4 / 38
第一章 イガキ
〈4〉御馳走様、先生
しおりを挟む
「違うのか」
「違うよ。いや、合ってるのかな。ん、やっぱりちょっと違う。私が腕を切ろうとした理由であり、切ることで得ようとしたもの。それが私の秘密」
掲げて見せられたカッターを見て、内心、首を傾げた。
左腕に数条走った薄紅の傷痕が痛々しい。それを作る理由とはなんだ。心に何かを抱えているのだろうが。少なくとも学校ではそのような素振りも噂も見聞きしていないし、前任者の担任――個人的にはこちらの方がよっぽど神経を疑う女だ――も、すこぶる優秀な生徒として冬子の名を挙げていた。ともすれば、家庭環境だろうか。確か、彼女は地元新潟を離れて一人暮らしをしていると聞いている。
見当が付かない。ただ。
もし、もしだ。自分が身代わりになることで、彼女の衝動を押さえられるのなら。
「力になりたい」
真心からそう思った。
「それ、は」
たたらを踏んだ冬子は、油の切れた機械のように頭を振る。
「……先生が満たしてくれるって解釈で、いいのかな」
「ああ。君が望むのなら」
生唾が彼女の喉を鳴らした。それに弾かれるように、水面にようやく上がれたのかと思うほどの大きな呼吸をして、カッターを取り落とした。
「本当に、ほんとうなの」
そう言うや否や、彼女は再び飛びかかってきた。
荒い息で、おどろになった髪を気にするでもなく首元にひしと鼻を埋めてくる姿は、まるで愛し合っている最中にいるようで。
そっと、耳元に口を寄せてきた。
「我慢できない。ごめんなさい、先生」
捲し立てるように喘いでから、エタノールスプレーを持ち出し、ふと、いじらしい声で「利き手、どっち」と訊ねてきた。
右だと答えると、左の二の腕にスプレーを吹きかけられた。
安酒のような臭いが立ち上り、冬子の香りとぐちゃぐちゃに混ざり合って、甘ったるしく鼻に、口にと潜り込んでくる。
頭がくらくらしそうだ。
冬子が二の腕に噛みついた。甘噛みだった。痛みはない。何かを探るようにあにあにと場所をずらしながら、あるところまで来たとき、下あごを離した。
前歯だけを押しあてる状態から、彼女は、頭を横にスライドさせた。
「痛――くっ」
思わず首を竦める。しかし、驚いただけで、そんなに痛みはなかったことに気が付いた。
「ごめんなさい、痛かった?」
「いいや。気にするな」
頭を撫でると、冬子は安心したように頬を緩め、傷口に舌を這わせた。
出血していたことにも驚いた。昔テレビで吸血鬼を見た時、自分の腕を噛んでみたことがある。しかし痛いばかりで、せいぜい青あざができることはあっても、それこそ吸血鬼のような鋭い牙がない限り、皮膚を穿つことはないと思っていたのだ。
よもや、滑らせるだけで容易に切ることができるとは。
「っふ……ぁ、んっ……」
冬子は無心だった。骨の髄まで吸い出されるかと思うほど、丹念に舐め上げ、丁寧に傷口をこじ開け、唇を強く押し付けてしゃぶってくる。
これまで経験したどんな口づけよりも、濃厚だった。
息を吸うわずかな間にもたちまち零れ落ちそうになる血を、冬子は慌てて追いかけ、愛おしそうに舌で掬っていく。それからは瞬く暇さえ惜しむように求められた。
ふと、彼女の鼻腔から漏れる息の合間に、微かな嗚咽が混ざっているのを聞いた。
見れば、睫毛の端が濡れているのが分かった。
傷口から冬子の秘密が沁み込んでくるのを感じた。それと同時に安堵した。
彼女は文字通り吸血鬼――否、現実に即して言い換えるなら、吸血症とでも言うべきなのだろうか。ともかく、彼女は血を欲していた。そのための自傷行為。自分が身代わりになることで彼女を傷つけずにいられるのなら、きっと、力になれたのだろう。
「あっ」
吐息に掻き消えてしまいそうな小さな声がした。物欲しそうな冬子の視線の先には、すっかり出血の止まってしまった、赤い染みのような、ほんの小さな傷痕だけがあった。
「構わない」
囁く。しかし、彼女は淡く充血した目を伏せた。
「大丈夫です……うん、大丈夫。御馳走様、先生」
「御粗末様」
「ううん、そんなことない。とても、甘くて。コクのある感じで、美味しかった。先生は、普段どんなものを食べてるの」
「少なくとも、血でないことは確かだな」
「もう、もうっ、いじわる」
ぱたぱたとじゃれる手のひらを受け入れる。
「冗談だ。特に不摂生はしていないつもりだが、変わったものを食べているわけでもないな」
「食べたものって、体液の味に影響あるんだって。梅津さんたちが話してた」
「そういうものなのか」
意外な雑学に感心していると、何故だか冬子は複雑な表情を浮かべた。
「どうしてそんなことを知ってるんだー、みたいに、怒ったりしないんだ」
「今日日珍しくないと言ったのは君だろう」
