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エピローグ 永遠のアン・ディミニュエ

〈1〉

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 ここからは少しだけ、蛇足のお話を。絵本に描かれた『冬の彦星』ではなく、天野冬彦というオリジナルが歩み行き着いた、ページの向こう側――未来だ。

「ほれ、うちにすがれ。ちぃと目を離せばてれんこぱれんこしよってからに」

 呆れたような怒ったような声でシフォンが近くに来た。彼女は一度僕の頭にチョップをくらわすと、頭を押さえた僕の手をひっつかみ、自分の腕へと導いてくれる。

「シフォンから第二部大丈夫だよ。目が見えているうちにも来たことがあるし、さっきもセルゲイと一緒にぐるっと回ったから、だいたい覚えた」
「ありゃーねえ……あちこち歩かれるそーそーされるとうちの胃に悪いっちゅうとるんじゃぼけたれ。こないだもそうやって、青タンこさえたじゃろーが」

 腕を組んでいるのと反対の手で、お腹に軽くげんこつを入れられる。
 彼女に導かれて向かう先は、今日演奏するホールだ。
 あれから数年の月日が経った。僕は視力を失ったあの日から、ひたすら指を動かし続けた。普段はあかりとの指文字を、そして、その他の時間でピアノの鍵盤を。結局高校は中退することになったから、幸か不幸か、時間はたっぷりあった。

 視覚障害者にできることは思ったよりも多かった。かつては手の感覚が鋭いことから、盲者の仕事といえば按摩・鍼・灸の「三療業」と呼ばれる仕事に就く人が多いらしい。現在では技術の進歩もあり、音声読み上げシステムなどを駆使すれば、少しずつだけど間口は広がっている。世の中にはスティービー・ワンダーのような最高のアーティストもいるし、中学時代に失明しながら、現在は世界的企業の技術者として成果を上げている女性もいるという。可能性は無限だった。
 電話なんかも、使っているもののボタンの配置さえわかれば、パソコンのブラインドタッチをするのと同じような要領で対応ができる。だから僕は、平時は母さんの職場で事務員兼|お悩み相談員カウンセラー余興担当係ピアニストとして働きながら、時折こうして、ホールでの演奏をするセミプロのピアニストとして活動を再開していた。

「おいあんたら、散れ、散れ。フユが歩きづらいじゃろ。そんカメラのパーツしゃぎるぞ」

 不意にシフォンの体の動きが大きくなったかと思うと、僕の乳白色の視界に一際明るい光が何度か注がれた。

「……写真?」
「ああ。にわかがいまころ追っかけて来よった」

 けらけらと笑うシフォンの牽制を意に介していないのか、複数の足音が寄ってくる。

「天野さん、活動を再開されたんですか!」
「見りゃあ判るじゃろ。あんたらもそれで来たんじゃろーが」
「腕を組んでいらっしゃるのは、桐谷さんとそういったご関係だからでしょうか?」
「わや言うなやぼけたれ。目ぇ潰してから出直しいさん」

 僕に辿り着くまでに、シフォンがばっさばっさと切り捨てていく。最後に聞こえた
「ええと……」という唖然とした声に、彼女は満足そうに「やっちもにゃあことじゃのう」と笑った。

「そういえばうちんとこにな、テレビからのアポがあった。フユの取材がしたいんじゃと」
「ああ、そうか。僕には直接コンタクトが取れないもんね」

 それが、僕がセミプロたる所以だった。どこかの楽団に所属しているわけでもなく、特に依頼を受け付けているわけでもない。シフォンが国内公演をする際にのみ、声をかけてもらえば参加するという形でしかステージには立たないからだ。

「僕はどちらでも。シフォンの宣伝になるなら、利用していいよ」
「やけにさっぱりしちょるのう。あん頃はぎゃあぎゃあ喚いちょったのに」
「やめてよ、恥ずかしい」

 僕は組んだ腕の肘で、シフォンの脇腹を小突き返した。脇腹が弱いのか、ひゃあと小さな悲鳴がしたかと思うと、数倍にしてどつき返された。なんだかすごく懐かしくて、心地いい痛みだ。……ちょっと変態チックかな。

