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第七章 聖夜のアンティフォナ
〈4〉
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『ごめん。もう、めはみえていないんだ』
白状する。けれど開き直った瞬間、胸がすっとするのを感じた。
僕は闇の中にいるわけじゃないんだ。皮肉にも、光が入ってこない僕の世界には、暗闇というものが存在しない。心の中で、大丈夫、と自分に言い聞かせる。
きっと、僕があかりという星を願えば、その光によって影が差すこともあると思う。それでも、僕が光を見続けていれば、背後に伸びる影を見ることはないんだ。
大丈夫。もう、前しか向かない。
「母さん」
「もう来てる」
答えはすぐに返ってきた。僕は遠目にも分かるくらい狼狽えていたのか、それともあかりが呼んでくれたのかは判らない。でも、頼もしい声だった。
僕はジャケットのポケットを弄る。左側にあかりへのものを入れていると分かっていたけれど、念のため両ポケットに手を突っ込んで大きさを確認する。うん、大丈夫だ。
一度、小箱を持たずに、空の両手だけを宙に引き上げた。そこに、細い指が重なる。その温もりを愛おしむように、ゆっくりと、僕の手を外側に移動させる。
『あかりに、わたしたいものがあるんだ』
『なに? たのしみ』
多分二人とも、指が震えていたと思う。寒いからではない。頭では分かっていても、体は不安を隠せていなかったんだ。
「本当にいいのね? 指点字で会話ができるからって、大変になることは変わりないわよ」
それは、どこまでも子を案じる母の声だった。
そんな母さんの優しさを、僕は首を振って払う。
「僕は、あかりと一緒にいられる方法があったから好きになったんじゃない。好きになったから、一緒にいられる方法があって嬉しかったんだ」
好きであることに理由なんていらない。そう、思ったから。
喩えるなら、母さんは白鳥座だ。乳白色の霧に目の前を遮られた彦星を、織姫の下へと結び付けてくれる懸け橋。
僕は小箱を取り出すため、握ったままだったあかりの手から、渋々と手を離した。残念ながらあの言葉は、手話でやろうにも、指点字でやろうにも、両手を使わなくてはいけない。
今夜は、クリスマスだ。
『今日は、冬の織姫様に、お願い事があります』
手話で前置きして、取り出した小箱のふたを開ける。わあ、と漏れたあかりの声だけで、目の前にどんな光景が浮かんでいるか、よく分かる。少し、笑ってしまいそうだ。
箱の中には、ルビーがあしらわれたエンゲージリング。僕は一度、それを箱ごと膝に置いて、あかりに向き直る。
『星川あかりさん。僕と――』
次の言葉を紡ぐために、右手の親指と、左手の小指――手話で男性と女性を表すもの――をゆっくりと近づけていく。
……あ、やっと分かった。母さんの職場でピアノを弾いたあの日、町を歩きながら、あかりが見せた片手手話。右手の「親指」と「小指」を立てて振ったのは「デートみたいだね」という意味だったんだ。
ああ、そうか。
――その人がどういうことを言いたくてその手話を使っているのかを読むの。
あの言葉の意味を、やっと解ることができた。なんだ、考えていたこと、一緒だったんだ。
嬉しくなって、足早になった僕の指同士が、こつんと優しく触れ合った。
『結婚を前提に、お付き合いをしてください』
あかりの、はい、という声が聞こえた気がした。頬を撫でる細い指は、冷たかった。きっと今、僕は顔を真っ赤にしているんだろうな。
あかりの手をそっと引き剥がして、しかし左手だけは離さない。僕は右手で膝の小箱を探り当てると、指輪だけを引き抜いた。箱の向きと指先の感覚で指輪の向きを確認する。すかさずかけられた母さんからの「合ってる」というフォローに、安心してあかりの左手を引き寄せた。
外側から二番目の指に当たりをつけて、そこに僕の右手を近づけて。
