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第六章 願いのオラトリオ

〈3〉

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「ただいま」

 約一週間ぶりに我が家の玄関を開けた僕は、しかし、母さんに肩を捉まれてしまい、敷居を跨げなかった。

「ちょっと、何するのさ」
「先走った息子を引き留めたのよ」
「はぁ?」

 寒空の下でのお預けを食らい、むっとする僕をよそに、母さんはあかりの手を引いて、さっさと家の中に入ってしまった。
 そして二人はすぐに振り返ると、目でタイミングを合わせてから、

『おかえりなさい』

 と手話で笑った。

『――ただいま!』

 退院の許可を貰ってから一夜明けて、それでも視界が良好だった僕は、確認の検査をいくつか行ってから晴れて退院となった。退院手続きを済ませた時にはまだ昼過ぎだったのに、途中で食事を挟んだりデパートを覗いたりとしているうちに、いつの間にか夕方になってしまっていた。
 ちなみに、なぜあかりがいるのかというと、それは僕のせいでもある。
 母さんに押し付けて持って帰ってもらった絵本が、この家の中にあるからだ。それについては「自分で返しなさい」という手厳しいお言葉を頂戴した。

 結局、絵本のついでに夕飯も食べてらっしゃい、という母さんの鶴の一声で話が進み、あれよあれよという間に、時計はもう二十時を回っていた。

『このお菓子、美味しい。また想いが強まった』

 あかりが、福祉施設で貰ってきたお菓子の空き包みを結びながら笑う。

『自分から老いを求めてどうするのさ』

 小さなサラミをひと包み頬張る。いやさ、美味しいよ? 美味しいんだけど、このためだけに入所を希望するのもどうかと思う。

『それに、これぐらいならスーパーにでも売ってるでしょ』
『へぇ、今度探してみようかな』
『普段はあまり行かないの?』
『うん、食料品を買いには、もう何年も行ってないかな。嫌な顔されるのも面倒くさくて』

 あかりはどれにしようかと、三つのチョコの包みと睨めっこしながら、手話だけ返してきた。どうせならばと、全部の包みをあかり側に寄せてあげる。
 それにしても、店員とのやりとりに問題があるんだろうか。今まで何かの買い物に付き合った時は、袋が欲しいとか、横書きのメモ帳があるか、なんて聞く必要があれば筆談で済ませていたし、店員さんから「あなたがフォローしてあげないと」と逆に僕が怒られたりすることならあったんだけど。

『そんなに酷い店員がいるなら、無人レジを使ってみたら?』

 ようやく一口目のチョコを決めたあかりに提案すると、きょとんとした顔をされた。けれどすぐに、僕の発言を理解したらしいあかりが、苦笑しながら手を振る。

『ごめん、説明足りてなかったね。店員さんじゃなくて、後ろに並んでるお客さんが嫌なんだよ。「障害者かよ」「早くしろよ」って。言わなくても顔に出てるから』

 おばさんなんかこうだよ、と顔真似をされて、思わず噴き出してしまう。眉間に皺を寄せて、口を引き結んで、気難しそうな釣り目で睨むおばさん。いるいる。

 直接言葉を交わす機会のある人以外とも、こういう摩擦があるなんて。きっと、あの時の高校生たちのように、むしろ「直接関係しないからこそ好き勝手言う」人もいるんだろう。
 ああ、高校生で思い出した。彼らは警察のおかげで無事御用となったらしい。
 余談だけど、理由がどうあろうと、僕が先に胸倉を掴んだことについてはこってりと絞られた。「どうして手を出す前に『言わないでください』って一言いえなかったんだい?」という警察官の指導に、「どうしてこっちが下手に出なくちゃいけないんですか」と抗議しただけで説教は二時間の延長コースに入った。「反省の色がないなら、向こうの罪も軽くなるよ」だってさ。何だって両成敗すればいいってもんじゃないと――

『冬彦、下手くそ』

 突然、目の前に現れた手から反射的に飛び上がる。

『えっと、ごめん、何?』
『結び方』

 ちょんちょん、と僕の手元を指差される。視線を下ろすと、僕もお菓子の包みを結ぼうとしていたのか、中途半端に丸まった包装紙が転がっていた。

『ああ、今は考え事してたからね。今度はちゃんと結ぶよ』

 このぐらいできるよ、と息巻いて、改めて包みを手に取るも。失敗。
 いや、今のはたまたま。今度は――あれっ?

『ぶきっちょ。ピアノをやってる人じゃないみたい』
『う、うるさいなぁ。ちょっと目が霞んでるだけだって』
『もしかして、再発?』

 じぃっと心配そうに見つめられ……見つめられては……ちょっと見つめ過ぎじゃないかな。

『ごめんなさい、ちゃんと見えてるのに失敗してました』
『さいてー』
『い、意見に個人差は?』
『今のにはない。誰から見てもダメ』

 あかりの冷たい半眼と、指で作られたばってんマークに、謝り倒す。ようやく機嫌を直してくれたあかりが、仕方なさそうに僕の包みを取り上げて、結んだところで。
 ゆったりとした足音が、階段を下りてきた。

「意外と資料はあるものね。ネット社会様様だわ」

 母さんはリビングに来ると、テーブルの端の方に指展示の本と、ネットのページを印刷してきたらしい紙束を積み上げた。
 それらを受け取り、まずはぱらぱらと捲ってみる。

 指点字は、文字通り原型が点字らしい。両手のひとさし指から薬指までの計六本で行う会話は、極端な話、五十音を覚えられれば可能のようだった。リコーダーのように、半分だけ指をずらす、なんて技量も必要ない。

「思っていたよりシンプルでしょう? これを機に、うちにも導入してみようかしら。あーでも、さすがに歳がなあ」

 母さんがぼやきながら、タバコを取り出して火を点ける。

『ちょっと、母さん。あかりもいるんだからやめてよ』
『私は別に構わないよ? 家では母さんも吸ってるし』
『嘘っ!?』

 紫さんがタバコを吸っているイメージが全く湧かなかった。

『やあねぇ。さすがに私だって、その辺の確認をしないで吸うわけないでしょ』
『それでも遠慮ぐらいしようよ……』

 奪い取って揉み消してやろうと手を伸ばすけど、母さんからはひらりと躱されてしまった。
 そのまま母さんは時計を見上げる状態になり、固まる。んー、と何やら考え込んだ後、母さんはあかりに向き直るなり、ぱん、と手を打ち合わせた。

『今日は金曜日だし、泊まっていかない?』

 突然の爆弾発言に、僕も慌ててカレンダーを確認する。僕が入院して一、二、三……。今日は二十一日、間違いなく金曜日だった。
 も、もちろんあかりは断るよね――

『えっ、いいんですか?』

 ものすごく目をキラキラさせていた。
 寝室とかどうするのさ。うち、父さんの部屋は物置と化しているんだけど。
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