「むう。分かっていても、いたいけな乙女として扱うのが紳士でしょう」
唸るしかなかった。子供扱いの方が厭われるものと思っていたからだ。それにこれまで、乙女心とやらを持ち出されて、そこに何かしらの答えを返せた試しがない。
自分は永遠に、性格イケメンなどと呼ばれる雲上人には届かないのだろう。
「――おい、何をしている」
ベルトを外されていることに気付いて、天井から視線を下ろす。
「何って、お礼だけど」
なんでもないことのように、冬子はきょとんと目を瞬かせた。
手は止まることなくベルトを外しきり、ジッパーを下げる。「止めはしないんだね」などと茶化すような口ぶりに、下心がどきりと震える。
「そんなに身構えなくていいよ」
彼女は、上唇に触れるだけの優しいキスをして、照れたように笑った。
「先生は、捧げてくれたんだ。私も、奉げたげる」
「大袈裟だな」
「大袈裟なんかじゃないよ。それとも、口でされるのは嫌いだったかな。血を舐めた後じゃあ、気味が悪いかしら」
「いや、そういう訳では……」
気にかかったのは、そこに彼女の心が存在するかということだった。こちらが『食事』をさせたからそれに応えるというのは、あまりに短絡的で、刹那的すぎる。
捧げることと、愛することはイコールではないのだ。しかし、思い返せば恥ずかしながら、自分も学生の頃には、刹那的な欲求を恋だ愛だと信じて疑わなかった。今でこそ赤面するほど青い果実だが、なけなしでも精一杯の財産だったのだ。
結局、冬子を引き剥がす言葉を持ち合わせておらず、この場は諦め、顔を埋める敬虔な表情に身を委ねることにした。
「違うよ。いや、合ってるのかな。ん、やっぱりちょっと違う。私が腕を切ろうとした理由であり、切ることで得ようとしたもの。それが私の秘密」
掲げて見せられたカッターを見て、内心、首を傾げた。
左腕に数条走った薄紅の傷痕が痛々しい。それを作る理由とはなんだ。心に何かを抱えているのだろうが。少なくとも学校ではそのような素振りも噂も見聞きしていないし、前任者の担任――個人的にはこちらの方がよっぽど神経を疑う女だ――も、すこぶる優秀な生徒として冬子の名を挙げていた。ともすれば、家庭環境だろうか。確か、彼女は地元新潟を離れて一人暮らしをしていると聞いている。
見当が付かない。ただ。
もし、もしだ。自分が身代わりになることで、彼女の衝動を押さえられるのなら。
「力になりたい」
真心からそう思った。
「それ、は」
たたらを踏んだ冬子は、油の切れた機械のように頭を振る。
「……先生が満たしてくれるって解釈で、いいのかな」
「ああ。君が望むのなら」
生唾が彼女の喉を鳴らした。それに弾かれるように、水面にようやく上がれたのかと思うほどの大きな呼吸をして、カッターを取り落とした。
「本当に、ほんとうなの」
そう言うや否や、彼女は再び飛びかかってきた。
荒い息で、おどろになった髪を気にするでもなく首元にひしと鼻を埋めてくる姿は、まるで愛し合っている最中にいるようで。
そっと、耳元に口を寄せてきた。
「我慢できない。ごめんなさい、先生」
捲し立てるように喘いでから、エタノールスプレーを持ち出し、ふと、いじらしい声で「利き手、どっち」と訊ねてきた。
右だと答えると、左の二の腕にスプレーを吹きかけられた。
安酒のような臭いが立ち上り、冬子の香りとぐちゃぐちゃに混ざり合って、甘ったるしく鼻に、口にと潜り込んでくる。
頭がくらくらしそうだ。
冬子が二の腕に噛みついた。甘噛みだった。痛みはない。何かを探るようにあにあにと場所をずらしながら、あるところまで来たとき、下あごを離した。
前歯だけを押しあてる状態から、彼女は、頭を横にスライドさせた。
「痛――くっ」
思わず首を竦める。しかし、驚いただけで、そんなに痛みはなかったことに気が付いた。
「ごめんなさい、痛かった?」
「いいや。気にするな」
頭を撫でると、冬子は安心したように頬を緩め、傷口に舌を這わせた。
出血していたことにも驚いた。昔テレビで吸血鬼を見た時、自分の腕を噛んでみたことがある。しかし痛いばかりで、せいぜい青あざができることはあっても、それこそ吸血鬼のような鋭い牙がない限り、皮膚を穿つことはないと思っていたのだ。
よもや、滑らせるだけで容易に切ることができるとは。
「っふ……ぁ、んっ……」
冬子は無心だった。骨の髄まで吸い出されるかと思うほど、丹念に舐め上げ、丁寧に傷口をこじ開け、唇を強く押し付けてしゃぶってくる。
これまで経験したどんな口づけよりも、濃厚だった。
息を吸うわずかな間にもたちまち零れ落ちそうになる血を、冬子は慌てて追いかけ、愛おしそうに舌で掬っていく。それからは瞬く暇さえ惜しむように求められた。
ふと、彼女の鼻腔から漏れる息の合間に、微かな嗚咽が混ざっているのを聞いた。
