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第一章 イガキ
〈2〉それなら、お言葉に甘えて
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彼女は薄墨冬子。明日から受け持つクラスに在籍する生徒で、干物野郎の目線でいうなれば、高嶺の花という言葉が真っ先に浮かぶ。物静かで、顔立ちも美しく、成績も優秀。誰とでも分け隔てなく接することができ、浮いた話や黒い噂も立つ様子がない。
そんな彼女が何故こんなところにいるのか、どうして息が詰まるほどに綺麗なのか。何かの答えを求めて、思わず手を伸ばした。
自分が扉の影にいたことも忘れ、肩をぶつけてしまう。
冬子はぎょっとしたように振り返った。
「ああいや。覗くつもりはなかったのですが」
気付かれてしまっては仕方がない。バツが悪そうな追従笑いを浮かべて教室に入った。ここ数年で培った、我ながら反吐の出るような営業スマイルだ。
後になって思えば、その一歩は、踏み出すべきではなかったのかもしれない。
絵画の上から汚泥で塗りつぶし、台無しにしてしまったも同然なのだから。
「君は薄墨さん、ですよね」
「動かないで」
言葉を遮るように突き出された右手には、カッターナイフが握られていた。
反射的に諸手を上げながら、脳が全速力で現実を理解しようとしているのを感じていた。時が止まった精神世界をジェットコースターで突き抜けるような感覚は、かつて付き合っていた彼女から、生理が来ないと告げられた時以来である。
はじめに、机の上が目に入った。冬子の傍らにある古びた机からは椅子が下ろされ、代わりにライターと、スプレーノズルがついた消毒用エタノールのボトル。それとガーゼや包帯の類が並べられていた。
次に、彼女が背に隠している左腕が気に留まった。素肌こそ確認することはできないが、袖が捲り上げられていることだけは分かった。
彼女が何をしようとしていたのか、嫌でも理解できてしまう。
こんな時、どんな風に言葉をかければいいのか知らない。紡ぎあぐねていると、冬子が先に口を開いた。
「長谷堂先生、お一人ですか」
震える首で頷く。
「これから誰かが来ることはありますか?」
潔白を証明するように、努めてしっかりと首を振った。
すると、どん詰まりの自分が滑稽なのか、冬子はふふ、と相好を崩した。
「随分と必死に首を振るんだね。嘘がバレた子供みたい」
「嘘ではありませんよ」
「比喩だよ、比喩。ああでも、子供扱いするのは、たとえが悪かったかな。ごめんね、先生」
悪びれた様子もなく、舌を出してみせてから、彼女はこちらにカッターを向けたまま、さらに一歩詰め寄ってきた。
どうやら、まだ許されたわけではないらしい。
顎で教室の奥へ行くよう促され、入れ替わるように退路を塞がれる。
「その物騒なものを、下ろしてはくれませんか」
「お断りするよ。一応釘を刺しておくけれど、力づくで逃げ出したりすれば、先生に暴力を振るわれたと学校に報告するから」
おそろしく光る瞳に、立ち眩みそうになる。
「安心してください、何もしませんから」
「それを決めるのは私。口約束なんてどうとでもなるし。見られてしまった以上、何もされないという確信を得るまで、解放するわけにはいかないんだよ」
一瞬で水分を失った喉を、どうにか動かそうと足掻く。
彼女の声音は細く嫋やかなものなのに、淡々と発されるだけでこうも恐怖を纏うものなのか。
一分一秒でも早く逃げ出したかった。同時に、教師として投げ出すわけにはいかないという正義感が脳裏をうろつき始めた。クラッチが噛まないまま、アクセルの空吹きだけしているようだ。嫌な臭いが鼻をつく。
ふと、臭いの正体は空気中に混ざったエタノールなのだと思い当たった。
机の上に並べられたものは何だったか。ライターはカッターの刃を炙るため。消毒用のエタノールは文字通り。そして、行為の後で手当てをするためだろうガーゼと包帯。
つまり、これは自傷行為であって自殺ではないということ。
冬子が明日以降も生きるつもりがありそうだと判明したことで、多少の気休めになった。現金なものだが、死なれないだけマシである。
「何か、私に何かできることはありませんか?」
提案すると、冬子がわずかに目を見開き、底の色をすうっと深めた。
吸い込まれそうな色香に、胃の辺りがざわつく。
薄墨冬子という少女の瞳に、このような深淵を宿させてしまう過去があったということだろう。この手の闇はいけない。識っているだけに、寒気がする。
追従笑いでは彼女に通用しないだろう。そっと、心の仮面を外す。
「何でもしよう」
「へえ」
身を任せてみようと思った。彼女が渇望している何かを、知ってみたくなった。
既に、仄暗い奔流に一歩踏み入れてしまったのだ。ままよ。
「何もしないと言ってみたり、何でもすると言ってみたり。どっちなのさ」
「言葉尻を捉えても無駄だ」
「ふうん、じゃあ、もう一つの質問。どっちなの?」
「さあな。それを決めるのは君だ」
そういうイジワル言うんだ、と冬子は目を細くする。
「うん、それなら、お言葉に甘えて。何でもしてもらおうかな」
