くらい。

「いずれは入り浸るつもりなんだな……」

 だから違うんだってば。ん、いや、合ってるのかな。まあいっか。

「彼氏に迷惑なんじゃないか」
「何をいまさら。それに、それこそ、私の方がそのつもりはないよ。こんな手首を見せたらどうなるかなんて想像つくでしょう」

 カーディガンの袖を捲ると、彼はタバコを咥えたまま、ああ、と唸った。

「部屋に行ったとき、あまりに生活感がなかったものでな。どこか別に寝泊まりしている家があるのかとばかり」
「まさか。あれが私のねぐらだよ。あ、もしかして、嫉妬してるんだ」

 やたっ、私とおんなじ。

「本当にいないよ。肌を見せたのも、栄助さんが初めてなんだから」

 だから光栄に思って、と茶化すと、彼はタバコの火を消した。黙っちゃって、可愛い。

 それから旧校舎の戸締りを手伝いながら、施錠のひとつを確認する毎に、連れてって、ダメなの、と繰り返した結果、栄助さんはようやく根負けしてくれた。

 いつもの酒屋さんの裏で落ち合い、彼の車に乗り込む。

「もしかして、先約を蹴らせちゃったかな」
「何故、そう思う」
「だって栄助さん、職員室に戻るとき、誰かに連絡してたでしょう。いつもはそんなことしないもの」

 そういうことなら今日じゃなくても良かったのに、と言うと、栄助さんは髪を掻きむしって、気にするな、と笑った。

「姉がいると言ったろう。あいつから飲みに誘われていただけだ」
「ふうん」

 困り顔を見せないような固い表情はどことなく嘘の香りがするけれど。いいというなら、そうさせてもらおう。

 数分のドライブを経て、栄助さんの家へ着いた。小さな遺跡公園が点在する地域で、少し車を走らせれば映画館やドン・キホーテなんかもある。それでいて家自体は閑散としたところに建っているのだから、便利で静かで、好い立地。

 私の住むアパートからも存外近いところにあった。これなら歩いてこれるかな。でも、来ちゃった、なんて言ったら重い女だと思われてしまうかしら。


 我がアパートの鋼板とは大違いな、木造りの一軒家ならではの温もりがある戸口をくぐり、ふと、違和感を抱いた。

 かすかに、ほんのちょびっとだけど。これ、香水の匂い。シトラスとセボン。クラスの子も付けているやつだ。女の子が来てる。それも、多分、例のお姉さんではない。キレイ系よりカワイイ系。可愛げのない私にはない要素。まあ、綺麗さにも自信がないけれど。


 台所を通って、確信に変わった。シンク側の椅子にピンクのエプロンがかけられている。

 彼女はいないはずではなかったか。だからこそ、踏み込ませてもらっているのだけど。いや、まあ、いいか。彼女がいても。今は私に目をかけてくれるのでしょう。それなら、そこからは私のお仕事。その目を釘づけにできるよう頑張るだけ。

 きょろきょろと家の中を眺めて振り返ると、エプロンが隠されていた。ファインプレー。

 でもなあんかそれ、やらしい。私に対しても、その『エプロンの君』に対しても。でも、隠してくれるんなら、遠慮はしないよ。存分に甘えさせてもらうんだから。

「こっちだ。散らかっていてすまないが」

 そう言って、襖を開けてもらった部屋に通される。

「ううん、全然」

 素敵な部屋だった。

「嫌味じゃないよ、ほんとうに」
「そりゃあ、お前の部屋と比べれば、どんな部屋も雑多だろうさ」

 苦笑する栄助さんにつられて、私も笑ってしまう。

 もう一歩踏み入れて、鼻で思いっきり空気を吸った。彼の匂いだ。

 十二畳くらいの部屋はほとんど、壁際の本棚から溢れたらしい本で埋められていた。他はパソコンの置かれたデスクと、反対の隅にあるベッドくらいで、それなのに足の踏み場が少ない。

 散らかり方にも流儀がある。洋館の書庫みたいなスタイリッシュさはないけれど、決して乱れているわけでもなく、追及された雑多感がオシャレ。この部屋に漂っているのは、栄助さんを形作るすべて。彼の頭の中を覗き見ているようで、ドキドキする。ああ、これが、好きな人の部屋に来るって言うことなのだろう。そりゃあ、みんな憧れるわけだよ。

 なんだ。みんな、私と同じなんだ。自分だけが知る味を探してる。
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