見れば、睫毛の端が濡れているのが分かった。
傷口から冬子の秘密が沁み込んでくるのを感じた。それと同時に安堵した。
彼女は文字通り吸血鬼――否、現実に即して言い換えるなら、吸血症とでも言うべきなのだろうか。ともかく、彼女は血を欲していた。そのための自傷行為。自分が身代わりになることで彼女を傷つけずにいられるのなら、きっと、力になれたのだろう。
「あっ」
吐息に掻き消えてしまいそうな小さな声がした。物欲しそうな冬子の視線の先には、すっかり出血の止まってしまった、赤い染みのような、ほんの小さな傷痕だけがあった。
「構わない」
囁く。しかし、彼女は淡く充血した目を伏せた。
「大丈夫です……うん、大丈夫。御馳走様、先生」
「御粗末様」
「ううん、そんなことない。とても、甘くて。コクのある感じで、美味しかった。先生は、普段どんなものを食べてるの」
「少なくとも、血でないことは確かだな」
「もう、もうっ、いじわる」
ぱたぱたとじゃれる手のひらを受け入れる。
「冗談だ。特に不摂生はしていないつもりだが、変わったものを食べているわけでもないな」
「食べたものって、体液の味に影響あるんだって。梅津さんたちが話してた」
「そういうものなのか」
意外な雑学に感心していると、何故だか冬子は複雑な表情を浮かべた。
「どうしてそんなことを知ってるんだー、みたいに、怒ったりしないんだ」
「今日日珍しくないと言ったのは君だろう」
「むう。分かっていても、いたいけな乙女として扱うのが紳士でしょう」
唸るしかなかった。子供扱いの方が厭われるものと思っていたからだ。それにこれまで、乙女心とやらを持ち出されて、そこに何かしらの答えを返せた試しがない。
自分は永遠に、性格イケメンなどと呼ばれる雲上人には届かないのだろう。
「――おい、何をしている」
ベルトを外されていることに気付いて、天井から視線を下ろす。
「何って、お礼だけど」
なんでもないことのように、冬子はきょとんと目を瞬かせた。
手は止まることなくベルトを外しきり、ジッパーを下げる。「止めはしないんだね」などと茶化すような口ぶりに、下心がどきりと震える。
「そんなに身構えなくていいよ」
彼女は、上唇に触れるだけの優しいキスをして、照れたように笑った。
「先生は、捧げてくれたんだ。私も、奉げたげる」
「大袈裟だな」
「大袈裟なんかじゃないよ。それとも、口でされるのは嫌いだったかな。血を舐めた後じゃあ、気味が悪いかしら」
「いや、そういう訳では……」
気にかかったのは、そこに彼女の心が存在するかということだった。こちらが『食事』をさせたからそれに応えるというのは、あまりに短絡的で、刹那的すぎる。
捧げることと、愛することはイコールではないのだ。しかし、思い返せば恥ずかしながら、自分も学生の頃には、刹那的な欲求を恋だ愛だと信じて疑わなかった。今でこそ赤面するほど青い果実だが、なけなしでも精一杯の財産だったのだ。
結局、冬子を引き剥がす言葉を持ち合わせておらず、この場は諦め、顔を埋める敬虔な表情に身を委ねることにした。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説

優等生の裏の顔クラスの優等生がヤンデレオタク女子だった件
石原唯人
ライト文芸
「秘密にしてくれるならいい思い、させてあげるよ?」
隣の席の優等生・出宮紗英が“オタク女子”だと偶然知ってしまった岡田康平は、彼女に口封じをされる形で推し活に付き合うことになる。
紗英と過ごす秘密の放課後。初めは推し活に付き合うだけだったのに、気づけば二人は一緒に帰るようになり、休日も一緒に出掛けるようになっていた。
「ねえ、もっと凄いことしようよ」
そうして積み重ねた時間が徐々に紗英の裏側を知るきっかけとなり、不純な秘密を守るための関係が、いつしか淡く甘い恋へと発展する。
表と裏。二つのカオを持つ彼女との刺激的な秘密のラブコメディ。

もしもしお時間いいですか?
ベアりんぐ
ライト文芸
日常の中に漠然とした不安を抱えていた中学1年の智樹は、誰か知らない人との繋がりを求めて、深夜に知らない番号へと電話をしていた……そんな中、繋がった同い年の少女ハルと毎日通話をしていると、ハルがある提案をした……。
2人の繋がりの中にある感情を、1人の視点から紡いでいく物語の果てに、一体彼らは何をみるのか。彼らの想いはどこへ向かっていくのか。彼の数年間を、見えないレールに乗せて——。
※こちらカクヨム、小説家になろう、Nola、PageMekuでも掲載しています。

百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる