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第一章 イガキ
〈11〉4文字の伝言
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日曜は二日酔いで無為に潰し、翌日、まだ気だるい体で布団から這い出て支度をした。車の暖気をしながら、バックミラーで仮面のチェックを行う。
教育実習以来である朝のホームルームは、肩透かしなほどつつがなく終了した。授業は担当していたために自己紹介の類も省けたのだから、こんなものかもしれない。
冬子は窓際の席にいる。連絡事項を読み上げながら何度か様子を窺ったが、彼女はこちらを見つめ返すでもなく、普段通りだった。まるで、先週のことが嘘だったかのようだ。
小休止を挟んで、そのまま国語の授業に入る。
「今日からこの時間、現代文が古文に変わります。教科書を持ってきていない人はいますか」
訊ねると、パッと一つの手が挙がった。
「センセ、月曜日の一時限目から古文はきついですっ」
盛大にスベッてくれたのは、奈緒だった。頭が痛い。何かあればアシストが欲しいとは思っていたが、そういうことじゃあない。古文だって初めてではないだろう。
反応に困っていると、その空気感で笑いが起きた。結果論だが、仕方ない。今週末は甘いものでも用意しておいてやろう。
「確かに、本間さんの気持ちも分かります。それでは、皆さんに古文の魅力を知っていただけるよう、私が気に入っている、綺麗な言葉をご紹介しましょう」
無意識で黒板に『斎垣』と書きかけて、消す。代わりに『追い風用意』と書いた。
「追い風用意。この言葉は、当時の女性の身だしなみや心遣いとして、衣服に香を焚いておくことを意味するものです」
ふと、冬子が目に入った。柔らかな薔薇の香りを思い出す。悲しいかな、結局は冬子から離れられない自分がいた。
「センセー。香を焚いたんなら、残り香用意、とかじゃないんですかあ」
「お、梅津さん、いい質問ですね。ここでいう『追い風』とは、残り香をもたらす風のことではなく、想いを寄せる男性の心、あるいは、自分の恋心そのものに対する追い風だと、私は考えています」
何人かの女子生徒がほうっと頬を染めて、顔を見合わせる。重畳。手応えはあったか。
しかし冬子は、奈緒の小ボケに頬を多少緩ませたくらいで、他の女子と一緒になって色めき立つでもなく、普段通りだった。女子の細やかな変化にも気付かない系男子を自称する身ではあるが、それでも。ごく自然体に見える。
そんなモヤモヤを抱えたまま、一週間が過ぎた。
SNSのIDは交換していたから、何度も連絡を入れてみようかと迷ったが、たまたま目にした新聞の隅に、警察官が女子校生にメッセージを送り続けた末に逮捕へ至った記事などを見てしまったのだから、間が悪い。
自分は、彼女を想うことができるのだろうか。愛することができるのだろうか。そうでなくとも、異食症という闇から救うことができるだろうか。
わからない。
放課後の雑処理をしながら考える。事前の引き継ぎがスムーズだったおかげか、クラス担任という肩書になっても仕事は然程増えていなかった。オメデタ女に少しは感謝しておこう。
「桜、散っちゃったねえ」
不意に、隣のデスクから話しかけられて、ビクッとする。
「そ、そうですね」
一組担任の工藤は苦手だった。自分を美人だと思っているタイプで、五十に迫ろうかというのに化粧は念入りで、歩くときの腰の振り方が尋常ではない。
人当り自体は良く、目をかけてくれていることは有り難いし、事実生徒からも慕われているが、以前別の学校で生徒を喰いまくったために飛ばされてきたのだとか、実は今も我らがハゲ教頭とイケナイ関係だとか、黒い噂の尽きない人物である。
もっとも今となっては、自分も人のことを言えないが。
「はっきりしない態度ね。あ、長谷堂クンは若いから、春は散る気配もないかしら」
「ははは、まさか。散るどころか、咲きすらしませんよ」
「あら、そうなの。誰か紹介しましょうか」
「い、いえ、お気持ちだけで」
どうにかこの場を逃れる言葉を探していると、デスクの上でスマートフォンが震えた。
画面に初めて通知された名前に、心臓が跳ねる。
『旧校舎で』
たった四文字のそっけない文面。それだけでも、歯車が動いたような気がした。
彼女が自分を求めているということが、自惚れだったとしても。我ながら情けないが、ようやく、決心がついた。
そういえば今日は金曜日だったか。また奈緒を待たせてしまうだろうが、構わない。冷蔵庫にシュークリームが入っているから食べてくれとメッセージを入れ、スマホの電源を切った。
鞄を引っかけ、机から煙草を取り出し、工藤にはお先に失礼しますと告げた。
「あら、仕事早いのね。若い人はエネルギッシュで羨ましいわ」
