アマツヘグイ

雨愁軒経

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第一章 イガキ

〈10〉あんたも大概ビョーキだなって

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 じっと黙って酒を傾けながら聞いていた季咲が、薄目を開けて、一瞥をくれた。

「うん、話は分かった。それで、その子の『食事』を止めさせたいのは、教師としての答えなの? それとも、男としてのもの?」
「それは、どう違うんだ」
「全っ然違うわよ。やめるべきだと諭したいのか、やめてほしいと願っているのか」

 改めて問われても、やはり分からなかった。なまじ、教師と男とを入れ替えても文章は違和感なく成立してしまうのだから性質が悪い。

「まあ、今はいいわ。ただ一つ、これだけは頭の隅に置いておいて。少なくとも今、彼女の血液嗜好を止めることができるのは、あんただけだよ」
「俺に、だけ……」

 すっかり参ってしまう。

 元々、自分の手に余る問題かもしれないと思ってはいた。しかし季咲によって輪郭をなぞられ、その中身を掬い上げられると、混沌としたものの深さに改めて気付き、眩暈がする。

「少し、言葉遊びをしよっか」

 季咲は酒を注ぎながら、悪戯を思いついたように笑った。思わず居住まいを正す。彼女がこの眼をするときは決まって、先生と生徒という立場が入れ替わるからだ。

「異食症はメンタルの病気なんでしょう。病とは『やめまい』。自分では止められないものよ」
「いや、待て、語源は逆だ。字の成り立ちは、人が臥せり、止まり居つくことから来ているはず。読みの由来は知らないが、せいぜい『る』辺りからの変化だろう」
「けれど、そうだったらと思えば、そんな風に聴こえるわよね」

 禅問答のようだ。季咲が何を伝えようとしているのか、思考を追い縋らせる。

「前にあんた、『元気』の語源は『減気』だ、って教えてくれたでしょ」
「ああ」
「体に満ちる『病の気』が減るから元気でいられる。『健康な気』が満ちたからじゃあない。まるで、健全な状態が異常のような言い方じゃないの」
「かつては風邪でさえ命取りだったんだ。それほど重要視されていたんだろうよ」
「そうかもね。じゃあ、恒常性ホメオスタシスについてはどう。熱かったら汗をかき、寒ければ身を震わせる便利な機能。ただ、いいアイデアを思い付いたと創作意欲を燃やしても、翌朝には行方不明なんてこともザラ。脳にとってはドーパミンも異物で、それを戻そうという力が働くらしいわ。
 けれど、やる気って大事よね。だったら、何千年という歴史の中で、どんどん基準値が高くなっていてもいいはず。でなきゃ、高地に住む民族の子は、産まれた直後に亡くなっているわ」
「待った。肉体の環境適応と精神の昇華を一緒くたにするから滅茶苦茶に――」

 なるんだ。そう言いかけて、ハッとした。大吟醸の口当たりの良さがはっきり分かった。鼻に抜ける香りの芳しさに脳が包まれた。流れているのはマイルス・デイヴィス。遠くでロックピックで氷を砕く音が、マスターの鼻歌のおまけつきで踊っている。

 一気に処理がなされていく情報の中から、今いちばん必要なものを掴む。

「つまり、なんだ、姉貴は。教師としてのあるべき生態と、俺の彼女への感情、どちらを主とするか。そう言いたいんだな」
「グッボーイ。いい子にはおつまみを追加してあげましょう」

 したり顔で、季咲は店員に生ハムのサラダとピザを注文した。

 料理を待っていると、一人の若い女性がステージに立って、ソプラノサックスのソロを始めた。トランペットとの合の子のような小振りな楽器で、通常のサックスよりも高い音色でありながら、その芯は残している。オリエンタルな吟遊詩人を想わせるそれは、ピアノとのデュオも映える。好きな音だった。

「綺麗な音ね。でも珍しいじゃない、マスター。ここでの演奏なんて初めて聞いたわよ」
「んだべ。普段は仙台で勉強してて、こっちさ帰ってきたときには駅前で路上やってるんだど」
「へえ」

 料理を運んできたマスターの説明には生返事で返し、演奏に耳を傾ける。鳥の鳴くようなビブラートが心地いい。知らない曲だったが、聴衆の中から漏れてきた声によると、何かのアニメの曲のアレンジらしい。雪の降る夜に恋を語るような、淑やかなメロディだった。