根元まですっぽりと入ったことに、どっと安堵の息を吐く。よかった、大きさは合っていた。
『ぴったり。どうしてわかったの?』
指点字で訊ねてくるあかりに、僕は『あかりがおしえてくれたんだよ』と笑った。
『あかいいと、おぼえてる?』
内側の胸ポケットからお守りを取り出して掲げると、あっと声があがった。
本当は、クリスマスの魔法と言っても良かったんだけど。あかりが結んでくれた運命の赤い糸のおかげだということは、大切にしたかった。あの時は右手に結んでいたから、左手にも合うかどうかは心配だったけれど。
『すきです』
『わたしも、すきです』
指点字で交わす想いは、まるで交唱のように紡がれていく。
「じゃあ、冬彦。あんたの指輪も出して」
母さんは涙ぐんでいるのか、少し震えた声で促した。やだな、もう。当の僕が泣かないようにしているのに。
僕が右のポケットからも小箱を取り出すと、それを受け取ったあかりは、僕の左手を取った。
そっと、優しく指輪がはめられた瞬間、僕の視界に色が戻った気がした。指と指に繋がる、見えざる赤い糸が、ちゃんと。
綺麗だと、素直に感じた。もし、この糸が死ぬ時に散ってしまうとしても、僕は生きている限り、まっすぐに辿って行こうと思えるほどに。
「ほんとうに、綺麗だ……」
口にしてみると、霧の向こうに、はにかむあかりが視えたような気がした。
僕はまだ、自分の目を抱えて生きていく覚悟が決まり切っていない。シフォンのように強くはいられないだろうし、修一さんのように落ち着いていられないかもしれない。きっと何度も、見苦しく泣きわめくことになるのだと思う。
でも、今は。大切な人の笑顔が視えただけで、それでもう満足だった。
だから僕は、出会った時と同じ言葉で彼女への気持ちを表そうと決めた。目が見えなくなっても、この先ずっと使い続けるだろう、温かい手話で。
『ありがとう』
僕は目一杯、気持ちの分だけ手を跳ねさせて、その手のひらで彼女の頬を探り当て、口づけをした。
手話を悪用するようになったのは、いつからだったろう。
そのおかげで僕は。
かけがえのない、あかりと出会うことができた。
白状する。けれど開き直った瞬間、胸がすっとするのを感じた。
僕は闇の中にいるわけじゃないんだ。皮肉にも、光が入ってこない僕の世界には、暗闇というものが存在しない。心の中で、大丈夫、と自分に言い聞かせる。
きっと、僕があかりという星を願えば、その光によって影が差すこともあると思う。それでも、僕が光を見続けていれば、背後に伸びる影を見ることはないんだ。
大丈夫。もう、前しか向かない。
「母さん」
「もう来てる」
答えはすぐに返ってきた。僕は遠目にも分かるくらい狼狽えていたのか、それともあかりが呼んでくれたのかは判らない。でも、頼もしい声だった。
僕はジャケットのポケットを弄る。左側にあかりへのものを入れていると分かっていたけれど、念のため両ポケットに手を突っ込んで大きさを確認する。うん、大丈夫だ。
一度、小箱を持たずに、空の両手だけを宙に引き上げた。そこに、細い指が重なる。その温もりを愛おしむように、ゆっくりと、僕の手を外側に移動させる。
『あかりに、わたしたいものがあるんだ』
『なに? たのしみ』
多分二人とも、指が震えていたと思う。寒いからではない。頭では分かっていても、体は不安を隠せていなかったんだ。
「本当にいいのね? 指点字で会話ができるからって、大変になることは変わりないわよ」
それは、どこまでも子を案じる母の声だった。
そんな母さんの優しさを、僕は首を振って払う。
「僕は、あかりと一緒にいられる方法があったから好きになったんじゃない。好きになったから、一緒にいられる方法があって嬉しかったんだ」
好きであることに理由なんていらない。そう、思ったから。
喩えるなら、母さんは白鳥座だ。乳白色の霧に目の前を遮られた彦星を、織姫の下へと結び付けてくれる懸け橋。
僕は小箱を取り出すため、握ったままだったあかりの手から、渋々と手を離した。残念ながらあの言葉は、手話でやろうにも、指点字でやろうにも、両手を使わなくてはいけない。