「僕への世間の反応は、聞こえているよ」

 瞼を閉じる。はじめてステージに立った時に、何人かの口から漏れたどよめき。その後のSNSの反応。次の公演でかけられた応援の声。そして、嗅ぎ付けた音楽誌が小さくコラムに載せたトピック。
 煽り文句の切れ味は相変わらずだった。父さんのこと、引退のこと、視力のこと……僕にとって断片的なそれを、よくまあ繋げたものだと、当人である僕が笑ってしまったくらいだ。母さんの読み上げ方に悪意があったせいでもあるのは否めないけれど。

「ちゃんと聞こえてる。けれど不思議だね。全然揺らがないんだ」

 今なら、夏木さんがあれほど落ち着いていたのが頷ける。今の僕は、とても穏やかな凪の中にいるようだった。けれどそれは、割り切りでもなくって、諦めでもない。
 糸を手繰れば、大切な人や、大切な友へと繋がっているという、安心感。もちろんそれは依存ではないし、慰めでもない。
 ただ、今を生きているんだという実感なんだ。大変でも、醜くても、確かに僕はここに生きている。

「さあ、行こうか。おとぎの絵本の読み聞かせに」

 僕がそう言うと、シフォンは苦笑気味に鼻を鳴らして「きなりおって」と足を速めた。やがて腕は解かれ、手を引くようになって、引っ張られるようになって――さすがに速すぎるよと声を上げようとした瞬間、ぱあっと視界が眩くなる。

 スポットライトの下へ現れた僕に、万雷の拍手が送られる。背後からはセルゲイたちの冷やかしの指笛が鳴っている。

 僕は耳を澄ませ、音を探した。いつも、いつでも、誰より熱のこもった拍手をしてくれる、大切な人の――天野あかりのリズムを。

「――前列。ステージ向かって右から二ブロック目の……三席目だね」
「残念、四席目じゃ」
「嘘っ!?」
「嘘。三席目でうちょる。見んでも百発百中とは、ぶち暑いのう」

 シフォンのからかう声に、僕は思いっきり顰め面をして見せる。僕がピアノから離れるわけにも行かないのをわかっていてこれだ。
 彼女はひとしきり笑ってから、ほれ、と合図をしてくれた。僕の口元にマイクを向けた合図だ。

 僕は頷いて、深呼吸をしてから口を開く。

「皆さま、本日はお集まりいただきありがとうございます。ここからの第二部では、親友である桐谷織姫さんにお招きいただき、僕もご相伴に預からせていただきたいと思います」

 手話を交えながら、言葉を紡いでいく。初めてこれをした時には、随分とお客様に戸惑われたっけ。それはそうだ。聾者がオーケストラのコンサートには普通来ないんだから。
 そう、普通は。けれど、僕にとっては――僕たちにとっては、必要なこと。

「それでは、一曲目。これは、皆さんには初めてお披露目することになりますね。僕の妻は絵本作家をしているのですが、彼女がかつて、僕のためにだけ作ってくれた秘蔵の絵本があります。それをイメージして書きました。編曲と譜面起こしに協力してくれたのは、彼らオーケストラの仲間たちです。どうか拍手を」

 パチパチと、期待と不安の入り混じった音が巻き起こる。それにセルゲイやアダンたちが、各々の楽器を鳴らしてそれに応えた。チューニングはばっちりみたいだ。
 やがて拍手は止み、皆がしんと固唾を飲んだように静まり返る。
 僕が声を出そうとする呼吸の音が、ふわりと反響した。

 絵本のページには限りがあるけれど、僕らの人生のページはまだまだ先がある。先は見えないし、いつ終わるかもわからない、重くて融通の利かない奇妙な本だけれど。
 それでも僕らは、ページを捲ることができる。そこに色を付けることができる。

「それでは聴いてください。『冬の彦星ミルキーウェイ・オブ・ウィンター』」

 さあ、音楽隊の行進だ。

 きらきら星の下、あかりへの道を――





『聖夜のアンティフォナ』(了)
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