 不意に、季咲が噴き出した。

「あ、いや、ごめん。あんたも大概ビョーキだなって」
「謝ったそばから貶すとは、いかがなものかと思うが」
「だって、あんた。あれだけ断っといて、弾いているんだもの」

 指摘されて気が付いた。カウンターテーブルの上でリズムを刻む指づかいは、無意識に伴奏になっていたらしい。

「ていうかこれ、原曲はアイドルアニメの劇中歌なんだけれど。観てんの?」
「いいや。観たことはないし、この曲も初めて聴いた」

 素直に吐くと、季咲は愉快そうに太腿を叩いた。

「即興でやってのけたと。やっぱり、腕は鈍らせていないのね。病は気から。その気は既に憑りついていて、自分じゃ制御できないのかしら」
「マスターには言うなよ。無理矢理のデュエットは、あのサクソフォニストにも失礼だ」
「うーい、おっけ」

 季咲は気取って、ピザを上から垂らすように頬張り、また真剣な瞳をする。

「私は、手を伸ばしたんだと思ってるよ」
「……あいつが、俺にか」
「ええ。聞いた限り、その子は聡い。もし周りにバレて、自殺未遂あるいは自傷癖のあるやばめな子として扱われても、巧妙に順応して猫を被れるはず。あんたが彼女に気付いた段階じゃあまだ切ってなかったんだし、別に血を欲する姿までは見せなくてもよかったじゃない」
「わざわざ見せたのは、止めてほしいから、だとでも」
「あるいは、食事を邪魔されてお冠だったか。万一にもあんたのことが好きで、自分の本当のところを知って欲しかったとか」
「仮に後者ならば、こうした癖は隠すものだろう」
「その子がいいカッコしいブリッ子しいなら、そうなんでしょうよ」

 季咲はサラダに箸を伸ばし、大吟醸で流し込んだ。

 倣ってハムをつまみながら、彼女の言葉も咀嚼する。

 なるほど、冬子の態度を考えてみれば、何か媚びるだとか、アピールしようという素振りはあまりなかった。むしろ、冷静になって振り返ると、数少ないそれらも、どこか背伸びをしているようにさえ思う。

 大人の恋を教えてくれと、彼女は言っていた。何故、大人に拘るのか。シンプルに、恋、では駄目なのか。そして、

「何故、俺なんだ」

 別の酒を注文していた季咲が、さあね、と返事をした。

「手を染めたのに、止めるときは足を洗うくらいだから。そんなものよ。人のきっかけなんて、そんなもの。あんたがその子について悩むきっかけも、別に大層なものじゃないでしょ」

 面と向かって言い切られると、釈然としないものはある。しかし、概ねその通りだった。冬子の深い瞳を見たから、などと口を滑らせようものなら、向こう数年はイジられるだろう。

「ただ、中途半端にだけは関わっちゃダメよ。もし、万が一、いやさ億が一。その子があんたに好意を持っているのならば、あんたは最悪、不逞教師としてクビになることも覚悟しなさい。二つの乙女心を壊すかもしれないんだ、そのくらいの罰はあって然るべきよ」
「二つ?」
「奈緒ちゃん。気付いていないとは言わせないわよ」

 軽く睨んできてから、すぐに、季咲はんあー、と変な声を上げた。

「ああ、いい、やっぱいい。助太刀無用って言われてるんだったわ。あんたも立場上、口にはできないでしょうし。摘んじゃいけない花園なんて、昔のアイドル並みの禁止令よねえ」

 聖職者様は大変だあ、と苦笑しながら、彼女はやってきたカクテルを飲んだ。

「聖職者って名前も、アレよね。『斎垣』に似てるかも。越えてはいけないってやつ」
「それを解っていて、焚きつけているのか」
「あんたがそうしたいなら、って言っているだけよ。別に、投げやりや無責任で言っているんじゃないからね」

 昔からこうだった。必要な情報だけを並べてみせ、最後のカードは本人の手で切らせる。季咲流教育術と自ら名付けていることだけは、少々いただけないが。

「むしろ興味深々なのよ。栄慈の父親たる栄助は、なんという答えを出すのか、ってね」
「ほんと、姉貴はいい母親になるよ」
「おう、お姉ちゃんに向かって皮肉とな。さっきの大吟醸、持ってもらおうかなあ」
「……勘弁してくれ」

 それからは最近気になっている漫画だの、ドラマだの、俳優だのといった他愛もない話を肴に飲み続け、気が付けば、日付の変わる閉店間際までくだを巻いていた。
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