お菓子を選ぶ子供のように、視線がくるりと彷徨った。彼女は愉しんでいるように見えた。
果たして、その直感は当たってしまう。
「服を脱いで、先生」
そう言って、冬子は下唇の裏を舌で撫でた。
そんな彼女が何故こんなところにいるのか、どうして息が詰まるほどに綺麗なのか。何かの答えを求めて、思わず手を伸ばした。
自分が扉の影にいたことも忘れ、肩をぶつけてしまう。
冬子はぎょっとしたように振り返った。
「ああいや。覗くつもりはなかったのですが」
気付かれてしまっては仕方がない。バツが悪そうな追従笑いを浮かべて教室に入った。ここ数年で培った、我ながら反吐の出るような営業スマイルだ。
後になって思えば、その一歩は、踏み出すべきではなかったのかもしれない。
絵画の上から汚泥で塗りつぶし、台無しにしてしまったも同然なのだから。
「君は薄墨さん、ですよね」
「動かないで」
言葉を遮るように突き出された右手には、カッターナイフが握られていた。
反射的に諸手を上げながら、脳が全速力で現実を理解しようとしているのを感じていた。時が止まった精神世界をジェットコースターで突き抜けるような感覚は、かつて付き合っていた彼女から、生理が来ないと告げられた時以来である。
はじめに、机の上が目に入った。冬子の傍らにある古びた机からは椅子が下ろされ、代わりにライターと、スプレーノズルがついた消毒用エタノールのボトル。それとガーゼや包帯の類が並べられていた。
次に、彼女が背に隠している左腕が気に留まった。素肌こそ確認することはできないが、袖が捲り上げられていることだけは分かった。
彼女が何をしようとしていたのか、嫌でも理解できてしまう。
こんな時、どんな風に言葉をかければいいのか知らない。紡ぎあぐねていると、冬子が先に口を開いた。
「長谷堂先生、お一人ですか」
震える首で頷く。
「これから誰かが来ることはありますか?」
潔白を証明するように、努めてしっかりと首を振った。
すると、どん詰まりの自分が滑稽なのか、冬子はふふ、と相好を崩した。
「随分と必死に首を振るんだね。嘘がバレた子供みたい」
「嘘ではありませんよ」
「比喩だよ、比喩。ああでも、子供扱いするのは、たとえが悪かったかな。ごめんね、先生」
悪びれた様子もなく、舌を出してみせてから、彼女はこちらにカッターを向けたまま、さらに一歩詰め寄ってきた。
どうやら、まだ許されたわけではないらしい。
顎で教室の奥へ行くよう促され、入れ替わるように退路を塞がれる。
「その物騒なものを、下ろしてはくれませんか」
「お断りするよ。一応釘を刺しておくけれど、力づくで逃げ出したりすれば、先生に暴力を振るわれたと学校に報告するから」
おそろしく光る瞳に、立ち眩みそうになる。
「安心してください、何もしませんから」
「それを決めるのは私。口約束なんてどうとでもなるし。見られてしまった以上、何もされないという確信を得るまで、解放するわけにはいかないんだよ」
一瞬で水分を失った喉を、どうにか動かそうと足掻く。
彼女の声音は細く嫋やかなものなのに、淡々と発されるだけでこうも恐怖を纏うものなのか。
一分一秒でも早く逃げ出したかった。同時に、教師として投げ出すわけにはいかないという正義感が脳裏をうろつき始めた。クラッチが噛まないまま、アクセルの空吹きだけしているようだ。嫌な臭いが鼻をつく。
ふと、臭いの正体は空気中に混ざったエタノールなのだと思い当たった。
机の上に並べられたものは何だったか。ライターはカッターの刃を炙るため。消毒用のエタノールは文字通り。そして、行為の後で手当てをするためだろうガーゼと包帯。
つまり、これは自傷行為であって自殺ではないということ。
冬子が明日以降も生きるつもりがありそうだと判明したことで、多少の気休めになった。現金なものだが、死なれないだけマシである。
「何か、私に何かできることはありませんか?」
提案すると、冬子がわずかに目を見開き、底の色をすうっと深めた。
吸い込まれそうな色香に、胃の辺りがざわつく。
薄墨冬子という少女の瞳に、このような深淵を宿させてしまう過去があったということだろう。この手の闇はいけない。識っているだけに、寒気がする。
追従笑いでは彼女に通用しないだろう。そっと、心の仮面を外す。
「何でもしよう」
「へえ」
身を任せてみようと思った。彼女が渇望している何かを、知ってみたくなった。
既に、仄暗い奔流に一歩踏み入れてしまったのだ。ままよ。
「何もしないと言ってみたり、何でもすると言ってみたり。どっちなのさ」
「言葉尻を捉えても無駄だ」
「ふうん、じゃあ、もう一つの質問。どっちなの?」
「さあな。それを決めるのは君だ」
そういうイジワル言うんだ、と冬子は目を細くする。
「うん、それなら、お言葉に甘えて。何でもしてもらおうかな」
お菓子を選ぶ子供のように、視線がくるりと彷徨った。彼女は愉しんでいるように見えた。
果たして、その直感は当たってしまう。
「服を脱いで、先生」
そう言って、冬子は下唇の裏を舌で撫でた。
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