今夜は、クリスマスだ。
『今日は、冬の織姫様に、お願い事があります』
手話で前置きして、取り出した小箱のふたを開ける。わあ、と漏れたあかりの声だけで、目の前にどんな光景が浮かんでいるか、よく分かる。少し、笑ってしまいそうだ。
箱の中には、ルビーがあしらわれたエンゲージリング。僕は一度、それを箱ごと膝に置いて、あかりに向き直る。
『星川あかりさん。僕と――』
次の言葉を紡ぐために、右手の親指と、左手の小指――手話で男性と女性を表すもの――をゆっくりと近づけていく。
……あ、やっと分かった。母さんの職場でピアノを弾いたあの日、町を歩きながら、あかりが見せた片手手話。右手の「親指」と「小指」を立てて振ったのは「デートみたいだね」という意味だったんだ。
ああ、そうか。
――その人がどういうことを言いたくてその手話を使っているのかを読むの。
あの言葉の意味を、やっと解ることができた。なんだ、考えていたこと、一緒だったんだ。
嬉しくなって、足早になった僕の指同士が、こつんと優しく触れ合った。
『結婚を前提に、お付き合いをしてください』
あかりの、はい、という声が聞こえた気がした。頬を撫でる細い指は、冷たかった。きっと今、僕は顔を真っ赤にしているんだろうな。
あかりの手をそっと引き剥がして、しかし左手だけは離さない。僕は右手で膝の小箱を探り当てると、指輪だけを引き抜いた。箱の向きと指先の感覚で指輪の向きを確認する。すかさずかけられた母さんからの「合ってる」というフォローに、安心してあかりの左手を引き寄せた。
外側から二番目の指に当たりをつけて、そこに僕の右手を近づけて。
根元まですっぽりと入ったことに、どっと安堵の息を吐く。よかった、大きさは合っていた。
『ぴったり。どうしてわかったの?』
指点字で訊ねてくるあかりに、僕は『あかりがおしえてくれたんだよ』と笑った。
『あかいいと、おぼえてる?』
内側の胸ポケットからお守りを取り出して掲げると、あっと声があがった。
本当は、クリスマスの魔法と言っても良かったんだけど。あかりが結んでくれた運命の赤い糸のおかげだということは、大切にしたかった。あの時は右手に結んでいたから、左手にも合うかどうかは心配だったけれど。
『すきです』
『わたしも、すきです』
指点字で交わす想いは、まるで交唱のように紡がれていく。
「じゃあ、冬彦。あんたの指輪も出して」
母さんは涙ぐんでいるのか、少し震えた声で促した。やだな、もう。当の僕が泣かないようにしているのに。
僕が右のポケットからも小箱を取り出すと、それを受け取ったあかりは、僕の左手を取った。
そっと、優しく指輪がはめられた瞬間、僕の視界に色が戻った気がした。指と指に繋がる、見えざる赤い糸が、ちゃんと。
綺麗だと、素直に感じた。もし、この糸が死ぬ時に散ってしまうとしても、僕は生きている限り、まっすぐに辿って行こうと思えるほどに。
「ほんとうに、綺麗だ……」
口にしてみると、霧の向こうに、はにかむあかりが視えたような気がした。
僕はまだ、自分の目を抱えて生きていく覚悟が決まり切っていない。シフォンのように強くはいられないだろうし、修一さんのように落ち着いていられないかもしれない。きっと何度も、見苦しく泣きわめくことになるのだと思う。
でも、今は。大切な人の笑顔が視えただけで、それでもう満足だった。
だから僕は、出会った時と同じ言葉で彼女への気持ちを表そうと決めた。目が見えなくなっても、この先ずっと使い続けるだろう、温かい手話で。
『ありがとう』
僕は目一杯、気持ちの分だけ手を跳ねさせて、その手のひらで彼女の頬を探り当て、口づけをした。
手話を悪用するようになったのは、いつからだったろう。
そのおかげで僕は。
かけがえのない、あかりと出会うことができた。
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