「いえ、荒木さんの引き継ぎがしっかりしていたおかげです。助かりますよ、ホント」
愛想笑いは、職員室を出たところで脱ぎ捨てた。
教育実習以来である朝のホームルームは、肩透かしなほどつつがなく終了した。授業は担当していたために自己紹介の類も省けたのだから、こんなものかもしれない。
冬子は窓際の席にいる。連絡事項を読み上げながら何度か様子を窺ったが、彼女はこちらを見つめ返すでもなく、普段通りだった。まるで、先週のことが嘘だったかのようだ。
小休止を挟んで、そのまま国語の授業に入る。
「今日からこの時間、現代文が古文に変わります。教科書を持ってきていない人はいますか」
訊ねると、パッと一つの手が挙がった。
「センセ、月曜日の一時限目から古文はきついですっ」
盛大にスベッてくれたのは、奈緒だった。頭が痛い。何かあればアシストが欲しいとは思っていたが、そういうことじゃあない。古文だって初めてではないだろう。
反応に困っていると、その空気感で笑いが起きた。結果論だが、仕方ない。今週末は甘いものでも用意しておいてやろう。
「確かに、本間さんの気持ちも分かります。それでは、皆さんに古文の魅力を知っていただけるよう、私が気に入っている、綺麗な言葉をご紹介しましょう」
無意識で黒板に『斎垣』と書きかけて、消す。代わりに『追い風用意』と書いた。
「追い風用意。この言葉は、当時の女性の身だしなみや心遣いとして、衣服に香を焚いておくことを意味するものです」
ふと、冬子が目に入った。柔らかな薔薇の香りを思い出す。悲しいかな、結局は冬子から離れられない自分がいた。
「センセー。香を焚いたんなら、残り香用意、とかじゃないんですかあ」
「お、梅津さん、いい質問ですね。ここでいう『追い風』とは、残り香をもたらす風のことではなく、想いを寄せる男性の心、あるいは、自分の恋心そのものに対する追い風だと、私は考えています」
何人かの女子生徒がほうっと頬を染めて、顔を見合わせる。重畳。手応えはあったか。
しかし冬子は、奈緒の小ボケに頬を多少緩ませたくらいで、他の女子と一緒になって色めき立つでもなく、普段通りだった。女子の細やかな変化にも気付かない系男子を自称する身ではあるが、それでも。ごく自然体に見える。
そんなモヤモヤを抱えたまま、一週間が過ぎた。
SNSのIDは交換していたから、何度も連絡を入れてみようかと迷ったが、たまたま目にした新聞の隅に、警察官が女子校生にメッセージを送り続けた末に逮捕へ至った記事などを見てしまったのだから、間が悪い。
自分は、彼女を想うことができるのだろうか。愛することができるのだろうか。そうでなくとも、異食症という闇から救うことができるだろうか。
わからない。
放課後の雑処理をしながら考える。事前の引き継ぎがスムーズだったおかげか、クラス担任という肩書になっても仕事は然程増えていなかった。オメデタ女に少しは感謝しておこう。
「桜、散っちゃったねえ」
不意に、隣のデスクから話しかけられて、ビクッとする。
「そ、そうですね」
一組担任の工藤は苦手だった。自分を美人だと思っているタイプで、五十に迫ろうかというのに化粧は念入りで、歩くときの腰の振り方が尋常ではない。
人当り自体は良く、目をかけてくれていることは有り難いし、事実生徒からも慕われているが、以前別の学校で生徒を喰いまくったために飛ばされてきたのだとか、実は今も我らがハゲ教頭とイケナイ関係だとか、黒い噂の尽きない人物である。
もっとも今となっては、自分も人のことを言えないが。
「はっきりしない態度ね。あ、長谷堂クンは若いから、春は散る気配もないかしら」
「ははは、まさか。散るどころか、咲きすらしませんよ」
「あら、そうなの。誰か紹介しましょうか」
「い、いえ、お気持ちだけで」
どうにかこの場を逃れる言葉を探していると、デスクの上でスマートフォンが震えた。
画面に初めて通知された名前に、心臓が跳ねる。
『旧校舎で』
たった四文字のそっけない文面。それだけでも、歯車が動いたような気がした。
彼女が自分を求めているということが、自惚れだったとしても。我ながら情けないが、ようやく、決心がついた。
そういえば今日は金曜日だったか。また奈緒を待たせてしまうだろうが、構わない。冷蔵庫にシュークリームが入っているから食べてくれとメッセージを入れ、スマホの電源を切った。
鞄を引っかけ、机から煙草を取り出し、工藤にはお先に失礼しますと告げた。
「あら、仕事早いのね。若い人はエネルギッシュで羨ましいわ」
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愛想笑いは、職員室を出たところで脱ぎ捨てた。
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