アマツヘグイ

雨愁軒経

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第一章 イガキ

〈7〉『かわいそうな子』を、貴方の手で

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 舞鶴山に沿うような細い路地を抜けると、上品な佇まいの甘味処があった。

 冬子によれば、夏季限定のかき氷などは予約必須の人気店らしく、しかし閉店時間も早いため、高校生が終業後に電車を待って繰り出しても間に合わないのだという。

 一時間に一本という田舎式ダイヤグラムの辛さと、一家どころか一人に一台レベルで車が必要になる山形の実情をぼやきながら、冬子と二人、暖簾をくぐる。

 暖かな雰囲気の店だ。入ってすぐのところは販売区画のようで、持ち帰り用わらび餅のサンプルがつつましやかに並んでいる。

 景観に溶け込んだ、壁際のアップライトピアノが目に留まった。脚漕ぎボートのようにペダルを踏むことではじめて音の鳴るアンティークタイプで、日本でも、これほど綺麗な状態で残っているものは珍しい。

 音は鳴るのだろうか気になったが、連れもいるとなっては話を切り出しづらい。カウンターで微笑む女将に訊きあぐねていると、背中に冬子から声をかけられた。イートインは反対側らしい。

 席について定番を尋ね、わらび餅とほうじ茶のセットを頼み、一息を吐く。いちごわらびは昼前に終了してしまったと聞いた冬子が少し拗ねていた。

 運ばれてきたお待ちかねのわらび餅に、いそいそと「いただきます」をしている姿に、微笑ましくなる。久しくそんなことをしていない自分が随分と汚れてしまった気がして、まるで懺悔でもするように、彼女に倣って手を合わせた。

 黒文字を恭しく口に運んだ冬子が、うっとりと目を蕩かせた。「んーふー」と、言葉にする手間を惜しむくせに、その感動を伝えようとしてくれるほどらしい。

「これは……美味いな」

 絶妙な柔らかさに驚くと、彼女はどこか誇らしげに、こく、こくと目を瞑ったまま首を振る。どうやら今暫く、夢ごこちから帰ってきてくれそうにない。

「はあ、ほんとうに美味しい。ありがとう、栄助さん」
「構わん。車を出しただけだ」
「ううん、一緒に来てくれたことも、だよ。たぶん、クラスの子と来ようものなら、気を遣うばかりで、味を楽しむどころじゃないから」
「光栄だな」

 ほうじ茶をほんの少し口に含んで、かすかに残ったわらび餅の余韻を楽しむ。茶の熱気に膨らんだきな粉と砂糖の香りが鼻腔をくすぐった。

 和菓子はいい。ケーキは苦手だ。思い出まで甘ったるいから。

「ねえ。せっかくなんだし、何かお話ししようよ」

 純真な誘いに、少し、及び腰になる。

 いざ考えてみると中々に浮かばないものだ。まして、質問の殆どが教師目線になってしまうようで、浮かんだ言葉を次々に呑みこむ。好きな教科など訊ねたところで、『ご趣味は』と同じくらい滑稽だろう。

「新潟出身と言っていたが、何故、一人暮らしをしてまで山形に来たんだ。うちは目立った進学校でもなければ、何かの強豪校でもなかろうに」

 ようやく絞り出した質問に、冬子があちゃあ、と目を覆った。

「外堀から埋めたのに、残念。核心ついちゃったね」
「やはり、それも『食事』と関係していたか」
「うん。勘当されているから、私。母からは『かわいそうな子』って言われた」
「かわいそうな子、ねえ」

 母親の気持ちも分からないではなかった。巷のLGBT論争も同じだろう。社会的に認めることと、パーソナルスペースに受け入れることとでは意味合いが異なる。

 もし、自分の姉が――ああいや、アレが自分がレズだとカミングアウトしたところで驚きはしないか。例えば、奈緒だったらと思えば、おそらく自分は反対するだろう。

 その理由に、名前なんてつけられないと分かっていながら。

「何がきっかけで」
「茨城にいた頃、キックベース大会で怪我をした男の子がいたんだよ。うちの子供会、あ、父が自衛官なんだけど。そこの官舎の人しかいないから、みんな『舐めときゃ治る』って。誰も手を差し伸べてあげなくって。だから、舐めてあげたの」
「それが、美味かったと」
「わからない。でも、自分しか知らないその子の味なんだと思うと、すごく興奮した」
「止められないか」
「栄助さんも、タバコ、止められないでしょう」
「……返す言葉もないな」

 きっかけなんて些細なことだった。自分の喫煙もそうだ。御大層な理由など、ない。

「そんな顔しないでよ。今はもう顔も思い出せない相手。恋心もないから」
「別に、嫉妬をしたわけじゃあない」

 わらび餅を舌でこねる。このくらい分かりやすい甘味うまみならばどれほど良かったか。

「じゃあ次、私の番。栄助さんの彼女の話がききたいな」
「いないと言わなかったか」
「付き合っていた人くらいはいたでしょう」

 茶の器を、取り落しそうになった。

「面白い話でもないさ」
「けれど、栄助さんはずっと抱えているように見えるよ」
「それはまたどうして」
「だって私が、一番が欲しいって言ったとき、泣きそうな顔してたから。強いて言うなら、ここで、どうして、なんて訊き返すのも不自然だもの」

 失念していた。彼女はこちら側だった。普段なら「別れちゃったんですよ」などとへらへらしながら、ろくでなしを演じていれば煙に巻けるのだが。

「ふぅー……」

 天井を仰ぎ、息を吐く。つい先ほど口にしたはずのほうじ茶の潤いは、早くも褪せている。

「大学時代、彼女がいた。可愛らしく、よく気が回る。バイト先では、腕を買われて試食販売の手伝いをするほど料理の上手い、いい女だったよ」
「うん」
「ちょうど、東日本大震災の頃だ。寝物語に将来を描こうとした時、あいつは泣き出した。バイト先の上司が福島の出身だったらしい。奴は単身赴任していて、妻と子の無事を聞いたとき、安心したんだろうな。逆にそこで何も手につかなくなった。その男の家に、まあ、いわば通い妻だが。そうこうしているうちに、移り気してしまったと」
「……うん」
「一晩中泣いて、謝っていた。食事を用意しただけ。肉体関係は求められたがまだ至ってはいない、それだけは信じてくれと言われたが、そんなことどうでもよかった。俺はもう、空っぽになっていたから」
「無理、ないよ」
「いや、冷めたわけじゃあないんだよ。引き摺っている間も、たしかに好きだった。だが、自分が酷く薄情な人間に思えたよ。ショックを受けるでもなく、怒ることも恨むことも、穢らわしいと思うこともなく。むしろ、正直に告げた彼女を美しいとさえ感じていたんだ」

 本心だった。羨ましかったのだ。そうまでして愛する者に出逢えた彼女が。浮気や不倫を肯定するわけではないが、恋が散っても新たな春を探すように、一人が一生のうちに愛する人間は一人ではないことを知っている。だからこそ、光源氏の物語に人は惹かれるのだろうと。

「ただ感情だけは、心の真ん中だけが虚空に飛んでいってしまったように、何にも湧いてこなかった。胸の痛みとやらもなかったんだよ。俺の想いはこの程度だったのかと。己の敗北を思い知らされたときも、清々しかったくらいだ」
「敗北……? どうして、そう思ったの」
「面を拝みに行ったんだ。妻子がいながら誘い込みやがったクソ野郎のな。初老は隠せていなかったが、背も高く、爽やかな笑顔を湛えた、いい男だったよ。ああ、敗けたと思った。別の日に、そいつが元カノとは別の、あの店の従業員の女と手を繋いで歩いているところを見かけても、不思議と納得したくらいだ」

 それからのことは空の向こうである。長かった髪をばっさりと切り整えていた彼女を見かけた時、良かれ悪しかれ、あの男との関係に変化があったことを悟ったくらいか。

「少し、話が逸れたな。とまあ、それ以来、俺は誰かを想うことができなくなった。『貴女を世界で一番愛している』という提示の、保証ができないんだよ」

 息継ぎをするように茶を呷る。皮肉にも、こいつは冷めていた。

「そっか。苦い、ね」

 ぽつりと、冬子がそう言った。

「愚図な男の、つまらない顛末だよ」

 肩を竦めて見せても、彼女は目を伏せるばかりだった。

 話すべきではなかったかと省みる。身内以外に話したのは初めてで、どうも加減が分からなかった。のうのうと、立ち行かなくなった場所で彷徨い続けているモノを見るのは、不快でしかないだろうに。

 わらび餅の最後のひとかけらが、いやに喉に張り付いてくる。

「ねえ、栄助さん。大人の恋って、どういうものなのかな?」
「それを俺に訊くのか」
「ごめんなさい、嫌味とかじゃないの、ただ。栄助さんの思う大人の恋を知りたくて」

 慌ててた様子で胸の前に両手を拡げた冬子を宥めて、言葉を探す。

「一般論だが。愛、というものがそれに相当するんじゃないか」
「なら、愛ってなあに」
「そう言われてみれば、考えたこともなかったな」

 説明する言葉が出てこなかった。ケースバイケースと言ってしまえばそれに尽きてしまうのだろうが。愛し愛されることや、幸せを願いながらも、その形を明確に描いた記憶がない。

「体の関係を持ったら、愛なのかしら」
「その理屈でいけば、俺とお前の間にも愛があることになるが」
「むう、そこは嘘でもあると言うのがスマートじゃないかな。それに、口でしかしてないし。これからどうなるか分からないじゃない」

 唇をとがらせた冬子に、困ったようなほっとしたような、妙な感情を抱いた。

 今後も『食事』の関係が続くことは、できれば元から断ちたいところではあるが、それよりも、どうやら彼女はダメ男の失恋話を聞いて尚、見損なわずにいてくれるらしい。

「社会人として生活が送れればいいのかな。あるいは、栄助さんの元カノさんたちのように、浮気や不倫をするのが大人なのかしら」

 冬子が口元に指を添えて独りごちている。哲学者かと思えば今度は探偵のようだ。

 さっと夕日が差した刹那、恋に悩む大和撫子が掠めていった。式部か少納言かは定かでないが、どこぞの愚かな男とは違い、見ていて飽きることがない。

 どこか遠くへ想いを馳せる睫毛を見ていて、ふと、気付いた。

「俺には、お前が自分なりの答えを持っているように見える」
「ふふっ、どうだろうね」

 上目遣いに奥ゆかしげな微笑みをくれる彼女に、確信を得る。

 やはり、愛とはケースバイケースなのだろう。彼女が血の中にそれを見出したように、誰もが、愛する人と、それぞれのつがいだけが知る味を探している。

 世界でたった一人、その人にしか贈らない味を、身に付けようとしている。

「けれどそれは、単なる子供の妄想がんぼうに過ぎないのかもしれないよ」
「願うからこそ、幸福がやってきたときに気付けるとも考えられる」

 たとえ、それがささやかなものでも。

 そう言うと、冬子はくすりと、鈴のように軽やかな声で、笑った。

「だから教えてよ、先生。栄助さんの思う、大人の恋を、私に。『かわいそうな子』を、貴方の手で大人にしてほしい」

 彼女の肩越し、窓の向こうに、舞鶴山からの桜が舞っていた。
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